第四十三話「楽しい休みの過ごし方?」


 日曜日。
 それは、自由業や公務員といった休みが不規則、あるいは多忙すぎてまともに休みを取れない人以外は休日と呼ぶ日。
 キリスト教では日常生活を中断する安息日として扱われる曜日だが、今の時代、休日だからこそやるべき事が多い人間がほとんどだけに、そのように無茶振りもいいところな教えに従ってられるか、というのが正直な気持ちだ。
 修学旅行の前後からこっち、休みという概念を忘れて働き続け、昨夜も名目上、御主人であるネギの、エヴァンジェリンの弟子入り試験の見物に夜遅くまで時間を浪費したジローからしてみれば、今日この日は待ちに待った正真正銘の休日。
 誰に邪魔されることなく日がな一日、人気の少ない公園なりで寝たり、通りがかる猫や犬を相手に戯れたりして、ここ一、二週間で疲弊した心と体を癒そうと考えていたというのに。
 ジトリと据わった眼差しで周囲を見渡し、心底、嫌そうにため息をつく。
 道の真ん中で立ち止まるポロシャツ、ジーンズ姿の彼を避けていくのは人、人、人。
 お祭りでもあるのだろうか、と首を傾げたくなるほどの人波に、連続して嘆息を溢す。
 休日のお父さんか、ゴルフ中のおじさんスタイルのジローを避けながら、今時の若者ですと主張するいかにもな恰好をした人間が、「んな場所で突っ立ってんじゃねーよ、ダセえカッコしやがって。邪魔だからマジ消えろよ」的な視線を送ったりしていた。
 麻帆良の三流ゴシップの特集にて、最も巣鴨が似合う青年という嬉しくない肩書きを進呈されたこともあるジローが、若者の集う街として名高い原宿に姿を現したのは何故なのか。

「ハァ……何でこーなるかねぇ」
「それはねー、ジロー先生の買ってきた京都土産がココネに不評だったからッスよ〜」

 賑やか過ぎる場所にいることが不満、というより不快そうなジローのぼやきに言葉を返したのは、彼が麻帆良で働き始めてから知り合った人間の中でも取り分け、親しい付き合いを続けている一人に数えなくもない少女。
 活発そうな印象を与える短髪に、人をからかう様な明るい笑みを浮かべた、プリントシャツに黒のベスト、ブラウンの短パンを着た少女――美空に、うんざりした顔を向けてジローが愚痴る。

「その埋め合わせをするのは構わんけど、何故にせっかくの休みに、こんな場所へ来にゃならんのだ」
「いーじゃん別に。ジロー先生だってまだ若いんだし、こういう場所で買い物とかしてリフレッシュしないと!」
「……俺、まだ十七になって一月ほどしか経ってないんだけどなぁ」

 ビシッ、と親指を立てて見せる美空に半眼になり、どことなく悲しげに呟いたジローの手を、今まで無言を貫いていた少女が引っ張った。
 注意を向けた彼を見上げる、無表情な赤い瞳に僅かな驚きの色を乗せた少女――ココネが報告する。
 麻帆良の外ということもあって、普段の制服や修道服と違う、袖や襟、スカート縁にピンクのラインが入った白のワンピースに、彼女お気に入りの白黒ビーグル犬がプリントされたリュック装備の完全お出かけスタイルで周囲を見渡しながら、ジローの手を握る力を強める。
 麻帆良の賑やかさとは種類の異なる、喧噪を無限に生み出す雑踏に戸惑っているのだろう。

「ジロー、人がたくさんダ」
「そうだなぁ、何でこんなにいるのやら……。とりあえず、迷子にならないよう気をつけないとな。ほら、もっとギューって握る」
「ウン」

 自分と同じく、原宿デビューを果たしたばかりのココネの手を取って歩き始めたジローだが、原宿駅を出てすぐの横断歩道を渡ったところで突然、納得いかないと言いたげに結んでいた口を開いた。

「まあ、こうして休みにお前さんらと買い物をするのはいいとして、だ。そんなに駄目だったのか? 俺の京都土産」

 ジローからしてみれば、軽い疑問から出した質問。
 だが、手を引く少女や隣りを歩く少女から戻ってきたのは想像以上に低温の視線と、それなりに辛辣な指摘と感想。

「あのさー、こう言っちゃなんだけど麻帆良のどこ探しても、楽器になりそうな簪もらって喜ぶ小学生いないから」
「一度つけてみたけど、頭少し重かっタ」

 やれやれと首を振って呆れたように嘆息する美空と、簪をさした時の再現のつもりか、首を傾けてよろめいて見せるココネ。
 あからさまに芳しくない反応に若干、眉の端を下げながら、一縷の望みを託して問うのは簪とセットで渡した、もう一つの京都土産についての感想。

「じゃ、じゃあ、職人さんの完全手作りの市松人形はどうだった――どうでしたか?」

 腰を低くして尋ねるも、温度の低い眼差しを送り続ける美空達の、舌鋒鋭き指摘と感想は態度を軟化させることなどなく。

「アハハ、夜中に髪伸びそうな人形もらって喜ぶ子、いると思っちゃってるッスか?」
「ちょっと怖イ……」
「そっちも駄目だったか、っていうか、そっちの方が評判悪そうだな。凄く可愛いと思ったのに」

 下手な冗談扱いで笑い飛ばす美空はともかく、仕方なく部屋に置いている市松人形の言い知れぬ不気味さを思い出し、口の両端を下げているココネの怯えた表情はジロー的に軽視できず、申し訳なさから肩を落とす結果となった。

「ほらほら、へこんでる暇があるならお店へゴー! 今日は変なお土産のお詫びに服買ってくれるんでしょっ!!」
「つぅ……思いっきりはたくなよな。しかも、買ってくれるって何だ、ココネだけじゃなくて自分のも買わす気かアイツ」

 そんな、失意に項垂れるジローの背中を叩き、サッサと先に行ってしまう美空に負けん気を起こしたのか、普段、彼女の周りの人間が見慣れている無表情の中に、有無を言わさぬ強引さを滲ませたココネが彼女の後を追い始めた。
 ついさっきまで怯えて顔を俯かせていたというのに、それを微塵も感じさせない力強さでジローの手を引きながら、前方に見える子供服が専門のファンシーな外観の店舗――『モキハウス』を指差して振り返る。

「ジロー、最初はアソコのお店」
「わ、わかった、わかったからそんなに引っ張るな、っていうか後ろ見ながら歩くな」
「お〜い、遅いよー、二人とも。あ、ねえねえ、ジロー先生! 私、あとでそこの店でスニーカー見ていい〜?」
「後で言いながら向かおうとするなよ! あー、もう、主従揃って急にテンション上がり過ぎじゃないか……?」

 自分の持ち帰った京都土産に対して辛口評価を下していた時とは違う、実にハイな状態で各々好きな場所へ行こうとする少女達を制止しながら、眉間を指で押さえたジローが愚痴を溢す。
 ココネの希望した店に入る前に、己の欲求に従って行方知れずになってしまいそうな美空を捕まえるか、手頃な品でも買い与えておとなしくさせた方が、まだ落ち着いて行動できるのではないか。
 そんな事を考えている間にも、美空は己の欲望に従って原宿の道を突き進んでいく。

「うおぉっ、あんなとこに探してたニューモデルのスニーカーが!? さすが原宿クオリティ!!」
「だから、走るなぁ。慌てんでも店は逃げんから、少しはココネの足に合わせてやれよ」
「私は大丈夫。ジロー、もっと急いデ」
「絶対、最後の方で寝るフラグだよな、その言葉。まあいいけど、俺がおんぶすりゃいいだけだし」

 歳不相応のくたびれた空気を引き摺りながら、それでも少女達に根気よく付き合うジローからは、普段からの主張を尊重するなら年の離れたお兄ちゃんのソレが。
 身も蓋もない表現で言い表すなら、どこまでも娘や孫に甘いお父さんやお祖父ちゃんのソレと、非常によく似たものが感じられた――――







 麻帆良学園で教師を務めるシスターにして、魔法使いでもあるシャークティの機嫌は悪かった。
 全国展開しているコーヒー専門店『スターブックスコーヒー』麻帆良支店で注文したエスプレッソのカップを、まるで親の敵でも見るように睨みつけている事からも、彼女の機嫌が現在進行形でよろしくないことを如実に伝わる。そのせいかどうかは不明だが、シャークティが陣取っているテラス席の周りには空きが目立っていた。
 日曜日、シスターという役職にあるとはいえ本職は魔法使いで、しかも本日は久方ぶりの完全休業という喜ばしき日に、どうしてシャークティは眉間に深い溝を刻んでいるのだろうか。
 朝からずっと険しい表情を継続してさすがに疲れたのか、眉間を揉みほぐして深いため息をついたシャークティが愚痴を溢し始める。
 話し相手は特に見当たらない。敢えて愚痴を聞かされる存在を見つけるなら、彼女が腰を下ろしている椅子の前にあるテーブル、そこにポツンと置かれたエスプレッソが妥当か。

「まったく……少し甘やかした私がバカでした。美空とココネ、二人揃って麻帆良の外へ遊びに行くなんて弛んでいます」

 ここのところ、美空は指導を始めた頃が嘘のように悪戯をせず、またココネも自分の言う事をよく聞き、普段以上に行儀よく過ごしていた事が嬉しく、たまには教会の仕事や魔法使いとしての役目を忘れて体を休めなさい、と労ったのが失敗だったのだ。
 朝からおめかしして、美空に手を引かれて出掛けたココネの興奮した様子に微笑ましいものを覚えたのは確かだが、そんな感情も彼女達の行き先を知って遥か彼方へ捨てる事となった。

「原宿? そこはあれですか、お洒落と珍妙の意味を履き違えたファッションに身を包む浮ついた人々が、目的もなく金銭を浪費して恥ずべき快楽に喜びの声を上げることで有名な原宿ですか」

 少なからず間違いでない部分はあれど、お洒落と珍妙の意味を履き違えたという指摘を、完全休業の日でさえ修道服で過ごしているシャークティが行うのは如何なものか。
 「人のふり見て我がふり直せ」という諺はさて置くとして、六割ほど偏見に彩られた原宿という街に対するイメージを呟き、ほろ苦さが魅力のエスプレッソを一口含んだ後で、シャークティは「弛んでいます」と繰り返した。

「こういう時に限りますが、美空の行動力は感心するに値しますね。休みを与えた次の日には外出の許可を申請して、ココネにお出でかけの準備までさせておいて……挙句」

 今、口にした高温の蒸気によって抽出するコーヒー液よりも苦々しい顔と声で、続きの言葉を吐き出す。

「修学旅行のお土産が気に入らないという話に託けて、ジロー君を保護者兼財布代わりに呼び出すなんて……」

 美空達を見送った直後、知らない間に買い直したらしい携帯電話を使い、美空とココネがまだ教会にいるのかを尋ねてきたジローを問い質して判明した、本日の行き先。
 申し訳なさから、顔から火が出そうになった時の記憶が蘇り、シャークティは思わず親指の爪を噛んだ。万事において凛とした彼女にしては珍しい、苛立ったり考え事に没頭した際、極稀にしてしまう悪癖。

「確かに、まあ……ココネのために買ってきた物にしては少々、奇抜さが目立っていましたが。人が好意で渡したものに文句をつけた上、埋め合わせの品を求めるなんて、恥知らずもいいところではないですかっ」

 爪を噛んでいる事に気付いて口から慌てて外し、今日の外出の発案者に違いない美空を小声で叱責する。この場にいない美空に言ったところで意味はないのだが、肉声として体外に出さなくては、頭に血が昇ってしまいそうだった。

「ジロー君がお買い物に連れて行ってくれる、とでも吹き込まれたココネは仕方がないとして。美空の我儘を聞き入れるジロー君もジロー君です」

 どうしようもないと言う様な嘆息に、こめかみに指を当てて頭が痛いというポーズまで加えて、シャークティはジローへの呆れを表す。
 常から、自身の魔法先生としての仕事にネギのサポートを足した過剰労務に悲鳴を上げているというのに、ようやく訪れた骨休めできる日を、個人的付き合いのある生徒や子供の世話で浪費してしまうのは如何なものか。
 人の話を真面目に聞いているのかどうか今一つ、分かりづらいジローの緩さは、こうした疲労の積み重ねで培われてしまったものではないかとさえ、ここ最近では考えているぐらいである。

「とは言え、美空とココネだけを原宿のような場所へ行かせるのは心配ですし、ジロー君が一緒にいてくれるのはありがたいのですが……」

 勝手な事を言っていると、渋い顔でエスプレッソに口を付けて、今日何度目になるのか不明なため息を溢す。
 ジローが美空やココネに付き合って麻帆良を出ていなければ、今の暇を持て余した状況を回避するために形ばかりの遠慮をしつつ、お茶と雑談に誘っただろう自分に指導している少女達を非難する資格はなかった。

「――――休日に一人きりというのは、やはり暇を持て余すものですね」

 空になってしまった紙カップをテーブルに置き、しみじみ実感したとばかりに呟く。
 何だかんだで、美空やココネにジローを加えた面子での日常が当たり前になっていたという事か。頬杖をついて、テーブル上の紙カップにつまらなそうな視線を送り、小さく吐息を漏らす。

「そろそろ出ますか」
「む? ジローはいないのか、珍しいな」
「キャアッ!?」

 唐突に現れたとある人物が話しかけたのは、シャークティが独り言とともに席を立とうとした丁度、その時。
 椅子を引こうするのを見計らっていた様なタイミングで声を掛けられ、怜悧、凛然としたイメージからは想像しにくい可愛らしい悲鳴を上げて、座っていた椅子を蹴り倒すようにその場から飛び退いたシャークティを気にした様子もなく、ただ淡々と呆れの視線をサングラス越しに送っていたのは神多羅木。
 少し遅めの朝食か、あるいは早目の昼食を取りに来たのか、コーヒーカップと数種類のサンドイッチが乗ったお盆を、シャークティが使っていたのとは別のテーブルに置いて着席する。

「か、神多羅木先生ッ、驚かせないでください!」
「別にそんなつもりはなかったぞ。大方、考え事でもして気付かなかったんだろう?」
「む……それは」

 自分は目の前を通って店に入ったと嘯いてコーヒーを啜る神多羅木に、シャークティもそれ以上、文句を言う事ができず口を噤まされる。結果として驚かせた事に違いはないのに、一方的に彼女の落ち度として話を終了させ、平然とサンドイッチを口に運ぶ神多羅木の揺るぎなさは相当のものだ。
 緩い、飄々が常の態度であるジローとはまた一味違う、独特な掴み所の無さはシャークティも苦手としていたりする。
 まだテンポよく鼓動を奏でている心臓を押さえ、良くも悪くもいつも通りな神多羅木の態度に軽く眉根を寄せながら、シャークティは地味に引っ掛かっていた彼の言葉について尋ねた。

「そういえば、先ほどジロー君を捜していたようですが、何か用事があったのですか?」
「いや、特にこれといった用事はないが……。休みなのに、お前達が一緒にいないのは珍しかったからな」

 言った直後、コーヒーショップのテラスに響いた転倒音に、神多羅木はサンドイッチを一口齧り、よく噛んで飲み込んでから首を傾げた。

「……どうしたんだ、急に椅子にタックルを掛けたりして」
「ど、どっ、どうしたんだ、じゃありません! なな、何ですか、突然おかしな事を言わないでください!!」

 先ほどの「一緒にいないのは珍しい」という発言に多大なショックを受けたらしく、側にあった椅子を巻き込んで転倒していたシャークティが震える怒声を張り上げる。
 褐色の肌でも誤魔化しが利かないほど顔を上気させ、あたふたと起き上がって倒した椅子を元の位置に戻しつつ、素知らぬ態度で優雅にコーヒーを味わっている神多羅木に噛み付く。

「べっ、別に休みに必ずジロー君と会ったりしていません! ですので、先ほどの間違った認識の訂正を要求します!!」
「何を慌ててるんだ?」
「ああ、あっ、慌ててなどいません!」

 ほんの気紛れで出された言葉に対し、どうしてこうも過剰に反応しているのか自身も理解していないのだろう。ただギクシャクと身振り手振りを加え、何かを否定するように必死の抗議を行うシャークティを見物しながら、神多羅木はゆっくりとサンドイッチとコーヒーを口に運んでいた。
 サングラスの奥でどこか楽しげに細められている瞳はさて置き、シャークティは弁解を続ける。

「それは確かに、初めて仕事をした時以来、頻繁にお茶を飲みに来てもらったり、教会の用事を手伝ってもらったりはしていますし? お休みの日以外に会って、取り留めない話をする事も多々ありますが、その際の話題の中心はココネや美空の私生活についてで――――」

 指導している悪戯好きの少女と違い、慣れない言い訳めいた事をしたせいだろう。ジローと会うのは日常茶飯事であると、自白と変わらぬ勢いで語り尽くしたシャークティは、肩で息をしながら神多羅木に問い掛けた。

「ハァ、ハァ……と、という訳で、私とジロー君の間には何ら特別なものは無いのです。わ、分かっていただけましたか?」
「ああ、分かった分かった」

 何を分かったのか言わぬまま、おざなりな感じに落ち着けと手を振る神多羅木を、シャークティは憎々しげに据わらせた瞳で睨む。
 絶対に分かっていない。そんな胸中の疑念が伝わる不信の眼差しを受けながら、クツクツと喉を鳴らすように笑っていた神多羅木が口を開いた。

「クックック……これという他意があって聞いたわけじゃなかったんだが。まあ、仲良くやっているようで安心した」
「先ほど、私が言った事をこれっぽっちも理解していませんね!?」

 希望していた認識の変更を欠片も行わず、どこまでもマイペースで率直な感想を垂れる神多羅木に、堪らずシャークティが目を吊り上げて叫ぶが、隠し様がないほど顔を赤らめたその姿には、普段、悪戯を見咎められて逃走する美空を追いかける時の迫力はない。
 むしろ逆に、動揺に裏返った声と相まって、元より持っていたのだろうシャークティの可憐さ、愛らしさを際立たせていた。
 春の訪れによって始まった山の雪解け、とでも表現するのが良いのか。
 以前までの彼女にあった、接する者に息苦しさを与えるような凛然さ――美空に言わせるなら頭の固さ、ジローに言わせるなら人を巻き込む生真面目さか――が解れている事を如実に伝えてくれる。
 ネギやジローという例外は除くが、日本の大学に通っていればキャンパスライフを謳歌しているのが普通という年齢――近々二十歳になるはずと神多羅木は記憶している――でありながら、麻帆良学園で教師と魔法使いとシスターの三足の草鞋を履く才媛が周囲に張っていた、冷たく透き通るガラスの壁。それに条件付きではあるが、きちんと開閉する窓や扉が設置されたのは先生や魔法使い云々抜きに、人生の先輩として微笑ましく思えた。
 「ほんのチョットだけ、シスターシャークティが優しくなっタ」とは、シャークティが指導を受け持っている少女の言。
 本当に子供というのは、身近にいる大人の事をよく見ていると呟いて、少女――ココネが通う初等部のクラスを担任していたりする神多羅木は口元を緩めた。

「何を焦っているのかは知らんが、ジローやココネの前で同じ事をしないよう気をつけろよ」
「っ!? よ、余計なお世話です! そもそも、人を慌てさせているのは神多羅木先生ではないですか!!」

 彼女的にそれはトドメの言葉だったらしい。うっかり自分から否定していた焦り、慌てふためいているという事実を認め、決定的に泣き出しそうな顔になった後、

「――――スミマセンッ、用事を思い出したので、私はこれで失礼させていただきます!!」

 あからさまな逃げ台詞を言い捨てて踵を返し、地面を蹴りつけるような早足でシャークティはスターブックスコーヒーを出ていった。
 一人テラス席に残り、お盆の上のサンドイッチとコーヒーを片付けていた神多羅木が、ヒョイと空を見上げる。
 丁度、上空を名前も知らない二羽の鳥が、互いに支え合うようにして飛んでいた。比翼連理を連想させる羽を重ねた鳥の影が遠ざかり、完全に見えなくなるまで見送ってから、「やれやれ」とでも言いたげな嘆息を溢す。

「…………さすがにからかい過ぎたか?」

 もっと他に思う事、呟く事はないのかと突っ込みが入るような言葉に疑問を抱くこともなく、空になった皿とカップだけが乗ったお盆を手に席を立つ。
 ジローやシャークティと同じく、久方ぶりの休日を迎えたはいいが、特にこれといったやりたい事がなかった。

「そうだな……今からやるならバス釣りがいいか?」

 店内の食器返却口にお盆を置き、腕時計に目を落として自分に問い掛ける。時刻は十一時を大きく回り、間もなく短針が十二を指そうという所。
 今度、暇ができたらジローの奴も誘ってみよう。煙草と酒以外で趣味はないかと聞かれたならば、間髪入れずに「釣り」と答える程度に釣り愛好家だったりする神多羅木信義・三十九歳は、自宅の部屋に完備しているバス釣りセットを取りに戻るべく歩き出した。

「ジローの奴に一本、磯竿でも見繕ってやるか……。二号で柔らかめ――いや、待てよ? さびきならのべ竿でもいいな」

 予てより秘密裏に進めていた、『男性魔法先生協会・釣り部』発足計画の足掛かりであると同時に、同好の士がいなくて密かに寂しい思いをしていた自分の釣り仲間ゲットのための第一歩。

「まずは同好会からだな。ジローに瀬流彦、弐集院辺りを引き込んでおけば、ガンドルフィーニも文句を言わんだろうし、あいつも入りやすくなるだろう。ふむ、これで今年は一人鯵釣りに行って坊主に終わる、なんて筆舌に尽くしがたい虚しさを味わわずに済む」

 もしかすると、神多羅木は致命的に釣りが下手なのかもしれない。
 下手の横好きの部分が垣間見える、色々と同情したくなる釣り部発足の決意を胸に抱きながら、とりあえず今日はバス釣りで日頃の精神的な疲れを癒そうと、神多羅木は自宅へ向かう足を速め始めた――――






 午後十二時。
 麻帆良にあるコーヒーチェーン店で、シャークティと神多羅木がある種、愉快な会話をしていた事などつゆ知らず。
 ジロー、美空、ココネの三人は、原宿から少し離れた場所にある公園に停まる車の側に並んでいた。
 白いバンを改造した移動式の屋台。三人以外にも人が並んでいるため、はっきりとは分からないが、車内では急ピッチで調理が進められているのが見える。
 周囲に漂っているのは、順番待ちで並ぶ人が知らず鼻孔を広げてしまう程、食欲をそそられる甘い香り。

「いやー、買い物するとお腹空くよね〜」
「支払いから荷物持ちまでさせておいて、よくそんな言葉を吐けるな? お前さん」

 手際良く作られたクレープを渡され、スキップしそうな笑顔で屋台から離れていく少女を羨ましげに見送り、美空は堪らないと苦笑いして溢した。
 次の注文の品を作るために屋台車の中で、バンダナを巻いた店主が丸い鉄板に黄色がかった生地を垂らし、竹トンボに似た形の道具で薄く、綺麗な円を描いている。
 ジュワッという音とともに上った香ばしい匂いに、言いたい事はわかるが正直、美空がそれを言うのは納得いかないと語る半眼で、ジローは足元に置いた紙袋の中身を覗き込んだ。
 ココネに不評だった京都土産の埋め合わせとして購入した、子供服専門店・モキハウスの商品が詰まった紙袋に、散策の途中で引っ張り込まれたファンシーなぬいぐるみ店、靴屋のロゴ入りの箱を詰めた袋と、その中身は一貫していない。
 随分、買ってしまったものだ。
 近付いてくる注文の順番を待ちながら、少しばかり渋い顔になる。懐具合が寂しくなったという事はないので、その点は考えなくて良いのだが、いささか少女達を甘えさせ過ぎなのではないか。
 買いたい物を買ってやり、いざ次の欲求を満たしてやろうとしている段階で考えても遅い事はわかっていたが、それでも、そう考えずにはいられない量である。
 麻帆良に帰ったらまたシャークティに「この子達の為にならないので甘やかさないでください」と、愚痴を聞かされそうだった。
 胸中でため息をつき、その際の言い訳はクレープを食べてから考えようと、ジローはクレープ屋台の窓に張られたメニュー表に注目する。
 チョコバナナにイチゴクリーム、ブルーベリーにマロンクリームと、基本を忠実に抑えながらもバリエーション豊かなメニューがふんだんに揃っている。
 中にはゴーヤやほうれん草、トマトと、注文するのにそれなりの勇気と度胸を必要としそうな内容のクレープもあるが、それは店主の軽い遊び心によるものと思いたい。
 トッピングも組み合わせると数十は下らないクレープの注文表を眺め、個人的に心を魅かれたスモークチキンサラダと、カボチャとクリームのアーモンドスライストッピングを食べようとジローが決めた時だった、ココネから事件と呼ぶべき報告がなされたのは。

「ジロー、お城」
「あー、ココネ、お城がどうかしたのか?」

 主語のみで話された少女の言葉に、さすがに理解しかねると首を傾げたジローの袖を引き、ある方向を指差しながら、ココネは普段に比べて三割増しに輝く無表情な瞳で彼を見上げた。

「ジロー、あんなトコにお城」
「はあ、こんなところにお城があるのか?」
「あっちにあるのって――――ゲッ」

 袖を引く少女に若干、苦笑しつつ対応しているジローに先んじてココネが指差した方に目を向けた美空の口から、あまり上品ではない呻き声が漏れた。
 その事に眉を顰めながら、一体何があるのだろうとココネに向けていた顔を上げたジローの目に映ったのは、なるほど確かに少女の言う通りお城であった。
 四半刻も歩けば明治神宮という、日本有数の巨大な神域に辿り着ける場所にある公園から少し離れた、裏路地と呼ぶような奥まった位置に鎮座していたのは、ロシア、あるいはアラビアンナイトの世界に見られる宮殿を髣髴とさせる擬宝珠型の屋根を持った建築物。
 何故か淡い桃色がかった壁に、夜中にはギラギラと誘蛾灯の如き光を発するのだろう電飾を施された城門と、休憩二時間四千円・ご宿泊七千五百円ポッキリと毒々しい色で書かれた看板。

「アノお城、私の名前に似てル」
「ああ……そうなのか。そういえば、ココネの苗字はファティマ・ローザだったよなぁ」
「ウン」

 ココネ・ファティマ・ローザの名を持つ少女が、いつもは眠たげな赤い瞳を親しい者ならばわかる程度に輝かせて指差す『お城』とは、『ホテル ローズ・ド・ファティマ』なる名を持つファッションホテル、あるいはブティックホテルなる業界表現で呼ばれる――起源を遡れば、江戸時代の出会い茶屋まで遡る事のできる世間一般でラブホテルと呼ばれる宿泊施設。
 昼間の明るい日差しに照らされ、燦然と輝いて見えるお洒落な印象を与えなくもない宿泊施設を指差し、「お城に泊まれるのスゴイ」と興奮した無表情でジローを見上げているココネは気付いていなかった。
 ジローや美空だけでなく、自身の事を可愛らしいと、友人や彼氏と囁きを交わしていたクレープ屋台の列に並んだ少女達や、今も忙しなく手を動かして注文を捌いている店主の瞳が動揺に泳いでいる事に。

「ジロー、ジロー、アノお城どうして安イ?」
「あー、えーっと、それはだなぁ〜っと……」

 ラブホテルに向けて伸ばした指をピコピコと上下させ、不思議そうに首を傾げるココネの様子に内心、色々と罪な可愛さだと思いながら、しかし唐突に訪れた緊急事態に冷や汗を垂らしてジローは視線を逸らした。

「――――ピッピ〜、ピピフィ〜」

 最初から期待はしていなかったが、従者としてココネを『様々なモノ』から守護するべき存在のはずの美空はそっぽを向いて、掠れた口笛を吹いている。
 自分達と同じくクレープの注文待ちで並ぶ客は触らぬ神にたたりなしの面持ちで、空を見上げたり、遠い眼差しで手に持った雑誌を眺めたりしており、ただ一人、目の合ったクレープ屋台の主人が気の毒そう笑いかけてくれたのが、ジローにとっての数少ない慰めであった。
 ちょび髭を生やしているせいか老けて見える、黄色のバンダナを巻いた店主に苦笑いを返し、動揺が声に現れぬよう呼吸を整えて、ココネと目線を合わせるためにしゃがむ。
 両肩に手を置かれ、キョトンと不思議そうに首を傾げているココネを真っ直ぐに見つめながら、ジローは少女に理解しやすいようゆっくりと口を動かした。

「いいかー、ココネ? あのホテルの料金が安いのは、お仕事が忙しくて終電を逃がしたり、徹夜明けで家に帰る前に休憩する人しか利用できない場所だからだよ」
「そうなのカ?」
「ソウナノダ」

 悪戯がバレた時の美空に似た、エジプト壁画の登場人物と同じ目で少女を守る嘘を吐く。
 麻帆良の中で美空やシャークティ程ではないが、懐いていなくもない人物であるジローの断言に少々の疑問を覚えながら、それでも納得して口を尖らせたココネが呟く。

「じゃあ、私は入れない……。中、どんな風になってるのか見てみたかっタ」
「あんな場所に入る必要ありません。お城に入りたいなら姫路城でも和歌山城でも、大江戸デゼニーランドのお城でも伊勢エスパーニャ村でも連れて行ってあげるから」
「ホ、ホント?」

 ほんのちょっぴり残念に思って溢した言葉に返された、やけに必死で有無を言わさぬジローの提案にココネが目を剥いて聞いた。

「ああ、本当だとも。あそこの目に痛いピンク色の建物にココネを入れるぐらいなら、学園長を説き伏せて、いや叩き伏せてでも休みを作って遊びに行くさね。ちなみに、俺のお勧めは伊勢エスパーニャ村だ」
「じゃ、じゃあ、私、大江戸デゼニーランドに行きたイ」
「伊勢エスパーニャ村……いや、うん、普通はそっちを選ぶよな」

 正直に行きたいと告げるのが恥ずかしかったのか、それとも、我儘を言ってはいけないというシャークティの教えを思い出して躊躇いを覚えたからなのか、視線を真っ直ぐに向けたままモジモジと希望を告げる。
 予てより一度は行ってみたいと思っていた夢の王国。お気に入りの、気だるそうな白黒のビーグル犬に並ぶとも劣らない大江戸デゼニーランドのマスコットキャラクター・ラッキーマウスを幻視してか、無表情に頬を紅潮させているココネの頭に手を置いてジローは空を見上げた。
 彼の顔にあったのは、重大な危機を乗り越えてプロジェクトを完成させた仕事人の表情。
 一見、燃え尽きた様でありながら、次なるプロジェクトの完成を見据え、一時の休息を味わっている――――そんな、足を止める事を知らない男らしさ。

「ご注文はお決まりですか?」
「ほら、ココネ、順番が来たぞー。一番最初に注文しなさいな」

 変な方向でジローが達成感を醸し出している間に、順番待ちで並んでいた客を捌いたクレープ屋台の店主が次の生地を鉄板に垂らしながら聞いてきた。
 話しかけられてあっさり、纏っていた仕事に明け暮れた人間紹介番組的な空気を取っ払い、いつも通りの緩い表情に戻ったジローは、注文表を見やすい高さまでココネを持ち上げた。

「――――チョコバナナのバニラアイストッピングで、飲み物はオレンジジュース」
「アイスは駄目だ、冷たい物食べ過ぎたらお腹痛くなるぞ」
「ナラナイ……。ジローのケチ」
「ケチで結構、コケコッコー」

 熟考の末に決めた注文を一瞬で却下した青年を、無表情な眼差しで少女が非難している様子を眺めながら、美空は今頃になって上気してきた顔を手で扇いでいた。

「いやー、マジでジロー先生がいて助かったよ……。正直、私じゃ上手く答えられなかっただろうし」

 中学三年に進級してつい先日、十五歳になったとはいえ、まだまだ大人と呼ぶには足りないものが多すぎる少女なのだ、自分は。
 漫画や雑誌で得た知識と、若さゆえの妄想力だけで形成された、ああいった施設に対する知識を白昼、うっかり口を滑らせて話してしまうなど考えたくもない。
 チラリと遠くに経っているラブホテルを見て、また温度を上げた頬に顔を顰めながら思う。
 できることなら、早くこの場所から離れたいと。

「じゃあ、美空とアイス半分こ」
「む……それなら、いいか。仕方ない、ちゃんと約束は守るんだぞ」
「もちろんダ。……ジローはアイス、頼まない?」
「それも半分欲しいってか? 山葵アイスでいいなら、あげなくもないぞ」
「――――――――イラナイ」

 譲歩や駆け引きの応酬を繰り広げている二人に苦笑し、さっきまでの気恥しさを吹き飛ばすようにジローの背中をパンッ、と気持ち強めに叩いて美空は声を張り上げた。

「おっちゃんっ、イチゴカスタードにクッキークリームのアイストッピング! 飲み物はー、アイスコーヒーで!!」
「ミソラ、順番守らないとダメ。ジロー、まだ注文してない」
「堅いこと言わないでよ〜、ココネはもう注文してんだし。ホラホラ、後がつかえてんだからジロー先生もさっさと注文するッスよ」
「もう少し加減して叩けよ……。まあ、しゃあないかもだけどさ」

 殊勝な心掛けでも発心したのか、ジローが足元に置いていた荷物を全て下げて元気よく注文を伝え、ココネの注意も笑顔で受け流して美空は促した。
 叩かれた背中に若干、痛そうに顔を顰めながら、だが怒りもせずジローが苦笑だけして注文を言ったのは、彼も美空と同じく、この場を早く立ち去りたいと考えていたからだろう。

「あー、俺はスモークチキンサラダとカボチャクリームのアーモンドスライストッピングを一個ずつ。飲み物はアイスコーヒーで」
「ジローだけ二つ……」
「汚い、さすが大人は汚い」

 考えもしなかった裏技とも呼ぶべき注文方法に愕然となるココネと、思わず嘆きの言葉を口にした美空に対して、ジローは自分の正当性を顎を突き出す尊大な態度で主張する。

「いいんですー、お金出すのは俺なんだから。お前らには欲しい物買ったんだし、自分にご褒美って事で勘弁してくださいや」

 麻帆良だけでなく、修学旅行先の京都や行く先々で年相応に見てもらえず密かに涙する日々を過ごしながら、それでも食欲を優先して躊躇いなくクレープを二つ注文して自分の行動を正当化する辺り、彼もまだまだ欲望に忠実な十代を謳歌している――――ように見えなくもなかった。







 純真無垢な少女が社会の穢れに触れてしまうのを、首の皮一枚で回避したジロー達は、クレープの屋台車が停まっている公園の端、件の桃色の城的宿泊施設と真逆の方向に設置されたベンチに座り、三人揃って手にしたクレープを齧っていた。

「あー、色々と疲れたぞ今日は」

 三人仲良く並んだ場所からはラブホテルが完全に見えない事を確認して内心、ホッとしつつ、ジローはアイスコーヒーのストローに口を付ける。

「まあまあ、可愛い生徒と幼女を連れて休日を過ごせてラッキー! ってことで一つ」
「モグムグ……」

 ぼやきながらクレープに噛みついているジローへ、調子の良い笑顔を浮かべた美空がサムズアップして見せた。
 しかし、それは華麗に無視して、彼女の隣りに座ったココネが我関せずの無表情で、だが美味しそうにクレープを頬張っている姿に微笑したジローが呟く。

「誰かさんが可愛いのか可愛くないのかは別として、それなりに楽しかったっちゃあ楽しかったか」
「何か微妙に腹立つ言い方だけど、まあいいや。いろいろ買ってもらえて感謝してるッス!」
「今更だけど、お前さんに物を買ってやる理由はなかったんだよなぁ……。もうないからな、今日みたいなのは」
「わかってますってー」

 ココネを見る時から一変して、不機嫌そうなジト目を向けてくるジローに気後れした様子もなく、パタパタと手を振って軽く返す美空が浮かべた笑顔は、今日一日を本当に楽しく過ごせたと語っているようだった。

「羨ましいぐらい調子いいよな、ホント」
「少しぐらい調子よく生きないと、色々しんどいしね〜」
「ああ……そうかもしれんな」

 年相応の気楽そうな顔で、クレープを齧りながら美空が語る。
 普段の緩い、気の抜けた炭酸水のような顔で昼食代わりのクレープを食べながら返した同意に、ジローが一体どのような感情を込めていたのか。
 幸か不幸か、美空がその事に想いを馳せる機会は訪れなかった。

「――――ンゥ」
「およ、どしたのココネ?」

 唐突に隣りから漏れ聞こえたココネの声。二人が申し合わせた様に視線を移すと、お腹が満たされたらしい少女が、眠たげに眼を擦っているのが見えた。
 どうにか頑張って起きていようとしているのだが、朝から買い物で歩き通しだった少女にとって、満腹感が生む眠気は抗いがたい強敵だったらしい。コクリ、コクリと漕ぐ舟は目に見えて大きくなっていた。

「危ないな、これは」
「アハハ、そうだね。どうしよっか? 起こすのはちょっとかわいそうだし」

 美空の体越しに、眠りかけているココネを眺めていたジローが立ち上がる。
 まだ残っていたクレープを口に放り込み、アイスコーヒーで流し込んで足音を忍ばせて、おねむ状態の少女に近寄ってハンカチを取り出す。
 行儀良く、だがヒマワリの種を与えられたハムスターの如く、一心不乱にクレープを食べていたせいだろう。薄っすらと目を開け、眠気に最後の抵抗の意思を表しているココネの口元に付いたクリームを拭き取り、ジローは細心の注意を払って少女を背負い上げた。

「よいこらしょっと……。まあ、原宿に来た時点でこうなるのは目に見えてたし、子供なんだから当然だわな」

 遊ぶだけ遊び、疲れたら寝る。それは、子供にだけ許された特権の様なものだ。起こさないよう優しく揺すり、背中の上で姿勢を安定させて苦笑する。
 肩に顎を乗せる様にして、あっという間に小さな寝息を立て始めたココネをおぶった状態で、ジローは視線でベンチに座る美空を促した。

「もちょっと待ってー、もうすぐ食べ終わるから」
「あー、そこまで急がんでいいけど。悪いけど荷物は任せた、さすがにこの状態で袋提げるのは無理だし」
「そのぐらいは言われなくてもわかってるよ。どうせコレ、半分以上は私の物なんだし」

 ズズズ、と音を鳴らしてアイスコーヒーを飲み干し、ベンチの下側に並べておいた紙袋を両手に提げた美空の言葉に、「本当に、どうして美空の欲しいもんまで買ってんだろ……」と眉根を寄せるが、すぐに買ってしまったものは仕方がないと諦めたらしく、ため息をついてジローは歩き出した。
 規則正しく寝息を立てているココネを気遣い、普段より四割は静かで遅い足運びで進むジローの隣を歩きながら、速度と同じく抑えた声で美空が尋ねる。

「帰る時になってから聞くのも何だけど、ジロー先生は欲しい物とかなかったの? 修学旅行で服、ボロボロにされたとか言ってたし、買えばよかったんじゃない?」

 休日に原宿まで遠出して自分用に買う物が一つもないのは、若者どうこうではなく、現代人として問題ありだとでも言いたげな目でなされた質問。
 人間、自身の欲求が満たされると人に対する気遣いができると聞くが、それは本当だったのかもしれない。その割に、自分に向けられた眼差しは優しさではなく、むしろ失礼な部類に含まれているように感じるが。
 そんな事を考えながら、ジローは欲しい物は特になかったと首を振る。

「ホントに? 私達ばっかり楽しんで、ジロー先生は疲れただけで休み終わり〜、とかはさすがに申し訳ないな〜、なんて今頃、思っちゃったりしてるわけだけど……」

 久しぶりに訪れたはずの休みを浪費させたのでは、と気にまでし始めた美空に、普段からその気遣いができればシャークティに叱られる事もなかろうに、と胸中で笑う。
 少し高めのココネの体温――子供体温という奴だ――を背中に感じながら、ジローは本心を量りにくい普段通りの緩い顔で、だが何一つの偽りや誤魔化しを含めていない言葉で語った。

「いいんだよ、さっきも言ったけど俺は俺で楽しんだから。案外、楽しいもんだぞ? 子供の我儘なりに付き合って、来た事もない場所を歩き回るっていうのも」
「そ、そんなもんなんだ……」
「そんなもんさね、こんな歳になると」

 背中にお休み中のココネが居るからか、それとも、もっと他に原因があったのか。
 ネギやアスナといった、美空達とは別に親しくしている者達は見たことのない、目にすれば腰を抜かすような微笑を浮かべて話すジローは、まるで後光を背負っている様に美空には感じられた。

「こんな歳って、まだ十七歳になって一ヶ月過ぎてないとか言ってたッスよね? っていうかゴメン、そのお寺で飾られてる像みたいな笑顔やめて。ウチ、偶像崇拝禁止なのに手を合わせたくなるから」
「ハイハイ、わかりましたよっと。んじゃ、新宿の玉島屋に寄ってデパ地下惣菜を買って、それから麻帆良に帰るか」
「あれ、直で帰らないの? 晩御飯のおかずなら、麻帆良の商店街でいいじゃん」
「分かってないな、美空は。都心に出掛けた日の晩御飯はデパ地下の総菜、お寿司、お弁当と相場が決まってるだろうに」
「え? ゴメン、ジロー先生、それってどこ地方のローカルルール?」
「なぬ?」
「スゥ……クゥ……」

 極力、抑えた声でそれなりに楽しげな会話を繰り広げるジローと美空。そして、己の『常識』をローカルルール呼ばわりされてショックを受けたらしいジローの背中で、今も静かに寝息を立てているココネ。

「うっわー、何だろ、ジロー先生がズレてるのは知ってたけど、それじゃまんま時代遅れのお父さんじゃん」
「誰がお父さんだ!?」

 年齢的に見れば、兄と二人の妹の遠出からの帰り道。

「じゃあ、叔父さん?」
「どっちにしろ嬉しくないわ!」
「スゥ……クゥ……」

 だがしかし、不思議な事にジローに背負われて心地良さげに眠るココネや、大量の荷物を抱えて歩きながら、あーだこーだとジローに女子中学生的な現代常識を教授している美空の姿を見ていると、三人の姿はまるで――――



〈続く〉

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