「第十一幕・いいトコ取りの闇の福音?」


 黒い天蓋の中、絵筆で力強く塗りつけたような三日月が煌々と輝いている。
 淡い蒼混じりの月光に照らされた湖が、自分の登壇を心待ちにしていた舞台のように感じられ、エヴァンジェリンの顔に、えもいわれぬ満ち足りた笑みを描かせた。

『グオオオ‥‥』
「フッ、力を奪われて不自由している身として、貴様には同情してやりたいところなんだがな」

 自身にとって脅威となるだろう巨大な魔力に気付いたのか、上空で浮遊するエヴァンジェリンを見上げた両面宿儺が、低い威嚇の唸りを上げる。
 憐れむように眼下の鬼神に語りかけ、だが、欠片も容赦はしないと宣言するように外套を払いのけた片手を、高々と夜空に掲げ上げた。
 途端、伸ばした手の先に集められた魔力が輝きを帯び、鋼を打ち合わせるのに似た甲高い音を奏で始めた。

「悪いなぁ、飛騨の大鬼神とやら。久しぶりに本気で力を振るうせいか、手心を加えてやることができそうにないんだ」

 まったく悪びれた様子もなく、むしろ嬉々として両面宿儺に自己完結の言い訳を述べたエヴァンジェリンが、深く息を吸って呪文の詠唱に入った。

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック! 契約に従い・我に従え・氷の女王(ト・シユンボライオン・デイアー・コネートー・モイ・ヘー・クリユスタリネー・バシレイア)‥‥!!」

 一点に凝縮された魔力が詠唱によって肥大化し、さらに輝きを増す。
 謳うように紡がれるのは、氷系魔法の中で最高位に属するギリシャ語系呪文。
 エヴァンジェリンの喚びかけに応え、次から次に氷の精霊が集まりだす。
 不可視の精霊達が行うのは、真祖の吸血鬼の魔力という美酒を呷って踊り歌う饗宴。
 一体一体が強き力を持つ氷の精霊。それらが開く宴によって生まれる世界への影響は、四月の気候に似つかわしくない寒さという形で現れた。
 冬に感じるような肌を刺す澄んだ空気は、氷の精霊達の歌声か。湖周辺の気温が急速に下がり始め、冬に逆戻りしたと告げるかのような寒風が吹く。

「あ、あれ、何か急に寒くなってきてない?」

 肌寒さを感じて、困惑顔で腕を擦りながらアスナが首を傾げた。
 彼女の疑問が勘違いではないと証明するように、湖面の上を水温との温度差で生じた薄霧が漂っている。

「――来れ・とこしえのやみ・えいえんのひょうが(エピゲネーテートー・タイオーニオン・エレボス・ハイオーニエ・クリユスタレ)!!」

 朗々と詠唱の声を響き渡らせたエヴァンジェリンが、湖の中央で自分を見上げている両面宿儺に向けて、高く掲げていた手を振り下ろした。
 瞬間、

『ゴガアァァァッ!!』

 辺りに、両面宿儺の怒りと驚愕が入り交じる叫びが轟いた。
 一体、何が起こったのか。そう問い質すかのような咆哮。
 両面宿儺が立っていた場所を基点に、湖面を白い氷が覆いつくしていた。
 『えいえんのひょうが』によって生み出された氷塊が、互いを押し潰しあうギシギシという音が響く。

『グゴ‥‥ガアオオォォッ!!』

 突如、湖に発生した氷原から隆起した、巨大な氷柱の群れに体を貫かれて苦しげに身悶えし、夜空に向かって叫ぶ両面宿儺を見下ろすエヴァンジェリンは、愉快極まりないと喜悦の笑みを浮かべていた。

「クククッ……ハーッハッハッハ!! ほぼ絶対零度、百五十フィート四方の広範囲完全凍結殲滅呪文だ。デカイだけが取り柄の貴様では、まともに防ぐこともできまいっ!!」

 膨大な魔力で喚び集められた氷の精霊達を侍らせ、詠唱の中にあった氷の女王を髣髴とさせる威風を纏う彼女に、地上で一筋の汗を垂らしたアスナが呟いた。

「ノリノリねー、エヴァちゃん」
「ス、スゴイ、一撃であの鬼神を……」
『さすが真祖の吸血鬼だぜ……。こないだとは比べ物になんねえな、オイ』

 体の到るところを氷柱に刺し貫かれ、今も氷原の侵食が続く湖に縫い付けられた両面宿儺の有様に瞠目し、信じ難いとネギが呻く。
 この場にいた誰もが、エヴァンジェリンの勝利を――両面宿儺がなす術もなく、無惨に敗れ去ることを確信していた。
 己の数倍、数十倍の大きさを持つ獲物に集り、最後には覆い尽くしてしまう軍隊蟻のように体を侵食する氷によって、間もなく動きを止めてしまうだろうと。
 他ならぬエヴァンジェリンが響かせる、己の勝利を信じて疑わない高笑いによって。

「…………ハハッ、なんてーか、ふざけんなって言いたくなるな」

 ネギやアスナ達が、両面宿儺を一蹴せんとしているエヴァンジェリンに憧憬さえ抱いた瞳を向けているのに対し、ジローが洩らしたのはどこか白けた呟きだった。
 鉛の塊でも背負わされたように重く感じる体で立ち上がり、深く息を吐き出す。
 半ばまで瞼の下がった眠たげな顔のまま、季節外れの氷像と化していく両面宿儺を見つめて思う。
 記紀神話に名を残す飛騨の大鬼神が――飛騨地方において人々を苦しめた悪鬼神龍を退治し、今も神人として慕われている存在がこうも容易く敗れてしまうのかと。

『ゴオォ‥‥グオオォォォォッ!!』
「本当にこれで終わりなのかねぇ」

 氷漬けにされ、苦悶の叫びを上げる両面宿儺の反撃がないことに彼が不審を抱いたのは、もしかすると、その言葉の直後に起きることを本能で感じていたからか。

『グル‥‥ル、ル――――ゴガアァッ!!』
「なっ!?」

 ジローの疑問に答えるように、突如、膨大な量の魔力を放出しだした両面宿儺に、エヴァンジェリンが高笑いを止めて表情を凍らせる。
 まだ凍結から免れていた首を限界まで反らし、大きく開いた口の奥が激しく発光しだした。

 ――あれを喰らったらマズイ。

 恐らく、両面宿儺なりの悪あがきなのだろう。
 折角、溜め込んだ木乃香の魔力の大半を口内に集束させているのを見て、エヴァンジェリンは胸中で呻きを洩らした。
 みるみる肥大化する魔力の塊は、溶鉱炉を連想させる熱と光を彼女や、湖上の通路に立つジロー達に届ける。
 両面宿儺の体を這い上がる氷の進行が止まっていた。あまりの高温に、ほぼ絶対零度を誇る完全凍結殲滅呪文といえども、侵食を中断せざるを得なかったらしい。

(クソッ、長いこと格下の雑魚ばかり相手してたからか! 見誤った、まさかあのデカブツがここまで力を持っていたとは!!)

 久方ぶりの制約なしに力を振るえる感覚に酔いしれて、敵に反撃の機会を許すことなく、完膚なきまでに叩き潰すことに手を抜いてしまった。
 十数年という長い時を、殺し殺されが当たり前の殺伐とした世界から離れて過ごしたツケ。それを、最悪の形で請求されようとしている。

 ――私ともあろう者がなんて不様! マズイ、急いで障壁を……!!

 エヴァンジェリンが焦燥に駆られるのも仕方がないと言えた。それほどまでに両面宿儺が放とうとしている魔力の塊は、尋常ならざる威力を秘めていたのだから。
 真祖の吸血鬼としての能力を有している彼女が命を落とすことはない。だが、高密度かつ高温の魔力を浴びて受けるダメージを瞬時に癒せるほど、再生能力は万能ではなかった。
 先ほどまでの余裕の表情を険しいものに変え、完全凍結殲滅呪文の詠唱を中断して障壁を展開しようとした、その瞬間。

『グゴアアァッ!!』
「――――くぅっ!?」

 両面宿儺が吐き出した灼熱の魔力波が、鋭く夜闇を裂いてエヴァンジェリンに迫った。
 一瞬で目前まで届いた魔力の奔流に手を翳し、真っ向から捻じ伏せようとした彼女の姿が、閃光と、それに続いて生じた爆炎に塗り潰された。

「エ、エヴァンジェリンさん!!」
「ちょ、エヴァちゃん!?」

 上擦ったネギとアスナの叫びを掻き消す轟音に、湖の周りにある山々が地鳴りを起こす。地盤そのものを揺さぶられて波打つ湖面が、一先ずの落ち着きを取り戻すまで数十秒の時を要した。
 周りに並ぶ黒い山々が安堵したような風が、夜空に居座っていた爆発の名残である煙を押し流す。
 不安に囚われた顔で目を凝らすネギやアスナ、カモの視線を塞いでいたものが消え、灼光に呑み込まれたエヴァンジェリンの姿を露にさせた。

「――――あっ!!」
「よ、よかった無事ね、エヴァちゃん!!」

 怪我どころか服に目立った焦げ目の一つも作らず、障壁に守られて浮遊している少女に、ネギ達が全身から喜色を溢れさせる。
 湖の上から送られる喜びの声を聞きながら、しかし、今度は毛ほども油断することなく両面宿儺を見据えたエヴァンジェリンが、顔を綻ばせて深い笑みを浮かばせた。

「――――さすがにさっきのは驚いたぞ」

 流石、飛騨の大鬼神と呼ばれるだけのことはある。
 笑みに賞賛の言葉を乗せて送るのと同時に、彼女が張っていた魔法障壁に亀裂が走り、ガラスが割れるような音を残して消失した。
 キュウ、とエヴァンジェリンの目が弓なりに細められ、口元が裂けたように吊り上がる。

「フン、やればできるじゃないか」

 どことなく褒めている風な声で、だが惨忍ささえ感じる瞳で流し見るのは、通路の上でうつ伏せになり、半分ほど霊体を抜け出させていそうなジローの姿だ。

「…………鬱だ、死にたい」
「大丈夫ですか? その倦怠感と疲労は魔力の使い過ぎと、術を破られた反動による一時的な心神喪失です。十分な休息を取れば……ジロー先生、ジロー先生?」
「トドメを、いっそトドメを……」

 傍らで膝をついた茶々丸に介抱されながら、うわ言のように楽にしてほしいと繰り返している様子に、エヴァンジェリンは小さく鼻を鳴らす。
 思い出すのは、先ほどの両面宿儺の吐き出した灼光が直撃しかけた時のこと。
 最大出力の障壁を展開するよりも寸毫だけ早く、彼女の体を飲み込んだはずの魔力波を押し止めた数枚の障壁。
 一秒すら耐えることもできず、破片も残さず消し飛ばされていく拙い壁ではあったが、エヴァンジェリンが障壁を張るまでの時間を稼いだ者がいた。
 それが今ああして、魔力を喪失して燃え尽きている青年であることを、自分と、自分の従者である茶々丸ぐらいは記憶しておいてもいいだろうと、珍しく優しいことを考える。

「この借りは、奴を『別荘』に招いてやることで返すとしよう」

 借りを返すと言っているのに、何故か迷惑極まりなく聞こえる呟きを漏らした後で、エヴァンジェリンは一時中断していた鬼神退治を再開した。
 全身から溢れ出す魔力が止まっていた氷の侵食を促し、見る間に、無事だった両面宿儺の首から上を凍らせる。

『グル、ガ‥‥ガ――――』
「フフ、侮って悪かったな。寝起きの相手に私は荷が重いと言ったが……それはどーやら、こちらも同じらしかったぞ?」

 手加減なしに力を振るう感覚を今頃になって取り戻し、瑞々しい己の唇に舌を這わせたエヴァンジェリンの纏う気配が、急すぎるほどに密度を増した。
 空気そのものを鉛に変えてしまうような威圧感は、遥か下で彼女を見守っているネギ達にも息苦しさを与える。
 巨大な氷像と化し、ピクリとも動かなくなった両面宿儺を見下ろすエヴァンジェリンの瞳は無慈悲な色に染まっていた。

全ての命ある者に等しき死を(パーサイス・ゾーサイス・トン・イソン・タナトン)其は安らぎ也(ホス・アタラクシア)

 『えいえんのひょうが』を放った時と打って変わり、聖書の朗読でもするような静かな詠唱は、彼女なりの両面宿儺への敬意の表れだったのか。

「――――おわるせかい(コズミケー・カタストロフエー)

 目を閉じて短く一言、広範囲完全凍結殲滅呪文を詠唱し終えたエヴァンジェリンが、ゆっくりと手を持ち上げて指を打ち鳴らす。
 パチン、と軽い音が一つ。尋常ではない巨躯を誇った両面宿儺との戦いを終わらすには、あまりに味気ない音だった。

『うおおぉぉっ!?』
「…………!!」

 ネギ達が見守る中、氷像と化していた両面宿儺の全身に亀裂が一本入り、続けて一本、さらにもう一本と、縦横無尽に数を増やしていく。
 そして、ついに崩壊の時が訪れた。
 まず両面宿儺の腕であったものが湖に落下し、巨大な水飛沫を巻き上げる。
 そこから百メートルは離れていたはずのネギ達に雨を降らせながら、飽くことなく鬼神から毀れた氷塊が湖面を叩く様は、ある意味で壮観であった。

「久々に全力でやらせてもらった……楽しかったぞ、両面宿儺とやら」

 手向の言葉を送り、黒の外套を翻したエヴァンジェリンの背後で、最後まで残っていた両面宿儺の胴体が折れて、湖に落ちる激しい音が響く。
 高く舞い上がった水柱が弾け、一斉に元いた場所へ還りだす。
 スコールを思わせる水滴の群れが湖面を叩く音は、まるで劇を終えた役者達に送られる、観客の惜しみない拍手の音を思わせた――――

〈続く〉

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