第四十二話「オテントサマのゆーとおり?」


 三日というのは、非常に長い時間の集合体である。
 時間換算で七十二時間、分換算なら四千三百二十分、さらに秒換算二十五万九千二百秒。
 過分に多忙であった修学旅行を無事に終えて麻帆良に帰還したというのに、ジローがネギや生徒達と同様、寝床に転がって旅から帰ってきたことを実感し、惰眠を満喫することはなかった。

「うぅ……。眠い、ダルい、辛いっ……」

 麻帆良学園女子中等部職員室に置かれた自分の机に齧り付き、山を成す書類を呻きとともに整理しているジローの顔は、下手をすると修学旅行中、フェイトに瀕死の重傷を負わされた時よりも苦しげに歪んでいた。
 関東魔法協会からの親書を無事、関西呪術協会へ届けたことを証明するための書類に、東西の和睦に関して西の長――詠春がどのようなことを話し、またどういった考えを持っているかを書き記したもの。
 そういった後々、行われるであろう公的な話し合いに使用するための書類編集作業に並行して、修学旅行中に起きた一連の騒動におけるネギや自身の対応に関する詳細説明や反省点、改善策などを書き連ねた書類――ぶっちゃけた話、始末書である――の作成に三日間、食事やシャワー、極めて短い仮眠以外の時間を全て費やしているのだ、先のような弱音の一つや二つや三つや四つ、口に出すのは容易いことだろう。

「ま、まあまあ、そんな苦しさも今日で終わりだろ?」

 一纏めにした紙の束で机を叩き、整理し終えた書類の山に乗せて突っ伏したジローの顔の横に、広辞苑数冊分の厚みはある書類を置いて話しかけたのは、ネギやジローと違い魔法先生であることを隠して引率教師をしていた瀬流彦だ。

「しかし大変だったねー、この三日間は。徹夜なんて久し振りだよ、僕」
「――――ご協力、感謝……します」

 肩を揉んで苦笑している瀬流彦に、机に突っ伏したまま感謝の言葉を絞り出すジローの下へ、広辞苑数冊分の高さを有する書類を運んできた男性――褐色の肌に短く刈り上げた髪、そしてやや厚めの唇に、眼鏡をかけた気難しそうな風貌の魔法先生・ガンドルフィーニだ――が、ため息とともに話しかけた。

「始末書などに関しては君の自業自得……でない分も多々あるが、さすがにこれは同情するに足る量だな。ああ、私が担当した分もここに積ませてもらうよ」

 瀬流彦が置いた書類を確認し、一緒にしても問題ないと判断したガンドルフィーニはジローの返事を待たず、抱えていた凶器にもできる紙の束を重ねた。

「瀬流彦先生も、ガンドルフィーニ先生も……本当に、ありがとうございました。これを一人でやっていたらと思うと、正直怖すぎて泣いてしまいます」

 机から引き剥がすように体を起こし、ネクタイを緩めて深いため息をついたジローに眉を顰め、ガンドルフィーニが訝しげに問うた。

「手伝いを感謝してくれるのは構わんのだが、この事をどうしてネギ君に知らせていないのだね? ハッキリ言ってしまうが、本来の事後処理は特使として西に赴いた彼の役目だろう」
「あー、まったく仰る通りと俺も思いますけど、あいつに任せたら事後処理が永遠に終わらなくなる気がして……」

 メルディアナの魔法学校を首席で卒業し、十歳という若さで麻帆良学園女子中等部の教鞭を取るネギではあるが、やる事なす事の全てが完璧かというとそうではない。
 むしろ、あれをやろうこれをやろうと意気込むほどに失敗は多くなり、また周囲へかける迷惑は増大する傾向にある。
 麻帆良へ来た初日、アスナへ行った有難迷惑な占いに端を発する魔法バレなどが、最もわかりやすくて性質の悪い例だろうか。

「それにあいつ、修学旅行から帰って即行、京都で手に入れたお宝に夢中になってて……こういう仕事があるって全然、考えてなかったんですよ……」

 まさか麻帆良へ帰還して早々、詠春に渡された父の行方に関わる物の解読に没頭したり、両面宿儺を叩きのめしたエヴァンジェリンに弟子入りを頼みに行くなど、誰が予想できたというのか。
 しかも、弟子入りを決意した理由が理由だ。

 ――今度、何かあった時は僕に守らせてください。このかさんや……アスナさんを。

 力を欲しがるのは構わないし、それで誰を守りたがるかも自由である。だが、力不足を自覚して強さを求めるのなら、何よりもまず自分を守れる強さを手に入れたがるべきではないのか。
 フェイトに手も足も出ず、挙句石化させられて死にかけたというのに。

「修学旅行についての感想も、悪い人や強い敵もいて大変だったよね〜、って。…………フ、フッフフフ、大変程度の一言で済まされちゃうのは、舐められている証拠なんでしょうか?」

 人間、疲れてくると思考もネガティブな方向へ転んでしまうものである。
 ネギの言動にありもしない悪意を感じ、まだそうしたものがあった方が色んな意味で清々しい気持ちになれるのに、と考えてしまう程度に今の彼は追い込まれているようだった。

「――――そ、そんなことないよっ! だからもっと明るく、楽しいことを考えよう!」
「学園長……本当に、ネギ君に特使の役目しか与えていなかったのか」

 目の辺りに影を入れて歯軋りし、肩を震わせて笑い始めたジローの肩を瀬流彦は引き攣った笑顔で、ガンドルフィーニは苦虫を噛み潰したような顔で叩いた。
 大丈夫、君はもう休んでいいのだと胸中で叫びながら。

「ううぅぅ〜ッ」
「さすがに精神的に参っちゃったみたいですね……」
「そのようだな……まあ、無理もないが」

 せめてもの労いにコーヒーでも淹れてあげようか。
 麻帆良の生徒達には堅物で、話の通じない先生というイメージで誤解されているが、その実、行き過ぎなまでに生真面目なだけで人情に厚いお節介焼きの一面を持っているガンドルフィーニが、心身ともに疲れ果てたジローのためにコーヒーを淹れに行こうとした時、職員室の扉が開いて一同のよく知る人物が入ってきた。

「む、どうやら書類の山が片付いたようだな」
「神多羅木先生、どうかしましたか?」
「珍しいですね、こちらに顔を出されるなんて」

 サングラスに濃い口髭、黒のスーツにオールバックの髪型と、マフィアや宇宙人捕獲機関の人間ですと紹介されても通じそうな男性教師――瀬流彦やガンドルフィーニと同じ魔法先生でもある神多羅木が女子中等部職員室を訪れたことに、瀬流彦が意外そうな顔を隠しもせず言った。

「ああ、少しジローに用事があってな」
「俺に、ですか……?」
「なに、様子見がてら雑談でもと思ってな」

 胸ポケットから煙草を取り出し、年季の入ったライターで火を着けて吸うこと暫し、旨そうに紫煙を吐いた神多羅木に顔を顰め、ガンドルフィーニが注意する。

「神多羅木先生、そう大っぴらに喫煙されては困ります。職員室には生徒も来るんですから」
「堅いことを言うな、今はいない」
「生徒がいないから吸っていい、なんていう軽い気持ちで喫煙する教師がいるから、不良達も見つからなければいいと隠れて煙草を吸うのでしょう。少しは自重してくれませんか」
「まあ、考えておこう」

 自分は未成年なのだが、副流煙の危険性については注意してくれないのだろうか。
 机に頬を付けたまま、ジトリとした眼差しで二人のやりとりを見ていたジローだが、すぐに意味のない事と諦める。
 さすがにそろそろ、自分が未成年であると主張して、何とも言えない微妙な顔をされる現実から逃げ出したくなっていたから。

「それでどうだった、修学旅行は楽しかったか」
「わかってて聞いてるでしょう、神多羅木先生……」

 咥え煙草での質問に、ジローが七代先まで祟れそうな恨めしい声を返す。
 その反応が面白かったのか、口の片端を持ち上げて神多羅木は常時、装備している携帯灰皿に吸いかけの煙草を捩じ込み、不貞腐れたように机に顎を乗せるジローの頭を小突く。

「そう腐るな、どうにか事が済んでよかったと言ってるんだから。御苦労だったな、ジロー」
「うへぇい……」

 まったく嬉しくなさそうな顔で返事をする青年に、クツクツと喉を鳴らすように笑っていた神多羅木だが、唐突にここへ顔を出そうと考えた原因を思い出して顔を引き締めた。

「そうそう、雑談の前に教えておくことがあった」
「あー、何ですか?」

 依然、机に顎を乗せたまま目だけを動かし、訝しげに眉を逆八の字にしたジローだったが、そんな疑問の表情が長く続かないことを神多羅木だけは十二分に理解していた。

「いや、特に重要な話じゃないんだがな。今日、昼休みにコーヒーでも飲もうとカフェに行ったんだが、そこでシャークティに会った」
「――――はあ、シャークティ先生に会って……それでどうしたんです?」

 シャークティの名前が出た瞬間、ジローの口元が引き攣った事に「効果覿面だな」と思いながら表面上は無視し、神多羅木は新しい煙草に火を着けて吸い始める。
 目に見えて不安がり、先を促す眼差しを送るジローを横目に紫煙を燻らせ、じっくりと味わってから話を再開する。

「修学旅行から戻って三日、顔を見せに来ないどころか連絡も寄越さないというのは、少々礼儀知らずなのでは、と頻りに愚痴っていたぞ。あと、携帯の電源を切りっぱなしというのはどうなのか、とも言っていたか」
「……そういえば帰って即行、書類作りに入ったから顔出してなかった気がする」

 心配しているのはココネですが、と何度も断っていたがその辺り、教えなくても構わんだろう。何せ、顔一杯に気になっています、ついでに返事もなしで非常に不愉快ですと書いていたからな。
 知り合いの銀髪褐色肌シスターの話を聞かされ、頭を抱えてしまった青年の姿をサングラス越しに認めて口元を綻ばせ、だが、まだ肝心の部分を話していないと告げるように神多羅木は語った。

「食後の一杯の最中に愚痴を聞かされるのは敵わんからな、そんなに気にしてるなら自分で様子を見に行けばいいだろう、と言っておいた。たぶんだが、そろそろここに顔を出すんじゃないか?」
「そーいう妙な気の遣い方、やめてほしいんですけど。っていうか、その話をした後に楽しく雑談する気だったんですか、神多羅木先生?」
「ふむ……なら、これを教えてやる事が本命だったことにしよう。ああ、携帯の返信がないのはお前が向こうでヘマして、敵さんに携帯を破壊されたからだと伝えておいてやったぞ」
「何、火に火薬振りかけるような真似してるんですか!? その辺は内緒にしておいてやろう、みたいな空気読んだ会話しといてくださいよ!!」
「聞かれた事にはキチンと答える。生徒にはそう教えているのでな」
「ぐぬっ、こういうトコだけ立派な先生発言……」

 どうしてこんな見た目、ヤクザかマフィアのボスが麻帆良学園小等部の先生をしているのだろうか。いや、こんな見た目だからこそ、先生らしい言動の一つ一つが輝いて感じられるのだろうか。

(小等部の生徒とか保護者にありえんぐらい人気だしなぁ、この人)

 少なくとも、小等部の敷地内では絶対に煙草を吸わないグラヒゲ先生に半眼を送り、心身ともに疲れている事がわかるため息を一つ。
 視線で瀬流彦とガンドルフィーニに許可を求め、ジローは迷うことなく職員室の扉へ向かった。

「じゃあ、帰って寝ます。もしシャークティ先生が来られたら、後日、日を改めて顔を出しますので、と伝えておいてください」
「いいのか?」
「今の俺に、あの人の小言や追及を受け流す余裕があると思いますか?」
「ないな。聞いている内に絶望した、とか叫びだしそうな顔色だ」
「そういう訳です。軽く休憩は取りましたけど修学旅行からこっち、まともな休みはなかったので……」

 呼び止めてきた神多羅木と軽く言葉を交わし、職員室の扉へ手を掛ける。
 そして、気付いた。
 扉の向こう側から、徐々に大きくなる女性用の靴が廊下を蹴る音が近付いている事に。

 ――――カツ、コツ、ガツッ‥‥カッ、カッ、カッ、カッ!

 足音の主の神経が、ピリピリと尖がっている事を伝えてくれる硬いリズム。
 途中、蹴躓いて足を速めた気がしないでもなかったが、その様な瑣事に気付けるだけの余裕はジローに残されていなかった。

「ウワッ、ホントに来た!?」
「真面目だからな、あいつは」
「煽ったというか、そうするよう促した人が言いますか!」

 背後でのんびり煙を吹かして他人事のように――実際、彼にとっては他人事以外のなんでもないのだが――呟いた神多羅木を怒鳴りつけ、ジローは踵を返して足早にある場所へ向かう。

「ちょちょ、ジロー君!?」
「な、何をしようとしているのだ、君は!? 危ないだろう!!」
「今は一秒さえ惜しむ状況なんです、離してください!!」

 慌てて止めに入った瀬流彦やガンドルフィーニの手を振りほどき、彼が風を取り入れるために開けていた窓から飛び出すまで一秒とかからなかった。
 職員室がある中等部校舎の二階から、ジローの体が勢いよく吐き出される。
 背後で上がる悲鳴に似た叫びを無視して、重力に引かれたジローが放物線を描く。そして、その体が地面に叩きつけられる瞬間、魔力によって強化された四肢で以て着地。
 高い木の上から落ちた猫を髣髴とさせる動きで地面に降り立ち、すぐさま中等部の敷地から脱出するために駆け出したジローの背中を、職員室の窓際から見送る瀬流彦が呟いた。

「何て言うか、逃げ方が堂に入ってますね」
「あまり褒められたことではないがね……。まったく、生徒に見られたらどう言い訳するつもりだったのだ」

 そこまでしてシャークティの小言を聞きたくなかったのだろうか。
 ポツリと独り言めいた文句を溢し、眼鏡を押し上げているガンドルフィーニに苦笑しながら思う。

「おお、どうしたんだシャークティ」
「い、いえ、別にこれといった用事はないのですが。ただ、近くまで寄ったので、ジロー君の様子を見てココネに教えてあげようかと、ええ、それだけです」
「そうか、それは惜しかったな。ジローの奴ならつい今し方、帰って寝ると残して出ていったぞ。一応、お前が顔を出すだろうと伝えておいたんだがな」
「なっ……」

 神多羅木に自分の行動を予測されたからか、それとも自分が来るかもと聞いていながらジローが帰宅したからか、微かに帯びていた照れや遠慮の色を憤りのそれに変え、目を吊り上げたシャークティが低い声で問い質した。

「それはつまり、私の来訪があるかもしれないと知りながら、待ってみる時間さえもったいないと判断して帰った……そういう事でしょうか?」
「帰ったというか、お前の足音が聞こえた途端、脱兎の勢いでそこの窓から逃走してたな」

 語尾に向かうにつれ、徐々に強さを増していくシャークティの質問もどこ吹く風。
 ジローが如何にして逃げおおせたかを飄々と話し、伝えるべきことは全て伝えたとアピールするように、神多羅木は短くなった煙草を携帯灰皿へ詰め込んだ。

「美空といい、ジロー君といい…………私は天敵かなにかですかっ!?」
「さあな。だがあの逃げっぷりを見ると、その表現もあながち間違いじゃなさそうだが」

 声を荒げているシャークティを遠巻きに見守りながら、瀬流彦やガンドルフィーニは目を合わせて小さく言葉を交わす。

(神多羅木先生、もしかしてシャークティ先生を怒らせて楽しんでます?)
(私に聞かれても困るのだが? しかし、仮にそうだとしたら相当に意地が悪いな)
(ま、まあ、神多羅木先生がそういうことするのって、気に入ってる人ぐらいですし。ジロー君とシャークティ先生の他にからかわれてるの、刀子先生ぐらいしか思いつきませんけど――――ああ、そういえば刀子先生ですけど、また恋人と喧嘩したらしいですよ?)
(なんと、またなのか。つい一週間前に仲直りしたと触れ回っていたはずだが)

 すっかり蚊帳の外に置かれてしまった魔法先生二人、することも無く知り合いのバツ一女史をネタに雑談を始める側で、神多羅木とシャークティの会話は続いていた。

「非常に不愉快です……。まったく、人がせっかく息抜きに誘いに来たというのに……」
「む? なんだ、てっきりいつもの如く説教を聞かせるのかと思ったら、ちゃんとジローの奴を労ってやるつもりだったのか」
「……ジロー君始め、私をどういうイメージで見ているのかよくわかりました。そこについては後日、認識を改めてもらうとして――――今日は、前からココネが行きたがっていた洋菓子店でお茶を飲むつもりだったんです」
「ほお、珍しい事もあったもんだ」

 その割にココネの姿が見えないのは何故なのか、と背後を覗く素振りで尋ねる神多羅木にシャークティは嘆息し、

「校門のところで待つように言っています。さすがに小等部の制服を着た子まで連れて歩くと、ここでは目立ち過ぎてしまいますから」

 と、苦笑した。
 そんなシャークティに、神多羅木は胸中でさもありなんと呟く。
 黒一色の修道服に、銀髪褐色肌の女性が歩いていれば、嫌でも人の視線を集めるだろう。小等部の水兵服に似た白いセーラー着用の少女を連れていれば、尚の事。
 本人も中等部の生徒の注目を浴びる確率を下げるために、ココネを校門で待機させて来たのだろうが――
 職員室にいた魔法先生三人は、声に出さず突っ込みを入れた。

(目立つとわかっているなら、もっと別の服なりで来ればいいだろうに。息抜きに誘いに来たのなら尚更)
(なんだ、年中シスター服で歩き回ってるから、てっきり気にしてないんだと思ってた)
(服装については役目柄、仕方がないのかもしれないが……せめて休日ぐらいは、普通の服を着るべきだと私は思う)

 以前、ジローのパチ物ブランド好きについて話題になった事があった。
 ニャジダスという、あからさまなまでに偽物臭のするブランドのジャージやジャケットを愛用するのは、服装や髪型に熱を入れる十代として有りなのかという、魔法先生達の暇潰しを兼ねた議論の場で、そんな物を好んで着用するのは信じられないと、混じりっ気なしの本気で当人へ言い放ったことのあるシスターに、三者三様の生暖かい視線が送られる。
 五十歩百歩というのは、ニャジダス印のジャージ愛用者と年中、修道服な女性に対して使うべき言葉なのでは。
 そんな感想さえ抱かれていることも知らず、シャークティは困ったように頬に手を当て、ため息をついた。

「しかし、困りましたね。ジロー君が逃げてしまったとココネに伝えるのは、さすがに気が引けるのですが」

 特に今回は、ジローを連れてお茶を飲みに行く、という名目で外に連れ出している。

 ――ジローに会うの久し振リ。お出かけモ。

 無表情だが、それでも楽しそうにしていたココネの期待を裏切るのは、彼女としても避けたかった。
 誤魔化し以外の何でもないが、逃げてしまった青年の分の席を美空で埋めてしまおうか。
 幼い少女が受けるだろうショックを抑えるため、彼女が指導している魔法生徒を呼び出すのは指導役としてどうなのだろう、と顎に指を当てて必死に悩み始めるシャークティだったが、それを実行に移す寸前で掛けられた神多羅木の声で我に返る。

「まあ、そう焦る必要はないだろう」
「ムッ? な、何故ですか?」
「いや、お前はジローが逃げたという一点だけ見て困っているようだが……よく考えろ、あいつの帰宅ルートには何がある」
「何が、と聞かれても――――あ」

 なぞなぞでも仕掛けるような神多羅木の質問に眉を寄せ、麻帆良学園女子中等部からジローが間借りしているロフトのある女子寮――これについて、彼女は今も近右衛門に抗議しているのだが、「彼ならば大丈夫じゃよ」という、信頼しているのか呆れているのかわからない言葉で、彼の住居の変更を拒否されている――までの道筋を思い描いて、シャークティの顔に納得の色が浮かんだ。

「私としたことが……すみません、神多羅木先生。少し急いだ方がいいようなので、私はこれで失礼します」
「ああ、あまりジローに説教しすぎるなよ。でないと、本当に天敵認識されるぞ」
「……善処してみます」

 余計な一言とも取れる神多羅木の忠告にグッと口を噤んだ後、自分だって好きで説教しているわけではない、と言いたげな顔で言葉を残してシャークティは踵を返し、足早に職員室を出ていった。
 廊下から届く足音が完全に聞こえなくなったところで、三本目になる煙草に火を着けた神多羅木がポツリと呟いた。

「……春だな」
「春ですねー」
「いったい何ですか、急に? 確かに春らしい、良い陽気ですが」

 柔らかな風が吹き、木々が萌黄色に輝く季節。
 極々当たり前にも聞こえる神多羅木の呟きに相槌を返す瀬流彦と、理解できないと訝しげに首を傾げるガンドルフィーニ。
 大きく開いた窓から、校門に向って足早に歩いているシャークティの背中を見送る神多羅木の口元にある笑みは、年若い男女の微笑ましい関係に向けられるものに似ていた――――







 シャークティとの遭遇を回避し見事、職員室からの脱出を果たしたジローは、そこで気を緩めることなく逃走を続けていた。
 日常生活において、緩い、真面目なのかどうかわからない、のほほんとしているなど、あまり良い方向での印象を持たれない彼だが、今はそうした日頃の評価を微塵も感じさせない機敏さで、常時油断なく周囲を警戒しつつ駆けている。
 今頃になって、こうも必死に逃げる必要はあったのだろうか、という疑問が掠める頭を振って逃げねばならぬと言い聞かせて足を動かす。

「なんてーか苦手なんよな、シャークティ先生は……」

 なまじ親切から、あれこれ心配や説教をしてくるから余計に無視したり、誤魔化したりするのが躊躇われる。
 口をへの字にして走りながら、シャークティや彼女が指導する少女達の顔を思い浮かべ、小さくため息を溢す。

「……つーか、逃げだしてる時点で、躊躇われるも何もあったもんじゃないけどな」

 世間で言う良心の痛みを覚えたジローの足が、ほんの少しばかり鈍った。
 だが、既に場所は中等部の敷地の外れ。今から職員室へ戻ったところで、気まずくてシャークティと楽しく会話はできないだろう。
 やはり今日は素直に部屋へ戻って休み、明日にでも用意しておいた土産物持参で教会を訪ねるのが、書類仕事で疲弊した自分にとって最良の選択。
 一旦、止めかけた足に再び力を込めようとしたジローだったが、視線の先に思わぬ人物が立っている事に気付いて、それも未遂に終わった。

「――――」
「な、何でこんなところにいるんだ……?」

 海兵隊を思わせる白のセーラー服にリボン付きの帽子を被り、洒落たブラウンのリュックを背負った赤い瞳の少女が、眠たそうにも感じる無表情のまま、フリフリと左右に首を振って楽しげに佇んでいるのを見たからだ。
 褐色の肌に腰まで届く艶やかな黒髪という、異国情緒に溢れる少女――ココネが、中等部の敷地の終わりを告げる校門に寄り掛かり、『誰か』を待っている微笑ましい姿は、見る者の心を震わす名画に匹敵する力があった。
 事実、帰路につく女生徒達のほとんどが校門を通り抜ける際、横目にココネを見て表情を緩め、友人と一緒に帰っている生徒などは、「あの子、超カワイイ〜♪」などと囁き合っている。
 そうした声が聞こえているのかいないのか、リズミカルな待機状態を続けているココネを眺めながら、ジローは頬を伝う一筋の汗を拭った。

「まさか俺が逃げると見越して、事前にシャークティ先生が待機させておいた……のか?」

 美空という、悪戯好きの問題児である見習い魔法生徒の指導役は伊達ではない、という事だろうか。
 一人、ココネを校門で待たせたシャークティの真意は、ジローが考えているところから数百由旬ほど離れた場所にあるのだが、それを知らない彼からすれば、校門前でココネが待ち構えていたという現実はまさしく、お釈迦様の掌の上で踊っていた孫悟空の気分。
 何か、目に見えぬ偉大な力――この場合は、シャークティの予測能力か――に心を挫かれ、完全に足を止めてしまったジローを誰が責められるというのか。

「あ、ジロー」

 まるで、警戒心の強い小動物や小鳥に近づくように。
 逃げることを止め、代わりにゆっくりとした歩みで接近を開始したジローに気付き、待機モードを解除したココネが彼の足元まで小走りに寄る。

「よ、よう、ココネ。どうしたんだ、こんな所に一人で」
「シスターシャークティに、ジローを連れてくるからここで待ってなさい、って言われタ。……ジロー、シスターシャークティと会わなかっタ?」
「い、いやー、会ってないな」

 キョロキョロと周囲を見渡し、不思議そうに首を傾げるココネの無垢な瞳に堪らずジローは目を逸らし、白々しく嘯く己の狡さに落ち込みながら、さらに誤魔化しを塗り重ねた。

「も、もしかしたら、入れ違いになったのかもしれないなぁ。いや、きっとそうだ、そうに違いない」
「ソウカ」
「うぐ……そ、そんなにガッカリする事ないぞ! タ、タイミングが悪かっただけだからっ」

 シャークティのものと思しき足音が聞こえた瞬間、脱兎の勢いで窓から飛び出した人物が口にするには図々しい慰めの言葉だが、全ては心なしか落ち込んだ様に視線を落とし、無表情のまま口を尖らせている少女の為と自己弁護して、身振り手振りを加えてココネに熱く語る。

「本当に来るのがほんの少しだけ遅かったんだよ、ウン。仕事が終わる前に顔を出してくれていたら、もう逃げ――入れ違いになったりしなかったのになぁ!」
「残念……。修学旅行から帰ったのにジロー、教会に来ないから様子を見に行きましょう、って言ってタのに」

 ジローが元気そうだったら、そのまま一緒にケーキ屋さんでお茶会する予定だっタ。
 ピクリとも変わらぬ眠たげな眼差しで、だが見る者の心へ静かに沁み込んできそうな、子供らしい期待と喜びに満ちた声。
 シャークティの小言やお説教が苦手だ。たったそれだけの理由で逃げ出した自分が、もしこの場所でココネに会うことなく、寝床にしている女子寮のロフト――これについて彼も再三再四、アパートや借家に引っ越したいと近右衛門に申請しているのだが、「万が一を考えて、できる限りネギ君の側に待機しておいてほしい」という理由で却下されている――まで逃げ遂せてしまっていたら。
 考えて、怖気にも似た罪悪感が湧き上がる。
 自分の参加が前提条件らしい教会外でのお茶会が中止、または延期になった時、目の前の少女が受けるだろうショックは如何ほどのものだったのか。

「ジロー、どうしタ?」
「どうしようもなく自己嫌悪に苛まれて、少し反省をな……」

 黒い影を背負い、門柱に手を突いて某日本猿と同じ反省のポーズを取るジローに、キョトンとした顔で尋ねるココネからは、欠片ほどの疑念も感じられない。
 むしろ突然、陰鬱になったジローの顔を下から覗きこみ、「お腹痛いのカ?」と心配そうに服の裾を引っ張っているぐらいだ。
 それが逆に、最近減少傾向にあったジローの良心を甚く抉っているのだが、これも全て自分が招いた報いとして受け止めるしかなかった。

「ココネに会えたのは、お天道様の粋な忠告だったのかもな……」
「オテントサマ……テントウムシの王様? な、なんだかスゴそうダ」

 お天道様が本当にそう言ったかは別として、次からは、シャークティの接近を知っても逃走するのは止めよう。
 自戒の誓いを胸に、少女なりに考えた『お天道様』の姿に慄いているココネの頭を撫でながら、ジローはほろ苦い笑みを浮かべた。
 校門を背に、ココネの頭を撫でている彼には見えていた。
 麻帆良学園女子中等部に似つかわしくない、黒一色の修道服に身を包む銀髪褐色肌の女性が、競歩選手でも道を譲りそうな早足で自分達の方へ接近していることに。

「オテントサマ、きっと体は金色で、星が百個ぐらいあル。それに、スゴく大きイ」

 少女がイメージしているのは、きっと某風の谷の少女と心を通わす、怒ると目が真っ赤になる蟲の王様の豪華バージョンだろう。
 時に子供の想像力というのは、大人のまったく考え付かないものを作り出すものだ、と苦笑しながら告げる。

「うーん、それはそれで見てみたい気もするけど、もう少し頑張りましょうだな」
「違うのカ……」

 オテントサマなる謎生物の大きさを伝えるため、「これぐらイ」と一杯まで広げていた腕を組んで一生懸命、想像力しなおしている彼女を見習って、ジローも残り短い時間を考え事に費やすことにした。
 シャークティが第一声に浴びせてくるだろうお叱りの言葉を躱し、尚且つ、損ねた機嫌を普段の小言をぶつけてくる程度にまで回復させる謝罪の言葉を捻り出すために――――




〈続く〉

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