「第十幕・主役は一体、誰なのか?」


 飛騨の大鬼神を封じた大岩が鎮座していた湖。そこで、異変が起きていた。

『グゴ、ゴォォォ……』

 先刻、十八年もの長き眠りから目覚め、木乃香の魔力を存分に補給してかつての力を取り戻したはずの両面宿儺が、四本の腕を振り回してもがき苦しんでいた。

「クソッ! 何でや、何で一番ええとこで邪魔しよるんや、アンタらは!!」

 溺れているかのように激しく身悶えする両面宿儺の肩の上で、険しく顔を歪めた千草が怨嗟の叫びを上げていた。
 ぶつける相手は、千草や両面宿儺の遥か上空。薄っすらと輝く月の下、純白の翼を羽ばたかせて飛翔する刹那である。

「ふざけるなや……! 烏族と人の間に生まれた奴が……人から嫌われて、蔑まれんのが当たり前みたいな奴が、何でウチの邪魔しよるんや!?」

 それは、刹那に向けた憤りの声であると同時に、己の行為――西洋魔術師の巣窟である麻帆良を叩き潰し、自称・正義の味方である魔法使い達に迎合し、媚びへつらう呪術協会の人間達の目も覚まさせること――の正当性についての肯定を求める声であった。

「ウチが……ウチが両面宿儺を使って、今までのクソふざけた協会の在り方とか変えようしとるのに!!」

 刹那と同じく、人外とのハーフである小太郎と一緒に仕事をしたことで知った、人外の化け物との間に生まれた者が受ける仕打ち。
 ただ、体を流れる血液が純粋でないというだけで、混ざり物・出来損ない・醜い存在とレッテルを貼られ、事あるごとにそのことで後ろ指を指され、謂れなき非難中傷を受ける。そうした理不尽な扱いをされる場所を、世界を壊したいと思ったことがあるはずだ。
 全てを叩き潰して、理想の世界に作り直したいと考えたことがあるはずなのに――

「アンタが連れてったお嬢様がおったら……お嬢様が無駄に眠らせとるアホみたいに強大な力があったら、それを実現させるんも可能なんやぞ!?」

 唾を飛ばして喚く千草には到底、理解することができなかった。
 たった一人、木乃香という少女を対価にするだけで、自分に住みよい、今まで辛い想いをしてきた者達こそ幸せになれる場所を作れるというのに、『大切な友達だから』などという甘ったるい理由で阻止しようとする刹那の在り方が。

「やろうとしとること、片っ端から潰しよって。アンタら、どうやって責任とってくれるんや……」

 力なく降り立った両面宿儺の肩の上で膝を突き、千草は今にも泣き出しそうなか細い呟きを漏らした。
 麻帆良という、西洋魔術師の管理下に置かれた地でのうのうと暮らしていた木乃香が、修学旅行で一時的にだが京都に帰ってくる。そのことを情報屋を通じて知り、必死になって今回の計画の準備のために奔走した。
 両面宿儺の復活に必要な儀式の手順を調べ上げ、小太郎や月詠、そして役に立てると言って、唐突に協力したいと持ち掛けてきたフェイトという胡散臭い者まで、腕が立つという理由で仲間に加えて決行した計画。
 そんな執念に衝き動かされて進めてきたものが、あっさりと打ち砕かれた。

「ウチ、ホンマは何したかったんやろな……」

 ここに来て初めて、千草の中で自問の声が生まれた。
 計画の要であった木乃香は奪われ、封印から解き放たれた両面宿儺は彼女の制御を離れて、今にも好き勝手に暴れ出しそうである。
 事実、ついさっきまで身悶えして唸り声を上げていた両面宿儺は、煩わしい拘束から解放されて清々したと言うように、月夜に向かう咆哮を轟かせていた。

「アホなことしてもたなぁ。こんな言うこと聞かんような化けモンを暴れさせたらどうなるとか、わからんはずなかったのに」

 荒々しい魔力を纏う巨躯を揺らし、悠然と歩き出した両面宿儺の肩の上で、千草は小さく俯く。
 自分は一体どこで、やりたいことを取り違えてしまったのだろうか。鬼神の体に爪を立てて、千草は肩を震わせた。
 今頃になって、ようやく思い出したのだ。自分が本当にやろうとしていたことを、本当にやりたかったことを。

「そうや、ウチがやりたかったんは……ホンマにやりたかったんは」

 ゆっくりと持ち上げた視線の先に、飛騨の大鬼神の手の平が近づく様が映った。

「フ、フフ、後悔先に立たずっちゅう奴や」

 視界が滲んだ。
 常時、垂れ流しにされている桁外れの魔力のせいだろう。瞳から溢れた滴が、両面宿儺の体に落ちた瞬間、小さく音を立てて蒸発するのを聞いて口元を歪める。

『グルルルル‥‥』
「――――でっかい図体のわりに器用やなぁ」

 一時的にとはいえ、己を制御していた小賢しい存在に腹を立てているのか。
 肩の上にいた自分を掴み上げ、眼前まで運んだ両面宿儺に場違いな感想を述べた千草は、全身を締め付ける重圧に息苦しさを覚えながら笑う。
 ポロポロと瞳から零れては蒸発していくのは、随分と久しぶりに流した涙だ。

「まあ、ウチみたいなアホにはお似合いの死に方かもしれへんわ」

 もう、本当に成し遂げたかったことを言葉に表すことさえ許されない。なぜなら自分は、自分で決して汚してはいけない夢を忘れて、薄汚い私怨に走ったのだから。
 そのような考えから、大戦で両親が死んだと聞かされた時以来、流さなくなった涙とともに叫んでしまいそうな真の願いを、心の底から望んでいた夢を頭の片隅に追いやる。
 月明かりの下、何を捨てても守りたいと願った少女を抱いて遠ざかる刹那の背中を眺めて、混じりっ気のない感想を口にする。

「羨ましいなぁ、そんな風に必死になれる人がおるとか」

 本来なら、忌まわしきものとして忌避される烏族の白い翼は、この世のどんな白よりも美しいと感じられた。

「ウチにも、あないな感じに必死こける相手がおったら、こんな目に遭わんで済んだんかもな……」

 どこか焦がれたような、誰に聞いてもらえるでもない後悔の言葉。
 それを最後に千草は、両面宿儺の無造作に振られた手によって、湖の遥か向こうにそびえる山々に向けて投擲された――――







 千草を放り投げた後、ただ佇んでいるだけで、人々を畏怖させるに足る神々しさを纏う大鬼神が、湖の中央でぷっつり糸が切れてしまった人形のように動かなくなったのを、ジローはフェイトの腕を掴んだ状態で盗み見ていた。

「そろそろ手を放してくれるかな?」
「おっと」

 そんなジローに気付いたかどうかはともかく、握り潰さんばかりの力で手を掴まれているのを嫌ったのだろう。側で見ていたネギ達からすると、至極あっさりと拘束を外したフェイトは、ジローから距離を取るように後ろへ跳んだ。
 丁度、ネギ達を背にする形で立たされたジローは、酷く重たげに瞼を下げた顔で聞く。

「あー、今回の騒動の首謀者っぽいのは、ついさっき舞台から退場させられたみたいなんだが……まだやるのか?」

 チラリと、後方で満身創痍の体で支えられているネギの様子を窺い、できることならその道のプロらしく、ここで退散してほしいと言外に匂わせる相手に、フェイトが返すのは、素っ気無くて短い問い掛け。

「そうだね、僕としてはそれでもいいんだけど。ただ、君達に引く気はないんだろ?」
「当ったり前じゃない!!」
「いや、そこでお前が答えるなよ。俺としては引く気も、向かっていく気もないんだから」

 問われたわけでもないのに、真っ先に声を張り上げて叫んだアスナに苦言をぶつけた後、ジローは酷くぼかした言い方で「これ以上、戦う気はない」と答える。

「……本当にあなたは、人を小馬鹿にした言動を好むようだね」

 そんな、自分の敵わない相手を前にどこか飄々と、のらりくらりと言い逃れするような返しに、ほんの僅かだが声のトーンを落としたフェイトが、真っ直ぐにジローを見据えて言った。
 呪術協会で相対した時はジローのことを、それこそ路傍の石と同じ扱いにしていたフェイトだが、ここに来て初めて、彼は目の前の青年を『排除しておきたい存在』として認識していた。
 特別、大きな理由があったわけではない。
 ネギのように、血縁に自分と『縁』のある人間がいるわけでもなく、またアスナのように、明確に自分とぶつかり合おうという気もなさそうな相手。
 両面宿儺の復活が果され、千草の思惑とは別の場所にある目的も達成された以上、取るに足りぬ存在として無視して立ち去っても、何ら問題はない。
 だというのに、目の前の青年が目障りに感じるのは何故か。自然体で両手を下ろしたまま、いつでも動き出せるよう準備し終えたフェイトは考えた。

(……中途半端ではあるけど、『創られた存在』としての格の違いを理解できない無能さのせいか)

 あるいはと、続けて思考する。
 本来なら、興味関心を抱くに値しない存在を相手にしようと思ったのは、目の前の青年の態度や眼差しに、こちらに対する畏れ――強者に対して抱くはずの感情が、まったく含まれていないからだろうか、と。
 ネギやアスナ、そして刹那でさえ、自分を強敵と認識し、己の力が及ばないと理解した時には、少なからず怯えや焦燥を感じさせた。
 だというのに、ジローにはそれがない。呪術協会で、二度も立て続けに実力の差を文字通り、叩き込んだというのに。
 これまで、『活動』に必要な知識として収集したデータに該当しない人間。そんな存在が引き起こしている思考のノイズが、歯車に挟まった砂粒程度には腹立たしいのではないか。
 至極冷静に自身を見つめてみてフェイトは、ならば歯車に挟まった砂粒を『除去』してしまえば、腹立ちも解消されるだろうと結論付けた。

「ただの気まぐれなんだろうけど……僕が帰る前に、君にも舞台から退場させておこうかな」

 気まぐれという言葉通り、ジローを舞台から退場させることへの躊躇いを感じさせぬ声で宣言し、フェイトが動いた。
 先にアスナの背後に回りこんだ動きの、倍にも匹敵しようかという迅さ。
 瞬動の上の技術に分類される縮地。そこから繰り出される苛烈な拳の一撃は、防ぐ躱すの前に、まず認識することさえ困難を極めるだろう。

(魔力の残量は残り僅か。それに比例して、障壁もあってないようなもの……終わりだね)

 水に濡れた和紙のように脆く感じられるジローの障壁に、胸中で鼻を鳴らしたフェイトは確信した。ただ一発、腰まで引いた拳を突き出すだけで『除去』は終わると。
 縮地の迅さに反応もできず、立ち尽くしている青年の胸を狙うフェイトの拳が飛んだ。
 電光の鋭さを伴った拳打は、薄い膜程度にまで劣化した障壁をあっさりと貫き、ジローの胸に深々と突き刺さった。

「!?」

 あくまで、フェイトの目にはそう映っていた。
 だが、

「どうしたい、間合いでも読み間違えたのか?」

 一体、何が起きたのか。どのような手を使って、電光の一撃を躱したのか。
 確かに突き刺したはずの自分の拳が、体の前に置かれるジローの左手に軽く触れる場所で伸び切っていることに、フェイトは初めて、驚きから目を見開くという行為を行った。
 やんわりと指を曲げ、優しく包み込むようにフェイトの拳を掴んでジローが笑う。
 今まで見せてきたような、緩く穏やかなものではなく、また、百鬼夜行の妖怪達と対峙していた時の、狂気に駆られた笑みでもなく。
 何のために浮かべているのか理解できない、否、決して理解させないための、澄んでも澱んでもいない中庸な笑み。

「奥の手って、こういうもんだと思うんだけどねぇ」
「――!」
「返すぞ、腹に穴開けられた分だ」

 次の瞬間、フェイトは己の頬に拳が迫っていることに気付いた。
 先ほど、ネギが繰り出してきた魔力パンチの数倍、数十倍に届きそうな威力の拳打。
 常時展開しているはずの障壁が、力任せに突き砕かれる音が周囲に響く。
 硬質の破砕音が生まれるごとに、赤黒く、そしてグロテスクにジローの拳が変化していく様が、障壁突破の魔法など使われていないことを明確に語っていた。
 ゴシャッ、と祭壇に続く通路に響いた音は、殴られたフェイトの顔と殴ったジローの右の拳の、はたしてどちらが立てたものだったのか。
 力一杯に振り抜かれ、頭から通路にぶつかった後、勢いよく跳ね飛んだフェイトの体が湖面にぶつかり、大きな水飛沫を生んだ。

「…………」

 木の床を黒く染めていく水飛沫に混じって、赤い液体が滴り落ちる。
 どこから滴っているものか承知しながら、しかし、精神衛生面の関係から、二目と見れない凄惨な状態の己の拳を頑として見ず、ジローは呟いた。

「あぁ、もうやだ、疲れた」

 ベルトを外し、無造作に右の腕に巻きつけて止血してから座り込む。

「血は足りねぇわ、肉と骨の修復も追いつかねぇわ……ホンット、阿呆らしくて嫌んなる」

 憔悴しきった顔で月を見上げ、不機嫌そうに口を曲げて独り言を吐き捨てるジローに近付いたアスナ達が、揃って悲鳴を上げていた。

「ちょっ! ギャアァァァァッ!? ア、アアアンタ、手! 手ぇっ!?」
「ジ、ジローさんッ、指の柔軟性が凄いんだねえ!?」
『落ち着け兄貴、その解釈は無理があるぜ!! ってか、無茶しすぎだろ相棒!? 何か色々、見えちゃいけねえとこまで剥けてるぞ!?』

 耳障りな叫びに顔を顰め、静かにしろとジローが言いかけた、その時。

「――まさか、この僕が一杯喰わされるなんてね。正直、賞賛に値する奥の手だったよ」
「!?」
「そ、そんな!?」

 三人と一匹の耳に届いたのは、平坦な割にどこか感心したと言いたげな声だった。
 弾かれたように振り返ったジローやネギ達の視線の先に待っていたのは、湖に沈んだはずのフェイトが、涼しげな顔で水面に立つ姿。

「っ!!」
「さすがにもう、さっきの奥の手を使うどころじゃないみたいだね……といっても、あんな手は一度しか通用しないけど」

 一瞬でジローの体側に移動し、フェイトが囁く。

「結局こうするなら、呪術協会でちゃんと君にトドメを刺しておくべきだったよ」

 この少年から想像できる中で、おそらくは最上位に分類されるだろう評価の台詞とともに放たれた拳は、容易くジローの体を貫くとおもわれた。
 だが、今度もフェイトの攻撃がジローを傷つけることはなかった。
 丁度、フェイトの足の横に伸びていたジローの影から飛び出した、一本の白く、か細い少女の腕が掴み止めたせいで。

『ククッ、やり返された仕返しとは随分と小物っぽいことだな』

 影の中から、腕の持ち主らしき人物の声が届いた。
 あどけなささえ感じる少女の高い声に含まれているのは、分不相応なまでの凄味だ。

「これは……影を使った転移魔法?」

 ズルリ、と蛹から抜け出す蝶か何かのように、影の中から金髪碧眼の少女が這い出てくる。

「その使い魔は別にいいとして……随分とぼーやが世話になったようだな、若造」

 下着とネグリジェを縫い合わせたような、官能さに突き出た――あくまで、着用者が女性としての魅力溢れる体つきをしていれば、だが――黒い服を纏い、不敵な笑みに相応しい不遜な台詞とともに現れた少女。
 あまりに強大な力から、夜の寵愛を受ける禁忌の化け物として『闇の福音』の二つ名を与えられ、また悪の魔法使いとして、他の魔法使い達に恐怖の代名詞として名を轟かせた真祖の吸血鬼、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが、月と両面宿儺の発する光に照らされた舞台に登壇した。
 その様子は威風堂々として揺るぎなく、真打の登場としてこれ以上、相応しいものはないと断言できるものであった。

「これは礼だ、取っておけ」
「――――っ!!」

 だというのに、気の利いた登壇の口上もなく、素っ気無い言葉と同時に繰り出されたエヴァンジェリンの一撃が、フェイトの体を遥か遠くに見える湖岸の辺りまで打ち飛ばした。
 何度も湖面で水切りを行って大きな波紋を残し、最終的に特大の水柱の中に少年が消えたのを見届け、つまらなそうに鼻を鳴らした少女は振り返るなり、

「これは貸しにしておいてやるからな、ジロー」

 理由を尋ねることも憚られる、嗜虐に富んだ笑みを浮かべて言い放った。

「何で俺に言うかね……こういうのはまず、ネギに振るべき話だろうに」
「ええっ!! どうして僕なの!?」
「そ、そんなことより、何でエヴァちゃんがここにいるのよ!? どうやったの、さっきの影からズルルゥ、って!?」

 ジローに向かって放られたはずの言葉をキラーパスされ、慌てふためきながら抗議するネギや、突然、現れたエヴァンジェリンにあれこれ問いをぶつけるアスナの声で、通路の上がにわかに騒がしくなった。

「ご無事ですか、ジロー先生」
「…………今の状態を無事に分類できるなんて言う医者がいたら、俺は本気で怒ってもいいと思うんだけど?」
「申し訳ありません、配慮が足りませんでした」

 賑やかと呼ぶには傷に響く大声での会話に、ベルトだけでなくボロボロになったジャケットまで右手に巻いて、脂汗を浮かべて皮肉を返したジローに無表情で頭を下げたのは、エヴァンジェリンと同じく、ジローの影から這い出てきたガイノイドの少女・絡繰茶々丸だ。

「相当、無理をされたようですね。応急手当てだけでもしておいた方がよろしいかと」
「聞く前に始めてるだろ、って突っ込みたかったけど……まあ、助かるわ。そろそろ不自然な寒さとか感じてるし」

 自分の影が立て続けに二人の人間を吐き出したことに、表現し難い気持ち悪さを覚えて嘆息し、『破損した』と表現するに相応しい右手や、強引に傷を修復させた体の診察を始める茶々丸、そして賑やかな一団から湖中央に佇む両面宿儺に視線を移す。

『グルル、ゴォォ‥‥』
「あー、動きを止めてくれたのはいいけど、あれってどう考えても爆発のカウントダウンに入ってます状態だよな」

 両面宿儺から届く、肌を打つ魔力の胎動。その感覚が徐々に強く、そして早くなっていくことに薄ら笑いを浮かべるしかなかった。
 霊格と呼べる範囲を突き抜け、もはや神格と評した方が適当な力を有する大鬼神が、何の枷も目的もなしに暴れ回って生み出すだろう甚大な被害。
 そんな、気が滅入りそうな惨状を想像した自分を慰めるための笑いだ。

「難波根子武振熊でも出てきて何とかしてくれるなら、諸手を上げて万々歳なんだけど……世の中、そう都合よくは回ってくれんよなぁ」

 怪我の痛みや、過度の魔力行使による疲労以外の汗を垂らしていたジローが、藁にも縋る思いで視線を向けたのは、現在進行形でネギに説教を行っているエヴァンジェリンだった。

「おーい、エヴァさんや……」
「ぼーやはよくやったよ、だがまだまだだな。この程度の騒動で私が動くなど、暇潰しにやっているゲームで例えれば、最初の方のダンジョンで何故かラスボスが助けに来てくれるよーなもんだ」
「は、はあ」

 アスナに支えられ、肩で息をしているネギにしたり顔で妙な例え話をしているエヴァンジェリンに、弱々しく呼びかける。

「次にこんなことが起こっても、私の力は当てにできんぞ? そこん所、よく肝に命じて――」
「エヴァー、自称・ラスボスのエヴァさんやーい」
「って、何なんだジロー? ここからがいい話なんだぞ」

 当然のように呼び掛けを無視した真祖の吸血鬼に、今度は大き目の声をぶつけて自分の存在を思い出させてから、ジローは半眼の状態で投げ遣りに両面宿儺を指差し、尋ねた。

「あそこに御座す鬼神様、もうすぐ大暴れし始めそうなんだけど……どうにかこうにかして、鎮めることってできるか?」
「あん?」

 ジローとしては半分、駄目元で聞いてみたつもりの質問だった。
 いかに真祖の吸血鬼として、魔法使い達に恐れられるほどの力を振るっていたとはいえ、相手は日本でも屈指の鬼神である。
 一説によれば神武天皇に皇位を授け、飛騨に住む人々を苦しめていた神龍を屠ったという伝説まで持つ存在。そんなものを相手取り、力尽くで勝利できる者がポンと出てくるなど考えにくい、というより考えられないというのが本当のところ。
 結局のところ、心を折られているのだ。どれだけ緩く、余裕を感じさせる態度を取っていても、両面宿儺が封印から解き放たれた瞬間に思い知らされた格の違い、絶望感、そして一生物としての強者への服従心を拭い去ることができずにいる。

 ――一度、勝てないと思い込んじまったから、俺にゃ何もできんさね。

 仮に万全の状態であっても、自分に飛騨の大鬼神を倒せるとは到底、思えないのだが。
 疲れた顔でため息をつき、一縷の望みをかけた問いを口にしたジローに、エヴァンジェリンは一瞬、呆れと不快感を混ぜ合わせたような表情を浮かべた。

(フン、使い魔本能というか野生動物のそれだな。確かに今のこいつじゃ、逆立ちしても勝てんだろうが……前に力を取り戻した私に対する態度と随分、違うじゃないか)

 それは単にエヴァンジェリン当人に、使い魔本能に警鐘を鳴させるだけの威厳が足りなかったりするだけなのだが、十余年を麻帆良の中で学生として過ごし、多少なりとも在り方に変化を生じていた彼女には気付けなかった。

(ぼーやのように、実力わきまえず魔法ぶっ放して力尽きるのもあれだが、端から勝てんと信じ込むコイツも大概だな)

 一応ではあるが、『出来る使い魔』として評価していたジローの心の弱さと、自分への敬意の払わなさに胸中で愚痴を零した後、エヴァンジェリンは一度、目を閉じて精神を研ぎ澄ませる。
 つい先日、大停電を利用して、学園結界の枷を外した時に感じたものよりも遥かに強い開放感。
 心が歓喜の声を上げ、自然、口元を吊り上がらせる。吸血鬼としての力が復活したことを証明する、鋭く伸びた犬歯を覗かせながら、どこか芝居がかった声のトーンでジローに問い返した。

「ククッ……奴を鎮めることができるかと聞いたな?」

 顎で両面宿儺のことをしゃくったエヴァンジェリンの体から、ネギとの戯れに興じた時の数倍に達する魔力が噴き出し、側にいたジロー始め、ネギやアスナ達の肌を叩く。

「ハッ、私を舐めているのか? 丁度いい機会だ、ここで貴様達に教えておいてやるか」

 放出される魔力の圧に、祭壇へ続く通路が低く振動する。
 尋常ではない力の奔流に変質させられた世界の中で、軽快に打ち鳴らされたフィンガースナップの音が響いた。
 蠢いたエヴァンジェリンの影から飛び出した無数の蝙蝠が、次々と黒い布に変じて彼女の外套を紡いでいく。バサリッ、と仄かに明るい夜天の下、闇で染め抜いた色を思わせる外套がはためいた。

「――――よくよく目に焼き付けろ、闇の福音の本気という奴をな」

 静かに、そして厳かに開かれたエヴァンジェリンの瞳は、獰猛な光を湛えて煌いていた。

「そして、少し冷静になって考えるがいい。己の意思を持たない木偶の坊が、本当に恐れるに値する存在なのかどうかを」
「言うなよ、頭ではわかってるんだから」

 眼光鋭く、その割にからかうような口調で告げられ愛想笑いを返したジローに、エヴァンジェリンは口をニタリと歪めて歩み寄り、彼にだけ聞こえるよう囁く。

「そう落ち込むな、魔力の桁を増やすぐらい、貴様が本性をさらけ出せば楽勝だろうが」
「……両面宿儺をどうにかしようって状況で、何故にそんな訳わからん話になる」
「フン、空っ惚けるつもりなら別に構わんがなぁ?」

 底意地の悪い笑みを浮かべたままエヴァンジェリンは、それっきりジローに話しかけることなく、夜空へとその身を躍らせた。
 あっという間に、湖の中央で棒立ちになっている両面宿儺の巨体を見下ろせる高さまで飛翔し、倣岸たる眼差しを向けて告げる。

「相手が悪かったな、飛騨の大鬼神とやら。起き抜けに私の相手をするのは、少しばかり荷が重いぞ? 何といっても私は――――最強無敵の、悪の魔法使いなのだからな!!」

 最強無敵、言葉にするとこれ以上ないほど陳腐で、幼稚な名乗り文句。
 しかし、今のエヴァンジェリンの立ち居振る舞いの全てに、その陳腐で幼稚なはずの名乗りを相応しいと感じさせる、荒々しい力の片鱗が滲んでいた。

「ノリノリねー、エヴァちゃん」
「ス、スゴイ魔力が集まってる……」
『前に兄貴とやりあった時は、完全に遊びだったッスからね。やっぱ化けモンだな、真祖の吸血鬼ってのは』

 夜空へ掲げたエヴァンジェリンの手に、膨大な密度と量の魔力が集束していくのを感じて肌を粟立たせながら、それぞれに感想を述べるアスナやネギ、カモとは別に、ジローはただじっと、幕に向かう騒動の締めとなるであろう一撃が放たれるのを見ていた。

「ジロー先生?」
「――――」
「あ、あの……?」

 顔色を窺うように声をかけた茶々丸を一瞥してすぐ、無言のまま視線をエヴァンジェリンに戻したジローが浮かべていたのは、普段の緩く穏やかなものとは真逆の、感情の色が抜け落ち、底知れぬ冷ややかさを感じさせる表情であった――――

〈続く〉

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