「第七幕・これがワシらの進む道?」


 日本書紀、仁徳天皇六十五年条に、皇命に従わず、飛騨の国にて人民から掠略(かす)めを繰り返して苦しめた、悪逆非道な一人の――一柱の鬼神が登場する。
 一つの体に相背ける二つの顔を持ち、それぞれに対応する手足がついていて、膝の後ろの窪みはない。怪力を有し、左右に剣を佩いて、四つの手で弓矢を使う俊足の異形。
 あまりに荒唐無稽な容姿を持つ、英雄・難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)に討伐された、日本で五指に入る大鬼神――両面宿儺(りょうめんすくな)
 朝廷に反逆した故に討たれた存在というのは、何も両面宿儺だけではない。
 熊襲国にある村にいたとされる羽白熊鷲(はじろくまわし)や、現在の大分県大分郡に当たる土地にいた二人の土蜘蛛や、直入県(なおりのあがた)で暮らしていた三人の土蜘蛛など、数え上げていけばキリがない。

「あっちに見える大岩にはな、危な過ぎて今や誰も召喚できひんゆー、大鬼神が眠っとる」

 彼らが本当に、記紀に記されているような悪逆非道の限りを尽くす存在だったのか、それはわからないし興味もなかった。
 祭壇の上に、シーツ一枚を掛けられて寝かされている木乃香を見下ろして、語りかけた。

「お嬢様の御力を貸していただけたら、それを制御するんも可能になります」
「ん……?」

 話し掛けられて目を覚ましたが、ぼんやりとした目で自分を見つめる、呪符で口を塞がれた少女に口唇を吊り上げ、囁きかける。

「これはですな、平和ボケした連中の目を覚まさせるのに必要なことで……国を奪われて、侵略者に好き勝手に存在弄られて化け物にされた、飛騨の英雄を呪縛から解放したる善行なんです」

 歴史とは勝者が作るものである。
 そんな理不尽な暗黙の了解に従い、一方的に『悪』の烙印を押され、歴史の闇に葬られてきた者がいる。
 過去から現在まで続いている、断ち切ることのできない悲劇。そのことから目を逸らし、安穏と暮らそうとしている人間や、そうすることを強制しようといている西洋魔術師達に天罰を与えるのだ。
 木乃香の耳元から口を離し、千草はスッと視線を眼前に広がる湖へ向けた。
 祭壇から数百メートルほどの距離を挟んで、湖面に鎮座する注連縄を巻かれた大岩。そこに、今回の計画の肝となる存在が眠っていた。
 祭壇の上からでもわかる巨大な力の胎動に、千草は喉の渇きを覚えた。

 ――今にも噴火しそうな火山の頂上に立っとるみたいや。

 滲むように出てきた額の汗を拭い、数回、深呼吸を繰り返す。
 動悸が激しい。もう引き返せない場所へ来てしまったと、無意識ながらに理解しているのだろう。
 成功するにしろ失敗するにしろ、これから自分が行おうとしているのは、それほどまでに恐ろしいことなのだ。

「千草さん」
「…………わかっとる」

 置物のように佇んでいたフェイトが、背後から小さく促した。
 体を強張らせて数秒の間を置いてから、千草は無理矢理、感情を押さえつけた低い声を返して頷いた。
 手足に力が入らぬまま、「むー、むー」と呻いている木乃香から一歩離れて、千草は静かに気息を整える。
 丹田――臍下三寸ほどの場所にあるツボで、気や魔力を練る場所と考えられている――の辺りに意識を集中し、魔力を高めていく。木乃香が有する大魔力、それを引きずり出すための呼び水となる魔力を放出するために。

「イジャヤ――」

 短く、綴りになった梵語を声にだす。

高天(たかま)の原に神留りまして 事始めたまひし神ろき神ろみの命もちて 天の高市(たけち)八百萬(やおよろず)の神達を神集へ集へたまひて 神議り議りたまひて――」(1)
「ん゛っ、んんっ……!!」

 千草の詠唱に呼応して、祭壇に捧げられた木乃香の体の中で、尋常ではない量の魔力が渦を巻き始めていた。
 後から後から、尽きることなく溢れてくる魔力。

「而れども千早振る霊の 萬世(よろずよ)に鎮まりたまふ事なく 御心いちはやびたまふなれば 根の国底の国より 上り出でませと(たてまつ)幣帛(みてぐら)は――」

 決して儀式召喚呪文の詠唱を止めないまま、千草は胸中で「人畜無害そうな顔して、とんだ化け物やな」と毒づいた。
 自分の所有している魔力が良くてぬるま湯だとすれば、木乃香から止め処なく溢れてくる魔力は、液状になった金や銀だ。
 質も、量も、温度も、密度も、全てが桁違い。
 仮に、常人の体内に彼女の魔力を移し変えれば、体の内側から煮潰されてしまうだろう。

皇御孫(すめみま)のをと女にして 赤玉の御赤らびます 藤原朝臣(あそみ) 近衛木乃香の――」
「んっ、んん゛っ!!」

 苦しげな呻き声を漏らし、発光を始めた木乃香を無視して詠唱を続けながら、吐き気と勘違いするほどの怒りを感じた。
 何故、この少女はこれだけの力を持ちながら、何もしらず、何も知ろうともせず、のうのうと東で暮らしていたのか、と。
 然るべき場所で、然るべき鍛錬をすれば、自分など足元にも及ばぬ術者になったはずだ。
 西の長の跡を継いで、稀代の力と才能を持った指導者になってもおかしくないのに。
 魔法の世界と関わらせたくないという、彼女の親――詠春のふざけた希望で超常の世界から遠ざけられ、蝶よ花よの箱入りで育てられた――――何のために生きているのかもわからない、能天気な糞餓鬼。
 詠唱を行っていた千草の眉間に、深い皺が刻み込まれる。
 望む望まらずに拘らず、力を持った、持ってしまった者に生じる責任と義務。それを知るべきは、自分や――力がないために命を落とした者達ではなく、目の前の少女や『千の呪文の男(サウザンドマスター)』といった、人の身に不相応な力を持つ人間達なのではないのか。

(いか)しやくはえの如く萌え(あが)る 生く魂・足る魂・神魂なり‥‥!!」

 胸を突き破りそうな憤りに、呟く呪文に異様な熱が篭る。
 確かに、自分は褒められることをしていない。現在進行形で、悪事を行っているような人間だ。
 だが、

 ――アホみたいにでかい力を、「自分のために〜」とか謳って好き勝手した英雄とか、力を持ってるのに、何もせえへん奴の方がよっぽどクソッタレやないか。

 両面宿儺を召喚するための呪文詠唱を終えた途端、木乃香から天を突き破らんばかりの勢いで伸びた光の柱を見上げ、唇に歯を突き立てた。
 鉄錆の匂いと味が口内に広がる。生理的に受け付けない味の液体を胃の腑に流し込んだ。
 心の中にしつこくこびり付いていた罪悪感や躊躇いが、力持つ者の理不尽や不勉強に対する憤りにこそぎ落とされていた。
 木乃香から噴き上がった魔力によって生まれた波紋が、湖全域に広がっていき、中央に鎮座させられた大岩に触れた。
 次の瞬間、千草の視線の先にあった両面宿儺の眠る場所から、木乃香から立ち昇るものの数倍はある魔力の柱が出現した。
 まるで、大地と夜天を結ぶ巨大な塔。
 文字通り、この世ならざるモノを喚び出すための儀式が、終焉に向けて急加速に進みだしたのだ。

「……新入り、あのガキと女どもが邪魔しに来たら頼むで」
「――わかったよ」

 ポケットに手を突っ込み、後ろで黙って立っていたフェイトを見ることなく、短く指示して儀式の仕上げに意識を傾ける。

「止められるもんやったら止めてみい……もう、何しても無駄やで」

 誰に聞かせるでもなく、ポツリと溢して口元を歪める。
 一瞬、脳裏に緩い顔をした青年の、

 ――止められるうち、戻れるうちに止めておけって言ってるんよ、阿呆。

 というお節介な言葉が蘇ったが、千草は小さくかぶりを振って打ち消す。

「ウチが最初っから止まられへんとこにおるて、わからんはずがないやろ?」

 視線の先では、最早中断すること叶わない儀式召喚術が発動していた。
 あとはもう、自動で術式が完成するのを待つぐらいだ。

 ――完成したら、西と東の全てをひっくり返して……目にもの見せてやるんや。知らんぷりすることが、力持ったもんが考えなしに動くんが、どれだけの人を不幸にするんか……!

 冷め切ってしまった心の中で、唯一つ熱を残した、復讐心の皮を被った理不尽に対する憤りに衝き動かされるまま、千草は儀式召喚術の微調整のための詠唱に没頭しだした。

「…………」

 後方で沈黙して佇んでいたフェイトが、自分のことを憐れんだ、冷めた目で眺めていることに気付かずに――――







 川の水を跳ね上げて、二つの人外の影がジローに迫った。

『ハッ!』
『ヤアァッ!!』

 上空から襲い掛かる烏平と、地を這うように駆けて接近するお銀。
 ジローの間合いに入る直前、加速して迎え撃てぬよう機先を制して武器を振るう。
 大剣と刃付きトンファーの一撃が、闇の中で交差した。

「ぐ、っ……!!」

 烏平とお銀が交差する場所に立っていたジローが、呻き声を漏らしてたたらを踏んだ。
 肩と頬からしぶいた血が、黒い川面を叩く。
 膝を突きかけたが、間を置かずに迫った颶風に顔を顰め、ジローは手にした木刀を振り上げた。

『フンッ!!』

 十尺を超える巨体に似合わぬ素早さで、体勢を崩していたジローに近付いた鬼六が、力任せに鉄の棍を叩き付けた。
 咄嗟の防御が間に合ったものの、体躯と膂力の違いに抗うことができず、木刀を掲げ持った状態でジローが、十数メートルもの距離を軽々と飛んだ。

「ぐが、あっ……!!」

 川底の岩に体を打ちつけた後、数回、川の上を水切りの石のように跳ね、木刀を持っていない手と両足を踏ん張って停止する。
 痺れた手に舌打ちして荒い息を吐きながら、油が切れたブリキ人形のように軋む四肢に鞭打って、その場から真横に跳んだ。
 直後、ついさっきまでジローがいた場所を、上空からきた烏平の大剣が易々と粉砕した。

「はぁ、はぁ、はぁっ……!!」
『ほぉ、よう躱したな?』
『――でも、動きが鈍くなっとるね!』

 激しく鼓動する胸を押さえ、苦しげに立ち上がったジローを襲ったのは、烏平の肩を蹴って飛び上がったお銀のトンファーだった。
 まともに呼吸もさせてもらえない状況。
 息つく暇もない怒涛の攻めに、追い詰められつつある。だが、敵を見据えるジローの目にはまだ、光が灯っていた。
 朦朧としかけた意識で、だが、決して生を諦めることない本能に衝き動かれて奔った木刀が、お銀のトンファーの柄下を叩き割った。

『うひゃあ!?』
「ぎ、ぎぎ……がああああ!!」

 打ち込みを強引に潰されて、やむなく着地したお銀にジローが斬りかかる。
 いまだ塞がらぬ肩や頬の傷口から血を溢しながら、八双に構えて間合いに踏み込み、片膝を突いているお銀を袈裟に斬り伏せようとした。

『だいぶ焦りが出てきたようやの! ワシのこと忘れてもろたら困るで!?』

 だが、ジローの必殺の一太刀はお銀の脇を駆けて割り込んできた烏平に受けられた。
 相手が自身の失策に顔を強張らせる暇も与えず、烏平は額前で十字に受け止めていた木刀を脇へ流し、背面で回すように振り上げた大剣を、一片の躊躇もなく斬り下ろした。

「うっ……は、ぐが」

 烏平の顔を返り血が叩く。
 否応なしに鼻腔へ飛び込んでくる血臭を吸い込み、烏平は嘴まで垂れてきた返り血を舐め取った。

『――――なるほど、お銀の言うとった通りやの。匂いも味も……中途半端に混じっとるわ』

 そう言って、烏平は顔を顰めたのだろう。元から異形然としていた強面を歪めて、舐め取ったジローの返り血混じりの唾を吐き出した。

『何があってかは知らんけど、みょうちくりんな体しとるようや。血でこれやとすると、肉なんて不味ぅて喰えたもんとちゃうやろな』
「は、ぁ……はぁ、はぁ、はぁ」

 『同族喰いは精神的にきっついしな』、とぼやくように話す烏平の前では、袈裟に血の線が走る胸を押さえてジローが跪いていた。
 腹部に穴が開いていて始めからボロボロだったシャツは、今や襤褸切れと化して、肩に掛かっているのと遜色ない状態だ。徐々に広がる赤い染みはシャツだけでなく、ズボンの腰辺りまで濡らしていた。
 水に濡れて額に張り付いた前髪の隙間から、生きることに執着して血走った目を覗かせるジローに苦笑した烏平は、片手持ちの大剣を肩に担いで聞いた。

『そろそろ諦めたらどうや? 必死に生きよう思て足掻くんはええけど、やりすぎるんは粋やないで』
「……る、さい」

 痛みを堪えるために体を丸め、小さく震えながらジローが答えた。
 まるで許しを請うように、烏平の前で蹲っている青年に、周囲で戦いの行方を見守っていた妖怪達の笑いや囃し立てる声が届いた。

『どしたどしたー、もう諦めてまうんかー?』
『ホレホレ、もうちょい気張ってみたらどうなんや〜』

 鬼六や烏平、お銀の三体を相手に、まともに立ち回ることのできないジローの姿に、散々煮え湯を飲まされた恨みも晴れたのだろう。彼らの表情はみな、一様に明るい。
 圧倒的な力や畏れで、矮小な人間を踏み躙る。これこそが自分達の正しい在り方だと、再確認したが故の満足げな笑みだった。

「ぐ、ぐくっ……がは、カハッ!」
『おいおい……』

 地に突いていた膝を引き剥がすようにして、ジローが軋む体を起こして立ち上がった。無理矢理に動かしたせいで、塞がる気配を見せない胸の傷から、勢いを増した血が零れ出る。
 木刀を杖代わりにして、震える膝を支えながら咳き込む口から、赤い飛沫が飛び散っているのを見た烏平が呆れ声を漏らした。

「ガア、ガ、グッ……!!」

 地に立てた木刀に縋るようにして、魔力の放出を始めたジローから時折、「ビキ……ビキ……」と体が悲鳴を上げているような軋みが聞こえる。

 ――治れ、治れっ!

 一心にそう繰り返しながら、ジローは胸を斜めに走る刀傷を掴んで、強引に癒着させようとしていた。
 肩や頬の小さな傷は放置していても、四半刻もあれば完治する。だが、烏平の一太刀を浴びた胸部の怪我は、すぐにでも処置しなければ危ういものだった。
 せめて傷口だけでも塞がれば。だが、そう思って全力で魔力を送り込んでいたジローを邪魔する影が、烏平の脇を抜けて迫り来た。

『悪いけど、休む時間はあげへんよ!』
「がっ……」

 獣じみた俊足で懐に潜り込んだお銀の膝が、深々とジローの腹部に沈んだ。
 強かに蹴られ、なす術なく後ろに倒れ込む。咳き込みながら、震える瞼を開いたジローの目に映ったのは、滲む涙でぼやけた鬼六の巨体であった。

『よう頑張ったんやけど、ワシも組背負っとるんでな。半分、こっち側に足突っ込んどる奴が相手とはいえ、負けたるわけにはいかんのや』

 次の瞬間、ヒョイと軽々しさを感じる動作で持ち上げられた鬼六の足――その巨躯を支えるに相応しい、幼児の身の丈はある大きさだ――が、仰向けに倒れたジローへ踏み下ろされた。

「ッ、あ゛……うが、ぐがあああっ!!」
『うわー、痛そう』
『気や魔力を使ぅて頑丈になっとる言うても、やっぱり耐えられんもんは耐えられへん、か……』

 地面を踏み鳴らす音に紛れて響いたのは、体の横に伸びていたジローの左腕がへし折れる音。
 一瞬、何が何だかわからぬといった顔をしたジローだったが、遅れてやってきた激しい痛みに叫び声を上げた。お銀と烏平が、憐れむように呟く。
 ふむ、と小さく声を洩らしながら足をどけた鬼六が、空いていた手でジローの胴を掴んだ。
 まるで子供に振り回される人形のように、されるがままに宙に持ち上げられたジローが弱々しく呻く。
 幸い、折れた方の腕を掴まれることは免れたが、力を入れられない手はピクリとも動かず、鬼六の手に沿うように垂れていた。

『人間もそうやけど、妖怪も綺麗な傷よか、こーいう荒っぽい傷の方が治り遅いんや。どや? なかなか勉強になるやろ』
「あ、あぐっ……はぁ、はぁ」
『…………もう、ろくに聞こえてへんみたいやな』

 焦点の合わぬ目で地面を見下ろし、か細い呼吸を繰り返しているジローを暫し眺め、

『お前みたいなんやったら、ワシの組に加えたってもええんやけどな。仕事やさかい……惜しい気もするけど、見送りや』

 嘆息した鬼六が首を鳴らし、ジローを掴んだままの手を高々と持ち上げた。

『ほな、これで仕舞いや――――潰れてまい』

 短く告げて、家屋の二階に相当する高さから足元の岩場に叩きつけようとした、その時、

『――!? オヤビン、避けぃ!!』
『ぬお、何や!?』

 元・野生動物の直感から危険を感じ、大声で警告を発したお銀によって、その行為は中断させられた。
 焦りを帯びた声に素直に従い、ジローを掴んだまま、立っていた場所より飛び退いた鬼六の影を、夜気を裂いて飛来した銃弾が穿った。

『ぬっ!? これは……術を施された弾丸――――何奴!!』

 同じく、どこからか飛来した銃弾を器用に弾き、体の前で大剣を立てて――弓矢に対する構えである――周囲を見渡した烏平が誰何の声を上げる。
 それに答えたのは、またも闇に紛れて肉を穿ちに来た数発の銃弾。次いで、たまらず後退した鬼六達に生まれた、ほんの僅かな隙を突いて急襲をかけた黒い影。

『痛った!?』
『オヤビン!』
『なんや、お前!!』

 ジローを掴んでいた方の手首を蹴られ、鬼六が思わず指を開いてしまった。
 解放され、スルリと滑り落ちた彼を受け止めた影は、突然の乱入者に鋭く反応して振り下ろされた烏平の大剣を躱し、後方へ大きく跳び退った。

「ふぅ……少し遅くなってしまったでござるな」
「ぁ、か……?」

 自分の膝裏と背を支え、痛ましげに眉根を寄せる乱入者――何故か、ど派手な赤いチャイナ服を着ている――糸目長身の忍者少女・楓を見上げ、ジローが朦朧とした声で呻いた。

「助けに来たでござるよ、ジロー殿」
「アヤヤ、ボロボロにされてるアルな、ジロー!?」
「…………そりゃ、どうも」

 衝撃を与えぬよう静かに降ろされ、よろめきながら立ったジローに、楓と一緒に現れたクーフェイ――同じくチャイナ服を着ていて、こちらは薄い桃色である――が騒ぎ立てる。
 いまだ塞がらぬ胸を押さえ、半眼のまま距離を取ったジローは、周囲を見渡して聞いた。

「さっきの……真名も一緒……か」
「うむ、夕映殿から連絡を受けた時、側にいたので同行してもらったのでござる」
「そっ、か……」
「……大丈夫でござるか?」

 剥き出しの岩場に胡座をかき、荒い息の下から聞いてくるジローに返し、肩に手を置いた楓が顔色を窺う。
 常の糸目が開かれていることから察するに、考えていたよりも酷い青年の体を気遣っているらしい。
 しかし、現在のジローの体調を、酷いの一言で表すことこそ酷であろう。
 頬や肩には赤い線が幾筋も刻まれ、袈裟に走った刀傷は相当に深く、内臓を傷つけてはいないものの、肋骨の数本は半ばまで断ち割られていた。
 そして、何より飛び抜けて重傷なのが、座り込んだジローの膝上に垂れている左腕だ。恐らく、内部で何箇所か骨折しているのだろう、肘以外の場所に関節ができていた。

「――――やれやれ、世話の焼ける」
「な、ななななっ、何故、日本の女子中学生がライフルを!?」
「ただのエアガンだよ」

 そうした、満身創痍なジローの様子を離れた場所で、ライフルのスコープ越しに見て嘆息した真名の隣で目を白黒させているのは、彼女や楓達に無理を言って同行した夕映嬢。
 たった一人、関西呪術協会総本山で、石化させられた人々に囲まれて楓達の帰りを待つよりは、幾らか安心できるはずと連れてきてもらった彼女が目にしたのは、極々自然に狙撃専用の銃を取り出して、淀みない動作で銃弾を連発するクラスメイトだった。
 シレッ、と真名がオモチャ発言を返すが、マズルフラッシュを噴いて、銃口から火薬臭い煙を流すものがオモチャだとしたら、それはそれで犯罪な気がする。
 微妙に距離を取り、身を潜めている木立の陰から、夕映は前方にいるはずの楓やクーフェイ、そしてジローの様子を窺おうとして、すぐに諦めた。
 いたって普通の女子中学生をしていた少女に、望遠レンズ付きの暗視スコープを使わなければ、ろくに人影も判別できない場所にいるジロー達を発見できるはずもない。

「あ、あの、龍宮さん……本当にあんな場所にジロー先生がいるのですか?」
「……正直な話、綾瀬さんをこんな場所に連れてきたと知られると、後でどんな嫌味を言われるかわかったもんじゃないんだけどね」

 質問に対する明確な答えは返ってこなかったが、スコープから目を離し、横目に見て口の端を緩めた真名の表情から、夕映は漠然とだが悟った。
 夜目の利かない自分には見えないが、物語や画図にしか登場しないはずの百鬼夜行がたむろする場所、その真っ只中に、自分がよく知る青年がいるということを。

「こ、こんなアホな状況、できれば否定したいのですが……」
「そうだね。人間が石になったり、ファンタジーでお約束の化け物達が勢ぞろいだったり、いつも緩く笑ってるような知り合いが、実は結構、人並外れて強かったり」
「う……」

 頭の中で掻き消したかった、トンデモ現象や真実の数々を口にされ、押し黙った夕映に悪戯っぽい視線を送った後、真名はライフルに弾を装填して、獲物を狙うスナイパーに変貌する。
 上空で旋回しながら、芥子粒のように小さい餌を見逃さぬ猛禽のような眼差し。日本人離れした紅い瞳が、その印象を余計に強めている気がして、夕映は音を立てぬよう注意して唾を飲む。

 ――自分は今、とんでもない場所に踏み入っているのでは。

 よく行動を共にしている、のどかやハルナが好んで読むライトノベルなら、きっとお約束で陳腐な場面。日常と非日常が邂逅した瞬間。
 腹ばいになって、ライフルを構えている真名のいる場所、そこがぎりぎり、日常に留まれる境界線に感じられた。
 彼女が覗いているスコープの向こうにあるのは、刺激のない平凡な日々を過ごしていた自分の想像を上回る、非日常が居座っているはずだ。

 ――当然、そこにいる以上、ジロー先生は……。

 知らず、浴衣の裾を握り締めた夕映が呟いた。

「自分の世界に対する認識が、いかに稚拙だったか……目の前に突きつけられた気分です」

 少女の顔に塗られていたのは、物を知っているようで、まったく知らなかった己を恥じる色。
 そして――

(悪い予感はしていたんだけど……これだから、好奇心旺盛な素人は)

 舌戦で押し負けて、仕方なくこの場に連れてきておいて、このような台詞もないものだが、と自嘲しつつ、真名はスコープから外した目で夕映を盗み見しながら嘆息した。
 今回の騒動が終わっても、ジローが休めるのは先の話になりそうだと思いながら。

「ま、それは私の与り知らぬ話か……よし、ヒット」

 あっさりと見捨てて、真名がライフルの引き金を引く。空気の割れる音に、夜闇に咲く赤い花のようなマズルフラッシュ。
 スコープの先で、また一体、名も知らぬ妖怪が頭を撃ち抜かれて、元の世界へ送り還される。

「…………綾瀬さんの護衛代と助っ人料、誰に請求すればいいのかな」

 何を差し置いても、代金はしっかりと請求しなくては。
 そんな、守銭奴じみてしょっぱいプロ意識から、ライフルの銃口から弾を吐き出させつつ、彼女は今回の仕事における儲けを計算していたりした――――







 思い出したように援護してくる真名の銃弾に、また一体、妖怪がどこか別の世界へ送還されるのを見送り、ジローは血でべったりと汚れた手の平に視線を落とした。
 半眼になり、数回、握って開いてを繰り返す。
 踏み折られた腕や胸の傷はまだ回復の兆しを見せないが、とりあえず死の危険を回避できたと小さく息を吐き、顔を上げる。

「アイヤー、私、本物のオバケ見るの初めてアルよ」
「油断してはならぬでござるよ。拙者は大型の相手をするから、イエローは人間大のを頼むでござる」
「心配無用アル! 中国四千年の技、舐めたらいかんアルよ〜♪」

 鬼六のような大型の妖怪の相手は厳しかろうと言った楓に、クーフェイは自信ありげな笑みを浮かべ、手近な場所に立っていた小鬼へ肉薄した。

『うおっ!』
「よ」

 驚きながらも、反撃として繰り出された金棒を恐れることなく踏み込み、持ち手の内側へ割り込ませるように縦拳を放つ。
 と、同時に腕を捻り、手の平を上へ向ける。ただそれだけの動作で、妖の持つ並外れた打ち込みを往なす。

『なに――ふぶぅ!?』
「ハッ!!」

 小鬼が驚愕の声を言い切る前に、クーフェイが突き出した縦拳――形意拳の基本にして、理論の全てが詰まっているといわれる五行拳の一つ、崩拳。それの応用としてある馬蹄崩拳だ――が、強烈に腹へ打ち込まれた。
 重心や体重の移動で生じる慣性、それを余すことなく相手へ伝えるための歩法・震脚と共に放たれた拳打の威力は、彼女の足元の岩場に亀裂が入っているところから押して知るべしだろう。

「さあ、もっと強い奴はいないアルか?」

 後方にいた、一つ目の大鬼を巻き込んで殴り飛ばされた小鬼から興味を失い、次の相手は誰かと問いながらクーフェイが構えた。
 「油断すると怪我をするでござるよ」、と苦笑いの楓に注意されながら、群がってくる百鬼夜行・伊吹組の構成員を次々に殴り倒し、蹴り飛ばしする褐色功夫少女の暴れっぷりに感心三割、呆れ七割で嘆息したジローは、傷に響かぬ程度の力加減で触診を行っていく。

 ――思ったよりも怪我は深い、どうする。

 頬や肩の傷は、つい今しがた塞がった。だが、袈裟に走る刀傷と左腕の骨折は、半刻待ったところで完治はすまい。
 某・真祖の吸血鬼ならいざ知らず、いまだに普通人としての体面を保っている自分に、瞬間再生など不可能だ。
 あくまで、半使い魔として向上したのは、体の記憶に基づく自然治癒能力。損傷した部分や欠損した箇所を何らかの形で修復しようとする、生物に備わった本能。
 舌打ちして遠方を見る。はるか向こうで、夜空を貫くように光の柱が立ち昇っていた。
 軽く見積もって、十数キロは離れた場所にいるのに感じる魔力の奔流。恐らくは、千草に囚われた木乃香のものだろう。

「これじゃ、誰が化け物かわかったもんじゃないさね」

 気だるそうに嘆息し、剣戟や肉のぶつかる音を聞き流しながら考える。本当なら、援軍として楓やクーフェイ、そして真名が到着した時点で自分は退場してもいいはずだ、と。
 彼女達に残りの面倒ごとを丸投げして、後は総本山にでも戻って、寝込んでしまいたい。

「でもなぁ」

 ぼんやりと夜空を見上げてぼやく。
 非難がましいジト目を、天へ伸びる魔力の柱から、百鬼夜行を相手に暴れまわっている楓やクーフェイ、そして――

「本山に戻るとなると、途中で真名に会っていかにゃならんだろうし、万が一、夕映ちゃんなんかが同行していたら……」

 後方で時折、咲く火花を見て煩わしげに頭を掻く。
 自分とそれ以外の者の血が付いて、嫌な感じに固まってしまった髪を手櫛で梳きながら考える。今の状態――ばっさり斬り裂かれた胸に、二箇所ほど関節の増えた左腕、頭から浴びたように身を染める返り血――を見せるのは、いや、見られるのは回避したかった。
 そう考えると、あの剣呑な光の柱が伸びる場所へ赴く以外、選択肢がない気がする。心底、疲れたと訴えるため息を吐き出して、左腕を軽く掴んだ。

 ――何、問題ない。足りない血肉の代用品は腐るほどある。

 自嘲に口元が歪むのを自覚しながら、周囲の魔力を肺一杯に吸い込み、より深いところでイメージを組み立てていく。
 自分の体が、どのように治っていくのか。骨が繋がり、血が滞りなく流れ、切断された筋肉などが結ばれていく様を。
 『あり得ない』などと考えてはいけない。何故なら自分は使い魔で、人という存在から、とうに片足を踏み外しているのだから。

「グ、ガ、ガガ、ガ……」

 自分の体が治っていく様子を想像し始めて、すぐ。痛みを通り越して、焼き鏝を押し付けたような熱が体を侵食し始めた。
 腕の中で、砕かれ散らばっていた骨が動き、パキパキとくっ付きあう音が聞こえる。同じく治癒の始まった胸からは、布を噛んだファスナーを無理矢理、閉じるような音が届いていた。

「ガ、ぁ……が――――」

 全身の細胞一つ一つに語りかけるために、激痛に沸騰して狂気に逃げそうな意識を抑え込み、心を研ぎ澄ましていく。
 ふと、『健全な精神は健全な肉体に宿る』という、ありがたい主の教えとやらを思い出す。そのことを説教してくださったシスターを信じるなら、

「精神が万全な状態なら、肉体もそれに引き摺られて万全になる……はずだよな?」

 意識を集中するために瞑っていた目を開く。
 緩い笑みを湛えた瞳に映ったのは、フルフルと弱々しく震えてはいるが、しっかりと拳の形に握られた手。
 握力の戻らない左手で数回、開いて握ってを繰り返した後、袈裟に盛り上がった胸の傷跡を指先でなぞった。

「ハァ、考えるほど上手くはいかんよなぁ、当たり前だけど」

 むしろ、想像した通りに傷が塞がり、且つその痕跡も発見できぬほど綺麗に修復されてしまうなど、考えるだに恐ろしい。
 だから、これでいいのだ――と口に出せるほど、器の大きい人間でもないのだが。
 脇に転がっていた木刀を引き寄せ、凝り固まった節々を解しながら立ち上がる。
 左右と首を鳴らし、遠方で派手に自己主張を続けている魔力の柱にジト目を向けて、疲労と一緒に、飽き飽きだという感情を搾り出すため息を溢した。

「とっとと終わらんかねぇ、こんな阿呆らしい三文舞台」

 自身の先ほどまでの無茶さえ、蔑ろにしてしまう悪態を吐き捨てた後、ジローは鬼六や烏平と戦う楓と、お銀を筆頭とする百鬼夜行を相手取るクーフェイ、次に後方の真名がいるだろう辺りにも一瞥をくれ、

「…………面倒だし、ここ任せて消えても構わんよな」

 鬼畜生にも勝る外道発言を残し、そのまま木刀を片手に提げて歩き出す。
 その横手で、楓が放ったらしい気弾が炸裂する音が響いたのだが、ジローは耳障りそうに眉を顰めただけで、どこか飄々とした足取りで遠ざかっていった――――







「ハッ!」

 鬼六や烏平の足元に、楓の放った気弾が水飛沫を上げて着弾した。

『ぬうっ!』
『この嬢ちゃん、下手したらあの兄ちゃんより腕立つで!?』

 ジローと戦っていた時よりも警戒心を露にして、後ろに下がった二体は思わず呟いた。
 見れば両者とも、体のあちこちに切り傷や打撲の跡が見受けられる。

「ふむ……なるほど」

 両手に、携帯には無理がある大きさの苦無――元々は工具に分類されるもので、地面を掘るための携帯道具として利用されていた――を構えたまま、楓は合点がいったという風に頷いた。

「常々、鬼や天狗といった化生と手合わせしたいと考えていたが、なかなかどうして。それぞれの腕前といい、息の合った攻撃といい、三人同時では拙者も苦戦必至でござる」
『その言い方やと、ワシと烏平だけやったらなんとかなる、言うてるみたいやな』
『嬢ちゃんが腕立つんはわかったけど、あんまデカイ口叩くと痛い目ぇ見るで』

 苦無を握ったままの手を顎に当て、感慨深げに言う様子に気分を害し、それぞれ鉄棍と大剣を構えてにじり寄る鬼六と烏平へ、糸目を細く開いて瞳を覗かせた楓は、

「フフ、そうならぬよう注意はするでござるが……そちらも、小娘の軽口に熱くなっていては怪我するでござるよ?」

 手品のように苦無を仕舞って、背中側に手を回して超特大の十字手裏剣――当然のことながら、真っ赤なチャイナ服を着た彼女のくびれた腰の後ろに、物騒な武器を隠すのに十分な幅はない――を取り出し、常の呑気そうな糸目顔に闘気を滲ませて告げた。

「――――今はまだ、拙者の方がネギ坊主やジロー殿よりも強い」

 言い終え様、その場に出現した十を超える楓が、各々武器を構えて鬼六と烏平へと殺到した。

『……あの兄ちゃんより強い、か』
『そら気ぃつけなあかんな』

 その光景を、どこか客観的に眺めているような声色で二体が呟き、苦笑した。

『知らんのやろうなぁ、ワシらにとっての本当の強さは、嬢ちゃんが考えとるようなもんとちゃう――』
『現世、幽世のもんが共通して持つ「畏れ」やってことをな』

 鬼六の言葉を烏平が引き継ぐ。
 巣に近付いた外敵に群がるスズメバチが持つ、凶悪な毒針に匹敵する暗器――と呼ぶには大きすぎる武器の数々を携え、殺到する楓を迎え撃つために駆け出しながら叫んだ。

『お銀、そっちの大陸の拳法使いは組のモンに任せて、お前はこっちに来い!!』
『この思い上がった嬢ちゃんに、ワシら妖怪の強さを教えたるで!!』
『よし来たぁ!! ゴメンなぁ、お嬢ちゃん。ウチ、あっちの嬢ちゃんの相手せなアカンから――お前ら、この子の相手したりぃ!』
「ムム、何で私を無視するアルかー!?」

 すぐに返ってきた、女妖怪の鉄火肌な声に満足げな笑みを浮かべ、鬼六が胴間声を張り上げる。

『百鬼夜行・伊吹組の久々の出入りじゃあ!! 思う存分、暴れ回ったれぇ!!』
『ウッオオオオオォォォォォッ!!』

 我先にと戦いの場へ飛び込む頭と、その懐刀達の姿に勇気付けられたのか、ジローとの戦いで萎えていた荒々しい闘気を蘇らせ、血肉に餓えた妖怪らしい鬼気を巻き起こした百鬼夜行の一団が、足元の水を霧に変えてしまう怒涛の勢いで動き出した。

「ウヒャァ!?」
「ヌッ!」

 ある者は楓の投擲した巨大手裏剣に八つ裂きにされ、ある者はクーフェイの痛烈な拳撃に地に伏し、ある者は遠方から飛来する銃弾に頭を穿たれ、煙となって戦場から退場していく。
 だが、

『あんま妖怪舐めんとちゃうぞ、小娘ぇ!!』
『名前が出ぇへんからて、三下扱いすんとちゃうわあぁっ!!』
『あの怖い兄ちゃんと戦うのと比べたら、お前らの相手なんか屁みたいなもんやぞ!?』

 妖怪達は、次々と屠られていく仲間を振り返ることなく、時々メタな発言を喚き散らしながら、久しぶりに訪れた現世で味わう争いの空気を満喫せんと、雲霞の如く楓やクーフェイを襲い始めた――――






(1)岩波書店刊行・『日本古典文学体系1 古事記祝詞』より抜粋

後書き?)もう、百鬼夜行御一行が主役でいいんじゃ、な回。やっと到着な援軍が、鬼六や烏平、お銀、他多数の妖怪達に呑まれてしまったような。
 原作等で、確実にモブか雑魚扱いかで分類されてしまう妖怪達を優遇したら、ジロがえらく酷い目に遭った。この後も、もう少し、てかまだまだ面倒ごとが続くのに。
 そろそろ話に巻きを入れないと、京都編分の枠に収まりきらないなぁ、と他人事みたいに悩みつつ。
 感想、アドバイス、指摘、お待ちしております。

〈続く〉

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