「因果に応じて報いあり?」


 常時騒がしい麻帆良においても、格別うるさくなる時間が二つある。
 一つは、朝の遅刻を逃れるための生徒達の通学ラッシュ。そして、もう一つは午前の退屈な授業を乗り切った学生達が、午後の授業で快適に舟を漕ぐため、もとい勉学に集中するための腹ごしらえに奔走する昼休みである。
 マンモス校として広大な土地を持つ麻帆良学園。昼食時ともなれば、至る場所で弁当を広げた生徒が友人と騒ぎながら箸を動かし、学び舎の購買部や敷地内に建てられた学生食堂では、食糧確保という名の熾烈な生存競争が繰り広げられる。

「…………」

 麻帆良学園女子中等部に近い学生食堂の一つ。その中で、食券や定食を求める生徒達の喧騒と呼ぶには騒々しさが過ぎる様子を横目に、短く刈り込んだ髪と眼鏡が堅物さを演出している褐色肌の男――ガンドルフィーニ・M・グレイソンは、二人掛けテーブルに置いた鯖の味噌煮定食に箸を伸ばした。
 ふっくらと煮つけられた身に、箸の先端が抵抗を感じさせず潜り込む。皿の上に広がった煮汁へ解した身を浸し、間髪いれず口へ運ぶ。青魚全般にある独特の臭みがまったくない。生姜と味噌の風味が見事に打ち消しているのだ。
 次いで、とろりと擬音がつきそうな腹身の部分を掬うように口へ運んだ。こちらも素晴らしい味付けであることは、決して止まらぬガンドルフィーニの口の動きが伝えてくれる。
 学生食堂だからと侮れない味付けに、うむと満足げに頷きながら、ガンドルフィーニは盆の上に鎮座する茶碗を持ち上げ、口に残る鯖の味噌煮の味が消えないうちに白米を放り込んだ。
 やや硬めに炊かれた米を噛みしめる。途端、一気に茶碗の中身を掻き込みたい衝動に駆られるが、ガンドルフィーニはたっぷり数十秒もかけて咀嚼し、胃へと送りこんだ。

「ふう……」

 満足げに息を吐き、さてもう一度、鯖の味噌煮と白米の素晴らしき共演をと箸を伸ばしたところで、ガンドルフィーニに声を掛ける人物が現れた。

「ここ、いいですか?」
「ん……ああ、君か。構わんよ、座りたまえ」

 聞き覚えのある声に顔を上げ、話しかけてきた人物が予想通りであることを確かめて目の前の席を勧める。

「すみませんね。落ち着いて食べられそうな席、ここぐらいしかなくて」

 食事に水を差される形になったが、その程度で気分を害するはずもなく。鷹揚に頷いて同席を許可したガンドルフィーニに愛想笑いを浮かべ、彼に声を掛けた人物――八房 ジローは、二人掛けテーブルの空き領域へ自分の持つプラスチック製の盆を置いた。
 体育会系の部活に所属する生徒にも嬉しい大盛り用の丼が、でんと存在感を放つ。濃い茶色をした汁の中、こんもりと盛られた蕎麦が頭を出し、その脇に甘い煮汁をたっぷり吸った揚げや葱、天かすが添えられたたぬき蕎麦――麻帆良学園のトップである近右衛門が京都出身だからであろう、関東圏では『きつね』と称する揚げの乗った蕎麦を、ここでは『たぬき』と呼ぶのが普通なのだ――が、どこか上品な彩りを醸し出している。

「なるほど、狸と狐。その選択もあったか……」

 その丼の隣で自己主張することなく、ひっそりと隠れるように控えている稲荷寿司の小皿がまた、小憎たらしいまでの蕎麦定食といった趣を高めていると感じられ、ガンドルフィーニはついつい独り言を漏らしてしまった。
 空腹に耐えかねていたのだろう、席に着くや否や手を合わせ、蕎麦をたぐり始めたジローだが、稲荷寿司と丼の中身を半分ほど片付けたところで一息ついたらしく、ゆっくりと鯖の味噌煮定食を食べているガンドルフィーニへ話しかけた。

「ここの食堂は初めて利用したんですけど、中等部にあるのと一緒で賑やかですねえ」
「賑やか、というより騒がしいと言うべきだと思うがね」
「気を遣って表現しているんですから……適当に相槌打っといてくださいよ、そこは」
「む、すまない……」

 一口茶を啜り、冷静に返したガンドルフィーニの後方で、学園にあるそれぞれの食堂が数量限定で販売しているスペシャル定食の食券を賭け、生徒達が無駄に熱い競売を繰り広げる様を呆れ顔で眺めつつ、ジローも湯飲みへ手を伸ばした。

「そういえばジロー君、この間は大変だったらしいが。怪我は大丈夫なのかね?」
「大変……ああ、こないだの仕事のですか? すこぶる好調ですよ、とうに傷は治ってますし」

 僅かに流れた沈黙を嫌ったのか、唐突な話題転換をしてきたガンドルフィーニの前で怪我をした側の腕を振って見せる。
 軽快に動く様子に、それとなく不安そうにしていたガンドルフィーニの顔が緩む。

「そうか、それはよかった」
「ええ、ご心配おかけしました」
「いや、そんなに畏まらなくていいんだ、うむ……」

 話があっという間に終わり、二人の間にまたも沈黙が訪れた。予想外に会話に膨らみが生まれなかったせいか、今度は先ほどよりも随分と気まずいものがある。
 お互い、どちらともなく自分の昼食を攻略することに戻った。遠慮するように鳴る箸が食器に触れる音が、なんとも物悲しいものを感じさせる。

「……すまないな。どうも君ぐらいの歳の子が相手となると、何を話せばいいものか見当が付かなくてね」
「は?」

 先に昼食を食べ終え、ゆっくりと食後の一杯を啜っていたところに突然の謝罪。訳が分からず、訝しげに首を傾げたジローから気恥かしそうに目を逸らし、ガンドルフィーニは語った。

「君も聞いた事があるだろうが、どうも私は生徒に好かれていなくてね。まあ、素行の悪い生徒に注意して回ったりしているんだ、それも仕方ないと思っているが」

 そう言って苦笑したガンドルフィーニが周囲に視線を巡らす。つられて視線を動かしたジローにも、彼が何を見せようとしたのかすぐに分かった。
 ぐるりと一周するまでの間に、ガンドルフィーニの視線を感じて顔を顰めたり、こそこそと隠れるように席を移る生徒が何人もいたのだ、気付かぬ方が難しかろう。

「はは……」

 どう言葉を返せばいいのやら、と苦々しい愛想笑いがジローの顔に浮かぶ。
 素行が悪くて注意されるのは生徒の自業自得だけに、ガンドルフィーニを毛嫌いするのはお門違いもいいところだと言える。だが、ほんの少し前まで気楽な学生生活を謳歌できる立場にいただけに、口うるさく注意してくる教師の存在が煩わしいと思う生徒達の感情も理解できるのだ。どうにも答えずらい、というのが正直な感想だった。
 そのことはガンドルフィーニも心得ているらしく、ジローの下手な愛想笑いに苦笑を浮かべていた。

「こんな感じで、君ぐらいの年代の子と会話する機会も少なくてね。食事の時間だというのに、退屈させてしまってすまない」
「いやいや、そこまで退屈してませんよ。俺みたいなの相手に、色々な面で先輩な人が愚痴こぼしてくれるのは……なんというか、気を許されている感じがしますし」

 だから別段、気に病むほどの事でもないと手を振るジローに、それだといいのだが、と苦笑したまま呟いたガンドルフィーニが席を立つ。
 手には、食べ終えた鯖の味噌煮定食が乗った盆がある。こちらが相槌を打つ合間合間に食べていたのだろう、とても外国出身だと思えないほど綺麗に平らげられた食器が並んでいる。鯖の味噌煮が乗っていた皿の上に、僅かな煮汁と骨が幾本しか残っていないのがまた、彼の几帳面さを言葉なしに語っていると感じさせた。

「あー、俺も食器を下げないといけないので」
「それもそうか、では一緒に行くとしよう」

 食器の返却口へ向かおうとするガンドルフィーニを追って、ジローも席を立つ。
 かちゃかちゃと音を立てる盆を持ち、汚れた食器相手に奮闘するパートの中年女性が待つ返却口へ並んで歩く。その途中、ふと何かに気付いてガンドルフィーニが言った。

「しかしなんだね、考えてみると君とこうしてゆっくり話をするのは、粋楽で歓迎会をした時以来か」
「言われてみれば……」
「あれからしばらくして、ネギ君を正式に教師として認めるかどうかの試験があったし、その関係で随分、走り回ることになったからな。私達とじっくり話す時間なんて取る暇なかっただろう」

 食器を返し、揃って食堂を出た後、二人はその足で近くの広場にあるベンチへと向かう。
 何となく、この場で御開きにするのが惜しく、もう少し話をしたいと感じていたのだ。

「ここら辺の景色、何度見ても飽きませんね」
「毎年、この季節を楽しみにして訪れる人がいるぐらいだからな。私も休日にはよく、家族と散歩に来たりするよ」
「へえ……」

 広場の辺りには、数えきれないほどの桜の木が植えられていて、春を誇示するように桜花が咲き乱れていた。その光景は、まるで桜色の雲に包まれているのかと錯覚させるほどで、時間が許すならばいつまでも眺めていたいと思わせる。
 さくさくと芝生を鳴らして歩きながら、男二人で似合わぬ感嘆の息を漏らした。

「勝手に選んだが、問題ないかね?」

 つい足を止め、馬鹿のように桜雲から舞い散る花びらに見惚れていたジローに、ガンドルフィーニが振り向きざま聞いた。
 そのまま答えを聞くよりも早く、広場の入り口に並んだ自販機で買った缶コーヒーを一本、ひょいとジローへ投げ渡してくる。

「うわっ、た、っと」
「何をしているんだ、まったく」

 桜に見惚れていたことに加え、生徒に堅物教師として恐れられている人物の思いがけない行動に虚を衝かれてしまい、落としかけた缶相手にジローが滑稽な動きを演じる。
 意外に鈍くさいところもあるらしい。自分の気まぐれが原因とも知らず、もう一本購入した缶コーヒーのプルタブを引き上げながら、ガンドルフィーニは笑いを噛み殺していた。

「ありきたりな話題ですまないが……いい天気だな」

 缶コーヒー片手に、男二人がベンチに座っている光景は華がなくて困ると、冗談めいたことを言って笑いながら空を見上げる。自然、ジローの視線も上を向いた。
 確かにガンドルフィーニの言葉通り、抜けるような青空が広がっている。すっかり春めいた陽射しを注ぐ太陽に目を細めながら、馬鹿みたいに上を向いていると欠伸が溢れた。

「失礼、あんまり天気がいいもんで」
「構わんよ、休憩時間まで肩に力を入れる必要もない」

 だからと言って、神多羅木や弐集院といった先生達のように常時、肩の力を抜いていそうな感じでいるのは、生徒の模範となるべき存在として避けてもらいたいが。
 教師として優秀ではあるが、性格の部分にやや難がある知り合いが多いことに頭痛を覚え、眉間に指を当てて嘆息したガンドルフィーニの目が、今も隣で空を眺めているジローを映す。

「……瀬流彦君やシャークティ君から聞いた評価から判断すると、君もあの人達に近しい気もするのだが、羽目だけは外しすぎないでくれよ?」

 自分で挙げた同僚の名前から嫌なことでも思い出したのか、先までの楽しげな色から一転、不安に駆られた色に瞳が染まっている。
 これまでに余程の苦労があったのだろう、釘を刺しにきたはずのガンドルフィーニの声には哀願の響きが含まれていた。

「…………最大限の善処と努力はしたい、そう思っています」
「その言葉が聞けただけで幾分、心が軽くなるのが悲しいよ私は……」
「まだ、いいんじゃないですか? 俺は……そんな言葉、聞いた覚えがないですから」

 それっきり会話が途切れ、二人はただぼんやりと空を眺めた。妙に陽射しが眩しく感じられるのは気のせいではなかろう。
 これ以上、多くを語る必要はなかった。ジローとガンドルフィーニの胸中には、ただ共通の想いがあると感じられたからだ。

「平穏無事なのが一番ですよね、何事においても」
「そうだね……本当に、その通りだと思うよ」

 思い出したように缶コーヒーに口をつけながら言葉を交わし、二人は極大のため息を吐き出した。
 昼休みの終了五分前を伝える鐘が鳴るまでの短い間だが、今この瞬間だけは心安らかに在りたい。そんな願いさえ感じ取れそうな嘆息。
 世界が平和でありますように、なんていうのが不可能不可避の儚い願いで、数時間後には崩れ去ると分かっていても、人はそう願わずにいられないのだ。

「……君は君で色々大変だろうが、頑張りたまえ」
「――――――――はい」

 何かに気付き、気遣わしげな表情でガンドルフィーニが肩に手を置く。ただ弱々しく頷くことしかできない自分が、ジローには心底悲しく感じられた。
 背広の胸ポケットから響く、着信を知らせる携帯電話の振動。相手は確認するまでもない。個別に設定してある振動パターンが、嫌というほど電話の相手を語ってくれている。

「今度は何やったんだろ、ネギの奴」

 空に向けて放たれたジローの呟き。
 答えは、もう数時間後に聞きたい。世の中それほど甘くないと知りながら、着信の切れた携帯を取り出して、ジローは着信履歴の全件削除を迷わず実行するのだった。





 昼休みの終了を教える鐘の音を聞きながら、ジローはガンドルフィーニと別れて一人、麻帆良学園女子中等部へと続く道を歩いていた。
 うららかな陽気に、自然と表情が緩む。普段から居眠りしかけの老犬だの、気の抜けた炭酸水だの言われる茫洋とした、人好きしそうな顔に拍車がかかる。道行く用務員や、学園内の木々の手入れに来たらしい業者の人間と挨拶を交わし、ぶらりぶらりと気持ちよさげに歩く姿が余計に、ジローの緩い感じを強調していた。
 さわりと頬を撫で、通り過ぎていく風の心地よさに目を細めて伸びをする。思いがけず楽しかったガンドルフィーニとの無駄話に、ここ最近、鬱屈としていた心が幾分軽くなったように感じられた。

「ハアッ、このまま南楓荘に帰って寝たいな」

 女子中等部に近付き、門の近くに置かれた悪趣味な近右衛門の胸像が見えた頃。
 冗談が欠片も混じっていない呟きをジローが漏らし、面倒極まりないといった眼差しを前方に向けた。
 もうすっかり見慣れた赤毛の少年が、くしゃくしゃと情けなく顔を歪めて駆け寄ってくる姿に、苦手な食べ物を山盛りで供されたかの如く口角が下がる。

「ジローさぁぁん、どうして電話に出てくれないの!? さっきから何回も掛けてたのに!!」
「あー、そうだっけ? マナーモードにしてたから気付かなかったんだな、うん」

 腰に手を回し、纏わりつきながら非難するネギの頭を軽く叩きながら、ジローは白々しく空へ視線を向けて嘯く。
 まさか無視した挙句、着信履歴まで綺麗に消去したとは言えまい。爪の先ほどの罪悪感に目を細めながら頭を撫で、それとなく御機嫌取りに走っておいた。
 やや乱暴な手付きではあるが、親しい人間に甘えさせてもらえたからだろう、今にも泣きだしそうだったネギの表情が和らいでいく。

「んで、何の用だったんだ?」

 半泣きではあるが、一応の落ち着きは取り戻したように見える。
 そろそろ離れてもらって構わないだろう。ずっと抱きついた状態でいるネギを体から引き剥がし、ジローが何度も電話を掛けてきた理由を尋ねた。

「そ、そうだよ、大変なんだジローさん! 僕、僕、命を狙われてるんだよ!!」
「へー……誰に?」

 あまりと言えばあまりな内容。だが、最後まで話を聞いてみねばなるまい。
 被害妄想でも抱いたのだろうかと、目の前で慌ただしく手を振る少年に密かに心を痛めてみながら、ジローは話の先を促す。

「う、うん、昨日のことなんだけど……」

 そう前置き、どう話したものかと頭を捻りながらネギが昨夜、遭遇した自分の命を狙う人物について語り始める。
 ここ最近、生徒達の間で噂になっている桜通りの吸血鬼。運悪くそれと遭遇し、襲われそうになっていた宮崎のどかを、たまたま周囲の警邏に当たっていたネギが救出したらしい。
 どうして都合良く、のどかの危機に駆け付けることができたのか。話の途中、ふと疑問を覚えて聞いてみて、

「今朝、桜通りで倒れていたまき絵さんの体から魔力を感じて、それで気になってパトロールしてたから」

 しれっと答えたネギに、報告・連絡・相談の三項目は浮かばなかったのかと頭痛を覚えたりもしたが、協力を要請されたらそれはそれで苦労したはずで、どちらにせよ同じだったはずと納得しておく。
 仮に相談されていても、昨夜は期限付きの仕事を終わらせるのに必死で手伝えなかったのだ、文句を言う筋合いはない。軽い嘆息と共に、ジローは話を中断させたことを詫びた。

「悪かった、話を続けてくれ」
「だ、大丈夫? なんだか気分悪そうだよ?」
「あー、いや、昼飯食べすぎたんだよ」

 純粋に心配してくれる少年に多少の罪悪感は覚えつつ、頼みもしていないのに転がってきたらしい問題で被る被害を抑えたい一心から、話がスムーズに進むよう聞きの姿勢に徹する。
 顔を覗き込んでくるネギを追い払うように手を振り、さも苦しげに腹を擦るジローを心配そうに眉を顰めながら、ネギが話を再開した。
 ネギ自身、どう話せばいいのか悩んでいるのか、所どころ要領を得ないで迷走する内容を繋ぎ結んでした結果、判明した事実にジローの腹部が本当に痛みを訴えた。

「するってーと何だ、うちのクラスにいるエヴァンジェリンが桜通りの吸血鬼の正体で、真祖で凄腕の悪い魔法使いだったけど、お前の父親にかけられた呪いのせいで十五年も中学生していて、それを解くためにお前さんの血が大量に必要と」

 我ながらよく内容を理解できたと、満足げに額の汗を拭っているジローと違い、ネギは暗い表情で頷いたまま俯いてしまう。
 この様子では気付いていないらしい。横目にネギを窺いつつ、ジローは胸中でため息をつく。
 のどかだけでなく、これまで桜通りの吸血鬼ことエヴァンジェリンに襲われた生徒達は皆、ネギの血を手に入れるための下準備で狙われただけで、悪く言うならとばっちりを受けただけなのだという事は、胸の奥にしまっておく事にする。
 さらに言うなら、襲われた原因であるネギでさえ、エヴァンジェリンに呪いをかけて十五年も放置したネギの父親とは名ばかりの人物の被害を被っているのだから。

(無駄に追い詰めるのは面白くないし……いいや、別に)

 面白くないというのは、子供を苛めるようで気分が悪いという意味だが。誰かに対してというわけではなく、自分を納得させるための言い訳を声に出さず述べ、先ほどから俯いて肩を震わせているネギへ手を伸ばした。
 軽く曲げた中指を親指で押さえ、力を溜める。そして、額の前まで運ばれたジローの手に気付いたネギが顔を上げた瞬間、押さえられていた中指が放たれる。

「痛いっ!?」
「いつまでも暗い顔してっからだろ。ここで悩んでても仕方ないし、ほら動いた動いた」
「う、動いたって、何をすればいいのか教えてよ〜」

 放し飼いの鶏を小屋へ移動させる田舎の農夫のように、ジローが手で追い立ててくるのに対し、逆にネギはデコピンにしては痛い一撃に額をさすりながら、助けを求めて縋りついてくる。
 傍から見れば、やや歳の離れた兄弟がじゃれついているようにも感じる光景。実際は溺れる者が藁に縋ろうとしている光景が正解で、さらに詳しく説明するなら、川で流されて困っていたところ、隣を板きれに座って悠々と通り過ぎようとした青年を発見し、これ幸いと相乗りを強要する少年の図であるのだが。

「あー、もう邪魔くせえな。そんなもん自分で考えろよ、首席なんだろうが」
「うえぇっ、そんなの酷い!? 一緒にいいアイデア考えてよ〜!!」

 ついには腕にしがみ付いて駄々をこね始めたネギに、心底迷惑そうに顔を歪めたジローだが、ここで放り捨てた事が原因で暴走されるのはもっと迷惑だった。
 ならば、嫌々ではあるが協力してエヴァンジェリンに襲われた時の対処法か、あるいは二度と襲われないようにする為の案を考えた方がいいだろう。木の上の蝉よろしく、腕にぶら下がっているネギの重さに歯を食いしばりながら、ジローは適当に思いついたものを提案していく。

「めんどくさいし、高畑先生とか学園長に報告上げてしまうってのはどうだ?」
「そ、それも考えたけど……エヴァンジェリンさんだって僕の生徒だし、停学とか退学はかわいそうだよ」
「十五年間もこんな学校に通う方が、よほどかわいそうだと思うがね」

 上司に報告する事を考えはしたが、相手が生徒であるという理由で思いとどまってしまう。それは教師としての優しさと甘さのどちらなのだろうか。
 少しばかり悩むが、すぐにどちらでもいい事だろうと思考を放棄し、おどけた感じに眉を歪めて呟いておく。

「んじゃ次。襲ってきたのを返り討ちにした後、二度とちょっかいかけたくないって思う程度に灸を据えてやるとか?」
「や、灸を据えるって、どんなことするの?」
「あー、同じクラスにいる茶々丸があいつの従者って話だし、目の前で色々酷い目にあってもらうとか。もしくは吸血鬼らしく、弱点責めのオンパレードを十セットお試しとか、悪い魔法使いの自称に合わせて、魔女狩りの異端審問の内容を一通りとか効きそうだと思う」
「効きそうだと思うっていうか、死んじゃうよソレ!! きゅ、吸血鬼の真祖って言ってたし、もしかしたら死なないのかもしれないけど、僕は嫌だからね!?」
「俺も嫌だよ。拷問なんて胸糞悪いこと、極力したくないし」

 泡を食って叫ぶネギを冷やかに見下ろして肩を竦めたジローだが、笑みの形に歪んだ口元は必要に迫られた場合、実行は吝かでないことを感じさせる。
 はっきり察知はできずとも、ジローが剣呑な空気を漂わせていることはネギにも理解できた。

「エッ、エヴァンジェリンさんがまた襲ってくるかもしれないからって、そんな酷いこと考えちゃダメだよ!」
「どの辺が駄目なんよ? 別にやられる前にやる、とか言ってないし。向こうがやってきたからやり返す、それだけのこったろ」

 情けない半泣きの顔を強張らせ、必死に自制を呼びかけてくるネギに嘲笑さえ浮かべてジローが返す。
 立派な魔法使いを目指す魔法先生や魔法生徒が多い麻帆良学園。そこで人を襲うという蛮行に及んだのだから、当然やり返されることは覚悟の上だろうと。

「う、うぅ……でも、エヴァンジェリンさんだって好きで人を襲ったわけじゃ……」
「いやいや、何故に襲われて泣きついてきた奴が擁護に回ろうとしてんのよ?」
「だって、今のジローさん何するか分からなくて怖いんだもん……」

 自分で口にしながら、説得力がないと感じているのだろう。エヴァンジェリンへの過激な対応策を改めさせるため、目を泳がせて言葉を選ぶネギに、呆れ顔でジローが突っ込みを入れる。
 身も蓋もない答えに憮然としながら、ならどうしたいのだとジローが問い尋ねようとした時だった。

『――――変わってないッスね、ネギの兄貴』
「あ?」
「えっ、だ、誰?」

 突如、二人の耳に飛び込んできた、どこか人工的な印象を与える声。
 本来なら喋る事のできないものが無理に声を発している。そう感じてしまう、癖のある甲高い声だ。
 だが、姿は見えない。きょろきょろと周囲を見渡すネギに、正体不明の声の主が言葉を重ねる。

『敵であっても優しさは失わない。そんな甘さも兄貴のいいとこだって俺っちは思うけどよ、時には情けをかけねえことも大事だぜ?』
「え? ええ?」

 いきなり現れた割に、自分の事を理解している節のある闖入者に戸惑うネギを余所に、ジローは眠たげな眼差しを中空へ送っていた。
 それに気付き、一向に姿を見せない声の主に恐れを抱き始めたネギが話しかけようとした、その瞬間。

「あ、あれ!?」

 ネギの目の前から、ジローの姿が一瞬にして消えた。
 思いがけない事態に目を丸くした少年が感じ取れたのは、怖気の走る速さで何かが脇を通り過ぎた音。

「っしゃあ!」
『ヒッ!? うぎゃああぁぁぁっ!!』
「えっ、なになになに!? 助けて、お姉ちゃーーーーん!?」

 ジローが消えてすぐ、耳を劈く悲鳴が周囲に響く。断末魔と呼ぶに相応しい叫びに心臓が飛びはね、故郷のウェールズにいる姉に助けを求めながら、ネギはその場にしゃがみ込んだ。
 間を置いて、近くに生い茂った通路脇に並ぶ藪が音を立てる。ぎょっと顔を向け、ズボンが汚れるのも構わず後方へ這うネギの視界に入ったのは、訝しげに首を傾げたジローであった。

「……ジ、ジローさん?」
「あー、変な気配があったから反射的に捕獲してみたんだけど。珍しいな、白毛の鼬なんて……それともアルビノのハクビシン?」

 手の中で力無く垂れている生き物の正体が分からず、ジローは自分の知識の中にある類似生物の名を口にした。
 ハクビシンというのはネコ目ジャコウネコ科に属する動物で、見た目は体の大きなフェレットといったところか。漢字で『白鼻芯』と書くように、本来なら額から鼻にかけて白い線があることを特徴とする。
 日本において唯一生息すると考えられるジャコウネコ科の動物で、江戸時代に描かれた『雷獣』の正体ではないかとも言われているが、果樹園などに現れて深刻な被害を与えることから、害獣として扱われる一面も持っている生物だ。

「よく分からんけど一応、絞めとくか。変な病気持ってたら怖いし、念入りに焼いて消毒もしないと……」

 ぶつぶつと物騒なことを呟きながら、ジローが手の中でぐったりと伸びている白くて細長い生き物を両手で持ち直し、雑巾を絞るように迷いなく捩じろうとする。
 一応という理由で命を絶たれようとしていることを知り、白くて細長い生き物が小さく蠢いて抵抗の意思を示した。

『ま、待て、待ってくだせえ旦那……俺っちは敵じゃねえッス! むっ、むしろネギ兄貴の味方! 助っ人!! アドバイザー!!』
「おお……白毛鼬が喋った」
『ち、違えッス、俺っちは鼬でもなきゃフェレットなんて、飼い主に媚を売る愛玩動物でもねえ。俺っちは猫の妖精に並ぶ由緒正しいオコジョ妖精……アルベール・カモミールってもんッス、旦那!』

 半信半疑ではあったが、先ほどの会話の闖入者の正体が手の中でもがく生き物であると知り、僅かばかりだが手の力を緩めた瞬間、耳障りな勢いで喋る自称オコジョに、ジローの眉が不快そうに寄る。
 いっそこのまま、何も聞かなかった事にして縊り殺しておいてもいいのでは。
 自分の身に厄介事しか運んできそうにない、由緒正しいオコジョ妖精とやらの存在を完全無欠に忘却したいとジローは考えた。
 だが、そんな希望が通るほど人生がうまく運ばない事は、カモミールの命乞いに敏感に反応したネギの言葉を聞くよりも早くに承知している。

「えっ!? カ、カモ君って……もしかして、あの時のオコジョ妖精のカモ君!?」
『そうッス! 五年前、罠にかかってたとこを助けてもらって、その後も色々お世話になったあのカモ君! 遠路はるばる、恩を返しに来たッスよ兄貴ぃ!!』
「あー、やっぱり知り合いなわけね、君達」

 油断をしたが最後、体を半分捩じられた状態で器用にジローの手の内から脱出し、ネギと久方ぶりの再会を喜んでいる小動物をジトリと眺めながら、粘りつくようなため息と共にジローがぼやく。

『おう、俺っちと兄貴の関係に興味ありありって顔してるな? いいぜ、今日から兄貴の助っ人仲間になるんだ、俺っちも旦那とは腹割って話さないといけねえと思ってたんスよ』
「いらんわ。誰もお前のことを知りたいなんざ言っとらんだろうに……。それ以前に、旦那ってなんだ旦那って」
『旦那は旦那さあ。気配を消してたのに余裕で捉えた感知能力に、一瞬で藪の中に潜んでた俺っちを捕獲する身体能力。こんだけ腕が立つんだ、こりゃあもう、旦那と呼ぶしかねえッスよ!』

 耳聡くぼやきを聞きつけ、ちょこちょこと素早い動きで足元に寄ってくるカモミールに顔を顰め、迷惑極まりないとジローが言うのに対し、拒絶された側のカモミールはそんな反応を全く意に介した気配もなく、馴れ馴れしく話を続けていた。
 やれウェールズには自分の仕送りを待つ病弱な妹がいるだの、やれネギのパートナー探しを急がねばならないだの。カモミールの話を右から左に聞き流しながら、ジローはどうでもいいと胸中で吐いていた。
 せっつく必要もなく、ウェールズから麻帆良までやって来た経緯を喋ってくれるのは手間が省けてありがたい。が、ジローが聞きたいのはそんな事ではなかった。

「で? 結局、お前さんは何しに来たんよ」
『は? 何ってそりゃ、兄貴の助っ人に……』
「だから。助っ人は別に構わんし、むしろ歓迎したいんだけど。何をどうして、どーやってネギの助っ人やるんさね?」
『え……いや、それはあの〜』

 単刀直入に尋ねられ、言葉に詰まったカモミールをたたみ掛けるように言葉を続ける。

「穀潰しのペットを世話する余裕なんて、うちにはありませんからね!」
『どこの母親の言葉だよ!? てか俺っち、マジで使えるから! ネギの兄貴の仮契約相手だって、オコジョ妖精の好感度が分かる程度の能力で一発だし!!』
「ね、ねえ、ジローさん、カモ君も僕のためにイギリスから来てくれたんだし……」

 必死に食い下がるカモミールの姿に情を絆されたのだろう。おずおずとネギが救いの手を差し伸べようと口を開く。

「飼ってあげようよ、世話はちゃんと僕がやるから!」
『あ、兄貴ぃ……やっぱ優しいッスね! できれば、ペットじゃなくて使い魔扱いしてもらいてえんですが、この際、世話してもらえるならどっちでもいいッス!!』
「そこを妥協していいのか?」

 フォローとしては微妙なはずだが。感涙にむせび泣くカモミールに首を傾げながら、ジローは足元のオコジョ妖精を摘み上げた。この場で続ける会話に疲れを覚えてきたのか、瞼がやけに重たく感じる。
 飼う飼わないの小芝居も終わらせ時だと、カモミール片手にジローは言い付けた。

「まあ、お前がちゃんと責任もって世話するならいいんだけど。……ちゃんと予防接種と去勢は済ませろよ」
「ほ、ほんと!? ありがとう、ジローさん!!」
『ちょ、ちょっと待った!? どーして、俺っちの第二の魂を切除する方向で話が進んでるんスか!?』

 事実上の男としての死刑宣告を行うジローと、その言葉に疑問を持つこともなく、満面の笑顔で喜びの声を上げたネギに対し、今度こそ顔を青くしたカモミールが待ったを掛ける。
 だが、相手にはしない。というより、相手にできなかったと言うべきか。
 突然ジローが空いた手を伸ばし、片手に握るカモミールの口を掴んで塞いだ。

『モガッ、モガモモンガッ!?』
「……往来で動物虐待というのは正直、感心しないですよ」

 現在進行形で雄の尊厳が失われようとしているだけに、口を塞がれた程度でカモミールが完全に黙ることはなかったが、それでも喋るオコジョという珍妙な存在だけは誤魔化せたらしい。

「ゆ、夕映さん!? え、えっと、これはその、別にカモ君を虐待してるわけじゃなくてですね……!」
「よう、夕映ちゃん。こんな場所で奇遇だねえ」
「奇遇もなにも、この通りは校舎まで一直線に繋がっているですよ?」

 慌てふためくネギと、それに反比例するように落ち着き払ったジローに、呆れを含んだ低い声が送られる。二人と一匹に声を掛けたのは、どこか冷めた眼差しを持った少女――綾瀬 夕映であった。
 手には買ってきたばかりと思われる、紙パックのジュースと同じ商品が詰まったビニール袋。どうやら校舎外にある自販機を使用したらしく、紙パックの表面には『生姜ミルクスパークリング』と、あまり見かけない商品名が印刷されている。

「まった変わったもん飲んで……そのうち味覚壊すよ?」
「酷い言い草ですね。多少奇抜ではありますが、むせ返るぐらいの生姜の香りと辛みが牛乳や炭酸にマッチして、得も言われぬ味わいを生む一品です」
「ああ、それはよかったですね。でも、お前もどうよって感じに買い込んだソレを袋から取り出すのは止めてほしいかな」

 変化に乏しい表情のまま、ビニール袋から生姜ミルクスパークリングを取り出す夕映をやんわりと拒否する。人の味覚にけちを付ける気はないが、飲みたくないと思うものを勧められて飲むほど、八房 ジローの性格は良くなかった。
 気のせいか残念そうに、取り出した紙パックを袋に戻した夕映が口を開く。

「そろそろ午後の授業が始まるので、私は教室へ戻ろうと思うのですが……。ジロー先生はともかく、ネギ先生は授業があったはずですよ」
「はう!? そ、そうだ、次は3Aで授業だった!!」
「忘れるなよ、仮にも先生が。まあ、俺が電話を無視……もとい、気付かなかったから捜しにきたんだろうけど」

 自分が担任するクラスでの授業を思い出し、慌て始めたネギを横目にため息をつくジローに目を細め、わざとらしく夕映がため息をかぶせた。
 一言、先に教室へ行くと残してネギがその場を去るのを見送って、ジトっとした眼差しを傍にいる青年へ移す。

「で、教室に戻る前に聞いておきたいのですが。なんですか、その動物」
「何って聞かれてもねえ。どこから見ても、ただのオコジョさね」
「ほう、ただのオコジョですか。それにしては先ほど、ネギ先生も交えて楽しく会話されていたようですが」
「気のせいでねえか? こいつを飼う飼わないで話してたのを指すなら、こいつも交えてたって言えるかもしれないけど」

 いつの間にか、手の内でぐったり垂れているカモミールに気付き、握る力を緩めたジローが空っとぼけた。
 冷や汗の一つも浮かべるところを焦った様子もなく、夕映の目の高さまでオコジョを持ち上げ、器用にカモミールを握る手だけで彼の口を開閉させる。

『あっし、名前を留吉と申しやす。生まれも育ちもイギリスの田舎、訳あってこちらへ参上しやした。気軽にカモとでも呼んでくだせえや、お嬢さん』
「留吉とカモになんの関連もないと思うです。あと、気持ち悪いので口も動かさず、オコジョの声を当てるの止めてもらえるですか」
『……声が、早めに、聞こえるよ〜』
「…………口を動かす前に声を出す方が、より気持ち悪いですから。ネタ的にも危ないですし、止めとくですよ」

 日常生活では使用しないだろう腹話術を披露するジローに、やや引いた感じに距離を開けて夕映が釘を刺した。恐らく、テレビで見かけることの多い腹話術芸人とネタが被っていると言いたいのだろう。
 カモミールを肩の上に移動させ、にやりと人を喰った笑顔でジローが手を上げる。

「ご忠告どうも。それじゃ、俺もこれでやる事が意外と多いから……ああ、忙しい忙しい」
「まったく忙しそうに見えないのが不思議ですが。私もさっさと教室に戻るとするです」

 白々しく忙しいと繰り返して校舎と逆方向へ歩いていくジローを見送り、小さく肩を竦めた夕映は飲み終えた生姜ミルクスパークリングの紙パックを近くのゴミ箱に捨て、手に提げたビニール袋を鳴らして歩き始めた。
 丁度、予鈴が鳴るか鳴らないかのタイミング。そこでふと、一言ぐらいなら伝えておく余裕があるだろうと思った夕映が立ち止まり、まだ後ろの通りを歩いているだろうジローの方へ振り返った。

「そうそう、今噂になっている桜通りの吸血鬼のことでお願いが一つありました。今日の放課後、図書館探検部の部活でハルナ達と遅くまで学校に残るので、すみませんが――――おや?」

 職員室に戻った時でいいので、その辺りの事を他の中等部職員に伝えておいてほしい。そう告げようとした夕映の顔が不審そうなものになる。
 中等部の校舎入り口から一直線に伸びている通り。そこをぶらぶら歩いているはずのジローの姿が、どういうわけか影も形も見えなかったからだ。

「変ですね、もう姿が見えないですよ」

 訝しげに呟いた夕映だったが、その顔も徐々に楽しげなものへと変化していく。
 会って話す程、おかしなところ、不思議なところが次々と出てくる人間。それが夕映の八房ジローという人間に対する認識だ。
 本人は自分の言動がおかしいと感じることなど無いのだろうが、麻帆良で過ごしてきた中でジロー以上に奇抜で珍妙な人物を見た記憶は、彼女の知る限りあまりない。
 極稀にいた奇妙奇天烈な人物で思い浮かぶ人間のほとんどが、何故か自分の所属するクラスの人間だったりするのはこの際、目を瞑っておこうと密かに決めて呟く。

「麻帆良にいると、それが別に不思議でもなんでもなく感じるので見落としがちですが……何かありそうですね、ジロー先生は。でなければ、ネギ先生のサポートなんてしそうにない人っぽいですし」

 どうして、今頃になってそんな疑問を抱いたのか自問する。
 これは親友の一人である宮崎のどかがネギに抱いているような感情や、もう一人の親友である早乙女ハルナのような、創作活動のための下心丸出しの興味ではなさそうだ。
 強いて言うなら、八房 ジローという人間に知的探究心をそそられている、だろうか。
 親しくなればなる程、知らない事実や新しい知識をこちらに提供してくれると思わせるのだ、ジローは。

「藪をつついて蛇を出す、触らぬなんとやらに崇りなしとは言いますが……ね」

 何事にも対価は必要である。これはどこで目にした言葉かと一瞬考え、すぐに思い出した夕映が半眼になって呟いた。

「そうそう、ハルナが押しつけてきた漫画に似たような台詞があったですね」

 ほとんど流し読みで内容はろくに記憶していないが、便利な力を得る代わりに、自分の手足と兄弟を正体不明の存在に奪われた主人公の話だったか。
 悪魔というのは、真に親切で人間臭いと聞いたことがある。
 小さくかぶりを振り、吐息と共に夕映が疑問を口にする。仮に、ネギが何かを得ようとしているとして、その手伝いをするジローは一体、何を対価に求めているのだろうかと。

「無難に、平穏無事な生活を求めますかね」

 自分で勝手に想像して出した答えだが、意外と遠くない気がして、夕映は小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。

「フッ、私としたことが過大評価でした。悪魔というより、便利に使役される小悪魔や魔人辺りがいいとこです」

 昼夜問わず喚び出され、あれやこれやと命令されて愚痴を溢す姿がはっきり想像できる。
 キャラに相応しいイメージに奇妙な満足感を得ながら、夕映はもうすぐ授業が始まる教室へと急ぎ始めた。





 白雲の川がゆったりと流れている。急ぎ足で教室へ向かい始めた夕映を見送った後、ジローは遥か上空を眺めて呟いた。

「あー……いい天気だ。なあ、唐突にむかついたんだが、どうしたらいいと思う?」
『唐突すぎて意味わかんねーよ! つーか、聞いてる時点で首捻ってるし!?』

 どうしてか、教室へ急ぐ夕映の後ろ姿を見ていたら腹が立った。本人からして意味の分からない理由を述べ、ジローがカモミールの首を捻っていた手を外す。
 麻帆良学園女子中等部の校舎玄関から真っ直ぐに伸びた通り。それに沿って植えられた桜並木。その樹上にジローはいた。
 どうしてそんな場所にいるのか。理由はなんてことはない、少しでも早く夕映の目が届かない場所に行きたかったからだ。
 桜色の花で包まれた一本の太い枝に腰かけ、隣にカモミールを座らせる。普通のオコジョの骨格から考えると、人間と同じように木の枝に腰かけるのは難しいはずなのだが、カモミールはさほど困った様子もなく枝に座って煙草を取り出している。

『悪いね、旦那。ちっと一服させてもらうぜえ』
「吸い殻はちゃんと処分しろよ」

 旨そうに煙を燻らせるオコジョ妖精に、内心もう少し妖精らしくしたらどうなのかと思いながら釘を刺しておく。

「そんで? お前さん、悪名高い『闇の福音』相手にどんな策を引っ提げてきたんよ」
『ふぃ〜……なんだ、やっぱりお前さん知ってんじゃねえか。エヴァンジェリンが元六百万ドルの賞金首だってこと』

 前触れもなく、エヴァンジェリンについての話を切り出したジローを横目に窺った後、カモミールは青年と同じように空を見上げた。

『ま、エヴァンジェリンがどういう奴かは、こっちの世界にいりゃ自由に調べられるしな。兄貴はともかく、旦那みてえな手合いが知らねえわけねえか』

 ネギと親しい者に共通する、あの子は仕方がないと許容するような、それでいて諦めているかのような苦笑。
 不快さを隠しもせず、ジローがため息をついた。
 カモミールが浮かべた苦笑。それだけで、このオコジョ妖精がネギの味方であると信じてもいい。十数年ほどの付き合いになる直感が、そう告げたからだ。

「調べたっていうか、教えてもらっただけさね。エヴァンジェリンが昔、痛い二つ名でブイブイ言わせてた、って」

 湧きあがった不快感を飲み下し、何事もなかったようにジローが話を続ける。
 誰に聞いたかも、どういう経緯で聞いたのかも答えなかったのだが、カモミールもその辺りについて探ることはしない。
 聞いたところでジローが答えるか分からなかったこともあるが、何よりその質問に意味がないと心得ているからだ。

『それ以外はとくに知らねえ、ってことスね』
「まあ……その時は別に興味なかったし。正直言うと、今もあんまりだけど」

 ネギの使い魔としてどころか、サポート役としても不真面目な態度で答えるジローの目は、カモミールではなく前方の桜にだけ向けられていた。
 まるで、自分の存在に毛ほどの関心も抱いていないと、そう告げているようにさえ感じる。ジローの様子を窺い、考えながらカモミールは自分が知る限りのエヴァンジェリンの情報を話していく。
 といっても、カモミールが知っているのは『まほネット』――魔法使い御用達の、裏の世界の情報の多くが掲載された情報サイトである――を使って得られる程度のものなのだが。

『本当はもう少し早くに顔出すつもりだったんスけど。偶然、兄貴が妙な金髪幼女と事を構えてんのを見てよ、ちょっと気になって相手を洗ってみたら驚いたぜ』

 十五年前、千の呪文の男――ナギ・スプリングフィールドによって退治されたと噂される真祖の吸血鬼が、日本の学校で中学生をやっているのだ。カモミールの驚きも当然と言えた。
 首に賭けられた賞金を狙って現れる刺客を、後々語られるほど冷酷無比に打ち破る彼女の姿を知る者が見れば、悪い夢を見ているとさえ思うはずだ。

『退治されたはずの闇の福音が生きてた、ってえのも驚きだが。それ以上にあれだ、よくもまあ何年もおとなしく学生できたもんだ。ねえ、旦那もそう思わねえですかい?』
「…………」

 聞いているのか聞いていないのか。相槌の一つも返さぬジロー相手に、カモミールは気にした様子もなく饒舌に喋っている。

『闇の世界で生きてた極悪人にゃ、別の意味で厳しかっただろうに……』

 エヴァンジェリンが十五年もの間、麻帆良学園で学生を続けていたのは、偏にナギにかけられた登校地獄の呪いのためだが、それだけが理由ではないはずだとカモミールは睨んでいた。

『ま、調べた限りで女子供を手にかけたって記録はねえし、エヴァンジェリンの野郎もあれで案外、望まず手を汚してたのかも知れねえな』

 しんみりと、同情した声で呟く。小動物然とした外見の割に、幾度も危ない橋を渡って世間ずれしてきた彼にしては珍しい言葉。
 半分は本気で、だがもう半分は人情のあるところをアピールして、話の調子を合わせやすくしようというカモミールなりの話術であった。
 良くも悪くも、魔法使いやそれに関わる者は人の情に訴えかける話に弱く、引き込まれやすい。その辺りを熟知しているオコジョ妖精なりの処世術といったところだ。
 これで少しでもジローがこちらに心を開き、話やすくなってくれれば。そんなカモミールの下心を含んだエヴァンジェリンへの同情に、ようやくジローが反応を返す。
 もっともそれは、カモミールが考えていたのと随分違う、皮肉や嘲笑を含んだ冷たいものだったが。

「女子供を手にかけたことのない極悪人、ねえ。クッ、クク……」
『あ? なんでい、急に……』

 ようやく返ってきた反応の酷薄さに呆気にとられ、尋ねようとした言葉が詰まる。
 自分の見たものが信じられないと言いたげに、カモミールの顔が強張った。隣に座った青年の、思いもよらぬ表情を瞳に映したせいで。
 何が面白いのだろうか。口元に笑いを浮かべ、撫ぜるように眉間を指で擦っている。

「なあ、その女子供は手にかけないって、もしかして本人の口から出たわけじゃねえよな」
『え、な……あ、ああ、一応そう聞いてるッスけど。氷漬けの状態から救出された女の賞金稼ぎが、そう言って自分を見逃したって証言したらしいですぜ』
「はっ、そりゃまた御大層な主義だこって」

 カモミールの答えに耐えきれなくなったのか、顔に手を当て、エヴァンジェリンの矜持に則ったらしい行為に笑い始めた。
 反らした喉を小刻みに震わせ、引き攣った音を漏らしている。だというのに、指の隙間から覗いた瞳は笑っておらず、底光りする剣呑さを湛えていた。
 このような顔もするのか。目を丸くしたカモミールが胸中で唸る。
 第一印象は、寝起きの座敷犬。ネギと会話している様子に、緊張や警戒といった単語と縁遠い面をしていると感じていた。その直後、身を潜めていた場所にあっさり気付かれ、捕獲されたことで寝起きの座敷犬から、昼寝を楽しんでいる山犬に評価は格上げしておいたのだが。

「あぁ、立派立派。フフ、フッ、クククッ……そんな選り好みで殺ってたんじゃ、今の惨めな境遇もお似合いだあね」
(兄貴が懐いてる辺り、真性の悪人ってわけじゃねえんだろうが……この旦那、ろくでもねえ面しやがる……)

 何があってどう過ごせば、こうも歪に人を嘲った笑いをできるというのか。
 幻視したのは、人にあらざる獣。人畜無害な顔でうたた寝しながら、夢の中で神経を研ぎ澄まし、不用心に近付いた獲物の死角で舌なめずりをする強かな存在。従順な犬に近しい姿をしながら、その実、己の縄張りを侵す者に容赦なく牙を剥く四足の化生だ。

『え、選り好みってなあ、どういう意味で?』

 笑いすぎで目尻に浮かんだ涙を指で擦ったのを見計らい、カモミールが恐る恐る、エヴァンジェリンの主義を『選り好み』と笑った真意をジローに尋ねた。

「女子供は殺してないなんて、エヴァンジェリンのさもしい妄想だよ、妄想。だいたい考えてみろって、親からすりゃ幾つになっても子供は子供だって。フフ、賞金稼ぎの中には、賞金首捕まえて親を養ってた人もいたかもな。あぁ、息子に先立たれて失意で自殺した母親もいたかもしれん。夫に先立たれて、不幸街道まっしぐらな奥さん幼子もいちゃったりしてなあ」
『そりゃ……いや、そうかもしれねえけどよ』

 自分が、殺した殺されたが当たり前の、覚悟を持った者同士だけに焦点を合わせて話していたことに気付かされ、カモミールの反論は弱々しく途絶える。
 弱者の側の意見など、何一つ考えていなかった。まして、それが強者の側にいるはずのジローから出るとは、思ってもみなかったからだ。

「ま、仕方がないっちゃ仕方がない。弱肉強食じゃないけど、賞金稼ぎが弱かったからエヴァンジェリンに殺された。弱いから悪い、ただそれだけの話」

 言い終え、けれどもとジローが付け加える。

「それで納得できないのが普通だからなあ……。特に、自分はこれをしないとか保険かけて手を汚す奴に家族や知り合いを殺されたら――――きっと、どんな手を使ってでも仕返ししてやりたいって思うだろうさ」

 ぞっと毛が逆立った。生々しい、『弱者』の怨嗟の声を聞いたように錯覚させられたのだ。

「覚悟のある方からすりゃこの程度の恨みつらみ、人も殺せない弱者の戯言で笑い飛ばすんだろうけどね」
『弱者の戯言……。旦那は、自分がそっち側の人間だって言いてえんですかい?』

 足元を探る様に尋ねたカモミールに気を悪くする様子もなく、ジローは静かに苦笑して人を殺すなんて怖くてとてもとても、と呟いた。
 が、そうした軽い調子で話を流す様がカモミールからすれば逆に空恐ろしく、背筋を撫でる寒気に体を震わせながら、自分の観察眼の甘さを密かに呪った。

「本当は人に怪我させんのも好きじゃないんよ。のわりに、友達には『あなたは笑いながら女の子の顔面にひざ蹴りとか、お腹に裏拳下突きするタイプ』……なんて酷い評価されてたんだけど、どうしてだろうな?」

 冗談っぽく話しながら、ジローがくつくつと喉を鳴らしているのを呆然と眺めるカモミールの胸中に、じわじわと後悔の念が沁み出してくる。
 記憶にあるのと変わらない、優しさよりも甘さが際立つネギの姿に安堵しながら、そんな少年を利用しようと考えていた自分。

(しくったぜ……。使い魔として雇ってもらって手柄を立てて、脱獄した罪を無かったことにするために兄貴のとこに来たってのに……)

 少年に縋りつかれ、不機嫌そうにしながら本気で拒まない青年を与し易しと、不用意に近付いて行動を共にするべきではなかった。
 心底後悔を覚え、じりじりと腰を揺って距離をとろうとしたカモミールを目の端に捉え、ジローが凄絶な笑みと共に手の伸ばす。ここで出ると予想もしていなかった言葉と共に。

「そんなに怖がってくれるなよ。別に、お前さんが元下着泥棒で脱獄犯だったりしても、俺は気にしないんだし」

 ぱっくりと、オコジョ程度の大きさなら楽に呑み込めそうな紅い亀裂。
 歪で不吉極まりない笑顔。

『げっ、何でそれを……い、いやいや、嫌だなあ旦那! 俺っちみたいな小物のオコジョ妖精が脱獄なんてたいそーな真似、できるわけねえでしょ――――!?』
「こんなところに、ネカネさんからのエアメールがあるんだけど。読み上げようか?」
『スンマセンした!!』

 もしかして、当人はこれで微笑んでいるつもりなのだろうか。
 ジローの表情にどん引きしつつ、必死に言い逃れしようとしたカモミールだが、トドメとも言えるネギの姉が送った手紙の存在に、その場で高速の土下座をすることとなった。
 ある意味で潔いカモミールの行動にようやく、ジローが表情をまともなものへ戻す。

「気にしないって言っただろ。だから――――仲良くやろうや、なあ?」
『…………へ、へい』

 利口な奴は長生きできる。穏やかな微笑を浮かべたジローの囁きに、カモミールはただ馬鹿正直に頷くしかなかった。
 知りあって間もない関係ではあるが、この青年が浮かべる笑顔で一番怖いのは、この穏やかそうに口元を緩めながら、なのに目がまったくもって笑っていないこの表情だと、そう確信しながら。





後書き) 第十話、桜通りの吸血鬼編(前)終了。覚悟のある人間同士が殺し合いしました。だから遺族の方は、恨んだり憎んだりは無しにしましょう、で済むほど世の中シンプルにできていませんな話。
 途中からだれてしまった気がする。あと、改正進めるごとにジローの本性が外道になっている気がしないでもない。ついでに書き直す度、テキスト容量が大きくなっていく「魔法先生!の使い魔?」、楽しんでもらえているのだろうかと疑問に思わなくもない。私は楽しんで書いていますが(時間が欲しくて仕方がない)。
 ガンドルフィーニ先生はある種の萌えキャラだろうと残して。ではではー

〈続く〉

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