「文学好き哲学少女の憂鬱?」


 麻帆良学園は非常に大きな教育機関であり、それ故、多種多様の学習施設が用意されている。
 その代表としてまず挙げられるのが図書館であろう。広大な学園の敷地内に建てられた図書館島と呼ばれる、名前通り島全体が図書館になった施設は元より、規模的にそれには劣るものの、各学校エリアに備えられた図書室でさえ、蔵書は他校と比べ物にならぬほど充実した品揃えで鳴らしており、質の方も本好きには垂涎ものの希少本や原書が並べられていた。
 そのことを生徒達もよく理解しており、図書室を利用する者は本を丁寧に扱い、慈しむかの如く読むのが暗黙の了解、のはずであったのだが。
 ネギが担任する三年A組所属、出席番号四番の綾瀬夕映はこめかみに浮かんだ青筋をあえて無視し、とてつもなく無気力な半眼で、床に散乱した本を拾い集めているジローへ尋ねた。

「……これをやったのはあなたですか? 偽ることない回答を求めるですよ、八房ジロー先生」
「人のこと睨みながら問い質すのは、最初から疑ってますって宣言と一緒ですよぉ? 出席番号四番の綾瀬夕映ちゃんさん」
「喧嘩売ってるですか、ジロー先生?」
「いいえー、そんなつもりは全然まったく。君みたいな女の子はさん付けで呼べばいいのか、ちゃん付けで呼べばいいのか判断しかねただけです」

 依然として無気力な半眼ではあるが、口元に緩い笑みを張り付け、慇懃無礼に返すジロー相手に熱くなるのが馬鹿らしくなり、わざと大きなため息をついて夕映は聞き直した。

「さんでもちゃんでも、そちらの好きなものを付けてくれて構いませんので、さっきの質問に答えてもらえますか。この図書室の惨状、原因はジロー先生なのですか?」

 本の撒き散らされた床を一瞥し、先よりも多少は疑念の薄まった眼差しで問う。
 一応とはいえ、己が副担任を務めるクラスに所属する少女の一人と初めて交わした会話が、まさかこうも刺々しいものになるとは不幸である。
 苛立っていたとはいえ、もう少し柔らかい対応をすればよかった。内心後悔はするが、やってしまったものは仕方がないと諦め、ジローは拾い上げた本を手近なテーブルに置いて言った。

「原因の関係者ではあるけど、この件に関して俺は被害者です。後片づけ的な意味で」
「……つまり、ジロー先生がやったわけではないと。そういえば、先ほどネギ先生とクラスの人達が騒いでいたですね。もしかして、それが原因ですか?」
「たぶんね。俺が来た時にはもう、この光景しか残ってなかったけど」

 一応、ネギから事後処理丸投げに対する謝罪メールは来ているのだが、一分かからず打てる電子メールに如何ほどの価値があるのか。
 そも、騒動の原因がホレ薬を誤って飲んでしまった、というより飲まされたという時点で、ひたすらに呆れるか落胆するかしかないのだ、選択肢は。

(ホレ薬って確か違法だった気がするけどなぁ……。まあ、隠蔽するけど)

 犯罪というのは、明るみに出て立証されなくては犯罪なりえない。とはいえ、違法行為などしないに越したことはないのだが。
 ルールに守ってもらうには、まずルールを守る必要があるのだから。違法なことをしておいて、法に守ってほしいなど虫のいい話というもの。
 もっとも、それを違法行為の隠蔽前提で動いている自分が言うのは、本末転倒な気がしないでもなかった。

「元から騒がしいクラスでしたが、ネギ先生が担任になって一層磨きがかかったように思えるです……」

 まあ、自分には関係ないのですが。あるとすれば、のどかの事ぐらいで。
 中学生にしては冷めた口振りで、夕映は体を屈めて足元の本に手を伸ばした。それなりに貴重な本だったのだろう、痛ましげに眉を顰めて表紙の埃を払う姿からは、本に対する愛情がひしひしと感じられる。
 根っからの本好きにとって、今の図書室の惨状は耐えがたいものだろう。ジローは拾った本を手際良くテーブルに積みながら、本に対して申し訳ないという感情を抱いた。

「ほんっと、何やったらこうなるんだろうね」

 これでも随分と片付けたのである。
 ネギと生徒達が騒動を起こしていると、偶然それを見かけた瀬流彦から聞き、処理中の簡単な書類を終わらせて駆け付けたジローが見たのは、図書室内に転がった足跡の残る重厚な扉に、棚ごと倒されて広がった本、本、本の海。
 本に対する執着がそこまで酷くないジローでさえ、思わず酷いと呟くほどだった光景を見たら、目の前の少女は怒髪天を突く勢いで憤怒したのではないか。
 一冊一冊丁寧に拾い上げて埃を払い、ジローが積んだ本の横に置いている夕映に同情の視線を送る。

「何かすこぶる不愉快なものを感じるのですが? 自分に責任のない後始末をしている人が向ける類の視線ではないですよ、ジロー先生」
「あー……ごめん、自分は関係ないっていう優越感というか、精神的な第三者の立場が欲しかったんだ」

 指摘され、どんよりと曇った空気を背にしゃがみ込んだジローに嘆息し、それとなく夕映は悟った。
 現状でさえ酷いの一言に尽きる図書室。それでさえ、彼が片づけを始めた瞬間と比べれば可愛い物になるのだろう、と。

「ところで、夕映ちゃんは本でも借りに来たの?」
「いえ、ちょっとのどかを捜しに寄っただけですが?」
「……ああ、そうなんだ」

 話題転換のために思いついた質問をジローが投げかける。
 のどかというのは、夕映と同じクラスにいる宮崎のどかのことであろう。少女が口にした名前に一人納得し、同時にその捜し人はネギの騒動に巻き込まれて気絶し、保健室にいると伝えるべきかと悩む。
 倒れた理由はいくらでも誤魔化しが利くのだが、今すぐ保健室に向かわれるのは避けたかった。もし、看病の名目で保健室に残るネギ達と遭遇したらと考えると、一笑に付するのはリスクが高い。
 だとすると、多少心苦しくはあるが片付けを継続してもらった方がよい。半分は自分の都合に合わせた言い訳を組み立てるジローに、唐突かつ見当違いな問いがぶつけられた。

「難しい顔をしているところ、申し訳ないのですが。やはり先生としては、図書室に本を借りに来るより勉強しに来た方がいいのですか?」
「はあ?」

 言い掛かりに等しい問いに眉を顰め、振り返った相手に夕映は言葉を続けた。

「いえ、のどかを捜しに来ただけ、と聞いた時の反応が芳しくなかったので。てっきり、学生らしく勉学に励むように、など言いたかったのかと。私の思い違いでしたらすみませんです」
「あー、別に謝ってもらうほどの事じゃないけど。なに、そんなに変な顔してた?」
「駄菓子屋の生ぬるいラムネみたいな顔が完全に消えていたですよ」
「……それ、平常時の俺の顔を表現しているんだよね」

 自分は普段一体、どの様な表情を浮かべているのだろう。思わず不安になって口元を揉みほぐすジローを冷めた目で見やり、床に落ちていた本の最後の一冊を拾った夕映がため息をつく。

「ハァ……もう少し分かりやすく言うなら、人によっては小馬鹿にされていると感じたり、真面目に話を聞いているのかと思ってしまう緩い表情ということです」
「ああ、そういう顔か。よかった、知らないうちに顔つきが変わったのかと……」

 だとすれば、夕映が口にした「駄菓子屋の生ぬるいラムネ」という表現は強ち、間違いでもない。ネギに召喚される前、ようするに本来、自分がいるべき場所で暮していた頃に散々聞かされたのと同じ言葉に、ジローは胸を撫で下ろした。
 曰く、午睡から目覚めたばかりの座敷犬だの、何故か店番をしている老犬だの、村外れの祠を根城にしている馬鹿でかい老山犬だの。これまでに言われた事のある表現を思い返してみると、先の夕映の表現も、そこまで想像しにくいものではない気がする。

「何をホッとしてるのですか。普通、そこは別の反応を示すところのはずですよ」

 自分の予想に反して、安堵にただでさえ緩い顔を緩めている姿を訝しみ、どこか不服そうに口を尖らせ気味に言ってきた夕映に、ジローは飄々とした笑みを返す。

「別に意識してこの顔してるわけじゃないし。元からこういうもんだって理解してもらうか、諦めてもらうかしないとね」
「開き直りにも程があるですね」

 つるりと顔を撫で、テーブルに積み上げた本を棚に戻し始めたジローの背中に毒が吐かれる。
 が、それも効果がないと知って大人しく本の片付けを再開した夕映に、今度はジローが仕返しとも取れる言葉を送った。

「人の顔をどうこう言うのもあれだけど、夕映ちゃんはもう少し、眉間の力を抜いた方がいいと思うよ。そうやってしかめっ面してると、色々と損するし」

 とん、と軽く自分の眉間を指で叩いて口元を歪める。

「……別に損得考えて、こんな顔をしているわけではないですし。それを他人にどうこう言われる筋合いはないと思うのですが?」

 意趣返しのつもりか、先ほどジローが返したものに似た反論を行い、棚に本を並べる作業へ没頭する夕映に苦笑する。基本的に頭のいい少女なのだろう。小気味いいぐらいの毒のある切り返しや、独特の表現からその事は十分に知れた。
 仮という文字は付くが、それでも一応は教師である人間相手に物怖じせず、こうまで鋭く言い返せる子供は珍しい。
 もう何ヶ月か後、中学三年に進級する少女を子供扱いするのは、年齢的にほとんど変わらぬジローとしては疑問に思うところだが、立場が立場だけにそうせざるを得ないのだ。

「第一、今更私がにこやかに振舞って何になるですか。周りの人の反応なんて知れていますし、意味がないです」

 テーブルに乗った本を、ただひたすらに棚へ戻す。
 単調で、ある程度の流れができてしまえば暇でしかない作業の途中で、棚へ本を差し込む動きを鈍らせることなく、夕映がぽつりと呟いた。

「どだい、無理があるのですよ。ウチのクラスはただでさえ、人並み以上の容姿の持ち主の集まりです、皆さん多方面に魅力的なものを持っていますし。そんな中で何をどう頑張ったところで、自分の個性を目立たせるなんて無理な話です……まあ、最初からそうした事に興味はないですし、クラスの中に埋もれていようがいまいが関係ないのですが」

 どこか達観した風にも、諦めている風にも取れる眼差しを本棚からジローへ移す。

「こうした事を言うと皆一様に口を揃えて、そんなことはないと言いますが……。人には分というものがあるです、その辺を考えれば自ずと答えは出てくるですよ」

 言外に含まれているのは、「似合わない事などしたくもない」だろうか。
 微妙な顔で夕映を見返しながら、ジローは先ほど少女に下した基本的に頭のいい少女、という評価に下方修正を加えることにした。ネギと同じく、知識優先の頭でっかちぐらいが妥当だろう、と。
 夕映の言い分が間違っているとは思わない。それが本当にこの世で最も正しい答えであるのか、あるいは自分にとって正しい答えであるのかは別として、だいたいの状況において、答えというのは最初から用意されているものだから。
 ただ、それは実際にある状況に対面して大いに悩み、思考錯誤した後に答えを見つけた者が嘯いていい言葉で。ろくに社会や世の中を見たわけでもない、ただ人より本を読んで物を知っているに過ぎない少女が口にする台詞ではないだろう。
 哲学者や厭世家気取りとまでは言わないが、もう少し容姿に見合った年相応で、聞いて面白みのあることを言ってくれないものか。
 結局これも、『自分にとって好ましい答え』を求める勝手な心から来た希望に過ぎないのだが、そこは少ないながらも年長者という屁理屈で以て、自分に都合よく目を瞑っておこうとジローは考えた。

「そんな風に答え決めてやってるから、知らないうちに眉間に皺寄って、面白くなさそうな顔になるんだと思うけどねぇ」
「別に面白いものがないわけではないですよ。のどかやパル……同じクラスの早乙女ハルナのことですが、パルやこのかさんという友人にも恵まれて、楽しくやらせてもらっていますし」
「……それはちと意外」
「失礼ですね。確かに私は常々、日常に対して少しばかり刺激が足りないと感じていますが、友人達との時間まで否定する気はないですよ」

 隠そうともしない本心からの感想に、流石に不愉快そうに眉を顰めて夕映が話すが、それを聞かされるジローの顔には「面倒な性格してるなぁ、この子」と言いたげな苦笑しか浮かばない。

「出会った当初こそ、人間性の違いや好む本の傾向による意見の相違はありましたが、今思えばそれも楽しい記憶。部活動で行う図書館島の探索、これだって私達の絆とでも言うべき意思疎通があるからこそ、中等部でもトップクラスの成果を上げていると自負しているです」

 なにせ、その楽しくやらせてもらっている友人との思い出や、一風変わった部活動における自慢話をしている時でさえ、どこかしら退屈そうな顔をしているのだから。
 図書館探検部所属というのは一体、いかなる部活動なのか。名前からして、普通では考えられないトンチキな内容である事は疑いようもないが、だからこそ逆に興味をそそられる。

「その様子からすると知らないようですね、我が図書館探検部の部活内容について」
「まあ、学園に勤め始めてまだ二日だしね。名前からして普通じゃないのは分かるけど」

 と、同時に、図書館島探索に興味を示したジローを敏感に察知したらしく、不敵に片方の口角を持ち上げた夕映からは、積み上げた日常に必要のない知識や蘊蓄を語る相手を発見した、という捕食動物の気が感じられる。

「ではお教えしましょう。まず図書館島の設立から話しますが、あの場所は貴重な書物を戦火から守るために建築され――――」

 好きなこと程、よく舌が回る。自慢話や趣味についての語りが長く、そして濃くなるのは人の性である。とはいえ、この少女のように書物や図書館、図書室について異様な熱弁を振るうのはどうなのか。
 一歩間違えれば狂信者という陶酔した表情で、延々図書館島がいかに素晴らしいかを語る夕映を眺めながら、ジローは己が地雷を踏んだと悟る。
 普段の感情が抑制されたような眼差しや、平穏な世界に対し斜に構えた態度は一種のカモフラージュで、一枚表情を剥がせば、自分の好きなものに目を輝かせる顔がある。
 歳不相応に大人びた面と、年相応と言うには歪な子供らしさが混ざり合っているのだ。
 夕映との会話で感じた、ネギと同種の知識優先の頭でっかちさ。それは、自分のやりたい事にしか興味が向かない、向けたくないという頑固さから来るものだ。
 もっとも、ネギに今抱いた考えを話せば、頬を膨らませて「僕はそんなんじゃないよ!」と憤慨するのだろうが。そんな光景が鮮明に想像でき、ジローは小さく鼻を鳴らした。
 これといって差を感じないのだ。本が好きで好きでたまらないと語る少女と、立派な魔法使いに憧れて頑張っているんです、と胸を張る少年に。

(夢とか理想とか目指すもんの高尚さとか、他人に褒めてもらえる、もらえない程度の違いしかないさね)

 とりあえず、人間熱く語れるものが一つあれば楽しく生きられるに違いない。夕映の話が落ち着くのを、棚から抜き出した本を眺めて待ちながら思う。きっと彼女も物心が付くか付かないかの頃、後の在り方に多大な影響を与える人がいたのだろう、と。
 それが良いのか悪いのかどちらか選べと言われたなら、当たり障りなく良い事だと答えるのは決まっているのだが、腹の中で肯定するか否定するかぐらいは自由なはずだ。
 荒っぽい手つきで頭を掻いて、深く息を吐いてから呟き、

「まあ、良い悪いは別として嫌いではないか……」
「むっ、それはいい事を聞きました。では、今度時間がある時に私達が案内するですよ。心配ないです、見たところ運動できないわけではない感じですし、十分についてこれるはずです」
「……あー?」

 呟きへ間髪入れず合の手、ではなく意味不明な保障を行った少女に目を向けた。
 本関係に対する熱すぎる語りを聞き流しつつ、身近にいる少年に対する考えに没頭していたのが原因で聞き逃した夕映の話の中に、どうやらどこか案内するという誘いがあったらしい。
 途中から完全に上の空で、自分の思考に沈んでいたことに内心舌打ちし、申し訳なさそうな表情を浮かべて尋ねた。

「あー、いや悪い、少しぼーっとしてて聞き逃したんだけど、どこを案内してくれるって?」
「ふぅ……見た目通り抜けているのですね。仕方無いです、もう一度言いますが今度、私達図書館探検部が案内してあげると言ったのです」
「誰を?」
「この状況下で、ジロー先生以外の誰を案内すると言っていると?」

 本を満載した棚がずらりと並ぶ図書室の中で、自分とジローしかいない状況を指摘して夕映がかぶりを振る。

「御尤も。それで、どこを?」
「図書館島を、ですが……あの、本当に大丈夫ですか? 上の空だったにしても、少々酷すぎるですよ」

 さすがに不審に思ってか、眉を顰めて聞いてくる夕映に心配ないと手を振り、ジローは胸中で大きくため息を吐いた。
 よく分からないが、とても面倒そうな縁を結ぼうとしていると感じて。

「あー、図書館島は名前からして興味魅かれるし、詳しい人達に案内してもらえるのは嬉しいんだけど……何故にそこで運動神経が関わるような言葉が混じるのかね?」
「フフフ、気になるですか?」
「いや、普通気になるでしょうよ。図書館に行くのに、運動できた方が良さげなこと言われたら」

 不安そうに問うたジローに、夕映はただ不敵な笑みを浮かべるのみで、肝心の質問に答える気はさらさらないらしかった。

「その辺りはまた今度、図書館島の探索計画を立てる時に呼びますので安心するですよ。あ、ですが事前に探索用の装備を揃えておいてくれるとありがたいですね。大学部にある予備の装備を借りてもいいですが申請がいりますし、自分のサイズに合うものの方が安全性は高くなるですから」

 逆に言うと、それが急勾配の右肩上がりでジローの不安を掻き立てるのだが、先の図書館島探索とやらの予定を組み立てる少女は、それさえ祭りの前の楽しさと考えている印象を受ける。

「内容はともかく、そうしてると意外に可愛げがあるねえ」
「な、なんですか急に? 変なこと言わないでくださいです」

 諦めの気持ちで肩の力を抜き、普段よりも数割増しに緩く笑ったジローの失礼な物言いに、多少の驚きと恥じらいから頬を微かに紅潮させながら、夕映が抗議の言葉をぶつける。
 それも当然だ。ろくに話したこともない相手に「可愛げがある」と言われて嬉しいかどうかは別として、『意外と』という、明らかに褒める行為から離れた単語を付けられて素直に喜べる人間などいまい。
 もしや機嫌を損ねたか。
 あからさまに眉間に皺を寄せ、口を噤んで本を読み始めた夕映に、一拍子どころか二拍子、三拍子遅れでジローは己の失言を悟った。
 性別という根本的な部分で差異がある以上、夕映に限らず少女という存在が微妙な褒め言葉を送られ、どういった感情を抱くのか、その全てを把握することは難しい。が、それでも何らかのフォローをせねばならぬという事ぐらいは理解できる。

「あー、気を悪くさせたなら謝るよ。あんまり楽しそうに話すから、ちょっと驚いて口滑らせただけなんだ」
「あまりフォローになってない気がするのですが?」
「まあ、下手に言い繕っても反論されて終わりそうだし、素直な意見を話す方が受けがいいかなと思って」

 もっとも、自重してきたのは相手に聞かせられない罵詈雑言や毒のある言葉をぶつける事だけで、言う必要のない事を口にするのは変わらないのだが。
 真面目に相手をするだけ無駄と悟ったのか、ため息に呆れを乗せて夕映がかぶりを振る。

「そこをぶっちゃけては意味がないと思うのですが……いいです、真面目に相手をしてると疲れそうです」
「ああ、別に普段の状態が可愛くないってわけじゃないから。大丈夫、自信持っていいよ」
「ですから、面白くない冗談で人をからかうのはやめるです。ジロー先生、こう言っては何ですが、あなた少し性格が悪いですよ」

 性格が悪いのはお互い様ですが。そう続けて形ばかりのフォローをしながら、夕映がジローを見る。この八房 ジローという人間を相手にしていると、どうにも自分の調子を乱されると感じるのだが、それは何故だろうと探るじっとりと据わった眼差しで。

「ずいぶんな言葉だねぇ。そりゃネギみたいなのと比べたら、ちょいと捻くれてるだろうけど」
「そーやって微妙に毒を吐きつつ、緩い顔で笑う人がちょいとで済むはずないでしょう」

 茶葉をふんだんに使って淹れたお茶。今、自分に対して緩い笑みを向けている青年をそう評する。
 濃く淹れた、香り高く鮮やかな碧色のお茶を実際に口にして、甘いと感じるか渋い苦いと感じるか分かれるのと同じで、ジローがどういった人間か、人によって随分と印象が変わるのだ。
 お茶の美味しさを知っている者からすれば、甘さと混ざり合う渋味や苦味もお茶の味を楽しませる要素の一つとなるだろう。
 だが、味の緩急とでも呼ぶのか、とにかく反発する味の組み合わせを美味しいと感じられない、要するに子供の舌ではそれを苦くて渋いとしか思えない様に、パッと見の綺麗な水色と、甘く爽やかな香りで勘違いするのだ。八房 ジローは頭が悪いぐらいのお人好しで、緩い性格をしているに違いないと。
 だが違う。夕映は細めた眼差しにジローを映し、「随分と癖のある味を持っているようです」と胸中に呟いた。
 場面や状況問わない緩さに含まれた、人によっては小馬鹿にされていると感じる微かな苦味や渋味。慇懃無礼な人間のわざとらしい厭味とは違い、端から疑って掛からねば気付かない本音、かもしれない棘のある言葉。

(最も、それ自体を当人が意識してやっているのかは不明ですが……)

 分かってやっているなら、先ほど本人へ言った通り、この上なく性格が悪い人物であるし、仮に意図せず相手に通じぬ厭味を吐いているなら、それはそれで異常である。
 どちらにせよ面白く、また興味深い。ただ緩く、穏やかに笑うだけが取り柄と言って差し支えない飄々とした青年の本質が気になると、夕映は口元を綻ばせて思う。

「ジロー先生はあれですね、お茶の種類は多ければ多いほど嬉しいと言うタイプですね」
「当たり前でしょうよ。緑茶に梅こぶ茶、烏龍、プーアル、麦茶に紅茶、抹茶にコーヒー……飲める種類は多いに越した事ないからね」
「その意見には大いに賛同するですよ」

 気持ちがいいほどの即答に、夕映の中で面白いという思いが一層強くなった。
 どこからともなく取り出した、麻帆良限定グリーンピース風味ヨーグルトドリンクの紙パック片手に、少女は肩の力を抜いた笑みで同意する。その笑みは無人と思っていた町で運良く、気の合う人間と遭遇できた旅人をイメージさせた。

「い、いや、飲み物の種類が多いのは嬉しいけど、そーいういかにも地雷な素敵飲料は選択肢に含めたくないんだけどね?」
「失礼な言い草ですね。これも飲み慣れてしまえば、なかなかに乙な味だというのに……」

 とはいえ、味覚的な共感は得られそうにないが。
 グリンピース風味ヨーグルトドリンクの青臭く、独特の苦さと酸味に舌鼓を打つ自分へ、味覚障害者でも見るような視線を向けるジローに、分かっていないと言いたげに夕映はかぶりを振った。親友であるのどかやハルナ、木乃香に勧めた時も、遠慮の度合いはさて置き、ジローと同じ反応を返されたのだが、これはどうしたことだろう。
 軽快に音を立て、紙パックの中身を空にして首を捻る夕映の傍らで、ジローも同じく首を捻っていた。
 つい先ほど、人の様子を窺い見ては思案に没頭していた少女の声から、随分と刺々しさというか一定の距離感を設ける響きが消えたのだが、それは何故なのだろうか。下手をすると、自分にとって酷く不名誉な共感や同族意識を持たれた気がするのだが、はたしてこれは気のせいで済ましてよいのか、と。
 目に付いた本を棚から引っ張り出し、適当に項を進めながら考えようとしてすぐに閉じる。『世界の拷問大全』などという物騒で血生臭い書物は苦手だった。

「…………まあいいか、警戒されたり嫌われるよかマシだろうし」

 数瞬の黙考の後、ジローが出したのは投げ遣りで、かつ自分に都合のいい方向で納得した呟き。

「片付けも終わったし、俺はもう帰るよ」

 流石に時代小説は入っていないか。本を書棚に戻し、ため息交じりに溢したジローは、少しばかり疲れた体を引き摺って図書室の扉へ足を向けた。

「そうですか、ではまた明日。図書館探検部の話はその時にするとして――――あ」

 本に落としていた視線を上げ、愛想はないながらも別れの挨拶を送った夕映だが、そこで唐突に口を噤んでしまう。
 何事かあったのかと、瞼の下がった眠たげな顔で振り返ったジローが無言に首を傾げた。

「いえ、今頃になって、私の当初の目的は行方知れずになったのどかの探索だと思い出してしまい。な、なんたる不覚……うう、ハルナからメールまで来てるです」

 図書室という大好きな本に囲まれた状況で、知識を求め、哲学を学ぶ者として興味を刺激される青年を発見した高揚感から、本来の目的を忘却していた己の迂闊さに恥じ入り、慌ただしく携帯電話を取り出した夕映だったが、

「あー、そういえば最初の方にそんなこと言ってたっけ。それなら保健室に行ってみたらいいと思うよ、宮崎さんまだ寝てるだろうし」
「ど、どうしてのどかが保健室に? というか、何故ジロー先生がのどかのいる場所を知っているのですか?」
「何故にって、図書室の惨状にショックを受けて目を回した宮崎さんをネギが発見して、たまたま通りかかった神楽坂さん……アスナさん――――アスナに手伝ってもらって保健室に運ぶから、片付けはお願いしますって携帯のメールで頼まれたからじゃないかな、俺が」

 アスナの呼び方を何度か試行し、結局一番呼びやすく、同時にジロー的な彼女の位置付けが微妙に分かるものに決定して、自分が図書室にいた理由を嘘交じりに語った青年の口元に一瞬、誰が見ても意地が悪いと言わせる緩い曲線が湛えられたのは錯覚か。

「ちょちょ、ちょっと待つですよジロー先生。まさか、まさかあなた、最初からこの流れに持っていこうとしていたですか!?」
「そんなに高度な会話の誘導、駄菓子屋の生ぬるいラムネみたいな顔した奴にできるわけないだろう?」
「じ、地味に根に持っていたですか? 度量が狭すぎるですよっ、私が友人を捜していると知りながら、自身の復讐心を満足させるために人を謀るなど!!」

 勘ぐれば勘ぐるほど疑心暗鬼に駆られ、掴みかからんばかりに詰め寄る少女の頭を押さえ、それ以上間合いに入り込めないようにする。

「そんなこと言われてもね。宮崎さんを捜してるっていうのは聞いたけど、俺がその子のいる場所を知っているかどうかは聞かれなかったわけで」
「くっ、なんて屁理屈を……言われたこと、聞かれたことにしか受け答えできないのは、ただの子供ですよ!!」
「悪いねぇ、先生もどきなのに子供程度のことしかできなくて。ここは一つ、子供にはない寛容な大人の心で許してくださいな」
「ぐぬぬぬ……!!」

 地団駄を踏みそうなぐらい悔しがる夕映の表情とは真逆、腕を伸ばしてつっかえ棒にするジローの顔はこの上なく楽しげで、同時に負けず嫌いな子供が、必死に見栄を張ろうとしているのを見守る年長者らしい、実に悪趣味な思いやりも溢れていた。
 先生見習いと生徒という、お互いの立場を抜きに見れば歳の近い親戚、あるいは近所に住む顔見知りの学生と少女といった印象を受ける。ただ、その顔見知りの学生というのがジローの年齢に相応しい高校生ではなく、就職活動中の大学生辺りが一番しっくり来るのは、微笑ましさよりも同情を覚えるべきかもしれないが。
 ともかく、片方が一方的に文句をぶつけ、もう片方がそれを受け流すという形で会話が落ち着いた時だった。洒落たフレームの眼鏡を掛けた少女が、腰まであるロングの黒髪と二本の触覚じみた癖っ毛を揺らして、図書室の入り口からひょっこり顔を覗かせたのは。

「あ、いたいた、ゆえ〜。もー、人がせっかく、のどかの居場所突き止めたっていうのに、何で携帯に返信してくんないのさー……って、およよ?」
「む、ハ、ハルナ? あっ……す、すみません! ちょっとしたドタバタのせいで、ついさっきメールに気付いたところなのです」

 両者ともに堅苦しくない、打ち解けた会話を交わすところからして友人なのだろう。
 詰め寄るのを止めはしたが、またいつぞろ突っかかってくるか分からぬ夕映の頭を押さえたまま、手の先にいる少女と扉から顔を覗かせる少女――夕映と同じクラスに所属する早乙女 ハルナの、意外なものを見て目を丸くしている様を交互に見ながら思う。

「のどかの居場所は、私もすでに知っているですが! ちょっと待つですっ、すぐにでもこの性悪先生もどきを喝破するので、ハルナはそこで――――ハルナ?」

 ジローに揚げ足を取られる会話がよほど気に入らなかったのか、友人の方を見ることなく声を掛け、再び前進しようと足掻きだした夕映だった、そこでようやく違和感に気付く。
 訝しげに眉を顰めた顔を扉側へ向け、そこにいたはずの友人の姿を捜して視線を彷徨わせる夕映に、素知らぬ顔で疲れた手を振っていたジローが伝えた。

「早乙女さんだったっけ、あの子ならもうどっか行ったけど? なんかフラグがどうの、朝倉はどこだの、狂喜乱舞の笑顔で叫びながら」
「なっ……!?」

 瞬間、己の失策に夕映の表情が歪んだ。
 朝倉というのは、十中八、九でクラスメイトの朝倉 和美のことであろう。麻帆良のパパラッチという、聞くからにはた迷惑な二つ名を持つ少女の名を叫びつつ、とにかく楽しければ良しの方向で生きる友人が走っていった。そこから導き出される答えは一つしかない。

「ま……待つですよっ、ハルナッ! ハルナーーーー!?」
「…………ああ、俗に呼ぶトラブルメーカーなんだな、あの子が。厄介なのに見られた、ってとこか」

 サッ、と顔を青褪めさせた夕映が必死の形相で図書室を飛び出し、友人を追って駆けていくのを見送るジローの胸中にあったのは、どこにでも賑やかしはいるものだという呆れと、しばらくはクラスで幼稚な囃し立てを受けるであろう少女への同情だけだった。

「あー……片付けも終わったし、帰るか」

 最後にざっと図書室を見渡し、戻し忘れた本や直し忘れた物はないか確認した後、ジローが疲弊した感じにため息を吐きだす。頭を掻きながら廊下を歩く姿が非常に年寄り臭いのは、それだけ心身ともに疲れを訴えているからだろう。
 昨日今日で仕事に適応できるぐらい器用なら、こうまで神経をすり減らすこともないのだが。
 明日は明日で、また色々と学ばねばならぬ仕事があるのだろうと気を重くし、身を寄せているアパートへの道を歩く。

「晩御飯は大家さんが用意してやるって言ってたし、お言葉に甘えるとして……お礼代わりにデザートでも買っておこうかな」

 肌を刺すような風が吹く中、すっかり暗くなった帰路を急ぐ。
 洋菓子よりも和菓子の方が喜ばれるだろうか。大家の好みが分からず、仕方なしに自分の食べたい菓子を買うことにしたジローの頭からは、既に夕映とハルナの追走劇の結果に関する興味が放棄されていた。
 それが原因であるかどうかは別として。
 後日、麻帆良のパパラッチの異名を持つ少女のばら撒いた号外によって、堅物で知られるガンドルフィーニを始めとする先輩教師方に呼び出しを喰らい、事の次第を追及されることになるのだが、

「寒いし、ほうじ茶と酒まんじゅうの組み合わせがいいかもなぁ……」

 今のジローにとって重要なのは、食後のお茶請の選抜であることは疑いようがなかった――――





久方ぶりの後書き) 夕映との遭遇戦? 文章が安定しないし、ぐったらぐったら……もう少しマシに書けるようになりたいものです。難産だった話を糧に、もっとシンプルに書いていこうと思いつつ――――次回予告?
 次は教会組がメインの話です。これに関してのみ、予定は確定。読み切りっぽく『三番目の使い魔?』とか書いてみたいと思いつつ。
 ではではー

〈続く〉

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