「終幕・死ぬまで足掻け?」


 瀬流彦に呪術協会の本山が襲撃されたらしいと聞かされて寝付けず、飲み物を買うついでの散歩に出ようとした美空が、

「ふぃー、いい湯だったぁ……む? 美空か、まだ起きてたのか」
「え? あー、うん、なんだか寝付けなくてさー」

 露天風呂に続く脱衣所から出てきた、上下灰色のニャジダスジャージ姿のジローと遭遇したのはまったくの偶然であった。
 つい今しがた風呂から上がったらしく、心底、露天風呂を満喫したと言いたげな緩い顔をホコホコと上気させているジローに尋ねられ、半ば反射的に答えた美空だったが、すぐに彼がこの場にいるのはおかしいと気付いて声を荒げる。

「って、ちょい待ち、ジロー先生!? 何でここにいるの、つーか連絡取れないって聞いたけど、大丈夫だっ――――!?」

 手に持った缶ジュースの存在も忘れ、バタバタと慌しく手を振って心配していたことをアピールしていた美空だが、最後の方で言葉を詰まらせて目を剥いてしまった。

「あ、あのさあのさ、ジロー先生? その小脇に抱えてるビニール袋に入ってる布切れはどーしたの?」

 ふと目が行った、ジローの抱えている半透明のビニール袋。その中に丸めて詰め込まれている、何故か見覚えのある布の塊を指さして、美空は引き攣った笑みを浮かべていた。
 あわよくば、それが自分の見間違いか何かであればいいと思いながら。半透明の袋の内側が赤っぽい錆色で汚れているのは、ケチャップか何かだったらいいなと願いながら。

「ああ、これか? ちっと刺されたり斬られたりでボロボロになって、もう着れないから処分しようかと」

 しかし、湯上り極楽気分状態で心身ともにすっかり緩くなっているジローの返答は、むしろ彼女の嫌な予想を裏付けするものでしかなく。

「さすがウニクロ、こうした不測の事態に備えて懐に痛くない良心的な価格設定」
「んなわけないじゃん! てか、服が着れなくなるぐらい刺された斬られたって笑い話じゃないよ!?」

 バーテンよりも激しく缶ジュースを振りながら詰め寄ってくる美空に、それもそうだと小刻みに首を動かして同意したジローが口を開いた。

「まあ、細かいことはさて置き、俺はこれからもう一仕事せにゃならんから……美空はさっさと寝ろよ。明日はココネ達に京都土産を買ったりで忙しいだろ」
「も、もう一仕事って、まだ騒動続いてるんスか!? 温泉入ってたのに!?」
「携帯も壊されたし、着替え取りに戻るついでに瀬流彦先生に報告しに行ったら、せめて血とか流していけって言われたんよ。ってな訳で、お休みー」

 軽い調子で去ろうとするするジローを、美空は思わず呼び止めた。
 飄々とした言動や、上下灰色のパチ物ジャージ姿という緩い青年がこれから何をしようとしているのか。見習い魔法使いとしてではなく、八房ジローの一知り合いとしての不安に駆られて。

「し、仕事ってさ、もしかして結構危ない目に遭っちゃうよーなの? もうさ、西の人達に任せてジロー先生は休んだ方がいいんじゃないかなー、って思うんだけど〜……」

 刺された斬られたと聞かされただけに、これ以上、そういった目に遭うようなことは止めた方がいいのでは。
 自分が巻き込まれるのは御免だが、ここで何の言葉も掛けずに見送るのどうかと半分、逃げ腰で尋ねた美空に対し、ジローが浮かべたのは底意地の悪い、絵本に出てくるチェシャ猫のような笑み。

「いやー、ないんじゃないか? 俺がこれからやらされるのは、散らかった舞台の片付けとかだし」
「あ、ああー、壊しちゃった建物の修理とか?」
「そんなとこ。ネギ達はそーいうの気にせず戦えるから羨ましいさね、ホント」
「えーっと……」

 何故か、そこから先を聞くのが憚られて無意識に唾を飲んだ美空に、普段通りの緩いと分類される表情に戻ったジローが、「行ってくらぁ」と小さく手を上げて背を向けた。

「ああ、朝までに戻れたら戻るわ。ジュース飲んだら歯を磨いて寝ろよ」
「う、うん」

 年齢的に兄で通用するはずだが、もっと年上の、まるで父親か何かのような注意を残して廊下の角に消えるジローの灰色ニャジダスジャージの裾を見送り、狐狸の類にでも化かされた気分のまま美空はホテルの天井を見上げた。
 人工の光を放つ天井の蛍光灯を眺めながら呟く。

「よくわかんないけど、結構ヤバい目に遭ったのは確かだよねー、ジロー先生。アレかな、やっぱり私のお祈りがいけなかったのかな」

 死亡フラグ回避のために、祈りの途中でいたらいいな程度に信仰している神に取り消し申請しておいてよかった。
 仮が付くとはいえ、シスターとしてそれはどうなのか的なことを考えながら、感謝の意を示すための十字を切った美空は、ジローとの遭遇ですっかり飲むのを忘れていた缶ジュースを飲もうと、まだ開けていなかったプルタブに指をかける。
 とりあえず、ド素人もいいところな見習い魔法使いは言われた通り、ジュースを飲んで歯を磨いて寝てしまおうと考えながら。
 人気のない、うっすらと寒ささえ感じる深夜のホテルの廊下にプルタブが開き、缶の中の空気の抜ける音が響く。

「――――って、ギャアァァァァッ!? そういえば私、炭酸入りの買ってた!!」

 直後、弾ける泡の音を率いて缶から噴き出したオレンジ風味炭酸飲料を頭から浴び、悲鳴を上げる羽目に陥ったのは、一体何者の意思によるものか。
 その真相を知るは、彼女が形の上で信仰している神ただ一人――――








「――――っう、アタ、アタタタッ……!」

 復讐に心を囚われて暴走した挙句、手足となって東西に未曾有の大惨事を引き起こすはずの両面宿儺に投擲され、舞台半ばで退場させられてしまった彼女――天ヶ崎千草が意識を取り戻したのは、関西呪術協会が所有する土地にある、修験者などに霊山として崇められている山の奥深い場所だった。
 全身に響く鈍痛に呻き声を漏らしながら、ゆっくり体を起こして周囲を見渡してまず口にしたのは、

「……ウチ、何で生きとるんや?」

 という、心の底からの疑問に溢れた呟き。
 日本の歴史の中でも指折りの大鬼神・両面宿儺の手加減なしの投擲。術者としての技量に多少の自負はあれど、その投擲に耐えうるほどの障壁を張れるはずもなく、また何より彼女自身、投げられる前から死を覚悟していた。
 だというのに、全身が軋んで凄く痛い程度で済んでいる今の状況は不思議以外の何物でもなかった。

「ウチがやったわけとちゃうよな、コレ……」

 袂に入れていた呪符を一枚取り出して火を灯し、松明代わりに周囲を見渡した千草が困り顔で声を絞り出す。
 自分を中心に、大きくすり鉢型にへこんだ地面。
 落下の衝撃から身を守るために展開したらしい障壁に押し倒された木々に、盛大に撒き散らされた山の土。
 隕石でも落下したような惨状に、何が何やらと引き攣った笑いが浮かんできた。

「よーわからへんけど、命助かったんだけは確かみたいやわ」

 もしかして、両面宿儺がご丁寧に障壁付きで自分を投擲してくれたのだろうか。
 あり得ない想像に片方の口の端を持ち上げ、いまだ消えぬ全身が軋む痛みに耐えながら立ち上がり、どこに向かうでもなく歩き出す。
 深夜の山奥の空気はピンと張りつめ、彼女の立てる足音も、異界を思わせる静寂に溶かされてすぐに消えてしまう。
 常人なら数分と待たずに方向を見失い、発狂さえしてしまうほどの霊気に満たされた、みだりに足を踏み入れてはならぬ御山。
 暗く、そして重々しい空気に纏わりつかれながら、だが然して気にすることもなく千草は山道を進んでいく。

「ハァ……これからどないしょ。さすがに協会には戻られへんし、かといって東の方に逃げたら逃げたで西洋魔術師どもに追っかけられるやろうし」

 いっそこの場で自害でもしてやろうか。
 酔狂な考えが頭を掠め、小さく吹き出して空を見上げる。濃く生い茂った木々の葉の隙間から、チカチカと瞬く星々を覗くことができた。
 知らず足を止めて、夜空を見上げたまま辺りの静寂に耳を澄ませる。
 そうして改めて気付かされる。この静寂が、ただ静かであるというわけではないことを。
 そよぐ風に揺れた木々の葉が擦れる音に、ここよりもずっと遠くで飛び立つ種類もわからぬ鳥の羽音、聞く者がいるのかどうかもわからぬ虫の囁きなどが一体となり、『山』という巨大な生物――過去の人々が神と崇めたモノの鼓動と息吹を奏でているように彼女には感じられた。
 かえって自然の力強さを裏付けるかのような静寂に抱かれ、千草は自害を考えていた時の自嘲の笑みとは違う、肩の力が抜けた柔らかな苦笑を浮かべていた。

「フ、フフ……なんやもぉ、アホらしゅうてどーでもようなってきたわ」

 クツクツと肩を震わせた後、大きくため息をついて愚痴った。
 両面宿儺に握られて放り投げられる直前、今まで溜まりに溜まった憤りや憎しみを涙と一緒に流し切ってしまったのだろうか。
 物寂しいのにどこか清々しいとさえ感じる心境に内心、納得いかないものを覚えて頭を掻く。
 申し訳程度に艶や手触りを残してはいるが、これまでの人生を西洋魔術師の復讐に費やしてきたせいか、同年代の女性と比べて酷く荒れているように思える髪にほろ苦い笑みが滲んだ。

「――――お母ちゃん達がよう褒めてくれてたはずなんやけどなぁ」

 何故か今この時まで忘れていた、幼かった頃の両親との記憶が蘇った。
 まだ小さかった自分の髪を、大切にしていた櫛で梳きながら嬉しげに綺麗な髪の毛だと褒めてくれた母。
 どうしてもと乞われて、髪を傷めないよう不器用な手つきで怖々と櫛を入れていた父。
 忘れていたのではなく、思い出すことが辛くて忘れようとしていただけか。
 己の不甲斐なさを悔いるように唇を噛み、震える声を絞り出す。

「ホンマにウチはアホや……。何のために仕返ししよう考えたんか忘れて、西洋魔術師ども困らせることなんかに必死扱いて……」

 最後に両親の墓参りに行ったのは、はたして何年前のことだろう。
 両親の復讐のために始めた修業。それがいつの頃からか、ただ西洋魔術師達を打ち倒すためだけの力を求めるようになっていた。
 自分が力を持てば、西洋魔術師の存在が必要ないと西の術者達が思わせるほど有能になれば、くだらない魔法使い同士のいざこざで殺された両親の無念を晴らせると考えていた。
 だというのに、いつの間にか自分は両親のことも忘れ、ただ西洋魔術師が憎いという心に囚われた挙句、関西呪術協会の中で鼻摘み者扱いされている強硬派に所属して、徒に西と東の和解を妨害するという愚行に走っていた。

「よー考えたら、そんなんして誰が得するっちゅう話や」

 仮に強硬派の望んでいる通りになったところで、関西呪術協会がかつての栄光――日本の全術者を統べる組織に返り咲くことはないのだ。
 むしろ、強硬派の行動を理由に完全に魔法協会の傘下に加えられる可能性の方が高かろう。

「結局、何も見えてなかったちゅうことか……」

 自分も、そして強硬派に籍を置いて鼻息荒く『関西呪術協会のことを思って!』と謳っている連中も。
 憑き物でも落ちたのだろうか。今まで見えていなかったものや見ていなかったものを楽に、そして心揺らすことなく見ることができる自分に驚きを隠せない。
 そこでようやく、千草は自覚することができた。

「ああ、なるほど、そういうことなんやな」

 自分はもう、一度死んでしまったのだと。
 刹那に木乃香を奪われ、制御できなくなった両面宿儺に掴まれた時に。あるいは、その後に投擲にされた時に。
 肉体ではなく、自分の大切だった人達への想いを忘れ、くだらない組織の虚栄のために必死になっていた性根の腐った自分の心が。
 だからどうという事はない。心が死んでようがいまいが、天ヶ崎千草という人間が罪を犯し、もうどこにも戻る場所がないことに変わりはないのだ。
 今回の騒動がもし、当初のように親書を奪うなどの程度の低いものに終始していれば話も違うのだろうが、呪術協会の長である詠春の娘を攫い、厳重に封印していた大鬼神まで復活させた身。
 のこのこ顔を出せばたちまち協会の術者達に捕えられ、相当な罰を受けることになるだろう。
 だが、それでも、

「戻ったとこで無理なんわかっとるのに、ウチ……もっかい、協会で一からやり直したい思っとる」

 心の底から湧き上がってきた感情をそのまま吐露して、千草は総本山のある方角を見た。
 当然ながら、周りの深い木々に遮られてその姿を見ることはできなかったが、それでも彼女は満足そうに息を漏らした。

「後悔先に立たず、か……」

 先人の言葉はしっかり聞いておくものだ、と仕方なさそうに苦笑した千草が周囲を見渡して話しかけた。

「わざわざ、ウチのこと捜しに来てくれはったんですか? 御苦労さんですなぁ」

 闇に包まれた山の中、一体、誰に向って話しかけているのか。
 彼女の行動を見ている者がいたなら、そう首を傾げただろう行為。そんな彼女の問いかけに答える声が、山中の暗闇の中から返された。


「――――随分と余裕あるやないか、この痴れ者が」

 いつの間にか、賑やかな静寂を湛えていた山の空気が沈黙していた。
 まるで、山の全てが息を潜めているかのような重い雰囲気。
 心地よい静けさが失われたことに嘆息しながら、千草はどこにいるとも知れぬ相手に話しかけた。
 肩の力を抜いた様子で、だが決して隙は見せぬよう注意しながら周囲の気配を探る。

(まあ、来るとは思とったけど……ちょう多いな。十七、八ってとこか?)

 自分に話しかけてきた人物――声に聞き覚えがあるところからして、彼女が所属していた強硬派の一人で、本山でも相応の発言力を持っている幹部でもある人間だ――の他、その側近連中に囲まれていることに呆れてしまう。
 今回の騒動の主犯である自分を捕まえに来たのだろうが、それにしても人数が多すぎる。

「そんなにウチに逃げられるんが怖いんですか? 別にこんなんせんでも、あんさん方は知らぬ存ぜぬ言うとったらええと思いますけど」
「それで済む問題ちゃうことは、阿呆なこと仕出かしてくれたお前がいっちゃんわかっとるやろ。お前のせいでワシらにもそれなりの処分が下るはずや……下手したら降格や謹慎を命じられるかもしれん」

 不安の中に苛立ち、それも自分に対してではなく、詠春という近衛家に婿入りした『余所者』に命令されることへの不満を隠しもしない幹部の言葉にため息が漏れた。
 組織のため、関西呪術協会の地位向上のため。そう謳っていた人間の本音を垣間見て、これまでの強硬派としての活動が一層、馬鹿らしくなったのだ。
 格下の分際で自分に意見をするなど以ての外。そう言いたげな声で話しながら、こうして下っ端の一人である自分を捕らえに来たのは何故か。
 理由は明白である。

「で、自分らに……アンタ様に火の粉がかからんよう首謀者のウチを捕まえて、長達、穏健派に引き渡してご機嫌取っとこう――――ですかいな」
「何とでも言っとれ。少なくとも今回の一件はお前が勝手に実行した暴走によるもんや、ここでワシらが事態収拾の手伝いでもしたったら、長の奴もそう強くは出られへん」

 千草の皮肉に、苦虫を噛み潰したような声が返された。同時に、木々の影から白い狩衣に似た装束に身を包んだ集団が現れる。
 口元を覆う梵字入りの白布の下で、くぐもった呪が唱えられるのを聞く。

「お前は阿呆やけど、術者としての腕だけは大層なもんやからな……念入りにいかせてもらうぞ。安心しとけ命は奪わん、ちょう記憶やら人格は弄らせてもらうけどな」
「なんでも言うこと聞くお人形のできあがり〜、ですか……有難迷惑な気遣い、おおきに」
「チッ、やれ」

 やけくそ気味に返した千草に忌々しげに舌打ちし、幹部の男が術の準備を終えた側近達に命じた。
 感情の抑制された十を超える術者の眼が彼女に突き刺さる。どうあっても自分を逃がさない気らしい。
 兎を狩るのに全力を尽くす獅子よりも性質が悪いと、重い吐息を漏らしながら袂を探った彼女の手には数十枚の呪符が握られていた。
 結局、今回の計画の中で使う機会のなかったありったけの呪符。

「――――すいませんなぁ、あんたらに殺されたない思える程度に、ウチの『心』は安ぅないみたいですわ」

 言い様、四方八方から飛来した火炎や水弾に千草の投じた呪符が喰らい付き、爆音と眩い光を生んだ。
 肌を炙る熱風から顔を守りながら、陣形の乱れた側近達の脇をすり抜けて山中の暗闇に逃げ込む。

「何やっとるんや!? 追え、絶対に逃がすんやないぞ!!」

 後ろから聞こえる喚き声に胸中で舌を出しながら、改めて確認できた事柄について愚痴を溢した。

「……自分で言うんもなんやけど、ウチって結構、腕立つ方やったんやな」

 幹部の男が頭数を揃えてやって来た理由の二、三割は、天ヶ崎千草という術者に対する評価が含まれていると考えていいだろう。
 一対十数人の術合戦の間隙を縫って逃げ出せるだけの腕を持ちながら、修学旅行開始直後から彼女に『間抜け』、『三流術者』といった印象が纏わり付いていたのは何故か。
 背後から飛来した風の刃が掠り、頬や肩から血が溢れたことに苦笑しながら呟いた。

「たぶんあれやな、喧嘩売った相手が悪かったん――――グアッ!!」

 言い終える直前、背中に激しい痛みが走り、堪らず転倒してしまった。
 湿った山土の匂いに混じる髪や肌の焦げた臭いから、自分が喰らったのは雷、もしくは火の呪符だろうと当たりをつける。
 沁み込んでくるような疼痛に体が震え、涙が浮かぶ。

「はぁ、はぁ……ぜー、ぜひー……そ、その傷ならもう逃げられへんやろ。手間、かけさせよってからに……お、おい、お前ら――――やれ」
「――――」

 日頃の運動不足が祟ったのだろう、千草に追いついた幹部の男は苦しげに息を吐きながら、これ以上の逃走を許さぬよう彼女を囲んでいた側近達に顎をしゃくって命じた。
 無言のまま頷いた側近の一人が、袂から一枚の呪符を取り出して一歩進み出た。
 弱々しくもたげさせた視線に映ったのは、使用された者の自我を奪い、術者の望む通りの行動をさせる傀儡の呪符だった。

(おかしなもんやなぁ、お嬢様にしようしたことウチがされそうになっとるて……)

 痛みに青褪めた顔にやけくそ気味な笑みが浮かぶ。

 ――止められるうち、戻れるうちに止めておけって言ってるんよ、阿呆

 脳裏に蘇ったのは一番最初に木乃香を攫おうとした日、どうしようもなく頭の悪い子供にでもぶつけるように吐き捨てられた青年の言葉。
 言わんこっちゃない、という敵だった青年の呆れた声が聞こえるようだった。
 呪符片手に近づいてくる術者を見ているのも辛くなり、汚れるのも構わず汗の浮いた顔を地べたに下ろした。
 痛みに火照った頬に、湿り気を帯びた土の感触が心地良い。

「ハッ、下手に抵抗するからそないな目に遭うんや。まあ、傀儡の術をしっかり効かせた後で手当てはしたるさかい、安心しとれ」

 自我を奪われ、大切な人達との思い出を消され、心を殺されることのどこに安心すればいいのだろう。幹部の男のせせら笑いを聞きながら、ぼんやりとそんなことを考える。
 焦点のぼやけていた千草の目に、僅かにだが力が戻った。

「――――っ、ざけんのもたいがいにせえや……!」
「――!?」

 傀儡の呪符を持つ術者が、口元を隠した布の下で驚きと痛みに耐えるくぐもった呻きを漏らす。
 触れる寸前だった呪符を持つ手に突然、千草が噛みついたのだ。
 汗や血混じりの泥で汚れた顔の中で、ここで終わってたまるかと強く叫ぶ瞳があった。

「アホッ、さっさと術かけてまえ! 長の呼び戻した連中が戻って来る前に、ワシらがそいつを確保したってアピールせなアカンやぞ!!」
「――――!!」
「ア、ガハッ……!!」

 幹部の男に怒鳴られ、我に返った術者の手加減を知らない拳が千草の頬に入り、鈍い音を響かせる。
 もう抵抗できないだろうと彼女を軽く見ていた分、噛みつかれたショックは大きかった。
 殴って口を離させただけでは納まらず、腹立ちに任せて出された足が千草の体を強かに打ち据えて仰向けに転がした。

「げっ、ごほっ、オエッ……! ク、ククッ、慌てすぎやで」

 足掻けるだけ足掻いたった。そんな、妙に胸が空く想いが彼女の中に生まれていた。
 おかしな感情に内心、とうとう頭がおかしくなったかと思いながら彼女が掠れた声で送りつけたのは、敵側だった青年の不運不幸に対抗心を剥き出しの言葉。

「――――まったく、ざまあみさらせ……や」
「このっ――――!!」

 口元を汚した酸っぱいものを手の甲で拭い、皮肉げに歪めたできそこないの笑みを向けた千草に我慢できなくなり、今まで言葉らしい言葉を発しなかった術者が声を漏らし、もう一度、彼女を殴るために拳を振り上げた。
 幹部の男や術者と同じ側近の連中も、彼女を殴ろうとしている術者の姿に薄ら笑いを、あるいは呆れたような雰囲気を醸し出すだけで、当然のように、術者の行き過ぎた行為を止める者はいなかった。
 少なくとも、天ヶ崎千草を囲む集団の中には。

『オ前ラ……悪人ダナ?』
「なっ、誰や!?」
『――――!!』

 唐突に届いたどこか人工的な甲高い少女の声に、幹部の男が泡を食って辺りを見渡し、側近の術者達は彼を守護するために陣を組む。
 周囲に油断なく巡らされた視線に人の影や形は映らなかったが、確かに何者かが彼らに忍び寄っていた。

『自分ノ目的・欲望・理想ノタメニ、他人ノ犠牲ヲ厭ワヌ者――ソレガ悪人ダ』
「ヒッ、どこや、どこにおるんや!?」

 暗い茂みを掻き分け、凄まじい速さで何かが動き回る音に身を竦めた幹部の男が叫ぶ。

『ダガ誇リアル悪ナラバ、イツノ日カ、自ラモ同ジ悪ニ滅ボサレルコトヲ覚悟スルモノダ』
『――――ッ……!?』

 正体がわからないものほど、人を恐怖に陥れるものはない。古来、妖怪が人間にとって恐怖の象徴であったのも、その訳のわからなさ故だったように。
 関西呪術協会に所属する人間の力を以てしても見極められぬ存在に、感情を抑えきれなくなった術者達も陣形を乱し始めていた。
 鵺の如き不気味な何者かの問いかけが止み、ただ山中を駆け抜ける足音だけが続いている。

「いいい、一体何なんや! おっ、長が呼び戻した連中か!? それやったらホレ、そこに今回の事件の首謀者がおるやろ!! ワ、ワシらが捕らえたんやぞ!!」

 滑稽なほど右に左と首を振りながら、幹部の男は自分達が手柄を立てたことを主張する。
 しかし、そんな彼の見え透いた嘘に返ってきたのは無機質な嘲笑。

『ケケッ、散リ際ノ見極メランネェ奴ハタダノ馬鹿カ、三流デ腰抜ケノ小悪党ダ――――ナア、ジロー?』
「かもしれんなぁ……一応、今回は俺達がイイモンなんだよな? コホン、こーんばーんはー、御行し奉りに参りました」

 無機質な嘲笑を術者の一団に送った何者か――髪を肩の高さで切り揃えた茶々丸を、そのままデフォルメにしたような自律する操り人形・チャチャゼロの同意を求める声に、闇の中から緩い肯定と自問、そして奇妙な登壇の台詞が届く。
 同時に、

「ギッ!?」
「ヒッ、ギャアアァァァッ!!」
「なんや、どないしたんや!?」

 手や足を抱え、悲鳴を上げて地を転がった何人もの側近に幹部の男は目を剥いた。
 何たる早業か。自分の子飼いにしている人間の中から、特に腕利きを見繕って連れて来たはずなのに、呆気なく倒されてのた打ち回っている術者達を見て、ドッと粘つく汗が噴き出す。
 ある者は肘から先を失い、ある者は飛礫に足を穿たれて無力化されていた。

『アー、久々ダガヤッパイイゼ、コノ感触』
「な、なんや、人形……!? ぐぎゃあっ!!」

 茂みから飛び出してきたチャチャゼロが、振り上げた己の倍は刃渡りのある剣を躊躇せず叩き下ろした。
 外見は可愛らしいと言えなくもない人形が、凶悪な武器片手に飛び掛かってくるというシュールな光景に戸惑い、対処を遅らせた術者が袈裟掛けに斬られて血飛沫を上げた。

『ケケケケケケッ!!』

 手近にいた男を斬り伏せ、すぐさま次の獲物と定めた術者にチャチャゼロが襲いかかる。
 予想外の襲撃に困惑しながらも、咄嗟に呪符を構えて迎撃しようとした術者だったが、その行為も虚しく手首を切り落とされ、ついでとばかり腹を大剣で撫でられ膝を突いた。
 痛みよりも先に熱さが走った腹部を、切り落とされずにすんだ手で押さえた彼の顔が恐怖に歪む。パックリ割れた腹から、ぬめった臓腑が顔を出していることに気付いてしまったからだ。

「うあ、うあああぁぁぁっ!?」

 正視できない光景に半狂乱になりながら、それでも治癒の呪符を使って傷を塞いでいる術者を眺めながら、千草の側に腰を下ろしてジローがぼやいた。

「下手なホラー映画顔負けだなぁ」
「っ、うぐ……アンタ、なんでここに……?」

 ビッシリと脂汗を浮かべて喘ぎながら、今にも気を失いそうな顔色で途切れ途切れに聞いてくる千草を一瞥し、すぐに視線を残虐無双中のチャチャゼロに移す。
 鉈を思わせる大剣で術者を斬るのに飽きたのか、今は両手にナックルガード付きのナイフを握り、巧みなフェイントを織り交ぜて刺し、斬り捌いて甲高く笑う人形にため息をついた。

「最初は違う理由で来たんだけど、今はあの非道人形にやられた人達の治療のため、が一番大きそうだ」

 自分がここにいる理由について考え、戦闘要員としての必要性を感じられず糸目になったジローが答える。
 手や足を斬り飛ばされ、臓物を溢れさせた者さえいる阿鼻叫喚の空間において、何故か千草の周りだけ、閉店間際の酒場を思わせる寂れ具合であった。

「頼むからやり過ぎるなよ、チャチャゼロー。魔力有り余ってるこのかと違って、こっちゃ治せる限度があるんだから」
『ケケケッ、ダッタラ少ネェ魔力デ済ムヨウニ数ヲ減ラシテヤルゼ?』
「殺すな、つってんのよ! 怪我人少なくするために死人出すとか、本末転倒もいいとこだろうが!?」
『ケチ臭ェナ、堅ェコト言ウナヨ』

 物騒なチャチャゼロの返答に怒鳴り返し、忌々しげに頭を掻いてぼやく。

「これだから呪いの人形は……。死人が出たら何にもならん――――っつーの!」
「あぎゅるっ!?」

 文句を垂れながら、すぐ側に転がっていた拳大の石を掴み上げて全力で投擲。
 部下を見捨て、一人逃げ出そうとしていた幹部の頬にナイフに匹敵する凶器が炸裂し、新しい悲鳴を生み出させた。
 如何ほどの威力が込められていたのか、側転の要領で一回転して朽木のように倒れ伏した幹部の男に目を丸くした後、千草は息も絶え絶えな体を押して突っ込みを入れた。

「ア、アンタもたいがいや思いますけど……?」
「……死んでなけりゃ大丈夫だよ、うん」

 当人も少し強く投げ過ぎたと感じていたのだろう、気まずそうに目を逸らして頬を掻いていた。
 ジローとチャチャゼロの二人が乱入してまだ五分も経っていないというのに、もうこの場でまともに会話できるのは千草を含め、たった三人だけになっていた。

「――――何で、ウチなんか助けに来たんや……まさか、西洋魔術師のお好きな博愛精神ですか?」

 チャチャゼロに根こそぎ狩られ、弱々しい呻き声を上げて転がるだけになった幹部一味の姿に思わず同情しながら、余裕のない皮肉の笑みを浮かべて千草が問い掛けた。
 自分に、敵であった存在に情けをかけるなど随分、お優しいことだと言外に匂わせながら。
 対して、ジローが返したのは身も蓋もない言葉。

「結果としてお前さんは死なずに済んだんだし、今頃そんな文句言われてもねぇ。ケチつけるくらいなら、生き汚く術者に噛み付いて足掻く前に舌噛んで果てろと」
「っ、な、なんで……見とったんか?」
「ああ、見てたよ、ウチの『心』は安ぅないみたいですわ〜、の辺りからずっと」
『ケケケッ、ナカナカ笑ワセテモラッタゼ、メガネ女』

 久方ぶりに生ものを斬る感触を満喫し、両手に持ったナイフの血振りを行ったチャチャゼロが、ヨチヨチと歩き方だけは可愛らしく戻ってきたことに嘆息したジローが千草に聞いた。
 緩いのか穏やかなのか曖昧な眼差しに不釣り合いな、酷薄に歪んだ形の月を顔に描いて。

「助けても損はしないと考えて助けるのを博愛精神って言うのなら、今回のこれもそうなるんだろうな?」

 先ほどまで阿鼻叫喚の地獄絵図が再現されていた、生々しい鉄錆の臭いが漂う山中。
 そこで、見た目だけは愛らしいチャチャゼロに肩を占拠され、縁側でくつろぐ老人のような空気を纏って話すには裏のある言葉に、千草の顔に痛みによるもとと違う汗が滲む。
 彼女が緊張し、喉を鳴らす様子に面白そうに鼻を鳴らした後、ジローは身に纏った老人臭さを倍加させて本音を話した。

「まあ、今回の騒動の重要参考人の確保っていうのがあったのも確かだけど……本当のところは単なる趣味だよ、趣味」
「は、はあ……? 趣味やて?」

 事件の重要参考人の確保という前者の理由はさて置き、趣味というのは一体何なのか。
 訳がわからず目を白黒させる千草に、にんまりと口元を緩めて普段、麻帆良の知り合い達と話すような調子でジローが語り始める。

「他人が過去に何をしたのか、みたいな人生収集にゃ興味の欠片も抱かんけど、『心変わり』……何かを覚悟した人間がどういった在り方を、どういった死に様を見せてくれるのかを眺めるのは好きなんよ」
「まさか思いますけど、そ、そんな理由でウチを助けたんちゃうやろな?」
「全部が全部、俺が助けてやるぜー、なんて理由で助けるよかマシだと思うんだけどなぁ……」

 信じられないものを見る目で問われたことが不思議だったらしく、首を傾げているジローにチャチャゼロが突っ込みを入れる。

『言ッテミリャ、他人ノ人生ノ青田買イダナ。テメェニハ一文ノ得ニモナラネエ』
「得にはならないけど、それで俺が大損することもないだろ。せいぜい、後始末で御主人達の念頭にない面倒な事務やら書類が増えるだけで――――――趣味で利益出しちゃいけないって、じいちゃんが言ってたんだよ」
『ケケケケッ、アホダナ!』

 言いながら、ジトリとした半眼で肩の上のチャチャゼロを睨むジローの疲れた空気は、贔屓目に評価したとしても株価の大暴落を目撃した株主でしかなかった。
 ケタケタと甲高く笑うチャチャゼロを藪に放り込み、半分泣きの入った苦笑混じりのため息をついている青年に、千草も同じく痛みによる泣き入りの苦笑を返す。
 そして心の底から面白そうに、だが、そう感じさせられたことに悔しそうに目を細めて、弱々しくも明るい声で尋ねた。

「フ、フフ……下手な悪魔よか性質悪そうですな、アンタ。で? 今日、助けてもろたお代……いくらぐらい払ったらええんですか」

 細めた目に、初めてネギ達と対峙した時にあった暗い泥のような澱みはなかった。
 横目にそれを確かめて内心、思うところはあったが、それ以上に悪魔呼ばわりされたことに機嫌を損ね、口をへの字にして鼻を鳴らしてジローが告げる。

「そうさなぁ……明日以降、被るだろう迷惑に対する労力やらも含めるから――――とりあえず、死ぬまで足掻け?」

 何故か首を傾げつつ言ってから、この上ない自分の楽しみを再認識したのだろう、何を企んでいるのかと問い詰めずにはいられない、緩くて怖いという奇妙な笑顔の青年に、思わず千草が説明を求めた。

「ちょっ、死ぬまで足掻けて……それ、普通に返済終わらんってことちゃいますん!? お代は? どんくらい払ったらええとかいう、心のお代はいくらなんですか!?」
「ハハハ、お代なんて俺の気分次第に決まってるでしょうが。ああ、当然、利子を付けたりする時もあるから、そこんところもよろしく」
「う、うあぁぁ、助けてもろたとか考えたウチがアホやったんか……? 下手な悪魔どころか、ホンマもんの悪魔ちゃうんか、この人……」

 そろそろ負傷者の治療に当たらないとな、とまるっきり他人事の調子で呟いて伸びをして、ジローはまず隣に転がっていた彼女に手を向ける。
 漠然とではあったが、この治療も後々返済せねばならぬ心の借金に加えられるのだろう、そう確信して心中で涙を流す千草に、適当な感じに治癒魔法を使いながらジローが笑いかける。

「それでも、死ぬよかほんの少しだけマシさね。借金返済やらに頑張るのは明日から……今はゆっくり休んどけ」
「……そう、かもしれませんな。ほな、お言葉に……甘えて」

 背中の火傷を癒し、ぬるま湯に包まれるような心地良さが全身に染み渡っていく。
 今回の騒動を起こすまで、どれだけの日数を寝ずに過ごし、どれほど自分の心と体を酷使してきたのか。異様なまでに重くなった瞼を広げる暇もなく、見る側が爽快に感じる早さで千草は眠りに落ちた。
 場所が場所だけに、時折、寝心地が悪そうに身動ぎしている彼女を見て、もう治癒魔法は必要ないと判断したのだろう。翳していた手を外し、ジローは肩を揉みほぐしながら首を鳴らした。

「やーれやれ、これでやっとこさ一段落ついたと……」

 まだ強硬派の幹部連中の治療が残っているので、完全に一段落がついたとは言えないのだが。自分の台詞に胸中で突っ込みを入れ、ほろ苦い笑みを浮かべる。
 億劫そうに立ち上がって心底、面倒そうなため息を溢して歩き出した彼が不意に動きを止めたのは、その直後のこと。

「――――今頃、何の用ですかぁ? 誰もお前さんの登場なんて期待してませんよー?」
「クスクス、そない冷たくせんといてください〜。ウチ、これでも気ぃ遣うて、今まで出しゃばるん我慢しとったんですからー」

 いつの間にか、彼の背後に忍び寄ったロリータ服の少女――刹那との戦いに敗れた後、いずことなく去った月詠が、抜き身の太刀をジローの頬に触れさせてほほ笑む。

「千草はんのこと始末するんやとばっかり思ってましたけど、ずいぶんと優しいんですな〜?」

 冷たい刀の腹で頬を舐められる感触に眉根を寄せ、不快感を隠しもしないジローを気にも留めず、月詠は眼鏡の奥で欲情した瞳を潤ませていた。
 いつでも刃を立て、頬でも首でも引き裂ける。暗に告げて舌舐めずりしている月詠を肩越しに目撃し、目を据わらせたジローが尋ねた。

「むしろ残念そうに聞こえるのは、俺の耳がおかしいのでしょうか?」
「いやですな〜、千草はんの護衛はウチの仕事ですから、ジローはんの考えとるようなことはありませんよ〜」

 朗らかに笑って彼の問いに否定を返した月詠だが、後ろを窺い見るジローの目に映っていたのは、明らかに常人のものではない白黒反転した狂気の瞳。

「でも、あれですな〜」

 ふと思いついたように笑うのを止め、中空に視線を彷徨わせた月詠が呟いた。

「もし、ジローはんが千草はんに手を下そうしてたら……そん時はウチ、依頼人を守るために頑張って戦わんとあきませんでしたよね〜?」
「っ……」

 言い終わり様、刀の腹で舐められていたジローの頬に痛みが走る。月詠が太刀を回し、刃で彼の頬を撫でたのだ。
 火に触れたような熱に、思わずジローは顔を歪めた。
 ぱっくりと裂けたジローの頬から鮮血が溢れ、彼女の伸ばした刀身に彩りを加える。
 鍔元まで伝ってきた血に堪え切れぬ笑みを漏らし、声に喜悦を滲ませながら月詠が話し始めた。

「そういえば紹介するん遅れました〜、今、ジローはんの顔に傷つけたんが桜月いいますー。そんで――――」

 その言葉と同時に、彼の顔横から太刀が離される。代わって、眼前に小太刀が突き出された。
 ジローの背中にしなだれかかるようにして、肩越しに小太刀を回り込ませた月詠が囁く。

「今、ジローはんの首に触れとるんが春風っていいます……。どないですー、二振りとも可愛らしいでしょう〜?」

 逆手に握った小太刀の腹を使い、愛撫でもするかのようにジローの首筋を撫で叩きながら、月詠は命名したばかりの愛刀の名を彼の耳元で紡いだ。
 愛しくて仕方がない自分の子供を紹介する母親のような、尋常ではない熱の籠った囁き。
 何か動きを見せれば、躊躇なく首を斬り裂かれるのではないか。そんな最悪な考えが容易に浮かぶ緊迫した状況の中、ジローが行ったのは精一杯の皮肉を込めた嘲笑を浴びせることだった。

「あー……もう、行き着くところまで行き着いたって感じだな。刀に愛着持つのは結構だけど、執着するのは好ましくないぞ?」
「ウフフフフ〜、こんな時でも、そういう緩い人の真似事はやめてくれへんのですねー」

 少しだけ眉を顰めて残念そうに言い、月詠は彼の首元から春風を外した。

「まあ、刀持ってへんジローはんを斬っても楽しくもなんともないんで、別にええんですけど〜……今度会う時はウチと斬り合えるよう、ちゃんと刀、用意しといてくださいねー?」

 そんな囁きを残し、ついでとばかり頬から流れる血を、小太刀を持つ手の甲一杯に塗りつけた月詠が、体をもたれさせていたジローの背中から離れる。

「クスクス――――刹那センパイのもなかなかでしたけど、ンッ、フフ……やっぱりジローはんの血ぃも、濃くて病みつきになりそうな味ですわ〜」
「畜生、ケダモノにも劣るわ、お前さん……。正直、二度と会いたくないな」

 背後から届いた舌の蠢く音と、甘美な味に酔いしれるような感想から月詠が何をしているのかを悟り、嫌悪を露にしたジローが吐き捨てる。

「や〜ん、そないなこと言わんでくださいー。ほな、ウチは一足先に帰らせてもらいますんで――――さいなら〜」

 転移の呪符でも使ったのだろう、その場から完全に月詠の気配が消失したことを確認して、強張っていた体を弛緩させたジローが、瞼の下がった目を夜空に向けた。
 それなりに深く裂かれた頬に、そっと指を触れさせながらぼやく。

「ハァ……何があれば、ああも見事に突き抜けるんだろう。今のまんまじゃどうやっても勝てんぞ、あれは……」

 己と月詠の、剣の勝負において重要な心の強さ――何としても敵を斬り伏せ、生き延びるという気概といった生への執念などだ――を比較し、渋面になりながら自分が見逃してもらったという事実を認める。
 剣術の腕がどうのこうのではなく、内に秘めた狂気的な感情の面で大きく差をつけられていたが故の敗北。

「刀に拘るどころか、もう刀に憑かれてますって状態だったしなぁ」

 恐らくではあるが刹那に敗れた後、気まぐれに愛刀へ銘を付けたことが原因だろう。
 ひり付く痛みを訴える頬を治癒魔法で黙らせ、辺りに転がっている強硬派の連中の応急手当を始めながら、月詠の剣士としての凄味とでも呼ぶべきものが増大した理由を考え、彼女に告げた通り、今後一切、会うことがないようジローが祈りを上げたのはむしろ当然の行動だった。

『ケッケケケ! ナカナカ面白ェ奴ダッタナ、サッキノイカレ女ハ』
「ああ、きっとお前さんと話が合うと思うよ、効率的な人の斬殺法とか……高みの見物してずに助けに来いよ、この阿呆」
『ハッ、テメエガ助ケテモラウタマカヨ』
「――――月詠といいチャチャゼロといい、嫌な感じに評価されてるのな俺」

 放り込んだ藪からではなく、そのすぐ隣に生えた木の上から飛び降りてきたチャチャゼロに愚痴を言い、そのすぐ後に返された迷惑極まりない断言に肩を落とした青年の背中には、これ以上ない疲労感と老けこんだ哀愁が漂っていた――――







 麻帆良学園の修学旅行による、近衛木乃香の京都帰還。
 そこに端を発する、天ヶ崎千草が引き起こした騒動に一先ずの決着がついた日の早朝。
 朝靄に包まれた山中、多数の術者を引き連れて天ヶ崎千草の身柄を拘束しに現れた関西呪術協会の長・近衛詠春を待っていたのは、ある意味、予想外とも言える提案であった。

「――――それは一体どういう意味なのか、詳しく説明してもらえませんか?」

 後ろにずらりと並んだ穏健派――自分の考えに賛同し、東西の真の和解への道を模索してくれている術者達の戸惑い、どうにかしてほしいと縋ってくる視線に晒され、少しばかり胃の腑が痛くなるのを感じながら詠春は、真面目なのか不真面目なのか判別しにくい曖昧な表情で立っている青年に問いかを返した。
 納得できる説明を求められ、左の肩部分が赤黒く染まった灰色のニャジダスジャージに身を包んだジローは、どう話したものかと頭を掻き、言葉を選びながら口を動かす。

「あー、つまりですね、今回の一件はなかったことにしませんか? と、そういうことです」
「天ヶ崎千草とその協力者が、君やネギ君……東の特使に対して行った妨害工作や傷害について不問に付すと、そういうことですか?」

 背後で、それは西側にとって美味しい話なのではと考える空気と、それでは東に大きな借りを作ってしまうと不満に思う空気の二種類が生まれたのを感じ、胃の腑の痛みを二割増しながら詠春は首を振る。

「残念ながら、それはできない相談というものです。今回の一件があくまで君達、個人単位に関するものならば話は別だったかもしれませんが……東と西の和解という名目で来訪した特使に対し、天ヶ崎千草が行った行為の数々は西側としても到底、許容できるものではありません」

 そう告げた詠春の顔は、木乃香や刹那の親としての穏やかな人物のものではなく、一組織を率いる長としての厳然たるものであった。
 途端、場の空気に肌を刺激する緊張が加わったのを感じ、微かに緩い表情を引き攣らせたジローだが、ここで引き下がると色々と積み重ねた面倒が無駄になると、臆しそうになる自分を叱りつけて言葉を返した。

「東に誠意を見せるで形で処罰者を出されては困ると、そう申しているのです」

 ある意味、今この瞬間が修学旅行における一番の勝負所だと、先ほどまでの飄々とした表情に、口角を引き締めた厳めしい面を被せながら胸中で呟く。
 一体どうすれば、今回の騒動を過不足なく有耶無耶にできるのか。夜通し考え抜いた上で出した詭弁をいかにも正論であるかの如く、詠春を始め西の術者達へ訴えかける。

「今回の一件、引き金を引いたのは確かに天ヶ崎千草です。ですが、そうなる原因を作ったのはこちら――関東魔法協会にあります」

 ジローの一言で、詠春の後ろに控えていた術者達の間に動揺が生まれた。
 どういう意図があって自分達に非があると言い出したのか、戸惑い顔で互いに疑問の視線を交わし合う。
 ただ一人、詠春だけが視線を微かに動かすこともせず、真っ直ぐにジローを見据えていた。

「それはどういう意味でしょうか?」
「親書を携えた特使の来訪と、長の御息女である近衛木乃香嬢の京都帰還。これらが東西にとって、どちらも軽視すべきでないことは周知の事実」

 静かに問い質してきた詠春に、同じく静かな声で返し、一同を見渡して異論はないかと念を押してから続ける。

「本来なら、親書の受け渡しと修学旅行による木乃香嬢の京都帰還は、万難を排してでも異なる日程で行うべきことでした。ですが関東魔法協会の強硬派への認識の甘さ、そして英雄の息子であるネギ・スプリングフィールドに経験を積ませたいという、東西の和睦には関係のないこちら側の希望を押し通したことが、無用な騒動を起こさせたそもそもの元凶であると私は考えております」

 修学旅行に生徒の引率として魔法先生が訪れることについて、千草のように東に対してよい感情を持っていない人間の反応が芳しくないというのは、予てよりわかっていたことだ。
 だというのに、半ば強引に京都入りを認めさせた魔法先生に親書を持たせているなど、相手の神経を逆撫でするに等しい行為でしかなかった。
 しかも、その親書を持った魔法先生が見習いの上、数えで十歳の子供で、かつての大戦で大活躍した英雄の息子であると来た日には、関西呪術協会を舐めていると受け取られても弁明の仕様もない。

「ただでさえ、今回の修学旅行関係の話で不満を抱いている方々がいるのです。天ヶ崎千草の起こした騒動の解決に東が噛んでいると知って、好意的に受け取ってくれる方がどれだけいるのか」

 愁眉でかぶりを振るジローを前に、口を真一文字に結んで押し黙っていた詠春が口を開いた。

「…………お恥ずかしい話、騒動が起きた原因を東に求める者も少なくないでしょう」

 自分に賛同する和睦に協力的な者達からすれば、今回の一件は東西が力を合わせて解決した記念すべきものとなり得る。だが、最初から東に対してよい感情を持っていない者達にはどう映るのか。
 そのことについて考え、詠春の顔が苦虫を噛み潰したように歪む。
 「強引に話を進めた東が悪い」、「大事な親書を学生の引率のついでに持ってこさせるなど非常識だ」、「木乃香お嬢様の身に危険が及ぶことを東は考えもしなかったのか」、などは想像しやすい部類のものだろう。
 下手をすれば、「天ヶ崎千草の謀反は関東魔法協会によって意図的に起こさせられたものではないのか」、「東西の長が密かに手を組んで、強硬派を一網打尽にしようと企んだに違いない」といった、詳細を知らぬ者には真実味のある流言飛語が生まれる危険も考えられた。

「善意好意で物事を見るより、悪意敵意で物事を見る方が簡単ですからねぇ」

 それが絶対ではないことも当然、心得ている。だが、問題はそういう見方をする人間の方が多いかもしれない、ということ。
 世知辛い世の中です、と首の後ろを掻いてしみじみ漏らして、「君、本当は一体、何歳なのですか?」という詠春の疑念の視線が突き刺さり始めたのを冷や汗一筋、気付かぬ振りをしたジローが続く言葉を吐いていく。

「事件を有耶無耶にしたいということについての話に戻りましょう。こちら側がそのようなことを言い出したのは…………今回の騒動において極め付けの問題である両面宿儺の復活に、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル――彼の悪名高き『闇の福音』を介入させたということが最たる理由です」
『――――!?』

 闇の福音という単語に、詠春の連れて来た術者達の空気がざわめいた。
 詠春から事前に聞かされても半信半疑であった、六百万ドルの懸賞首として残虐非道の限りを尽くし、英雄・サウザンドマスターに打ち倒されたはずの真祖の吸血鬼が、木乃香の通う麻帆良学園――関東魔法協会が管理する土地で生きているという事実の肯定に。

「西の両面宿儺に東の闇の福音、そのどちらもこれから先、和睦を進めていく上で知られるとまずい認識を持たせることは必至」

 最悪、西はエヴァンジェリンの存在から力尽くで『和睦』させられるのではという危機感を抱き、東は東で両面宿儺の存在から、西がいつか自分達に危害を加えるのではという不安を持ちかねない。

「だから、双方に都合の悪い事件は揉み消しておく。確かに、ジロー君が危惧していることは私達、呪術協会としても好ましくないこと……知られないに越したことはないですね」
「し、しかし、長! 天ヶ崎千草の謀反、揉み消すには大きすぎます!!」

 得心がいったという感じに呟いた詠春へ、取り乱した様子で一人の術者が意見した。
 詠春と対面した謁見の場にいた一人で、呪術協会を襲撃したフェイトに石化させられた巫女達に「先輩」と呼び慕われていた女性である。
 あまりに大事になってしまった今回の騒動、なかったことにするなど不可能な上、そのようなことをする方が東西の溝を深める事態を招いてしまう。
 後輩の巫女達と軽口を交わしている時からは考えられない、真剣かつ真摯な眼差しでそう抗議してきた彼女に苦笑し、「慌てることはありません」と安心させるように頷いた後、詠春は厳めしい表情を取り繕っているジローにはっきりと告げた。

「天ヶ崎千草の謀反によって起きた両面宿儺の復活という、関西呪術協会の存続を危うくする今回の不祥事、揉み消せるなら揉み消したいというのが、西の長としての正直な意見です……。ですが、ここでジロー君の希望通り騒動をなかったことにすることはできません――――いえ、したくありません」
「……それは何故、でしょうか?」

 組織を預かる者としての威厳溢れる立ち姿で凛然と言い切った詠春に、口元に嘲笑めいた薄笑いを浮かべたジローが聞いた。
 自分の提案が拒まれることを最初から予想していて、事実、その通りになっていることを面白がっているようにも感じられる。
 ここに来て、まさかこの展開こそジローが望んでいたものではないのか。そんな疑心が唐突に生まれ、密かに唾を飲み込んだ詠春が自分の考えを述べる。

「私が考えている西と東の和睦は、互いの弱みを探り合い、自分達の組織へ組み込む機会を待ち構えるというような、政治的な意味でのものではないからです。過去に起きた大戦、それにより生まれた溝で手を取り合えなくなった西と東……。『誰かを助けたい』と願い、力を手にした者達がいがみ合っている……そのような虚しい在り方を打破し、真に信頼し、協力しあえる関係を築くことが長として、そして近衛詠春という一魔法使いの願いなのです」

 そのためにはまず、こちら側が相手に心を開き、どれほどの恥辱にでも耐える決意があるということも見せなくてはならない。
 例えそれが自身の立場を危うくし、組織の存続に影響を及ぼすものであったとしても。
 組織の頂点に立つ者が抱くには甘すぎる理想を話し、呆れられても仕方がないと自嘲の表情を浮かべた詠春に対して、ジローが念を押すように聞いた。

「では、両面宿儺の復活について包み隠さず東に報告していい――そう仰っていると受け取ってよろしいのですね?」
「ええ、そうなりますね」

 引き連れてきた術者達が不安げに見守る中、一歩も引くことのない力強い眼差しを送って己の覚悟を示した彼にジローが返したのは、

「参りました……まさか、長様の決意がそれほどまでのものとは。了解しました、今回の一件を揉み消すのはなしという方向で行きましょう」

 先刻までの真面目な顔を彼方に捨てた、常の緩いのか穏やかなのか判別しにくい曖昧な表情。

「しかし、困りましたねぇ……両面宿儺の復活を揉み消せないとなると、エヴァ――闇の福音の介入について揉み消すことが困難になってしまいます」

 困った困ったと繰り返しているわりに少しも困っていなさそうな、にんまりという表現が似合う形に口を綻ばせ、詠春や彼の背後に控えている術者達に知恵を求める。

「何かございませんか? 両面宿儺をエヴァンジェリンの存在抜きで倒したことにして、尚且つ東西の両方に疑われない妙案は」
「…………そればかりは誤魔化しようがありません、ね。うぅむ、失念していました」

 聞かれた途端、寸前までの凛々しさを霧散させて額に手を当てて唸りだす詠春。
 そんな上司の姿を後方から見つつ、先輩と呼ばれていた巫女を中心にした術者達も案を出そうと潜めた声を交わす。

「わ、私達に聞かれても困るんだけどね……こんなケース、今までなかったし」
「そ、そうですよね。私達みたいなヒラ術者に大鬼神をどうこうする方法とか思いつきませんよ」
「で、でも、ここで何か考えないと、長の立場が本格的に悪くなっちゃいますし……」

 ああでもないこうでもないと、術者達がもっともらしい両面宿儺の退治法を議論しているのを眺めながら、ジローはいい加減、耐えがたくなってきた眠気に欠伸を漏らした。
 目尻に浮いた涙をこっそり指で拭い、肌寒いまでに澄んだ朝靄を胸一杯に吸い込んで、その場しのぎの覚醒を促す。
 支えきれぬほど重たくなった瞼のせいで、人を食ったような半眼になっているのを自覚しながら、だが寝ていないのだから仕方がないと自己完結させて、詠春以下全員の意識を己に向けさせた。

「どうやら、皆様もこれだという妙案は出てこないようなので……ここは一つ、私の考えた妥協案を採用していただけませんでしょうか」
「妥協案、ですか?」
「そ、それは一体どのような案なのですか!?」

 訝しげに首を傾げる詠春や、上司や組織の立場を案じる余り、掴みかからんばかりの勢いで問い詰めてくる巫女に対してジローは、彼を知る者――とりわけ、カモミールやエヴァンジェリンのような深い部分で彼を理解している者だ――が見れば、それを向けられた相手に「ご愁傷様」と呟いてしまうだろう、爽快なまでのしたり顔で『妥協案』とやらを口にした。

「――――『紅き翼の剣神、いまだ衰えず!』……なんてタイトル、ゴシップのネタに持ってこいじゃないですか?」
『――――――――――は?』

 詠春や、彼が引き連れてきた術者達が一斉に唖然とした声を漏らしたのは、ジローの言わんとしていることを理解するのにたっぷり十数秒かけてからであった。

(……悪魔や、やっぱりあの兄さんは真性の悪魔や。どどど、どないしょう? ウチ、とんでもないお方に人生、預けてもうたんちゃうやろか……!?)

 その光景をこっそりジローの背後にある木の陰から覗きながら、首下の長さまで髪を切った千草――強硬派幹部の部下の術を喰らい、背中から下の髪の毛が焼け焦げてしまったので仕方なく切り揃えたのだ――は、「あわわわ」と恐ろしげに指を咥えて震えていた。
 自分の命を助けることさえ、彼の筋書きにあったのでは疑心暗鬼に陥って後悔し始めた彼女に、無情にもジローの呼び声がかけられる。

「なにかと忙しくなるでしょうし、長様達の手助けになればとこちらで有能な術者を一人、用意させていただきました――――おい、出てきなせえ」
「ヒィッ!? は、はいー、ただいまー……」
『…………な!?』

 糸目の蒼白顔で一同の前に姿を現した千草に送られたのは、当然ながら「何故、こいつが!?」と言わんばかりの驚愕の視線。
 そしてすぐにそれらが敵意や不信感、嫌悪などに色を変えたのを知りながら、ジローは関西呪術協会の面々に千草を紹介する。

「元・天ヶ崎千草、あるいは天ヶ崎千草2とでも呼んで、労働基準法を少し無視する程度に扱き使ってやってください。ああ、人柄については関東魔法協会の特使付添・八房ジローが保証いたしますのでご心配なく」
「は、初めまして〜……よ、よろしゅう頼んます〜」

 ヒシヒシと肌に突き刺さる視線に晒され、滝のような汗を流してぎこちなく頭を下げる千草。

「事件を有耶無耶にしたいという、君の真意がどこにあるのか理解しあぐねていたのですが。これは彼女に……天ヶ崎千草に温情をかけさせるための交換条件、というところなのでしょうか?」

 関東魔法協会にとって利の少ない、いや、皆無といってよい、西の不始末は西で全て始末をつけたという形での決着。
 東の特使に対する妨害工作や両面宿儺の復活という不祥事を補って余りある功績と、天ヶ崎千草の身の安全。
 天秤に掛けさせるにしては重さが違い過ぎるのではないか。暗にそう尋ねた詠春に、にやけた面を消してジローは答えた。

「正式に組織というものに所属していない私には、あれやこれやと切り捨てて組織を維持せねばならぬ長様の心労苦労は量りかねます故……。当事者として、人死にも未曾有の被害もなく収まった騒動、その首謀者に与える罪咎もほどほどでよいと考えております」
「…………刹那君に聞いた限りで君は三、四度、命を落としかけたはずなのですが。その辺りについて思うところは?」
「腹立たしいし憎らしいですし、できることなら同じだけの痛みを味あわせてやりとうございますが、何か?」

 いつの間にと思うほどの早業で、折り目正しく地面に座していた青年は心底、不愉快そうに答えて続ける。

「そうした恨み辛みで物事進めた阿呆が、そこにおります天ヶ崎千草。やられたからやり返すでは切りがございませんし、ここらで一つ、阿呆に我慢するということを実践して見せてやりとうございますれば」
「ううぅぅ……なんでやろ、ごっつい恨み言ぶつけられてるようにしか聞こえへん」

 これ以上ない渋面しかめっ面で話すジローの後ろで、彼に倣って正座していた千草がはらはらと涙を溢しながら呟いていたが、悲しいかな誰も気に留めなかった。
 押し黙り、じっと自分を凝視して佇む詠春や術者達に、ジローは片頬を持ち上げて見せた。

「どうしようもない不条理、理不尽をどうにかするのが魔法使いの、そしてあなた方様の本分なればと心得てこそ、私も斯様な選択を致したのですが……それは単なる思い違いでございましたか?」

 ざざ、と朝靄を流す風が吹いた。
 そろそろと頭を出した朝日に照らされる山中でなされたのは、「世のため人のため」という誓いを掲げた者達の覚悟を推し量る問い掛け。
 ただ盲目的に「正義」という称号を求め、悪と断じた者を容赦なく切り捨てるのではなく、そうした者にさえ赦しと救いの手を差し伸べることができるのか、という心の在り方を尋ねるもの。

「私めの出した浅薄幼稚の一言に尽きる案を採用するかしないかは、ここにおられる皆様の御心一つ。裏取引紛いのことはできぬとこちらの推薦した者を突き返すもよし、毒を食らわば皿まで、蛇の道はへびと笑って彼女を迎え入れるもよし……さて、如何なさいます?」
「――――――――本当に君はお養父さんの言っていた通り、『悪い子ではない』のですね……。そう聞かれてしまっては、私達に選べる返答なんて有って無いものではありませんか」

 突き返された場合は仕方ないので、魔法協会の方で扱き使うと致します。
 いけしゃあしゃあと告げ、緊張や混乱、困惑で奇妙な形に凝固してしまった空気の中、一人にんまり口元を綻ばせているジローに詠春が返したのは、聞き分けのない子供に向けるような苦笑で――――

「ああ、一つお伝えし忘れていたことがありました。長様達に先んじて天ヶ崎千草を捕らえ、術にて傀儡にしようとしていた強硬派とみられる連中、相応の手傷を負わせてあちらに転がしております。そちらのお手を煩わせぬよう、記憶操作の方はこちらで致しておきましたので悪しからず」

 ビシリッ、と空間に亀裂の入る音を聞いたのは、後にも先にもこの日が初めてだったと、後に詠春や千草、そして一緒にいた術者達は語る。

「………………すみませんが急いで確認を」
「は、はいッ!! ほら、案内が必要だから行くわよ天ヶ崎千草!!」
「ええ、ウチがですか!? 何で――――アカン、ここでごねたら返済額が増えてまう……どんくらい払わなあかんのか知らんけど! ちょ、待ってくださいぃぃ!!」

 先輩と呼ばれている巫女に率いられて駆けていく術者達を追い、疲れた体を引き摺って涙ながらに走っていく千草の背中を見送った詠春がため息をついた。

「雨降って地固まる、ですかねぇ。あんなに嬉しそうにみんなの後を追って」
「結局のところ、なるようにしかならなかったということですね……。そろそろネギ君達も目を覚ます頃です、君は一足先に本山に戻って木乃香達に上手く話しておいてくれますか?」

 生き生きと輝くジローの笑顔に、何か色々と台無しになったという虚無感を覚えながら小さく頭を下げ、

「たぶん……いや、ほぼ確実に刹那君は姿を消そうとするはずです。なので、できることなら引き止めてあげてください。今回のことで吹っ切れたところもあるでしょうが、あの子はハーフ故に烏族の掟を重く考えている節があるので」

 そう、親としての顔で頼んだ。
 茫洋とした眼差しでそれを眺め、何故自分がと嘆息して立ち上がったジローは、膝についた土や草切れを払って伸びをする。

「俺としては刹那が心の底から消えないといけない、と思っての行動なら構わないんですけど……。まあ、あの子に消えられるとこちらとしても困るので、少しばかり急ぎ足で戻るとします」

 自分がどうこうする前に、ネギ辺りがどうにかしていると思いますけど。
 苦笑して、本当に少しばかりの急ぎ足で山道を下り始めたジローを詠春は呼び止めた。
 あの子に消えられるとこちらとしても困る。その言葉に何か含むものがあるのか、それを確かめたくて。

「刹那君がいなくなってしまったら困ると言いましたよね?」
「ええ、言いましたけどそれが何か?」
「無粋なことを聞くことになりますが――――それはどういった意味で困るのでしょうか」

 詠春の質問にきょとんとした顔になり、眉根を寄せて暫し黙考の後、ジローは微塵も躊躇わずに答えた。

「生徒が一人、旅行先で行方不明になったら大事でしょうに。それでなくても、ネギやアスナやこのかが日本全国、捜し回るなんて騒ぎ出しかねません」

 そこで、じわりと目元に浮いた涙を拭って心境を吐露する。

「今回のことで、麻帆良に帰ったら書類と始末書が山をなして待っているんです……。刹那捜しに飛び回る力なんて残ってるはずがありません」

 言いたいことだけ言って、本当に行方不明になられては困るので、と断って急ぎ足から飛行魔法に切り替えて遠ざかったジローの背中を見送りながら、詠春は複雑な面持ちで顎を撫でた。

「一応、捜す気はあると。うぅむ、難しいですね、彼の刹那君に対する好感度がどの程度なのか、皆目見当がつきません」

 ただ、わかったことが一つだけあった。

「刹那君……麻帆良に戻ったら戻ったで、君には辛く厳しい一人相撲が待っていそうですよ」

 木乃香の友人として生きてもらいたいと願い、護衛の任に就けたことで逆に辛い日々を送らせてしまった少女の、半妖としての過酷な現実とは違う方向での不幸を予見し、詠春は眼鏡を外して目尻に指を当てる。

「――――さて、刹那君に負けないよう私も頑張って仕事をするとしましょう」

 眼鏡を掛け直し、千草や引き連れてきた術者達が向かった方向へ歩き出した詠春の顔は、先ほどまでの娘の恋路を案じる父親のものではなく、一組織を統べる責任者としての貫録に溢れる、厳しさと精悍さを湛えるものであった――――







 ――機を織っているところを見られた鶴は、泣く泣くお爺さんお婆さんの家から飛び去りました。

 昔話にある鶴の恩返しではないが、烏族の象徴である翼を人に見られた以上、少女はここを去らねばならない。
 本来ならばあってはならない、人と妖怪との間に生まれた子供。しかも、その背に生えた翼は一族に忌避される純白。
 おかしなことだが、そんな物を背負わされて生きてきた桜咲刹那という少女にとって、その掟だけが自分を烏族であると証明するものだったから。
 だが、そんなことを言っても目の前の赤毛の少年――ネギ・スプリングフィールドには到底、理解できないだろうし、理解しようともしないだろうと、エヴァンジェリンは廊下の手摺りに腰掛けた状態で、茶々丸の淹れた緑茶を啜りながら思った。

「ズズ……。ハァ、やはり目覚めの一杯は日本茶に限る」
「いきなり老け込まないでください、マスター…………それ以前に、あちらは止めなくていいのですか?」
「あ〜? 好きにやらせておけばいいんじゃないか?」

 ほぅ、と満足そうに息を吐いているエヴァンジェリンの側に控えた茶々丸の視線の先で、刹那とネギの二人が離せ離さぬの大騒ぎを繰り広げていた。

「だからっ、一族の掟であの姿を見られた以上、仕方ないんです!! あとのことはよろしくお願いします……だから離していただけませんかッ、ネギ先生!?」
「ダメですよ、刹那さん!? せっかく、このかさんとも仲直りできたのにいなくなるなんて! これからも自分でこのかさんのこと守ってくださいよー!!」
「それが無理だからお願いしてるのに、無茶言わないでください! あなた、それでも先生ですか!?」
「刹那さんには言われたくないですーーー!!」

 仕舞いには罵り合いになったネギ達の怒鳴り合いに鼻を鳴らし、エヴァンジェリンは無言で茶のお代わりを要求した。
 空になった湯呑が突き出されるや、急須から茶を注いだ従者へ鷹揚に頷いて再び茶を啜る。

「どうせ去ったら去ったで、お嬢様は元気にしておられるだろうかー、なんて考えてウジウジ後悔するに決まってるのに……見てて鬱陶しいな」

 力任せにネギを突き飛ばし、背を向けて逃げ出した刹那を冷めた目で見送りながら呟いたエヴァンジェリンだったが、駆けていく刹那の前方にある人物が現れて小さく片眉を上げた。

「なんだ、意外と早く戻ってきたんだなジローの奴――――お、桜咲刹那の奴、無様に転倒したぞ」
「桜咲さんに足を引っ掛けていましたね、今」

 エヴァンジェリンと茶々丸の主従が見つめる先で、後ろ髪を引かれながら走っていた刹那が地面を滑空し、飛び込み前転の要領で転がっていく。
 朝の陽ざしに照らされた美しい桜並木の中、制服姿に野太刀入りの剣道袋を背負った少女がローリングする様は実にシュールであった。
 強かに鼻っ面を打ちつけ、蹲ってプルプルと肩を震わせている少女を心配する素振りも見せず、何か一言二言だけ告げた後、実に億劫そうな様子のジローがエヴァンジェリン達の下へ歩いてきた。

「あー、エヴァに茶々丸、おはようさん」
「おはようございます、ジロー先生」
「フン、朝っぱらから今にもくたばりそうな腑抜け面を見せるな、鬱陶しい」

 緩い、というよりダルい目付きで挨拶した青年に、エヴァンジェリンと茶々丸の両者がそれぞれのらしさの現れる言葉を返す。
 気を利かせて未使用の湯呑に茶を淹れ、どうぞと勧めてきた茶々丸に礼を言い、音を立てずにゆっくりと、だがそのまま休むことなく飲み干したジローは、肩を落として盛大に息を吐いた。

「ふはあぁ〜……生き返るわぁ」
「爺臭いことを言うな、茶が不味くなる」

 先の自分の言動を棚に上げ、ジロリと青年を睨みつけたエヴァンジェリンに都合、三杯目になる茶のお代わりを注いでから、茶々丸は廊下の手摺りにもたれ掛かり、干物の態を成しているジローから視線を桜並木の方――ついさっき、刹那が転倒させられた場所へと向けた。
 側に駆け寄り、心配そうに話しかけているネギへ言葉を返している刹那の様子は、何故か魂が抜け出たように呆然としている。
 怪我がないと知り、再び引き留めるための説得を始めたネギに、張り子の寅のように頭を上下に動かしている少女に疑問を覚え、急須を傾けて茶のお代わりを注ぎながらジローに聞いた。

「桜咲さんの様子がおかしいのですが、ジロー先生は一体何を仰られたのですか?」
「あー?」
「何で疑問形で呻いてるんだ。ほんの数十秒前に言ったことも覚えてないのか、貴様は」

 茶々丸が注ぎやすいよう、湯呑を突き出しながら首を傾げている青年にエヴァンジェリンが突っ込む。
 修学旅行が始まってからの疲労もピークに達しているのか、喋ることさえ気だるそうに虚空を睨み、ジローは先刻、刹那へ投げつけた言葉を思い返す。

「ハァ……なんだったかなぁ、確か……お前がいなくなったら、きっと悲しむ。だからずっと側にいろ、だったか」
「――――」
「ブフッ!?」

 だらりと手摺りにもたれ掛かるジローが寝言のような声を絞り出した瞬間、茶々丸の持つ急須の角度が直角に近づき、注ぎ口から湯呑に収まる量以上の茶が溢れ出て、同時にエヴァンジェリンの口から薄緑色の霧が噴出した。

「熱い、汚い……何やってんだ、二人して」
「ああ、申し訳ありません」
「う、うるさッ……ごほっ、げへっ! いきなり人を驚かす貴様が悪いんだろうが!」

 急須を盆に置き、茶で濡れた廊下を一心に拭き始めた茶々丸に「あれ、まずそっちを拭くのか……」と呟き、だが特に不満も持たず、なみなみ注がれた湯呑の茶を口に運ぶジローを、口元を手の甲で拭ったエヴァンジェリンが怒鳴りつけた。

「さっきの発言の中に驚くようなことあったか?」
「ガアァァァッ!! 何だ、そのこれっぽっちも驚くに値しないだろ、みたいな態度は!! 余裕か? ハリウッド張りの騒動を乗り越えた自分に怖いものはない的な余裕なのか!?」

 疑問を眉の形で表しているジローの態度が気に食わず、こめかみに血管を浮かべた金髪碧眼の少女が頭を抱えて喚く。
 そんなエヴァンジェリンの狂騒に困ったのはジローだ。
 一体全体、彼女が何に対して驚き、喚き散らしているのか。まったくもってこれっぽっちも理解できないのだから。
 今も一心に廊下を拭き続けている茶々丸にしてもそう。何故、機械仕掛けの少女は「マスター、これが真に驚くという感情なのですね」、などと呟きながら手を動かしているのか。
 奇行を続ける真祖の吸血鬼とその従者を放置し、一人静かに茶を啜って気鬱なため息をつく。
 姿を消したら消したで、鬱々と思い悩むのは目に見えているのだ。それなら、自分が満足するまで親友の――木乃香の側でいてくれた方が、こちらに降りかかる迷惑も少なくて済む。
 ジローが呪術協会に戻ってくる少し前、エヴァンジェリンが茶々丸へ言ったのと似たことを考えて呟いた。

「このかに面と向かって、さよなら言って消えるのなら別に構わんけど。ま、無理だろうさね」

 十分な睡眠を取ることができたのだろう、いつも通りの騒がしさで呪術協会の一室から飛び出し、刹那に体当たりを掛けている木乃香の姿を肩越しに認め、眠気に負けそうになりながら淡く微笑む。
 木乃香と一緒に現れるや、何故かネギに飛び蹴りを喰らわしているアスナの姿も見た気がしたが、それさえも今のジローには微笑ましい光景の一部であった。

「悲しませたくないは悲しみたくない。羨ましいね、そこまで大切な友達がいるってぇのは」

 羨ましいと言いながら、特に嫉妬や思いつめた様子もなく湯呑を空にしているジローの姿に、ようやく自分が『勘違い』――ずっと側にいろ、という発言が告白だと思ったことだ――していることに気付いたエヴァンジェリンが口元をひくつかせ、

「主語を……主語を付けて話さんか! 紛らわしいんだよ、この大ボケがぁ!!」
「がふぁっ!?」

 『登校地獄』や学園結界から解き放たれた状態での、尋常ならざる魔力が付与された渾身のフックで以てジローを殴り倒したのは、ある意味で当然の結果であろう。

「まったく、どんな天変地異の前触れかと思ったじゃないか。道端に置かれてる地蔵の方がまだ可能性があると信じてるんだからな、私は」

 ちなみに、その可能性とは恋煩いにかかったりするか否かについてだ。
 数十メートル先で体を丸め、所々から細長い煙を上げているジローが聞けば、意味不明で理不尽この上ないと抗議するだろうことをぼやき、温くなっていた湯呑の茶を一気に流し込む。

「お、お地蔵さんの方がってのは……悟りを得られる可能性、のこと……か?」
「……貴様の年頃なら、煩悩の中でもとりわけ強くなって然るべきもののことだよ」
「――――――――食欲?」

 一応、手加減はしたが、それでも生半可の威力ではなかったはずだぞ。
 青息吐息ではあるが驚くべきタフネスぶりを発揮して、明後日の方を向いた解答を絞り出すジローに感心半分、呆れ半分でエヴァンジェリンは従者に据わった眼差しを送る。

「茶々丸、なにか適当に菓子でも与えておけば餌付けできそうだぞ、こいつ」
「……マスターがご希望でしたら、すぐにお茶請を用意いたしますが」

 主人の言葉を聞いてジローを一瞥した後、小さく首を傾げた茶々丸の無表情をじっと眺め、何故か愉快そうに口の端を歪めたエヴァンジェリンが告げたのは、実に大雑把で投げ遣りな指示であった。

「そうだな、お前の好きなようにしろ」
「はい、では…………ハイ?」

 餌付けするためのお茶請を持ってくるよう言われると考えていた茶々丸からすれば、その主人の言葉は意外すぎるもので。
 立ち上がろうとした中腰の姿勢のまま、エヴァンジェリンとジローの間を一定のリズムで視線を送るメトロノームと化してしまう。
 その従者の悩んでいる姿――しかも、何故、自分が悩んでいるのかすら理解していない困りきった様子が余計に愉快で、エヴァンジェリンは手ずから茶のお代わりを淹れながら笑った。

「なあ、ジロー」
「なん、だ……? 今、回復するのに必死なんだけど……」

 従者の淹れた茶は美味しく、地面に転がって修復再生に勤しむ使い魔の青年は実に滑稽で、それらも含めてそれなりに楽しい気分である。
 理由としてはそれだけで、数百年の長き時を生きる彼女からすれば十分なもの。
 突っ込みとは名ばかりの強烈な一撃で眠気は飛んだが、依然として気だるそうなのは変わらぬ顔を向けたジローに、エヴァンジェリンは足を組んで顎を突き出した尊大な態度で、芝居がかった問いかけを行った。

「ジロー……お前、力は欲しいか?」
「――――は?」
「なに、今の私は機嫌がよくてな。今回の一件で痛いほど無力さを味わっただろう哀れな使い魔に、強くなる機会を与えてやろうと思ったわけだ」

 明るく、そして賑やかな騒ぎを生み出しているネギ達の声さえ遠のく存在感。
 闇の福音の二つ名に恥じぬ、朝の日差しに包まれた庭園に暗い影を落とす威圧的な空気を纏い、エヴァンジェリンがもう一度、問いかける。

「答えろ、緩い人の皮を被った狡猾な獣。貴様が望むのなら、私は貴様に力を与えてやる……。小奇麗なメッキの下にある本心さえ実現できる力をな」
「――――」

 自分を見上げ、僅かに目を細めたジローが何も答えなかったのは、エヴァンジェリンにとって予測するに容易い『返答』であった。

「フッ、目は口ほどに物を言うか? いいだろう、実にわかりやすい答えだ」

 嘲笑うように口元を歪めた彼女が了承の意を表したのは、詠春が協会に来たメンバーの身代わりとして飛ばした紙型が暴走していると、本山勤務の巫女がジローに伝えに走ってくるほんの少し前のことであった――――

〈続く〉

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