「弱肉強食とは何ぞや?」


 ネギを連れ、ジローが入ったのは女子寮からそう遠くない場所に建つ西洋料理店であった。
 店はそう大きなものではないが白を基調とした内装、各所にあしらわれた絵画や花が洗練された落ち着きを感じさせる。
 染み一つない純白のテーブルクロスの上には、水の注がれたグラスが二つ置かれている。

「へー、寮の近くにこんなお店があるなんて知らなかったよ」
「この間、弐集院先生に教えてもらった。お手頃価格で美味しい料理をたくさん食べたいならここだ、って」
「弐集院先生って……えっと、高等部の先生だよね? ここに来て挨拶した時、一度話したことあるよ」

 ネギの脳裏に即日でグルメリポーターに転職できそうな弐集院のふくよかな体型と、見る者を和ませる恵比寿顔が浮かぶ。
 恰幅がいいと表現すると聞こえはいいが、健康のことを考えると多少の減量が必要なのでは、と言いたくなる男性教諭の姿にネギが苦笑した。
 そんなネギの浮かべた表情から、それとなく悟ったのだろう。何とも言えない顔で以前、弐集院にぼやかれた言葉を口にする。

「少しはダイエットしたら? って奥さんや娘さんに言われたってぼやかれたな、この間」

 その後に続いたのは、「そっちの方が絶対に魅力的ですよ、光さんは」や「今のままでもかっこいいけど、ちょっと痩せたらパパ、もっとかっこよくなるよ!」なんて耳にたこだよ、と惚気ておやつのドーナツを齧る弐集院の幸せそうな照れ笑いなのだが。
 一緒に食事をした時などに見せられる弐集院の妻子――弐集院 灯と弐集院 蛍の日々更新され、蓄積されていく写真の数々を思い出し、ジローは軽い頭痛を覚えて眉間を指で揉み解す。
 ふと、脳裏にもう何年かすると三十路に突入する離婚歴ありの某女史の姿が浮かぶ。酒の席で笑顔で並ぶ弐集院一家の写真を見せられた時の反応は、それは酷いものであった。
 嫉妬に狂うとは、ああした様子を言うのだろうとさえ思う。自棄になって酒を煽って近くの人に愚痴りに愚痴り、最後は酩酊状態で喚きながら帰っていった女性の後ろ姿は実に哀れであった。
 やはり幸せを掴むのに必要なのは、見た目や体型だけではないのだろうとの感想を抱いたのだが、それだけは胸の内に秘めておこうと決意したものだある。
 とりあえず弐集院には、家族自慢を聞かされる側の気持ちになっていただきたい。家庭円満は大いに結構な話だが、と胸中に不平を溢してからネギとの会話に意識を戻す。

「まあ、ネギも穴場の店とか知りたいなら弐集院先生に聞くといいさ」
「うん。でも、ジローさん、いろんな先生と仲が良いよね……凄いなあ」

 感心した風にしながら頷いたネギに、自分が他の先生達と特別仲が良いのではなく、少年が親交を結ぼうとしていないだけではないか、と内心苦笑する。
 心の中だけに苦笑をとどめたのは、特別仲が良いわけではないだろうと考えながら、そうは断言できない程度に親しくしている先生――魔法先生や非魔法先生に関わらずだ――がいなくもない、と思いなおしたからだ。
 人との付き合い方が微妙におかしいと気付けないのは、まともに見えなくもない欠陥持ちだから、という事なのだろう。自分も言えたものではないが、と自嘲に口元を歪め、すぐに普段の緩いものへ変える。

「自分が受け持つクラスの世話で忙しい事は分かるがね……」
「え、何か言ったジローさん?」
「んにゃ、別に」

 耳聡く呟きを聞きつけたネギに、面倒そうにパタパタと手を振る。
 元より、ネギ・スプリングフィールドという少年に円滑なコミュニケーション能力は求めていない。と言うより、彼にそれが備わっていたなら、今ここに自分は存在しない。
 もしも、など考えても仕様のない事だが。半眼でネギを眺めたジローがグラスの水を傾けたところで、店員がそれぞれ注文した品を運んできた。

「お待たせしました、ご注文のオムライスのセットになります」

 赤い波線の引かれた鮮やかな黄色の丘が乗った皿が、ネギの前に静かに置かれた。湯気とともに、食欲をそそるトマトの甘酸っぱい香りが鼻腔を刺激する。
 その脇に小振りの皿に盛られたサラダも置いて、店員はきびきびした動作でジローの席へ近付き、盆に乗せた料理をテーブルへ移す。

「白身魚のムニエルのセットになります」

 まず魚を盛りつけた皿が、次いで通常の十割増し――ようするに倍量に盛られた白米とサラダの皿、マグカップに入ったコンソメスープが置かれていく。

「わーい、美味しそう……なんだけど。ジローさん、それ多くない?」
「これでも控えめだと思うけど? これ以上少なくしたら動けなくなるし」

 躊躇いがちにネギが聞くが、ジローはあっさり食べきれると断言して、さらなる料理の追加を希望するように開いたメニューへ目を通していた。
 しかし、今目の前にある料理を平らげる前に追加するのはどうかと感じたのだろう、ネギに食事を始めるよう促した後、自身も手を合わせて食事を開始する。
 時折、思い出したようにネギが振ってくる話題に相槌を打ちつつ、順調に料理を胃に納めながらジローは、目の前でちびちびとオムライスの丘を崩しているネギを眺めていた。
 本当はもっと他に言いたい事があるのに、どう切り出せばいいのか分からず困っている、といったところか。
 小さく息を零し、美味しいねと笑顔で言いながら、思い詰めた表情になってはこちらを窺うネギに、料理を口に運ぶ事に専念するよう注意する。

「何ぞ聞きたい事はあるんだろうけど、今は飯を食うさね。何するにしても、腹が減ってちゃどうにもならん」
「う、うん」

 そこからは、無言での食事が続いた。お互い、自分の注文した料理を黙々と平らげていくだけで、相手の方を見ようともしない。
 実のところ、ネギはジローの様子を幾度となく盗み見しようとしていたのだが、一言も喋らずに食事するジローに気圧されてか、ついに顔を上げる事ができなかった。
 ようやくジローが口を開いたのは、食後のコーヒーが届いてから。英国人の矜持とばかり、頼んだ紅茶にミルクを流し込んでいるネギを眺めながら、単刀直入に問う。

「んで? お前さんはエヴァンジェリンと茶々丸をどうしたいんだ」
「どうって……それは」

 返す言葉に詰まるネギに視線を送りながら、コーヒーに口を付けてジローが再度聞いた。

「上手い事理由つけて停学させるか? それともいっそ、退学処分にするか?」
「ダメだよ、そんなの! 二人とも僕の生徒なんだから……なんとか話をして、それで戦わないで済む方法を考えないと」
「相手に話し合う気があるなら、最初からそうしとるだろうな。あっちは呪いを解きたい、その為にお前さんの血がたくさん必要。はい、それじゃあ献血お願いします、下手したら死ぬけど……って言われて協力できるんか?」

 コーヒーのカップを受け皿に置き、頬杖をつくジローを涙目に見ながら、ネギはどうすればエヴァンジェリンと争わず、桜通りの吸血鬼による事件を終わらせる事ができるのかと悩む。
 そも桜通りの吸血鬼の事件自体、エヴァンジェリンがネギを襲うための魔力を得る為に起こしているもの。自分の血液を手に入れるまでエヴァンジェリンは諦めないだろうし、そうなると彼女に襲われる一般人も増え続ける事になる。
 いずれ、自分達以外の魔法関係者――近右衛門や高畑の手によって、事件の犯人であるエヴァンジェリンが捕まればその心配も無くなるのだが、そうなってしまうと自分の生徒でもあるエヴァンジェリンの立場が危うくなるだろう。
 かと言って、ジローが例に挙げたように、エヴァンジェリンの要求を呑んで登校地獄の解呪に必要な分の血液を提供する訳にもいくまい。
 己の身の危険は元より、『闇の福音』などと呼ばれていた悪の魔法使い――悪の、はエヴァンジェリン当人の名乗りだが――を自由の身にするのは、倫理的な面で躊躇われた。
 自分も、そしてエヴァンジェリンや彼女の従者である茶々丸も傷つけることなく、事を丸く収める方法は無いのか。
 思考に没頭しすぎて乾いた喉をミルクティーで潤し、ネギはお手上げとばかり目の前に座るジローに助けを求めた。

「どうしよう〜、何も良い考えが浮かばないよジローさ〜ん……」
「だいぶ板に付いてきたなあ、お前さんのその頼り方」

 諦観だろう、テーブルで頭を抱えるネギをジト目に見下ろしてジローが呟く。
 一瞬だが、脳裏に青狸と居候先の少年の関係が思い浮かび、慌ててそこまでではないと打ち消した。他人から見ると、似たような関係なのだろうが。嫌なことに。
 苦々しい気分をぐっとコーヒーで喉奥に流し込み、空になったカップを弄りながらジローは告げた。

「まあ、万全の状態のエヴァンジェリンと今のお前さんじゃあ、勝負はどっこいどっこい。向こうには茶々丸もいるってこと考えたら、まず勝てんわな」
「そう、そうなんだよ。エヴァンジェリンさんだけなら、魔法勝負で勝てるかもしれないんだけど、茶々丸さんがいるから。ハァ……パートナー、かあ」
「何故に俺を見る? 捻くれてるクラスの問題児を、知恵と策略と力で捩じ伏せるのは担任の仕事だろうに」

 物欲しそうな目を向けてくるネギを、完全に拒否する冷めた眼差しで見返して突き放すジロー。看過できない事を口にしていた気もするが、表現が悪いだけで内容自体はそう間違っていない。
 協力しないと断言したジローを恨みながら、ネギは担任として、教師としてエヴァンジェリンの企みを阻止する方法を模索し始める。
 少なくとも、ネギの頭にエヴァンジェリンを『悪の魔法使い』として処罰する考えは欠片もなく。ただただ、どうすれば友好的な関係で事を終わらせられるのか、という悩みだけが占めていた。
 先生としての才能の有無で考えれば、数えで十になるかどうかの少年であるネギにあると考える方がおかしいのだが。この青くも、先生という職にひたむきであろうという姿勢は悪くないと思えた。
 だからだろう。手は貸さないと言っておきながら、ネギが希望している傷つけず、傷つかないで済むエヴァンジェリンとの決着のつけ方に知恵を絞っているのは。

「なあ、ネギ……エヴァンジェリンに勝ちたいか?」
「え?」

 受け皿に戻されたカップが、陶器の触れあう音を立てる。
 思考の渦から現実に引き戻され、顔を上げたネギが見たのは、お世辞にも品があるとは言えない笑み。

「上手くやれば、お前さんが望む形でそれを実現できるかもしれない策だ……聞くか?」

 にたりと三日月を形作る口は、遭遇した者を丸呑みにする蛇の妖を連想させ、細められた瞳には、踏み込みを躊躇わせる剣呑な光が見え隠れしていた。
 約束を違えたら、とんでもない対価を持っていかれる契約書を取り出して、署名を促している悪魔みたいだ。
 知らず、ネギの喉が鳴る。
 性質が悪い。どの辺りが性質悪いのかと聞かれれば、ネギはこう答えるだろう。

「ずるいよ、ジローさん……そんな言い方されたら、聞くしかないじゃないか」
「心外だなあ、ずるいなんて。俺はただ、お前さんの自主性を尊重したいと思っただけさね」

 恨めしそうな視線を向けたネギに、詭弁とも取れる言葉を返してジローは笑う。
 今度の笑顔は緩かった。先の怖気を誘うようなものではなく、ネギが見慣れた、不真面目そうだが温かいと感じる不思議な笑み。

「強い奴ってのは、いつ、いかなる条件下でも勝利するからこそ強者。負けて当然の弱者が知恵を絞って持ちかけた勝負を、闇の福音ともあろう御方がまさか拒否なんて、ねえ?」
「…………」

 なのに、口にする言葉はどうしてこう不穏で、且つ不安を掻き立てるのだろうか。
 一体何を考えているのかと、言葉も出せずにいるネギの目を真っ直ぐに射抜き、囁くようにジローが告げた。
 ――――それじゃあ、二日ぐらいでエヴァンジェリンに勝てるよう特訓しようか。
 たった二日でエヴァンジェリンに勝てる特訓とは何か。普通なら、驚きと共に問い詰めるだろう言葉を聞きながら、ネギがそう声に出すことはなかった。
 何故かというと、

「…………え、あれ? きゅ、うに眠……ジ……さ、ん?」
「気を付けろよ〜? 善悪は抜きにして、話を聞いて、って人の目を真っ直ぐに見る奴は何かしら企んでんだからなあ」

 唐突に訪れた、抗う隙すらない猛烈な眠気に意識が落ち、ごとりと音を立てて額からテーブルに突っ伏していたからだ。
 電池が切れたように動かなくなったネギに動じることなく、ジローはネギが飲みきらずに残していたミルクティーを勝手に貰い、一息に胃に流し込んだ。
 テーブルの脇に置かれた伝票を片手に、空いた手で身動ぎ一つしないネギの体を抱えて席を立ち、会計を済ませにレジへ向かう。
 急に眠りこけたネギを気にする店主に、お腹が膨らんで眠くなったのだろうと適当な嘘をつき、料理に対する世辞と御馳走様の一言を送ってそそくさと店を出た。

「…………人攫いみたいだな、俺」

 子供とはいえ、意識のない人間を一人、小脇に軽々と抱えて歩きながらジローがぼやく。
 自分の言葉に一つとして反論できぬ事を実行中だというのに、ネギ・スプリングフィールドの使い魔……のはずの青年の顔は、これ以上なく己の無実を主張していた。




 暗い視界の中、鼻腔に濃密な緑の匂いが入り込んでくる。
 風が吹いたらしく、まだ少し遠い耳にさわさわと梢の触れあう音が届いた。

「っ、ん……う……あれ、僕……」

 薄っすらと開いた目に、湿った土と苔むした石が映る。
 知らぬ間に、公園で眠ってしまったのだろうか。筋が張って軋む体を起こし、まだぼやけている目を擦る。
 血が巡り切っていないせいでどこか浮いている頭で理解したのは、自分が寝ていたのは公園ではなく、鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた山中という事。
 風が吹く度、木洩れ日が目に刺さって眩しいが、寝ぼけた頭と体には心地良くさえある。
 ぐっ、と伸びをして立ち上がり、体のあちこちに付いた土や朽ち葉を払い落す。その時、自分の手に見慣れぬ物を見た気がして、ネギはズボンを叩く手を止めた。

「…………なに、コレ?」

 袖を下げて改めて確認したネギの目に映ったのは、まるで刺青の様に腕に染み込んだ黒い紐であった。
 手首の辺りに二本。試しに指先で引っ掻いてみるが、完全に皮膚と同化しているらしく、触れることはできなかった。

「――――――――魔法封じ?」

 手首の裏側にギリシャ数字でT、Uと刻印されている事を考えると、どうやら期限は二日間。その間、どれだけ使いたいと思っても、自分は魔法を使う事ができない。
 しばし呆然と、手首に巻かれた魔法の黒紐を眺めて立ちつくす。
 寝ぼけていた頭がようやく事態を呑み込み始め、僅か数秒で事の重大さを理解した。

「って、うええええぇぇぇぇぇぇぇッ!?」

 背広と革靴で迷い込むには奥深い山中に、物心ついた頃から慣れ親しんだ力を失って同年代の少年と同程度、下手すると、同い年の少女にすら負ける可能性がある程度の身体能力だけで放り出された憐れな少年の叫びが響く。
 何故、どうして、何がどうしてこうなった。驚愕に空回りする頭で考え込もうとして、はたと気付く。
 ――こんな事をできて、且つ実行するような人物は一人しかいない。
 思い返せば、この場で目覚める直前まで一緒に行動していたのは彼――八房ジローではないか。
 食事に誘われて訪れたレストランで交わした会話が蘇る。
 ――――それじゃあ、二日ぐらいでエヴァンジェリンに勝てるよう特訓しようか。
 その言葉を聞いた直後、猛烈な眠気に襲われて意識を失ったのだ。
 あれはもしかすると、眠りの魔法を使われたせいではないか。腕を組み、忙しなくその場をぐるぐると回りながら考察する。
 恐らく、瞳を媒体とした魔法。邪視や魔眼などと呼ばれる、比較的有名で魔法使いの中でも一般的と言っていい呪術の一種。
 魔法使いや魔法関係者であれば、それなりの耐性を持っているのだが、身内同然の人間に仕掛けられるなど考えもしていなかったせいで、容易く意識を奪われてしまった。
 しかしまた、どうしてそんな事を、とその場で頭を抱えて蹲ってしまう。まさか、これがジローの言ったエヴァンジェリンに勝つための特訓なのだろうか。

「もしかして、二日間、山の中で過ごさないといけないのかな……」

 大切にしている魔法の杖を喚んでみるが、当然のように反応はなく、むしろ逆に心細さが増した。
 一人きりではなく、二人で山籠りするのであれば、例え魔法を封じられたとしても我慢できたし、楽しむ事さえできたはずだ。
 じわりと滲んだ視界。目の端に溜まった涙が下に落ちる前に袖口で拭う。

「グス…………? 何だろう、コレ」

 そこで、背広の内ポケットに差し込まれた何かの存在に気付く。
 恐る恐る引っ張り出すと、それは筆ペンで『葱へ』とだけ記された、素っ気ない茶封筒であった。何故、自分の名前を漢字で書いているのかと疑問に思い、すぐにジローが面白がってだろうと結論付けて中身を取り出す。
 コンビニで買ったのだろう、茶封筒と同じく飾り気のない便箋の上を文字が流れていた。
 幸い、日本語にはそれなりに明るい。たいして苦労する事なく、便箋に書かれた内容を読み込んでいく。
 記されていたのは、何てことはない。現在の山中に置き去りにされた状況に対する説明と、それを行った目的、二日間の山中訓練によって得られるであろう効能について。
 そして、

「えっと、『弱の肉は強の食なりと書いて弱肉強食と読みますが、素直に肉になる弱はいないわけでして。インパラだって、その気になればライオンに勝ちますし、鮫とモグラの勝負は言わずもがな。これの意味を理解できれば、エヴァンジェリンに勝つ方法がお前にも分かるはずだ』……どういう意味だろ、こんなの無理に決まってるじゃないか」

 課題、と銘打たれた二枚目の便箋の内容に目を通し、ネギは眉を潜めた。
 どう考えても無理なことをジローは言っている、そう感じたからだ。
 インパラにはなるほど、立派な武器となる角がある。硬い蹄と共に、ライオンに手痛い一撃を与えて撃退する事も可能だろう。
 しかし、野生の強者であるライオンが生まれ持った強靭な体や牙、爪は弱者の武器を砕く為に存在するのだ。下手な抵抗が功を奏するのは、むしろ稀なこと。
 鮫とモグラに至っては、論じるまでもなく鮫が勝者となるはずだ。地上で動きまわる事が難しく、土の中でしか生きられないモグラと、海の殺し屋として恐れられる鮫。住む場所からして違うという問題を抜きにすれば、百人が百人とも鮫の勝利に賭けよう。
 謎かけのつもりかもしれないが、いくらなんでもこれは酷すぎる。意図のはかりかねる課題に首を傾げた時、ネギは手にした便箋の裏側にも文がある事に気付いた。

「あれ、なんだろ? こっちにも何か書いてあるや」

 便箋を裏返し、追伸の文字から少し間を開けて綴られる文章を読み上げ、ネギの顔が強張った。

「なになに、『追伸――お前はこれを読んで、こんなの無理に決まってるじゃないかと言った』……」

 ざわ、ざわ、と木々がささめく音に鼓動が速くなった。
 声に出して読み上げ、思わず辺りを見渡して唾を飲む。自分の行動を読まれている事に、言い知れぬ不気味さを感じたのだ。
 急に、辺りの藪や木の陰が恐ろしくなった。不安そうに視線を左右にやりながら、便箋の追伸として書かれた文の残りを読む。

「――――『これから二日、山の中で生活してもらうわけだが。当然のように食べ物も水も用意していないから頑張れ。目に映る動くものは大体食える。かわいそうなんて変な仏心なんて出さず、山の恵みに感謝しつつ食え。それが山の中での礼儀だ』」

 ちなみに、山の持ち主さんには許可を取ってあるので気にするな。最後にそう締めくくられた便箋を、封筒と一緒に背広の内ポケットに突っ込む。
 そのまま頭を抱え、座り込む様は一つの流れとして完成されていた。

「うああぁぁぁ……どうしたらいいんだよ〜、こんなとこで二日も過ごせとか〜!?」

 魔法も使えず、運動能力も底辺から数えた方が早い子供に何をさせるのか。口の端から間延びして漏れる呻き声が、暗い山中に広がっていく。
 手紙を読んでいる間に体も目覚めたのだろう、僅かであった空腹感が時間と共に肥大化していく様に感じられ、それを証明するように腹の虫がきゅるり、と小さく鳴き声を上げた。

「お腹、すいたなあ……え?」

 人間、現金なものである。二日間の山中特訓より、目先の空腹をどうするかの方が重要な問題だと、ネギが思ったその時だ。
 がさり、と近くの藪が音を立てて蠢いたのは。
 目を見開き、その方向を見たネギに分かったのは、何かがこの場に近付いて来ているという事だった。
 驚きに硬直しているネギに気付いていないのだろうか、藪を揺らしている何かの気配は立ち止まる様子もなく接近してくる。
 ――――大きい。
 藪の立てる音と、一瞬だけ覗いた影から判断して、ネギは大きく喉を鳴らした。こんな山の中で遭遇する大きな生き物、熊か猪ぐらいしか思いつかない。
 さっ、と顔が青褪める。熊か猪、どちらにせよ今のネギの身体能力で逃げ切れないと、僅かに残った冷静な思考が告げていた。

「あ、あわわ――――痛ッ!」

 それでも、逃げないという選択は選べなかった。
 転げるようにその場から離れようとしたネギだが、そこはメルディアナ魔法学校時代、勉強勉強の本の虫でろくに外で走り回らなかった貧弱少年の悲しさか。立ち上がって駆け出そうとした瞬間、自分の足に引っ掛かって転倒するという間抜けな姿を披露する羽目となった。
 このままだと、捕まって食べられてしまう。ネギの頭に、山中に放置されたしゃれこうべと、その周りに骨が散在した光景が浮かんだ。
 体が勝手に震え始め、歯がカチカチと音を立てる。助けてくれる人を求めて、口が声を絞り出した。

「ふ、うえぇ……助けて、お姉ちゃん……アスナさん〜」

 ここから遠く離れたウェールズで暮らすネカネと、麻帆良にいるアスナに助けを求める。
 その後すぐ、緩さが身上の青年の顔も浮かんだが、どうしてかその名を口にする事はできなかった。この状況を生んだのがジローだから、という訳ではない。多少、それを含んでいたかもしれない事は否定できないが、事故とは言え自分が使い魔として喚んでしまった青年に助けを求めるのは、どうしても抵抗があった。
 何か少しでも困った事が起きればジローに頼り、悪い時は騒動の収拾まで丸投げにした事がある、という過去が脇に置かれているのだが、この際深くは言及しまい。

「そ、そうだ、とにかく逃げないと…………って、あ!?」

 問題は今、この場を切り抜けるにはどうすればいいか。
 我に返り、再び立ち上がって逃走を開始しようとしたネギの視界で、先ほどから近付いていた影が正体を現した。白い布で縛った長い後ろ髪を揺らし、すらりとした長身を小豆色の忍び装束に包んだ、やけに見覚えのある糸目の少女が。

「――――おや、こんな場所で人の気配がしたので見にきてみれば、ネギ坊主ではござらんか」
「…………長瀬、さん?」
「あいあい、いかにも」

 現れた意外な人物を凝視し、疑わしげに名を呟いたネギに、楓は余裕を感じさせる涼しげな表情のまま、糸目を僅かに開いて肯定を返す。
 確かに自分で言った通り、己が担任を務めるクラスに在籍する生徒の一人、長瀬楓その人である。呆然と楓を見上げながら、そんな間の抜けた事をネギは考えていた。

「こんな山奥で一体、どうしたでござる? 何か思うところでもあって、心身を鍛えにきたでござるか」
「いや、あの、その……」

 質問に口を噤む。
 まさか、ジローに眠らされた後、山中に放置されたなど話せないだろう。もし話せば、どうしてその様なことをされたのか、と質問する流れになる可能性が高い。
 となると、エヴァンジェリンとの一件を隠し通すことは、感情がすぐに顔に出る自分には難しかろう。
 故に。怪しまれると理解していながら、しどろもどろに誤魔化すしかない。
 瞳を泳がせたまま、ネギが言葉を選ぼうとした丁度その時、ネギと楓の耳にきゅう、と小犬の鳴き声に似た音が届いた。

「…………お腹が空いているでござるか」
「す、すみません、長瀬さんを見たら気が抜けちゃって……」

 顔を赤らめて恥じ入るネギに、小さく微笑んで楓は一つ提案する。

「ふむ、ならばネギ坊主、こんな場所で会ったのも何かの縁。土日の二日間、拙者と共に修業してみるでござるか」
「修業、ですか?」
「そうでござる。もっとも、修業といっても山の幸を探し、食べるという簡単な内容でござるが」

 実のところ、その単純な自給自足こそが、山籠りにおけるもっとも難しい問題であるのだが。
 その事を伏せ、楓は迷子の子供を安心させるようにネギへ笑いかける。

「まずは岩魚でも獲るでござるか。その後は山菜、茸、鳥に兎に鹿に猪に熊……うむ、忙しくて悩み事なんて吹っ飛んでしまうでござるよ」
「あの、後半で聞き流せない単語がいくつか出た気がするんですけど……」

 にこやかに話し、ぐっと伸びをしながら語った楓に、片頬を引き攣らせたネギが恐る恐るといった感じに尋ねた。
 ウェールズにいた時、兎肉の料理が出た事が無いわけではないので、そこはまだ許容範囲とするが、その後に続いた鹿、猪、熊は明らかに無視できない動物であった。
 食べられる、食べられないで考えれば、確かに食べることのできる貴重な蛋白源なのだろうが、少女と少年の二人が狙う獲物にしてはいささか大きく、下手すると大怪我しかねない動物達だ。
 もし熊に遭遇したとして、一体どうして倒すというのか。最悪の事態を想像し、顔を強張らせているネギに首を傾げ、楓は穏やかな顔から一変、真剣な表情になって厳かに告げた。

「ネギ坊主……何の罪もない鹿や猪、熊を獲って食べるのは、確かに褒められた行為ではないかもしれんでござるが。飼育された鳥や牛を殺して食べるのを上等な行為、など勘違いしてはいかんでござるよ。拙者達はただ、今日を生き延びるために了承を得ずに、自分よりも弱い立場にいる動物を獲らせてもらい、その肉を喰らわせてもらっているだけなのだから」

 そこに、野蛮的だと非難される謂れも、文化的だと胸を張る道理もない。ただただ、真摯に弱肉強食の理を受け止め、感謝すべきである。
 大自然の中、初めての山中生活を前にした少年に、楓はそうやってとつとつと自然に生きる心構えを語る。

「あの、いや、別にそんな……」

 野生動物を捕まえて食べる事に対して、文句など考え付きもしなかったのだが。そんな反論を声に出せる雰囲気ではなかったので、その言葉を胸の内に秘めておく。
 やたらと規模の大きくなった教えを聞きながら、漠然とネギはジローの手紙に書いてあった事を思い出していた。
 ――――弱の肉は強の食なりと書いて弱肉強食と読みますが、素直に肉になる弱はいないわけでして。インパラだって、その気になればライオンに勝ちますし、鮫とモグラの勝負は言わずもがな。
 ジローが言うに、この文章が伝えようとしている本当のところを理解すれば、エヴァンジェリンに勝つ事ができるようになる、らしい。
 奇しくも、ジローの残した手紙と似た内容を語った少女を横目に、ネギは密かに決心した。

(頑張ろう。きっと、今から二日間、長瀬さんと一緒に修業することで何か、エヴァンジェリンさん達に勝利するために必要なものが見えてくるはずだから!)

 ジローもそうなる事を願い、それを悟ってくれるはずだと信じて自分を山中に置き去りにしたに違いない。
 持ち前の前向きさを武器に、ネギは楓に頭を下げて力強く言った。

「長瀬さん……二日間、よろしくお願いします!」
「あいあい」

 勇ましく声を張り上げたネギを見つめ、楓は優しく、そしてどこか楽しげに返事を返した。




 ――――それから数時間後。食料として捕えた鳥を楓が手際よく捌いていく様子を見て、ネギが目を回してひっくり返ったのは、少し遅めの昼食を準備している時の事である。




 後書き?)山籠りって楽しいですよね、な話。まあ、雪山で滑った道を滑走しちゃって道に迷うと、楽しくともなんともないんですけど。
 感想指摘、お待ちしております。作品の向上、執筆速度の上昇の手助けという事で是非。

〈続く〉

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