「紅葉咲く頃に始めましょう?」


 数年前の火災で訪れる者がいなくなって久しく、荒れ放題になった教会。
 夏は学生や、はしゃぐことでしか自己主張できない若者の肝試しの場として、それ以外の季節は世を拗ねた連中の溜まり場と化してしまった建物の中で、尋常とは思えぬ獣の咆哮が響いていた。

「ヒ……」
「ちょっ、やばい、マジやばいって!?」

 あまりの声量に、普段ならピクリとも動かない無表情を引き攣らせるココネと、そんなココネを抱きかかえて動揺する美空の声が、礼拝堂で休むことなく舞う埃を揺らした。
 天井近くにあるステンドグラスから、微かに月の儚げな蒼光が送られている。舞台の役者を際立たせる照明の様な光の下、二つの影が幾度となくぶつかり、刃を打ち合うのに似た甲高い音を奏でていた。

「――――くっ!!」
『フシュルルル……!』

 礼拝堂の床を足裏で擦り、着地したシャークティの口から焦りの声が漏れる。
 何ら難しいことはない廃教会の調査のはずだった。仮に問題が起きたとしても、少しばかり力をつけた妖精辺りを懲らしめる程度。そう考えていたのだが、それはとんだ誤算だったらしい。
 あまり広くない礼拝堂。壁の高い場所にあるステンドグラスを通って降り注ぐ鮮やかな月光のお陰で、周囲の状況を把握するのに支障はない。手の平に収まる大きさの十字架――魔法媒体としてのみならず、中距離への投擲や近距離戦での武器としても利用という、彼女の所属する宗派でのみ普及している戦闘術で使用されるものだ――を両手に構え、シャークティは視線の先で低く唸る影を睨みつけた。

「お、おっきい犬さん……」

 前方に倒れ込むほどに低く伏せ、黒く淀んだ瞳にシャークティを映している影の正体が、薄闇に慣れたココネや美空の目にもようやく、ハッキリとした。
 それはココネの言葉が表す様に、犬という生物が最も近い姿をしている。だが、体長二メートルを超えるものは、彼女達が保有する犬知識の中のどれとも合致しない。
 ただ、全身を覆う灰色の癖っ毛や、無駄のない細身でしなやかな体つきから無理矢理、現実の犬種に該当させるなら、勇猛であるがきわめて穏やかな気質を持ち、家庭犬としての人気も高いアイリッシュウルフハウンドがそれに近かった。

「いやいや、こんな状況でおじいちゃんおばあちゃんの心をゲットなこと呟かれても! だいたい、大きいってレベルじゃないから。犬じゃなくて狼でしょ、あれ!?」

 先ほどのココネの呟きに、必死で押し殺した叫びで美空が抗議した。
 腹を空かしているのか、大人でも噛み殺せるだろう牙の並ぶ口から絶えず涎を垂らす姿は、なるほど確かに美空の主張に同意せざるを得ない。少なくとも、目の前のそれをアイリッシュウルフハウンドと呼称することは、世の愛犬家を敵に回すに等しいだろう。

『オオオォォォォンッ!!』
「うひいぃぃっ!?」

 大きく喉を反らした巨大アイリッシュウルフハウンド、らしき獣が遠吠えを発する。
 激しく震えた空気に天井近くのステンドグラスが耐えきれず砕け、礼拝堂の床に降り注いだガラスの音が、ココネを抱えて退避しながら絞り出した美空の悲鳴を掻き消した。

「っ、早くココネを連れてここを離れなさい!」
「わ、わかってますってば! こんなの、私達いても邪魔にしかなんないしっ、頼まれても手伝いたくありませんよ!?」

 下手なホラー映画辺りに登場すれば、遭遇した人間を恐怖の坩堝に叩き込んだ後、腹の虫抑え程度に食い散らかすこと間違いなしの獣だ、恐怖するのは仕方あるまい。が、人知れず人々を守るという任を背負う魔法使いとして、そのように情けない姿を晒すのは精進不足にも程がある。
 腰を抜かしかけ、這這の体でココネの手を引いて逃げようとする美空の醜態に眉を顰め、だが今はそんな場合でないと自身を胸中で叱咤したシャークティが、見習いの称号の取れない少女達に退避を促した。

「シ、シスターシャークティは?」
「あっ、ちょっと、ココネ!」

 指示されるよりも早く、自主的に逃走しようとしていた美空の手を振り払って、その場に残ったココネがシャークティへ尋ねる。今にも崩れそうな笑う膝で必死に踏み止まり、感情の読みづらい無表情に確かな心配の色を浮かべて。
 獣と一緒に主へ祈りを捧げる趣味はないと、少女の手を掴み直して再度、逃走を図る美空に腰を落として抗いながら、恐怖に掠れた声で質問を繰り返す。

「シスターシャークティも一緒に逃げよ」
「大丈夫だからっ、心配しなくてもシスターシャークティに任せたら余裕であの化け物、退治してくれるから! ほら、私達は邪魔にならないよう、ささっと逃げなきゃダメなの!!」
「でも……」

 子供心に、自分達だけが逃げ出すことを受け入れられないのだろう。目の前の獣をしかと見据えながら、シャークティは場違いな少女の責任感と優しさを好ましいと感じた。

『グワッ!!』
「ハッ!」

 恐るべき俊敏さで、だが牽制も何もなく飛びかかってきた獣の爪を手にした十字架で弾き、横に跳んで距離を取りながら告げる。

「私の心配なら無用ですよ、ココネ。考えていたよりも厄介な相手ではありますが、油断しなければどうということもありません。美空、ココネのことを頼みましたよ?」
「りょ、了解ッス!」

 流石に、二人がこの場に残る方が戦いづらいとまでは言わなかったが、より安全かつ速やかに凶暴化した獣を退治するために、ココネを連れていくよう彼女の従者を促す。これ幸いと、むずがるように抵抗するココネを抱きかかえ、美空が礼拝堂の扉へ向かって駆け出した。
 これで心置きなく、全力を出して戦うことができる。背中にココネを抱えて走る美空の足音を聞き、内心安堵する。
 両手に持った十字架の他、服の内側などに隠して常時、携帯している十字架を周囲に展開して、先よりも警戒心を露に唸っている獣へ語りかける。

「さて、少し待たせてしまいましたね……ここからが本番です」
『ゴルルルッ……』

 十数個もの魔法媒体を同時に、しかも正確に扱っての多方面攻撃。雨霰と襲い来る魔力の込められた十字架の攻撃に、さらに無詠唱から出される魔法の射手や中級魔法を織り交ぜたもの。それが、シャークティの戦闘法の真骨頂である。
 その全てを見切り、彼女に接近するのは容易ではなく、可能なのは相当な動体視力か、あるいは特殊な能力を持った眼の持ち主ぐらいだろう。
 修羅場を潜った回数は少なくとも、魔法使いの重要な拠点の一つである麻帆良で魔法先生を務める身。力を持ちすぎていると言っても、元は犬の霊であろう獣が相手。こうして一対一で戦う状況を作りだした以上、万に一つも負けることはない。
 実戦に裏付けられたられた揺るがぬ自信とともに、シャークティは今頃になって、己が絶対に敵わないだろう相手と敵対していると理解したらしい獣を見据えた。

『グル、ウウウゥゥ……!』

 シャークティの纏う魔力に気圧されてか、尻尾を巻いて後退りする獣。怯えたような姿に、微かにだが憐れみがシャークティの胸中に生まれる。そうした感情が攻撃の手を緩ませると知りながら、だが同情せずにはいられなかった。
 自身の責務について不真面目な美空を叱りつけるイメージ故、何事においても冷静に、悪く言えば冷徹にこなすように映るが、元来、思いやり深く、理不尽な不幸などに素直に心を痛め、どうにかして慰めたいと考える心優しい人物である。裏の世界の事情に一般人が巻き込まれぬよう、こうして怪物化した獣を狩るような仕事も、魔法先生の重要な責務の一つと割り切ってこなしているが、痛みを感じる相手を好き好んで傷つける趣味などない。

「……できる限り、楽に浄化してあげたいと思っています。言っても無駄だとは思いますが、あまり抵抗しないでいただけますか?」

 薄暗い礼拝堂の中に、割れた窓から蒼白い月明かりが差し込む。その光を返して、うっすらと輝く紫の瞳に憂いの色を浮かべながら獣へ語りかける。
 当然、正気を失った獣が彼女の言葉に応えられるはずもなく。返ってきたのは敵意に満ちた唸り声と、口の端から覗く牙の白さであったが、それでもシャークティは、誠意が伝わらぬのは己の不足と言うように嘆息を漏らした。

「仕方ありませんね……」

 呟き、獣へ攻撃するために足を踏み出そうとする。絶対的優位に立っていると無意識に信じ、相手はただ滅されるしかないのだと疑うこともせず。
 この瞬間こそが、彼女が自ら生む最大の隙だとも知らずに。

『――――オオオオォォォォンッ!!』
「なっ……きゃあ!?」

 突如、尻尾を巻いて怯えていたはずの獣が四肢を張り、凄まじい雄叫びを上げた。ごうごうと礼拝堂の中を颶風と化した咆哮が駆け回り、周囲に転がる朽ちた長椅子やごみを巻き上げる。
 唸りを上げて舞う長椅子の一つがシャークティの体を打ち、軽々と礼拝堂の壁まで弾き飛ばした。もし、身体強化の魔法と咄嗟に展開した魔力障壁がなければ、打ち身程度では済まなかっただろう。

「く、うっ……!」

 障壁越しだというのに、衝撃で視界が白んでいる。よろめきながら必死に立ち上がったシャークティは、頭を振りながら思考する。
 こちらの予測を上回る量の魔力放出。たまたま適正があったにしても、尋常ならざる力の発露であった。

(油断、した……。変化したばかりの動物霊と侮っていましたが、まさか風の魔法を使えるなんて……!)

 強引な魔力の込め方に、意味を成さない穴だらけな術式の構成。何からなにまで出鱈目ではあったが、単純に威力の面で見れば、麻帆良学園の中でも上位に食い込む魔法先生の一撃に匹敵しよう。
 どうにか立ち上がったものの、壁に縋る様にして立っているのを好機と見た獣が跳躍し、鋭い爪を振るってシャークティへと襲いかかる。

「あうっ!?」

 視界はぼやけていたが、棒立ちのまま引き裂かれるわけにもいかず、半ば倒れ込む形で獣の前脚を躱す。
 僅かに爪の先端が触れたのだろう、膝辺りから布地の裂ける小さな音も聞こえた。こんな時にとも思うが、地面を転がって獣から距離を取り、手で音のした辺りを探る。
 美空などは走り回るのに向いていないとよく文句を言うが、淑やかさや落ち着きを持たせるのに相応しい、足首付近まで覆う修道服――一度、美空がこちらの方が動きやすいと、膝上までしか丈のない修道服を持ってきたことがあったが、当然のように却下し、ついでに二時間の説教タイムへ突入した――の足を覆う部分が、まるでチャイナ服のスリットのように裂けてしまっていた。
 浮ついた印象を与えない服の生地を割って、程よく締りながら、女性らしい肌理細やかさと瑞々しさを主張する足が覗いているのを見て、カッと頬が熱くなる。

「な、あっ、うぅ……」
『ルルルッ……?』

 羞恥の感情に体を固くし、裂けたスカートを掴んで足を隠しているシャークティの様子を訝しく思ったのか、追撃に出ようとしていた獣が一瞬、踏み止まった。
 霊地である麻帆良の魔力で急速的に進化した存在は、時に人間に近しい理性を持つことがある。もしかすると、異常な魔力適正によって得た動物らしからぬ理性が、休まず攻撃すべきという本能よりも彼女が罠を仕掛けたのかもしれない、という疑心を選んだのかもしれない。
 どちらにせよその逡巡は、シャークティに太ももを露にして戦う覚悟を決める時間を与える幸運であり、また同時に、

『――――オォォンッ!!』
「しまった……!? 待ちなさい!」

 何かを嗅ぎつけたのか。ステンドグラスが割れて外の風が吹き込む窓に鼻を向け、何かを伝えるように遠吠えした獣が、礼拝堂の扉を突き破って外に出てしまう結果も生み出してしまった。
 シャークティの顔がさっと青褪める。届くはずもないのに掛けた制止の声が消えるよりも早く、外の庭へ飛び出た獣の咆哮に混じって、廃教会からそう遠くない場所で待機していたらしい美空やココネの、魔法使いと呼ぶには修練が足りず、力無き一般人と大差ない少女達の悲鳴が聞こえたのだ。
 自分の不甲斐なさに歯噛みしながら、全力で強化した脚力任せに獣を追って廃教会の外へ出る。
 そこでシャークティが目にしたのは、恐怖に体が竦んでしまっているのか、獣を前に尻もちをついて動けずにいる少女と、そんな少女を守ろうとして、だが力及ばず叩き飛ばされたのだろう、少女や獣から十数メートルも離れた場所に倒れ、しかし必死に起き上がろうとしている美空の姿だった。

「ココネッ、美空!!」
「シ、シスターシャークティ……」
「シスターシャークティ、ごめん……私、役に立たなかったや……」

 目の前の獣に釘付けになっていた瞳が揺れ、廃教会の入り口に現れたシャークティへ向けられた。そんなココネの様子に気付き、同じくシャークティを見た美空の口から、謝罪と嘆きの入り混じる言葉が漏れる。

「待ちなさいっ、あなたの相手は私のはずでしょう!?」
『ル、ル、ル、ル、ル……』

 呼びかけられていると理解したらしく、肩越しにシャークティを見た獣の口が歪んだ。
 笑みとは程遠い歪な変化であったが、それでも彼女に意味は伝わった。氷でなぞるような嫌な感触が、シャークティの背筋を走る。

(わ、笑った……? まさか、適性があったとは言え、これは……まずい!)

 魔力の暴走。シャークティの頭の中を、そんな単語が過ぎる。
 適性を持ち、人間に勝るほどの知恵と力を持ったはいいが、あまりに早い自身の変化に耐えられず、身に余る力のままに暴れ、最終的に自滅してしまう現象のことを、麻帆良の魔法使い達はそう呼んでいた。
 さっき見せた獣の表情は、自分の知る魔力の暴走と少し違う気がするのだがと考えながら、今はそんな考察よりもココネを助けることを優先すべきと、先ほど破かれた修道服のスカートに気を回すことも忘れ、両の手に十字架を構えたシャークティが飛び出す。

「ハアッ!!」

 手元を離れ、高速で回転する十字架が獣へ迫る。ココネが側にいるため、問答無用の一撃を叩き込むわけにはいかない。
 少女を傷つけぬように、だが獣が少女から離れずにいられない攻撃。下手に受ければ肉を裂かれ、十字架に籠めた魔力は体の内側に深手を負わせるだろう。それを嫌い、ココネから離れたところを狙う。
 新たに取り出した十字架に、先に投じたものの数倍はある魔力を籠めながら、シャークティは獣の動きに全神経を集中させた。
 失敗は許されない。否、失敗するわけにはいかない。粘りつくように遅い時間の中、シャークティの目が獣へ肉薄する十字架を捉える。肩越しに彼女を見返していた獣の目が、弓形に細まった。
 また笑った。驚きや危機感ではなく、何故。訝しさと場違いな相手の余裕に、シャークティの心がざわめいた。警告音。理由も分からぬ状況の中、実戦を通して培った勘が、すぐに動けと告げた。
 しかし、どうして。正体不明の焦燥に困惑するシャークティの目の前で、それは起きた。
 ギンッ、と夜の闇に刃のぶつかる音が響く。
 続けざまに二度。間髪入れず、風雨に晒されて薄汚れた廃教会の壁に、彼女が獣に向けて投じたはずの十字架が二つとも突き刺さっていた。

「…………え?」
『グル、クルルルルッ』

 何が起きたのか理解できず、間の抜けた声が漏れた。

「し、尻尾が……増えた?」

 シャークティの呻きに答えるように、半身を起こした美空が呟く。
 彼女達の視線の先で、獣が見せつけるように尻尾を揺らしていた。本来なら一本しかないはずの尾が二本、ゆらりゆらりと蠢いている。
 まるで、獲物に狙いをつけた大蛇のようだ。ありえない獣の変化に意識を奪われ、棒立ちになっていたシャークティに、尾の片割れが迫った。
 動いた。そう感じた瞬間、長さを増し、鞭と化した尾が彼女の体を横殴りに襲う。

「カハッ、う……!」

 新たに取り出した十字架を使い、展開した障壁ごと弾き飛ばされる。
 なんとか身を捻り、体勢を整えて着地したシャークティだったが、その顔には隠し切れない痛みと焦りがあった。

「しまった……ココネ!!」

 片膝をついたシャークティが叫ぶ先に、まだ獣の前で尻餅をついて動けずにいるココネがいた。

「――――ァ」
『ブグルルッ』

 怯えながら小さく呟いたココネの視界一杯に、ぞろりと牙の並ぶ獣の口が広がる。
 顎を伝ってこぼれる涎に、顔を撫でる生温かい獣臭。少女に死を感じさせるのに、これ以上のものはなかった。

「つっ……来たれッ!」
「美空!?」

 突然、シャークティの視界の端で倒れていた美空が動いた。
 まだ獣に叩かれた痛みは残っているのだろう、時折顔をしかめながら、それでも懸命に駆ける。
 懐から取り出したのは、主人となる魔法使いと契約することで出現する仮契約カード。力がなくとも、従者となった者に主人を、守ると決めた人間を救う力を与えてくれる、魔法具を喚ぶためのカードだ。
 短い鍵となる呪文に反応し、仮契約カードが光を放つ。次の瞬間、美空の足を緑のラインに小さな羽を模したマークの付いた、白いランニングシューズが包んでいた。
 普段、所属する陸上部では決して履かない魔法のシューズ。その理由は至極簡単だ。

(ココネッ!)

 仮契約よって与えられるのは、主人と契約した人間に最も適した魔法の道具。
 ココネとの仮契約で美空が得たのは、装備した者に身体強化の魔法など足元にも及ばぬ脚力を与える魔法のランニングシューズであった。
 美空の体はまるで風の如く、獣の前に座るココネへ向かう。こんな時ばかりは、速く走らせる以外に能力のない魔法具がありがたい。遮二無二動かす脚をさらに酷使する。
 ココネのいる場所まで、ほんの十数メートルといった距離。部活で自分が担当する短距離で考えれば、一番速さの乗るところだ。
 間に合う、いや絶対に間に合わせる。
 悪戯好きで勉強は苦手、普段の態度も不真面目なところが目立つ少女。そんなクラスでのおちゃらけた印象をかなぐり捨て、必死の形相で手を伸ばす。あと一歩、地面を蹴れば届く。そう確信した美空に、獣の前にいるココネから警告が飛んだ。

「ミソラ、危ないッ」
「えっ……!?」

 助けるはずのココネから届いた警告の意味を理解するよりも先に、美空は自分の足が地を離れたことに気付いた。
 ぐるりと回った視界に驚きながら見たのは、地面に轍に似た跡を残して這っていく獣の尻尾である。先ほど、シャークティを弾き飛ばしたのと同じように、常識を無視して伸びた尾を使って、駆け寄ろうとする美空の足を払ったのだろう。

「んにゃろっ……!」

 だが、足払い程度で美空の体は止まらない。足がもつれて転倒するようなアクシデントは、部活の中で何度となく体験している。
 迫る地面に対し、美空は咄嗟に出かけた手を引っ込め、前転する形で受け身を取った。そうした方が結果的に痛い目を見ずに済むし、レースに復帰するのも早くなるからだ。
 肩や背中に石ころが当たり、涙が滲む。だが、受け身自体は上手くいった。

(ははっ……私、アクションのできる美人女優できちゃうかも!?)

 体の無駄な強張りを拭うための軽い言葉と思考。
 短距離走の大会や記録に挑む時、彼女がよくやるおふざけ。本当なら、そんなことを考える余裕も時間もないと分かっている。が、それでも考えずにいられなかった。

『グル、ル、ル、ルッ……』

 もはや妖魔と呼んで差し支えない獣が、自分を真正面に見据えて笑っていた。
 尻尾が増えただけでは足りなかったのだろうか、廃教会の礼拝堂で見た時よりもさらに一回り大きくなった獣の姿に、全力疾走したように汗が流れ出る。

「さ、さぁて、どうしようかなーっと」

 一応、いつでも走れるよう注意しながら後方を窺う。ここにいる面子の中で唯一、目の前の獣を倒せる人間であろうシャークティが立ち上がって、両の手に十字架を構えて頷く姿を確認できた。
 幸いなことに、獣の注意はこちらに向いている。自分はこのまま、獣が出してくるはずの一撃をどうにか躱して、ココネの救出に専念すればいい。後の始末は戦闘に復帰したシャークティがどうにかしてくれる。
 その考えは普段の美空がしてしまう、責任その他を誰かに丸投げして逃げ出す行為ではなく、力なき自分が幼い少女を助け出すためにできる、美人だが少し口うるさい指導役に対する精一杯の信頼であった。
 瞬きする間に飛んでくるであろう獣の一撃を見逃すまいと、震えようとする足を平手で叩いて喝を入れる。ピシャリと乾いた音が響き、その音に反応したように、獣が前脚を撓めて前傾姿勢となる。
 来る。美空だけでなく、彼女の後方で自分が指導する少女達を無事、救い出すために動く機を探っていたシャークティもそう感じて、二人同時にその場から動きだそうとした時だった。

『グオォォンッ!?』
「えっ!?」

 ココネの投じた石ころに片目を打たれ、振り返った獣が悲鳴とも怒声ともとれる唸りを上げた。
 まったく予想していなかった状況に、駆け出そうと身構えていた美空の足が地に縫いつけられたように固まる。それは、十字架を手に身構えていたシャークティも同様であった。
 少女のあり得ない行動に思考の空白が生まれ、助け出すための絶好の機会を二人から奪い取る。

「ミ、ミソラに手、だしちゃダメ……」

 何も考えられなくなる混乱の中、ココネだけが動くことができた。
 カタカタと震える足で立ち上がり、地面に転がっていた石ころを、美空に襲いかかろうとした獣へ投じる。今度は獣の肩に当たって虚しく跳ね返ったが、それに落胆することなく、ココネは次の石ころに手を伸ばした。

「ば、馬鹿っ、何やってんのココネ!?」

 そこでようやく思考の復活した美空から、火に油を投じるが如き浅はかな行動を起こした少女に対する怒声が響いた。
 ココネが何故、自分の身を危険に晒してまで獣に攻撃したのか。そんな理由は十分に察しがついている。だが、それでも声に出して非難せずにいられなかったのだ。
 今でこそ、魔法使い同士の争いの絶えなかった時代のように、魔法使いの従者が肉の壁となってでも主人を守らねばならない、ということはなくなっている。
 二十年ほど前に起きた魔法大戦以降、仮契約は男女間の仲を取り持ち、あるいは強力な魔法具を手軽に入手するための便利なシステムとして認識されるようになりはしたが、それでも従者となった者が身を挺して主人の魔法使いを守るという、仮契約の根底に存在し続ける義務が消えたわけではないのだ。
 だというのに、従者である自分が主人に、しかも十にも満たない幼子に心配され、尚且つ庇われようとしている状況。
 体の中で血がカッと沸騰するような感覚。それは恐らく、自分に対する情けなさから来たものだろう。

「私を助けようとかしなくていいからっ! アンタは私のマスターさんなんだから、そんな危ないことしなくていいんだよ!?」
「ミソラ……?」

 ココネの顔に、どうしてだろうという疑問の色が浮いた。理由までは分からなかったが、自分のせいで美空が傷ついてしまったらしいと気付いて。
 そんなつもりではない。自分はただ、危ないことをしようとする美空を助けようとしただけで。
 胸中で述べる言い訳が通じるはずもないと知りながら、ココネは石ころを投げようとしていた手を下ろした。ポトリ、と地面に落ちて転がる石の音が虚しく鳴る。

「っ、何をしているのですか、あなた達は!?」
「あっ!!」
「う……?」

 そこに届いたシャークティの警告に、美空とココネは二人して、今が主従関係で怒ったり落ち込んだりする時でないことを思い出す。

「どきなさいっ!!」
「キャッ……!?」

 棒立ちになっていた美空を半ば突き飛ばす形で、シャークティが前方へと駆ける。視線の先には、右の前脚を振りかぶってココネへ振り下ろそうとする獣の姿があった。

『ウウゥゥゥッ!』
「ひぅ……」

 今この瞬間にも、小さな少女の命は消え去ろうとしている。その事が、シャークティの体を強引に突き動かす。
 しかし、遅い。
 ココネを助け出すためには獣の体を迂回し、ほぼ同時に前脚の一撃を防ぐか、少女を抱えて躱すかしなければならない。自分にそれができるかどうか考え、シャークティは奥歯を軋ませる。
 間に合わない。そう、冷静に判断を下している自分が無性に腹立たしかった。

「ココネッ!!」
『グオオォォォッ!』

 地面にへたり込んだまま、必死に手を伸ばして叫んだ美空の目に映ったのは、無情にも前脚を振り下ろした獣の後ろ姿。
 蒼白の月明かりの下、鈍く光る脚先の爪によって、ドッと鍬でも打ち込んだように地面が捲られ、土塊が辺りに飛び散った。

「くっ……」
「――――嘘?」

 シャークティの足が止まり、目の前の光景に呆然とする美空の口から震えた声が漏れる。
 二人の頭にあったのは、無残に叩き潰されて血肉を撒き散らすココネの姿。確かめなくてはならないのに、二人とも足が動かなかった。

「ココネ……ココネッ……!」

 ココネを呼ぶ美空の声が虚しく響く。だが、呼びかけに声は返ってこない、返ってくるはずがない。無意識にそう確信していた。
 こうなったのも全て、ココネの側から離れてしまった自分の責任だ。自責の念に堪えかね、頭を抱えて蹲りかけた美空が異変に気付いたのはそんな時であった。

『グル、グルルルッ!』
「な、なに……え?」

 獣が何かを探るように首を振っていた。ぐるりぐるりと、巨体に似合わぬ機敏さで同じ所を回る獣が中心に据えている場所。獣の体に邪魔されて見えずらくはあったが、そこにあるはずの物がないことに美空は驚きを禁じ得なかった。
 つい先ほど、獣の脚に叩き潰されて転がっているはずのココネの死骸がない。幼い少女の姿はおろか、飛び散っていてもおかしくない肉や血の跡がどこにも見受けられないのだ。
 まさか。淡い期待が胸に灯った。と同時に、自分が叩き潰したはずのココネを捜していた獣がある方向に顔を向け、低い唸りを発する。
 弾かれたように、美空の視線が獣が見るのと同じ場所へ向かう。
 その先に、彼女はいた。

「ったく、出る幕なくて良かった言いたかったのに。なして自分からピンチに陥るさね、嬢ちゃんはよ」

 月を背景に、黒々と枝葉を広げた木の中ほど。腰かけるのに丁度よさげな太さのある枝の一本。蹲踞の形でそこに座って、軽く窘めるようにぼやくジローの小脇に抱えられた状態で。

「ゴメンなさい……」
「ああ?」

 洗濯物宜しく腰の辺りに腕を回されながら、垂れ下がった手足同様に項垂れたココネが小さく呟いた。蚊の鳴くような声を耳聡く拾い、どうして謝るのかと視線で尋ねるジローに、ただでさえ小さな体を一回りも二回りも縮めている。
 怖がらせるつもりは微塵もなかったのだが、どうも表情が強張っていたらしい。空いた方の手で顔の筋肉を解す様に摩る。
 と同時に、夜気に隠れて漂ってくる生臭い錆の匂い。生理的な嫌悪感を誘う香りに、強張っていた顔が今度はあからさまに歪んだ。

「い、痛い?」
「んー、まあ、ちょびっとだけな」

 伏せていた顔を上げ、おずおずと聞いてきたココネに苦笑を返す。
 右の肩から背中にかけて肌が裂け、じくじくとした痛みを訴えるが深手ではなかった。出血が多いせいで見た目は酷いが、骨や腱は無事なので腕は問題なく動く。しっかりと血止めさえしておけば、すぐに塞がってしまうだろう。
 指先まで伝ってきた血を振り飛ばして二、三度拳を握って開いてとココネに見せる。

「この通り手は動くから、そんなに落ち込まなくていい。嬢ちゃん……ココネはあれだ、ほれ、要領を知らなかっただけだしな」
「ヨウリョー?」
「それについては、また後ほどってな」

 首を傾げ、物問いたげな顔になるココネに口元を緩めたジローの体が、夜鳥の如く宙へ飛び出した。次の瞬間、ついさっきまでジローが座っていた木の枝が切り落とされ、バサバサと音を引き摺って地へと落ちていく。

「怖ぇ怖ぇ。鎌鼬まで使えるとかパワーアップしすぎだろ、あの犬」
『グルルルルッ……!』

 柔らかな音を立てて着地したジローが、肩越しに呆れた半眼を獣に送った。
 とっておきの手を難なく躱されたのが悔しいのか、獣は口から溢れる涎を気にする様子もなく、牙を剥いて唸っている。

「コ……コゴネェッ……! 良かったよ〜、心配かけないでよバガァ〜!!」
「ゴメン、ミソラ」
「美空……凄い面になってるからまず鼻かんどけ」

 そんなものは知ったことではないと、ジローの小脇に抱えられているココネに美空が手を伸ばし、縋る様にしながら鼻水と涙の溢れた顔で安堵していた。
 年頃の娘にあるまじき形相に引くことなく、自分の従者であり、また歳の離れた姉代わりとも思っている美空の頭を撫でながら、ココネは己の身を顧みなかったことを謝る。

「無事ですかっ、ココネ!?」
「シ、シスターシャークティ、いたい……」
「怪我はしてないですから安心してくださいな、シャークティ先生」

 地面に下ろされたところへ駆け寄り、掴みかかるようにココネの肩を抱いたシャークティに、自然と浮いてくる笑みを溢しながら落ち着くよう告げ、ジローは依然こちらを睨んでいる獣へ向き直った。

「ジロー君、あなた背中……!」

 背に庇うように立ったジローを見て、シャークティが息を呑む。傷そのものは浅手だったのだが、流れ出る血は如何ともしがたく、ジローの背中は手桶で水でも浴びたかの様に赤く染まっていた。

「あー、かすり傷ですよ、説得力はないかもですが」

 見た目の酷さに反し、振り返りそう答えたジローの口元には場違いな笑みが浮いていた。
 余裕さえ感じさせる表情にどう返したものかと固まるシャークティから、視線を彼女の腕に抱かれてこちらを見つめるココネへ移す。

「あー、それでさっきの要領を知らないって話の続きだけどな。それ知りたいなら、今は子供らしく守られとけ」
「……どうして?」
「何でだと思う?」

 人を化かす狐狸の類というのは、こういった顔で笑うのだろうか。にたりにたり、意地の悪ささえ感じる笑い方をしているジローに対し、納得がいかないとココネが口を尖らせるようにして問い返した。

「……わからない」
「そうか、分からんかぁ。まあ、ココネは答えなんか聞かなくても大丈夫そうだし、俺が言う必要もなさそうなんだけど。何かの足しにはなるだろうし、一応、聞いておくかね?」
「――――ウン」

 さながらそれは人を騙そうとする性悪妖怪と、眉に唾を塗りはしたが対策虚しく、あっさり化かされてしまった子供のやり取りであった。少なくとも、ココネを抱きしめているシャークティの隣に腰砕けでへたれ込んでいる美空の目に、両者の関係はそのように映っている。

「あ、あのさあのさ、お話し中に悪いんだけど、さっきからあそこの化け物がすっごく睨んでるんスけど?」

 辛うじて二人の会話に割り込めたのは、今も間近にある命の危機から逃れたい一心に加えて、如何わしいことを吹き込もうとしている風に見えなくもない青年から、純真無垢な幼き我が主を守りたいという従者心からであろうか。
 対して、口を挟まれたジローは気分を害した様子もなく、前方で牙を剥いて唸り続けている獣を一瞥しただけで、すぐに視線をココネへ戻してしまう。今にも襲い掛からんとする相手を前にたいした態度である。
 普段、自分の指導役にまで悪戯を仕掛ける方向違いの度胸を持つ美空だからこそ、自身に危険が降りかかるような真似はしない。仮に行ったとしても、せいぜい灸をすえられてみっちり絞られる程度にとどめる。
 何をするにしても、自分の後を無くすようなことはしない。狡賢く保身に走っていると言われればそれまでだが、ある意味、柔軟性と機転に富んでいる美空からすると、目の前の怪物退治より少女の相手を優先するジローの行動は尋常とは思えなかった。
 ジロー自身、それはある程度理解しているのだろう。ココネから美空へ移した眼差しには、何をしているのだろうなと同意する呆れが含まれていた。

「いや、後回しにして言いたいこと忘れるのも間抜けな話だし、言ってる途中で何かどうでもよくなって放置しそうな自分もいてな」
「だからってさ……」
「なに、そんな長々と話すもんでもないし、続ける気もないさね」

 先までの性根の悪さを感じる笑みから、ゆるりと流れる春の夜風を思わせる緩い笑みに表情を変えて言う。

「誰かを守る、助けるってことがどういうもんかなんてな、誰かに守られて助けられて初めて分かるもんだろうがよ」
「……は?」

 だから今は子供らしく守られ、助けられて、その要領を学んでいく時なのだと話すジローに、美空はただぽかんと口を開け、間の抜けた声を出すことしかできなかった。
 別に馬鹿にしたわけでも、その考え方をあり得ないと感じたわけでもない。ただ、ジローの言い分があまりに真っ当すぎて、逆に一瞬何を言っているのだろうと思ってしまったのだ。

「子供だてらに誰かを守ろう、人助けしようって考えるのはいい心がけだけど、やり方も知らねえのにどうやって守ったり助けたりすんだか。みんながみんな、同じやり方で守れて助けられるわけでもねえのに」

 小さく吐き捨てるように出した言葉は、はたして誰に、どこに向けられたものだったのか。

「今回は、美空を助けたいって気持ちが先走りすぎただけ。ちゃんとどうしてって人に向ける耳があるんだし、ココネは何も悪いことしてないさ。要領がいいだけの奴よか、要領は知らないけど真っ直ぐな子の方がずっとものになるしな」

 だから目で見て、耳で聞いて。何をすればいいのか、どうすればいいのか、ちゃんと考えることを止めないように。でないと、ただの我儘勝手な奴になるぞ。そう言ってジローは、表情を性根の悪さを感じさせる笑みに戻した。

「たまに無茶する程度なら構わんけど、無理なことはせんように。親より先に死ぬんは、子の最たる悪行だぞ?」
「――――ウン」
「あの、話の内容はともかく、誤解を抱いたまま諭すのはやめていただきたいのですが……。というかジロー君、あなた分かって言ってますよね?」
「言葉の綾って奴ですよ、シャークティ先生」

 今まで沈黙を保ってきたシャークティだったが、最後の最後で聞き捨てならぬ言葉を耳にして、おずおずと遠慮がちにだが抗議してくる。
 僅かに首を傾げ、責めるように尋ねたシャークティに対し、ジローが返したのは人を喰ったような態度。当然それは、正当な主張を述べたシャークティの苛立ちを煽る。
 どうして自分が文句を言われなくてはならないのだ。さらに食い下がろうとしたシャークティの邪魔をするように、ココネ達の方ばかりを見ていたジローに影が落ちた。

「ちょっと! ジロー先生、上っ、上!!」
「あ?」
『ウルオオォォッ!』

 自分の存在を忘れ、ずっとココネやシャークティと言葉を交わしているジローを隙だらけと見たのか、はたまた小馬鹿にされていると怒りを覚えたからなのか。天上の月を隠す様に高く跳躍した獣が、鋭く並ぶ牙をぎらつかせてジローに躍りかかる。
 膨れ上がった魔力の為か、始めシャークティ達と対峙した時よりも体躯が一回りも二回りも大きくなり、獅子や熊さえ噛み殺せる巨躯へと変じていた。
 常人ならば恐怖に足が竦み、なす術なく喰らわれたであろう襲撃。にもかかわらず、獣の牙はジローではなく空気を食むに終わった。

『――――ゲハッ!?』
「まあ落ち着けって、そんなじゃれ方されても困るからよ」

 口から粘った唾液を吐いて苦悶する獣に、突き出した貫手をゆっくりと引いてジローが笑いかけた。牙が触れるか触れないかの瞬間、体を開いて入り身となり、獣の着地に合わせて貫手を突き込んでいたのだ。
 痛みだけではないのだろう。笑いかけられた獣の方は体を震わせ、喉に物を詰まらせたように何度も咳き込んでいる。それを見下ろし、どうしたものかと眉間を指で掻いていたジローだったが、ふと大事なことを思い出したのか、シャークティに抱かれたココネの方を振り返った。

「忘れてた、ココネ」
「なに?」

 突然名を呼ばれ、きょとんと首を傾げたココネに満面の笑みを浮かべて告げる。

「ちょっとの間だけ目を瞑ってな。そうだな、十数えるまででいいから」
「わかっタ」

 その言葉にどういった意図があるのか。疑うという行為を知らぬ少女にそれは分からなかったが、ジローの言葉に素直に従ってココネは目を閉じる。
 それを見届け、満足げに頷いたジローがいまだに咳を続ける獣へ手を伸ばした。

「よーし、ちょっくら散歩に行こうぜ」
『ガッ、グルアッ!?』
「え、ちょっ……」

 いかなる握力か、首を掴まれ苦しげに唸った獣を引き摺って歩き出したジローに、美空が目を丸くする。

「いーち……にぃ……」
『グォッ、ウウゥゥッ!』

 言われた通り、律儀に目を瞑って数字を数えるココネの前を、本当に犬を散歩にでも連れていくような歩みで通り過ぎ、向かった先は廃教会。
 抵抗しようにも、動こうとした瞬間に首に激痛が走って儘ならず。ただ悔しげに唸り、地面に爪を立てて踏ん張ろうとする獣片手に、鼻歌でも歌いそうな軽い足取りでジローが廃教会の壁に近付く。

「よーん……ごぉ……」

 ココネの数字を数える声を聞きながら、呆気にとられてその様子を見送っていたシャークティや美空の視線の先で、彼女達をさらに呆然とさせる行為がおこなわれた。
 相当に力を込めたのだろう、みしり、と袖が圧迫される音とともに獣を掴んだジローの腕が一回り太くなる。

「よいさっ!」
『ギャオンッ!?』

 ぬいぐるみを放り投げるかの如く、軽々と振りかぶられた獣の体が壁に叩きつけられた。激突の痛みに口を大きく開け、獣が悲鳴を上げる。
 だが、体を投げ出すように地面に倒れた獣に何の遠慮呵責もなく、ジローはさらなる追撃を行った。

「なーな……はーち……」
「フンッ!!」
『ガボ、ゲウッ……!!』

 ちらと、言い付けた通りにココネが目を瞑っているのか確認した後、強かに蹴りつける。くの字に体を折り曲げ、胃液と思わしきものを吐瀉している獣に小さく嘆息し、右の手を高々と振り上げた。
 掌に魔力が集束し、周囲を照らし出す。

「はい、お休み」

 事前に呪文を詠唱してストックしていたのか、あるいは無詠唱で発動させたのだろう。軽い別れの言葉とともに下ろされた手の先から、獣の巨躯を楽に覆ってしまう巨大な炎塊――火系統の攻撃魔法で中級に位置する威力を持つ魔法『紅き焔(フラグランティア・ルビカンス)』だ――が放たれた。

『――――――――ッ!?』

 魔力を対価に、精霊の力を借りて生み出された魔法の焔が生き物の如く獣に襲い掛かり、その体を余すことなく包み込む。灼熱に身を焼かれ絶叫しようとするが、炎は体表だけでは飽き足らず、開かれた口内へ侵入して体の奥の奥まで舐め尽くした。
 尋常の火と違い、密度や粘度さえ持った魔法の火。絡みつくような炎に焼かれて爛れた喉は上げるはずだった悲鳴に代わり、引き攣った呼気の音を鳴らした。
 残った最期の力を振り絞り、四肢を震わせて起き上がろうと獣が足掻く。しかし、体を持ち上げようとしたところで膝を折って地面に倒れ込み、再び動きだすこともなく炎に呑み込まれていく。
 魔法生物だからだろうか。艶のない獣毛や肉と脂が焼ける不快な臭いを生むことなく、数メートルにまで成長していた獣は呆気なく炭と化し、崩れた端から細かな粒子となって消えていった。

「きゅう……じゅう……。シスターシャークティ、もう目あけてもいい?」
「ど、どうかしら、ちょっと聞いてみるわね」

 ジローとの約束通り、ぎゅっと目を瞑って十秒数え終えたココネが問うた。
 壁への叩きつけや倒れた相手への蹴り、さらにとどめの紅き焔での焼却処分など、目を塞ぐだけでは足りないと判断したのだろう。少女の耳を両手で塞ぎ、教育上よろしくない音を遮断していたシャークティが躊躇いがちに声を上げる。

「その……大丈夫でしたか、ジロー君?」

 どう言葉を掛けるべきか。シャークティが逡巡したのは訳があった。

「……え? あー、はい。なんとか無事に終わりましたよ」

 獣が倒れていた場所に残ったのは、僅かに焼け跡の残る地面だけであった。そこで何かに気付いたのか、手を伸ばしてある物――恐らくは犬用の首輪だろう――を拾い上げて汚れを払うジローの姿がひどく不機嫌そうで、声を掛けるのが躊躇われたからだ。

「…………ふぅ」
「ココネ、あなたは目を瞑って数をかぞえていただけでしょう?」

 ようやく一仕事終えた。そんな風に息を吐き、浮いてもいない額の汗を拭う少女に突っ込みを入れて、シャークティは首輪片手に立ちつくすジローの元へ歩み寄った。

「ジロー君、それは何ですか。さっきの獣が持っていたもの、ですか?」

 ジローが手にしていたのは、思った通り犬用の首輪だった。大型犬のものだろう、店で見かけるものよりも二回りほど大きく、幅もあるがありふれたデザインである。
 素材としては一般的な革製で、特別なところは見受けられない。それだけに、よくぞあの炎を無事に耐え抜いたと言えた。
 くるくると手中で首輪を回しているジローの様子を横目に窺いながら尋ねる。ぼう、っと首輪を眺めていたジローが眠たげな半眼をシャークティに向けた。

「あの獣が持っていたというか……なんでしょう、媒体、依り代?」

 説明しにくいのか、眉間に皺を寄せながらジローが答えた。

「付喪神と浮遊霊だか地縛霊の複合型みたいなもの、だったんじゃないですかね」
「は、はあ……。ごめんなさい、日本の宗教的な考え方に基づく妖怪や怪異には詳しくないので、理解が追いついていないのですが」
「大丈夫です、俺もそこまで詳しく知りませんし。とりあえず、並の妖怪や怪異より珍しくて強かったぐらいに考えておきましょうよ」

 話をそこで強引に終わらせ、手に持っていた首輪を背広の懐にしまうジローに不自然なものを感じ、眉宇を寄せたシャークティだったが、追求よりも先にまずやるべきことがあったと思いだす。

「そ、そうです、それよりもここに座りなさい!」
「ちょっと、なんですか急に!?」

 突然、地べたに座るよう指示され戸惑うジローに構わず、半ば無理やりその場に腰を下ろさせる。その後、自分も同じように地面に座ったシャークティは、どっぷり血を吸って蘇芳色に染まるジローの背広を脱がしにかかった。

「ワーオ、シスターシャークティってば大胆……」
「手当のためです! 誤解を招くようなことを言わないでくれますか、美空!?」

 手持無沙汰になったのか、ココネの頭を撫でながら茶々を入れた美空に顔を赤らめて怒鳴りながら、ジローの怪我の具合を調べる。幸いにも背中の傷はそれほどではなく、簡単な治癒魔法を施す程度で済みそうだった。

「良かった……。出血は派手ですが、傷が残るようなことはなさそうですね」
「あー、ええ。本当に掠っただけなので、そんなに心配してもらうほどでは――――」
「怪我は怪我です。手当てを怠って化膿などしたらどうするのですか?」

 何故か挙動不審に目を泳がせ、背後で治癒魔法を行使しようとするシャークティから距離を取ろうとしたジローの進行方向に回り込み、聞き分けのない子供に言い聞かすようにシャークティが指を突き付ける。

「は、はあ、すみません」
「……本当に大丈夫ですか? 少し様子が変ですよ」

 決して自分の方を見ようとせず、視線を彷徨わせ続けるジローに流石に不審を感じて、シャークティは訝しげに眉を顰めた。
 訳がわからず首を傾げているシャークティに、これ以上誤魔化しても後が辛いだけと判断したのか、観念した風にため息をついたジローが顔を背けた状態で、おずおずとある部分を指摘した。

「その、ですね……手当てしていただけるのはありがたいんですけど。まずはその、あれです……目のやり場に困るので、その足をどうにかしてくれません?」
「は?」

 心持ち、遠慮した感じに伸ばされた指がさす方向に視線を沿わせ、しばし思考を停止させる。獣との戦闘によって裂け目のできたスカートから、大胆に太ももが露出しているのを目撃したからだ。
 驚きに固まった拍子に、露になった褐色の肌が震えた。太ももの付け根辺りまで続くスカートの裂け目。そこから覗いた足は太くはなく、かといって細すぎるわけでもない、同性が見ても羨むだろう女性らしい曲線を描いている。
 月明かりの下、陶磁のような艶を帯びた若竹を思わせるしなやかな足は、何とも言い難い色香に溢れていた。
 常に凛然とした雰囲気を纏う彼女だけに、そのあられもない姿は余計に情欲を煽る。仮にこの場に健全な男子がいれば、普段はお目にかかれないシャークティの艶姿に生唾を飲んでいたはずだ。

「―――――ッ!!」

 ババッ、と音を立てて裂けたスカートを掴んで無理矢理、露になった太ももを隠したシャークティの頬は当然ながら赤く、己の身を焼かんばかりの羞恥心を抱いていることを感じさせた。

「あー、あの……」

 恐らく、声を掛ける前から無駄だと理解はしていたのだろう。だが、羞恥の大きさにパニックを起こしそうなシャークティを放置もできまいと、覚悟を決めて近付いたジローに対し、シャークティが行ったのは至極単純なこと。

「ヒッ……キャアアアァァァッ!!」

 肩に伸ばされた手に身を竦め、魂消るほど大きな悲鳴を上げながら、スカートを押さえていない方の手を限界まで振りかぶる。

「理不尽よなぁ……」

 ゆっくりと、まるでビデオのスローモーション映像のように流れる一連の動作を眺めていたジローが、糸目の状態になって嘆息とともにぼやいた。
 直後、シャークティの振り抜いた平手がジローの頬に叩き込まれ、火薬を炸裂させるのに似た音を廃教会に響き渡らせる。威力の程は、頬を叩かれた方向へ数メートルも飛んで朽木の如く倒れ伏したジローが全身で表していた。







 不幸な事故による昏睡からジローが目を覚ましたのは、シャークティの平手に意識を刈られて半刻ほど経ってからだった。

「はあ……」

 どうして獣に負わされた傷よりも、混乱した味方から受けた平手の方が痛くて重いのか。もはや芸術的としか言いようのない紅葉が浮かぶ頬を擦り、ジローがしみじみとため息をつく。

「その、本当に……本当にごめんなさい」

 向かい合う形で座り、何度目になるのか分からぬ謝罪をしてきたシャークティに悟られぬよう、スカートの裂け目があった部分を盗み見る。
 最初から持っていたのか、あるいは廃教会の中からでも探し出してきたのか。大きく裂けたスカートはいくつもの安全ピンで強引に繋ぎとめられ、遠目なら破れていると分からぬ程度に修繕されていた。それを確認し、一先ずは安心と胸中で安堵する。

「いえ、もう少し上手い指摘のやり方もあったはずですし。不幸な事故、だったんですよ」
「すみません……」

 意識を取り戻してからずっと謝りどおしのシャークティに苦笑し、ジローは適当な慰めの言葉を述べた。
 望む望まないにかかわらず、スカートの裂け目から覗いたシャークティの足を見た時、動揺以外の感情を少なからず抱いたのだ。例えそれが、ほんの小指の先程度の後ろめたさだったとしても、これ以上の謝罪はできれば遠慮したかった。

「まあまあ、二人とも〜。いつまでもそんなラブコメってないで、そろそろ帰りましょうよ」

 地べたに正座して向かい合い、延々謝罪と慰めの言葉を交換し続ける二人を見るのもいい加減、飽きたらしい美空が口を挟んだ。

「ラ、ラブコメ? なんですかそれは……?」
「自分で気絶させた相手が起きるまで膝枕してあげたり、何だかんだで優しくすることです」
「そ、それがラブコメ、ですか……? しかし、あの時は仕方がなくですね……」

 明らかに偏っている美空のラブコメ知識を教えられ、顔を強張らせて何事か呟き始めたシャークティを内心訝しく思いながら、そういえばとジローは側頭部を擦った。
 完全に意識を取り戻したとは言えない状況で体を起こしたので、その時の詳しい状況は把握していないのだが、ただ覚えていることが一つ。
 起きてすぐ、自分の側頭部が妙に温かかった気がするのだが、はたして自分はどこに眠らされていたのだろうか。見事な紅葉の浮かんでいない側の頬を撫でつつ、そこが温かかった原因を突き止めようとする。

「ああ、ジロー先生は別に気にしなくていいッスよ。あくまでさっき言ったのはラブコメの一例ですし、いちれー」
「んー……?」

 あの妙に限定された条件のことだろうか。下世話な笑みを浮かべて言う美空に、何故か胸騒ぎがした。先ほどからシャークティの様子も不審を煽る。一応の追求程度はしておいた方がいいのかもしれない。
 首を捻って考えた結果、自分がどこに寝かされていたのか尋ねようと決めたジローだったが、しかしそれは、口を開こうとした瞬間に重ねられた美空の言葉で有耶無耶となった。

「用事は済んだんだし、私もそうだけどココネが眠そうにしてるッスよ」
「ン……だいじょうぶ」

 美空の背中の上でくしくしと目元を擦り、常よりも重たげな瞼をどうにか持ち上げているココネの様子から、彼女の言い分が確かなものであると察せられる。
 夜空を見上げると、月はすでに東へ傾き始めていた。思った以上に廃教会で長居していたらしい。

「――――すぅ」

 睡魔に誘われたココネが小さな寝息を立て始めた。時計を見てみれば、時刻は夜の十一時を回ろうかというところ。口では大丈夫と言っていたが、小等部に通い始めたばかりの少女に夜更かしは辛かったらしい。

「あーらら、こんなとこで寝たら風邪ひくよココネ〜?」
「…………だいじょぶ」

 せめてシャークティと一緒に寝起きしている教会に戻るまで頑張れと、美空が背負ったココネの小さな体を揺するが、ココネから返ってきたのは寝言と僅かに身を捩る動きだけであった。
 一体どの辺りが大丈夫なのだろうか。とてもそうは見えないと、あどけない少女の寝顔を見る三人の顔に苦笑いが浮く。

「じゃあ、そろそろ戻るとしますか。学園長への報告は自分の方でやっておきますので、シャークティ先生達はこのまま帰っちゃってください」
「いえ、報告も仕事の一部です。ココネは美空に送ってもらうので、学園長のところには私も同行しますよ」

 直帰を勧めるジローの申し出に対して首を振り、シャークティが同行すると主張する。
 責任感が強いというのもあるのだろうが、どこか様子を窺うような顔からは、怪我人でもあるジローに事後処理を丸投げにはできないという気遣いを感じられた。

「……それじゃ、お願いします」
「ええ、もちろん」

 ここで意固地になって、同行してもらうことを遠慮しても意味がないだろう。特に申し出を断る必要はないと判断し、ジローは小さく頭を下げた。
 実際問題、ジローだけで報告するよりも、シャークティの補足説明がある方がより詳細な報告を上げられるのだ。歓迎こそすれ、忌避する理由はどこにもなかった。

「――――くちゅんっ」
「お二人ともー、なんか初々しい感じなのはいいんですけど、さすがに寒くなってきたし早く帰りましょうよー」

 頭を下げたジローと、微笑みとともに頷き返したシャークティの様子を面白そうに眺めていた美空だったが、背中の上でココネがくしゃみするのを聞いて話に割り込んでくる。

「そうですね、暖かくなってきたとはいえ、まだ夜は冷えます。美空、あなたもココネを送った後、風邪などひかないよう温かくして寝るのですよ」
「はいはい、了解でーす」

 ココネを背負った美空に対して注意するシャークティのやや後ろを歩いていたジローが、何かに気付いたように足を止め、すいと廃教会の方に顔を向けた。

『――――』

 いつの間に現れたのだろうか。集合場所でシャークティ達を待っていた時、飼っていた犬がいなくなったと訴えてきた少女が廃教会の広場、丁度ジローが獣にとどめを刺した場所に佇んでいた。

「あー……」

 声を掛けるべきか。困ったように呻きを漏らし、所在なく手を持ち上げたジローに対して、花が綻ぶような笑みを浮かべた少女が、すっと伸ばした人差し指を口の前に置く。
 ないしょないしょ。まるで、可愛げある悪戯に成功したかのようだ。
 春先にしては薄着の少女の輪郭が徐々にぼやけていくのを見て、それとなく察しがついていたジローの顔が苦々しくも優しげがある、そんな微妙な表情に変化する。
 蒼白い月光に溶けるように少女の姿が消えるのを見届けた後、少し距離ができたシャークティ達に追い付くために足を速めながら、ジローは懐に入れていた物――獣の依り代となっていたらしい首輪を取り出し、しげしげとある部分を見つめて嘆息する。
 随分と古く、ところどころに痛みはあるが、それでも首輪に貼り付けられたネームプレートの文字は判別できた。

「コースケ、ね……」

 アルファベットで彫られた文字を読み上げ、ふっと疲れを感じさせる吐息を漏らす。
 近右衛門への報告を終えた後になるだろうが、しっかりと供養してやらねばなるまい。うまい具合に、麻帆良の魔法教師の中には元僧侶からシスターまで揃っているのだから。
 手にした首輪を懐に戻しながら、ジローが口元を歪める。胸中で、本当にここはおかしな場所だと胸中で呟いて。

「ああ、部屋に戻る前に服をどうにかしないとな」
「確かに、そんな格好で帰ったら大騒ぎになるもんね」

 気分を変える目的もあって、ジローが心底困った声でぼやいた。血が乾き、肩から背中にかけて赤黒く染まった背広を横目に、美空も顔を顰める。

「熊子さんに余計な心配かけるわけにもいかんしな。それでなくても、色々と気にかけてもらってるんだし」
「今時珍しい、お節介焼きな人なんですね」
「古き時代の良き大家さんって感じだからな」

 もしかすると今頃、撮り溜めた時代劇でも鑑賞して帰りを待っているかもしれない。そんな事をぼおっと考えながら、感心した風に言った美空に同意を返す。

「へっくしょい!」

 唐突に、ジローがくしゃみをした。いい加減、夜気に晒され続けて体が冷えてきたのだ。
 鼻の下を啜りながら、風邪をひくのだけは勘弁だとぼやいたジローに、何故か美空やシャークティが小さく吹き出した。

「何ですか?」
「い、いえ……」
「爺臭いのが似合うなあ、って面白かっただけッスよ」

 訝しげな目を向けたジローに、誤魔化しきれない笑みを浮かべて理由をぼかしたシャークティに代わって、ずり落ちたココネの体を持ちなおしながら美空が直球で答える。

「クスッ……ご、ごめんなさい」
「…………はあ」

 失礼な感想を述べた生徒に対し、注意すべきはずの指導役がどうして笑うのか。
 今度こそ堪え切れず、俯いて笑いを溢したシャークティを憮然と睨み、ジローがわざとらしくため息をつく。どうしてか、あまり悪い気がしないのが悔しかった。
 ジローとしては不本意だったが、それがいまだに残っていた緊張を払拭してくれたのだろう。小さく繰り返されるココネの寝息を聞きながら、シャークティや美空が出す取り留めない話題に適当な相槌を打ちつつ、ジローは夜闇に包まれた麻帆良へ続く道をぶらりぶらりと歩いていった。







 運よく夜勤の仕事で宿直室にいた瀬流彦に、これまた運よく自分が着ていたのと同色の背広を貸してもらったジローが、シャークティと共に近右衛門への報告を終えてそれぞれの帰途につき、南楓荘に帰りついたのは夜中の一時を回った頃であった。

「おやまあ……! どうしたんだい、その顔!?」
「いや、まあ……色々ありまして」

 ジローの頬に貼りついた季節外れの紅葉を見て、彼を出迎えるためにこの時間まで起きていた熊子の口から、呆れと驚きのない交ぜになった甲高い声が出た。
 不幸なすれ違いから味方に攻撃された、などと詳しい事情を語るわけにもいかず、手持無沙汰に頭を掻いているジローに、熊子の眼が好奇心に光だした。面白そうな話のタネが転がってきたと思っているのか、その口元が根掘り葉掘り聞きたくて仕方がないと訴えて、ぴくぴくと震えている。

「なんだいなんだい、男前の面になって帰ってきて。仕事かと思ったらあれかね、どっかでいい人としけ込んでたのかい?」
「違います、ちゃんと仕事していました。夜遊びする生徒の補導だったんですけど、これはその仕事が終わった後にできたものです」

 真面目に仕事をしたのに遊んでいたと思われるのは癪で、八割ほど嘘で固めた話を持ちだして説明する。

「いいんだよぉ、恥ずかしがらなくて。若い時分にそういう事はしっかり、しっぽりやっておかないと困るだろう、色々とさ!」
「声が大きいですって、他の人が起きたらどうするんですか。つーか、しっぽりって何ですか、しっぽりって」

 もっとも、自分の話したいことを際限なく、それこそ機関銃の掃射の如く喋ることでストレスを発散するのは、大家という人種の性だけに口は止まらず。出るわ出るわの妄想の数々。
 頭痛に耐えるように眉間を抑えるジローの肩をバンバン叩き、熊子が潜めたつもりの普段と変わらぬ声量で探りを入れてくる。

「それでそれで、相手は誰だい? もしかして、今朝来た何だっけね、バテレン宗教の格好した別嬪さんとかかい――――おや、どうしたんだい、そんなとこに座って」
「…………い、いえ、別に」

 妄言にすぎない内容はさて置き、ジローが顔を歪めて地面にしゃがみ込んだのは、熊子の手が偶然、肩の傷口――ココネを獣から救い出す時、爪を躱しきれずに負った怪我のあった場所を、これでもかと集中して叩いたからだ。
 じんじんと響く背中の痛みに、目に涙さえ浮かべているジローを不思議そうに眺めていた熊子の顔に、徐々に驚きの色が浮いてくる。その驚きが顔全体に行き渡ったところで、熊子がその場の空気を変えるように咳払いして言った。

「あれま……やる気なさそうな顔して、やることはやってきてたんだねえ……」
「やることって何ですか? あー、まあいいや、もう寝ます。明日は朝から、最近出没する変質者対策の会議がありますし」

 訳知り顔で頷いている熊子の相手にも疲れ、欠伸を噛み殺しながら自分の部屋へ向かい始めたジローの背中に声が掛けられる。

「しんどい事はいくらでもあるだろうけど、しっかり頑張るんだよ。若いうちに苦労しとけば、きっといい目が待ってるからさ」
「だといいんですけどねえ」

 一転して、優しさに満ち溢れた表情になった老女に、ぎこちなく苦笑を浮かべたジローが返す。

「それじゃ熊子さん、おやすみなさい。遅くまでありがとうございました」

 どこか達観した、それでいて熊子の言う「いい目」を願わずにはいられない。そんな複雑な笑みのまま頭を下げ、ジローは物音ひとつ立てずに自分の部屋へと姿を消した。







後書き?) とりあえず今回の話で第一部完。一体いかほどの方が更新を待ってくれているのか。その数が多かろうが少なかろうが、もう知ったこっちゃない。ある意味、反応が返って来るとか諦めているコモレビです。
 この時点ですでに原作から遠く離れた場所を走り回っている気もしますし。仮契約とかいろんな方面でも。あと、修道服についてですが原作にあるようなミニスカートではなく、普通に膝下まであるスカート丈でいきたいと思います。ミニスカ修道服、ただのコスプレなんですもの……。
 それはさて置き、個人的に麻帆良というのは霊的・魔術的なものに力を貸してくれるというか、いらんお節介をしそうな場所という認識を持っています。ので、今回のアイリッシュウルフハウンドことコースケ君の妖怪化があったわけで。
 変な話、原作を遵守するほど書きづらくなる現状(原作は原作で相応に楽しく読んでいますが。ハリウッドの主人公陣には当たらない銃撃戦っぽいな、とたまに思いながら)、最初からオリジナルな設定なり入れていかないと後々きつくなる気がします。まあ、全ては教会組や魔法先生ズなりを贔屓したいがため、ですけどね。
 次の話は冒頭からガンドル先生でも出したいなあ、とほろ酔ってふらふら揺れながら考えつつ。ではではー

〈続く〉

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