「未知との遭遇?」


 ――入ってきてくれたまえ。

 随分と距離を感じさせる階段と廊下を辿り、ついに到着した学園長室。
 重厚さを湛えた黒光りする木製の扉をノックしたジローの耳に、部屋の中で待っていたらしい麻帆良学園の責任者――近衛近右衛門と思わしき人物の声が届いた。
 チラリ、と自分が歩いてきた廊下を振り返るが、先ほど置いてきたネギ達が追い付いてくる様子はない。
 仕方がない、か。
 半ばこうなる事を予想しながらも、あの場でごちゃごちゃした騒ぎを眺めるよりは幾分マシだと考え、一足先に挨拶をしに来たのである。
 ネギが来てからでは、色々と話しづらいものもあろう。
 例えば、麻帆良が魔法使いにとってどういった場所かや、使い魔――実質、ネギの付き人兼魔法使いとして何をすればいいのか、等々。
 場合によっては、面倒な仕事を回されるかもしれない。
 メルディアナの校長やドネットから、前もって伝えられていた事とはいえ、受け入れがたいものがあるのは仕方なかろう。

「ハァ……失礼します」

 とはいえ、愚痴って拒否したところで意味がないのも理解している。いや、理解しなければならない、と言うべきか。
 ネギが気まぐれに行い、失敗した召喚魔法で喚び出された使い魔という事情を抜きにしても、自分は己の意思でメルディアナの校長達と雇用契約を交わしたのだから。
 生活をするために仕事をするのはいいが、仕事のために生活する様になるのだけは避けたいな。
 木製の扉を開く直前、深呼吸代わりにため息をついて部屋に入ったジローの視線の先で、マホガニーの机を前に、上等な黒革の椅子に座った老人――大きくせり出した後頭部の先から、申し訳程度に生えたトウモロコシの髭のような白髪を垂らし、歳を考えていない金属環を立派な福耳に通した、縁起物として掛け軸に描かれる寿老人の如き容姿をしている――が、老い先短そうな髪と違い、豊かに伸びた口と顎の白髭を揺らして笑っていた。

「フォフォ、遠路はるばるよう来たの、八房ジロー君。儂が麻帆良で学園長を務めさせてもらっておる近衛近右衛門じゃ」

 矍鑠とした老人然たる笑い声を上げ、声を掛けてきた近右衛門を、ジローはただただ見開いた瞳で凝視していた。
 その容姿の奇抜さに生理的嫌悪感を抱いたのか、それとも純粋に人類とは認めがたい老人に肝を潰したのか。
 肩からずり落ちそうになっているバッグにも気付かず、呆然と立ち尽くしているジローを見た者がいたなら、恐らくほぼ全ての人間が同様の事を思うだろう。
 「私も初めて見た時は驚いた」、と。
 だが、違う。近右衛門を見て硬直しているジローに、先に挙げた様な感情の揺らぎは欠片も見受けられなかった。
 どちらかというと、それは信じ難きものを目撃してしまい、畏怖から祈りを捧げる事さえ忘れてしまった者のそれを連想させる。

「…………」
「ん? な、なんじゃ?」

 石の如く口を閉ざしたまま、ジローが静かに足を踏み出した。
 一歩、また一歩と今にも崩れそうな足場を踏みしめ、安全を確かめるように近右衛門へと歩み寄っていく。
 訝しげに片方の眉を上げ、意外とつぶらな瞳を覗かせた近右衛門に答えぬまま、机越しに手が届く距離にまで接近したジローが、肩に掛けていたバッグの口に手を突っ込んだ。

「フォ……」

 本来、自分が赴任することになった学校の最高責任者に会えば、まず行うであろう会釈や挨拶さえ後回しに、艶のあるマホガニーの机にジローが置いたもの。
 それは――――新宿駅に着いてすぐ、たまたま目に付いたという理由で購入した赤いネット入りの蜜柑であった。
 恭しく、まるで道端の地蔵や仏様に供物を供える様に、ソッと四個入り三百五十円のネット入り蜜柑を近右衛門の前に置き、一歩下がったところでようやく、ジローは頭を下げて自己紹介を行う。

「あー、八房ジローといいます。もうメルディアナの校長達から話は聞いていると思いますが、使い魔っぽい人間やってます、一応」
「スルーせんでくれるかの、この蜜柑」
「ほんの気持ちです、他意はありません」

 流石に会って早々、お供え物を渡されるとは思っていなかったのだろう、一筋の汗を垂らして目の前に置かれたネット入り蜜柑について近右衛門が指摘するが、対するジローは先ほどまでの恭しい態度はどこへやら。
 緩い眼差しを真正面から返しつつ、とても他意がないようには聞こえない言葉で断言していた。

「……まあいいわい。それじゃ、適当に掛けてくれたまえ」

 まあ、悪気があっての行動ではないだろう。
 近右衛門はそう、己へ言い聞かせておく。
 何故か、手に取って口に入れた瞬間、自分が人間である事を否定してしまう気がして、机に置かれたネット入りの蜜柑を極力、視界に入れないようにしながら、ジローを理事長室中央の応接用ソファーへ座るよう促す。

「失礼します」

 部屋にある調度品の全てが手の込んだ一品で、二人が深く腰掛けたソファーもその例に漏れず、心地よい感触に感嘆の声が出そうになる程だった。
 こうした、目上の人間と一対一で話す場でなければ、体を預けて座敷犬の如くうたた寝を楽しめるのに、と密かに思う。

「お茶の一つも出したいとこなんじゃが……すまんの、あまり悠長に話しとる時間もなさそうでな」
「いえ、お構いなく」

 黒革の椅子から腰を上げ、自分も応接用のソファーに座りながら言う近右衛門に、ジローも恐縮した面持ちで返すが、お互いそれが本題に入る前の社交辞令的な会話だと分かっていた。

「さて、と……」

 尻の位置を動かし、丁度良い座り具合になったのだろう、話をする準備が整ったと言う風に髭を扱き、独り言を溢した近右衛門の瞳が、自分の斜め向かいに座るジローを映した。
 心を覗き込まれる様な感覚、とでも言うのだろうか。どこかの高みから見下ろされている錯覚に、知らずジローの掌に汗が滲む。
 何をしたところで、何を考えたところで、全てを見透かされてしまう矮小な存在。
 釈迦の掌とは知らず、呑気に飛び回っていた孫悟空や、箱庭にでも放り込まれた小人にでもなったかの様で、今の気分を端的に述べるなら、ひと思いに煮るなり焼くなりしてくれ、といった所だ。
 この足元が覚束なくなる、船酔いや車酔いになりかけている様な感覚に、ジローは嬉しくないことに覚えがあった。

(読心か何かだよな、たぶん……)
「気分は悪かろうが、少しの間だけ我慢してくれるかの。メルディアナのを信用せん訳ではないが、やはり自分で直に見てみんと、その人となりは分からんでな」
「はあ」

 だったら、その辺が分かる質問なりすればいいだけの問題なのだが、そこで言葉ではなく魔法を使う辺り、根っからの魔法使いなのだろう、と思いながら生返事をする。
 実際問題、人が口にする言葉などいくらでも偽れるのだから、こうして直に『心を見る』方が確実で、安心し易くもなろう。
 ジロー個人としては、断りも入れずに心を読まれるのは不快であったが、その反面、容易に他者の意識に介入できる近衛近右衛門という老魔法使いの実力の一端と、やや過剰にも感じる慎重さを重んじた行動に、素直に感心もしていた。
 長い付き合いがあるだろうメルディアナの校長の言葉――この場合、手紙や国際電話、あるいは超長距離の念話だろうが――を鵜呑みにし、初対面の八房ジローという異質な使い魔もどきを信用信頼するのではなく、きちんと己の目で相手の人柄を見、判断を行う。
 そこには、好々爺を思わせる風貌の裏にある、関東魔法協会理事として生きてきた人間の経験が感じられる様な気がした、のだが。

「――――儂が言うのも何じゃが。ジロー君、君ちと変わり者というか、ぶっちゃけ性格悪いじゃろ?」
「人の頭、勝手に覗いといて、言うに事欠いて性格悪いはないんじゃないですか?」

 スッ、と頭の中が爽快になる感覚。どうやら、近右衛門の目利きが終わったらしい。
 ようやく消えた頭部の不快感に一息つこうとした自分に向い、唐突に失礼極まりない事を言ってくる近右衛門に、すかさず半眼になったジローは文句を返した。
 近右衛門が何を見たのか、自分の頭の中だけに粗方の想像はついているのだが、それにしても失礼である。
 流石に顔を顰めたジローに、歯に衣着せぬ言葉過ぎたと思ったのだろう、撫で心地の微妙そうな頭部に汗を垂らし、「いや、つい本音がの」と謝罪にならぬ言い訳を述べた。

「ハァ……」

 このまま苦情を申し立てたところで、相手は見た目からして老獪そうな人物。
 のれんに腕押し、糠に釘を続けても何ら意味はない。
 「フォッフォフォッ」と実に演技臭い、移民先を探して地球を訪れた結果、宇宙を警備する正義の宇宙人に十億以上を殺された、蝉っぽい宇宙人を髣髴とさせる笑い声を上げている近右衛門を横目に、ジローは深いため息をついて場の仕切り直しを求めた。

「まあ、今更、性格悪いとか言われて落ち込むことはないから、別にいいんですけどね。それで……? 学園長から見てどうでしたか、八房ジローという人間は」
「ふぅむ、どうと聞かれてもな……。正直に答えると、よく分からんかったかの」
「それは、ネギの側に置いておいて問題あるかないか判断しにくい、という事でしょうか」

 何が面白いのか、口元に微笑を湛えて問うジローに、近右衛門はゆるゆると首を振った。

「問題はそこではないよ」

 ソファーの背もたれに体を預け、近右衛門は天井辺りに視線を這わせた。
 同じ人間としての同情、ネギと同じ魔法使いとしての申し訳なさ、様々な不幸や理不尽を見てきた年長者としての憐み。それらが一緒くたになった、重さとぎこちない優しさが混ざり合う呟きが零れる。

「憎いかね? 魔法使いを名乗りながら、君の本当に大切なものを返してやれない儂達は」

 近右衛門が覗けたのは、ジローの表層にあった記憶と、心のほんの触りの部分。
 どこで、どんな風に生きてきたのか。
 どんな人達と接し、絆を結んできたのか。
 それらを見ただけだが、痛いほどに分かった。『八房次郎』の世界がいかに色鮮やかで、幸せに満ちていたかという事が。一度知ってしまうと、それなしでは生きていけなくなる程、喜びや楽しみに彩られた場所だったという事が。

「ジロー君、教えてくれんか。君がネギ君の側にいる理由……いや、いられる理由と言った方が良いか」

 瞳を向け、髭の下でもごもごと口を動かす近右衛門を、ジローは無言で見返している。
 どこかしら穏やかさを感じさせる、人によってはやる気の感じられない、気の抜けた炭酸水の様と評する緩い眼差しで。

「ネギの側でいられる理由ですか」

 暫しの沈黙が過ぎたところで、ようやくジローが口を開いた。
 先ほどの近右衛門の言葉を噛み砕き、ゆっくり咀嚼する様に繰り返す。
 天井を見上げ、次いで理事長室の窓の外へ視線を送り、僅かに瞼を下げた気だるそうなため息を吐いた。

「実のところ、まだ保留中だから……じゃないですかねぇ」

 ポツリと告げられた言葉に、近右衛門は長い眉の下で瞳を細めた。胸中に生じたのは、「やはり……」という遣る瀬無さと、それとは逆の安堵。
 矛盾した二つの感情が生じた原因に、近右衛門はすぐに思い至った。
 だが、口には出さない。いや、出せなかったのだ。
 ただ、小さなため息だけを漏らし、己の中にある噛み合わない感情を押し潰す。
 この問題に関して――ジローがネギの側にいられるのは『まだ保留中』だからという理由に、自分が触れられるはずもなかったから。

「穏やかそうな見た目の割に、ちいっとばかし心根が歪んどるんじゃな、君」
「いやー、学園長の後頭部ほど歪な形はしてないつもりですけど」

 どこか達観した言葉を口にした近右衛門と、緩い笑みを浮かべ、歯に衣を着せる気が皆無な感想を口にしたジローの視線がぶつかる。

「フォッフォッフォッフォッ」
「アッハッハッハッハッ」

 どちらともなく乾いた笑い声を上げ始めた。
 徐々に滲み出る余所余所しさが笑いの大部分を占めた頃だろうか、ジローと近右衛門以外がこの場にいたなら、天の助けと思うだろう来客を知らせる音が響いたのは。

「おや、どうやらネギ君達も到着したようじゃな」
「思ったより遅かったですね……。まあ、仕方なかったのかもしれませんけど」
「ふぉ? 何ぞあったのかの?」

 ノックの音から、ネギ達が理事長室を訪れたと知り、一先ず自分の席へ戻ろうとしていた近右衛門が興味を引かれ、ソファーに座ったまま背後の扉を見ていたジローに尋ねた。
 視線を前に戻し、どうしたものかと一瞬悩むが、ここで話さなければネギ達に質問が行ってややこしくなるだろう、と結論付けて口を開く。

「たいしたこっちゃない……いや、あっちにはたいした事ですかね。さっき、ここに来る途中で見たんですけど、何かツインテールした女子――アスナっていうのかな? その子、ネギの風の魔法の暴発喰らったらしくて、下着一丁になってたんですよ」
「ほお、下着一丁とな」

 その時の光景を思い返し、糸目で「災難でしたねぇ」と同情の言葉を口にしているジローに、近右衛門は一筋の汗を垂らす。
 メルディアナから送られた資料では、十七に届くか届かないかの年齢と書いてあったと記憶しているのだが、年頃――それも、自分と三つと離れていない恋愛対象内角低めに入りそうな少女の下着姿を見ていながら、サラッと流せるのは如何なものかと思って。

「最後に聞いておきたい事ができたんじゃが、いいかの?」
「何でしょうか」

 しょうもない質問が来ると直感で読み取っているのか、ジローが白けた顔で対応するが近右衛門は気にもせず、机の上に肘を突き、口の前で手を組むという大袈裟なポーズで問うた。

「その、ジロー君はあれじゃよ、宗教的理由で恋愛が禁止されているとか、異性には興味関心を持てない部類じゃったりする……のかな?」

 予想が覆る事を期待しているのか、それとも単純に身の危険を感じているのか、額に汗を滲ませている近右衛門に、「一体何を言っているのだろう、この爺さんは」的な白い視線が突き刺さる。

「何故にそうした質問が出るのか知りませんけど、俺は至って普通の女性の好みを持っていますよ」
「具体的には?」
「さあ?」

 特別、自身の異性の好みについて考えた事はないので、そこについては詳しく答え兼ねる、と矛盾した主張とともに首を傾げるジローに、初めて近右衛門の口からため息が漏れた。

「教育者の儂が言うのもなんじゃが、年相応に発情しといた方がええと思うぞい」
「そこは表現抑えて、青春とか言うのが年配者の気遣いじゃないですかね」
「いや、直球ストレートでなきゃ通じそうにない思ったんじゃが……ええわい、この問題は後回しじゃ」
「はあ……?」

 どうやら、死球レベルでないと効果がないらしい。
 年相応の感性を取り戻させるには、じっくりと時間をかけて根治するしかないと判断し、近右衛門は疑問符を浮かべているジローを放置して、焦れたのか二度目のノックの音が聞こえた扉へ声を掛けた。

「ええよ、入ってきてくれたまえ」
「失礼しまーすッ」
「し、失礼しますッ!!」
「ほーい、お邪魔〜」

 バタン、と少々無遠慮に開いた扉から、不機嫌そうに眉間に皺を寄せるジャージ姿のアスナや、緊張している事が一目で分かる表情のネギの後ろから、随分と気軽い様子の木乃香が続く。
 そして、

「学園長先生!! 一体どーゆうことなんですかっ!? こんな子供が先生とか! しかも、高畑先生が担任のはずの私達のクラスの担任とか!!」

 部屋に入って早々、烈火の如く叫ぶアスナに、ジローと近右衛門の視線がぶつかる。

「色々話しておく事があったんじゃが、後でまた来てもらってええかの?」
「全然構いませんよ。こちらとしても、話に水差されない落ち着いた状況で聞きたかったですし」
「説明をよーきゅうします!!」

 髪を振り乱して怒鳴り散らすアスナを無視し、言葉を交わした二人が同時に漏らしたのは、

「ハァ……」
「ふぅ……」

 これから先に起きるであろう面倒事と、互いに被るだろう苦労を憂い、労わり合う様なため息だった――――







 こんな理不尽が許されていいはずがない。
 ツインテールに髪を纏める、鈴つきのリボンが一番好きなお洒落である少女・アスナ――フルネーム 神楽坂明日菜は、教室に入ってきて早々、クラスメイトが仕掛けた新任用の悪戯トラップに引っ掛かり、クラスに笑いを提供した子供先生ことネギ・スプリングフィールドを睨み続けていた。

(一体何の権利があって、私から理想の担任の高畑先生を奪うのよ。いきなり修業とか言って担任をやらせてもらえるとか、どう考えても普通じゃないし)

 今現在、その子供子供した容姿からクラスメイト達に囲まれ、質問攻めでてんやわんやになっているネギから視線を外すことなく、あまり優秀ではないと自覚している頭で考える。

(何かあやしいのよね、あのガキ。会って早々、『失恋の相が出てますよ〜』とか電波っぽいこと言うし、さっきだって……)

 思い返すのは、ネギが教室の扉を開けてすぐの時の事。
 扉と柱の間にチョークの粉をたっぷり含ませた黒板消しを挟んでおくという、古来から受け継がれる伝統の悪戯技が発動し、頭に着地して白煙を上げるかと思われた瞬間、

(ほんのちょっとだけ、黒板消しが浮かんだみたいだったのよね。こう、ピターッって)

 その光景を見ていたのは自分だけではない。
 確かに黒板消しが停止するのを目撃し、教室にざわめきが生まれかけたのをアスナは感じたのだ。だというのに――

「はいはい、みんな。時間も押してるし、授業しますよー? それじゃ、ネギ先生、お願いします」
「あっ、は、はい!」

 ネギの指導教員としてともに教室を訪れた源しずなの掛け声により、平然と授業が始められようとしているのはどうした事か。
 あまつさえ、

「あ、あの、え〜〜〜〜と、まず百二十八ページの――――の、の……届かない〜」
「センセ、この踏み台を」
「あ、ありがとう委員長さん」

 一部――クラス委員を務める、木乃香と同じぐらいに付き合いのある幼馴染・雪広あやかだ――などが率先して、ネギを先生として受け入れようとしている状況は如何なものか。
 頭が痛くなりそうだ。
 机に突っ伏し、頭を抱えてアスナは呻いた。

(あんなガキが担任になって、しかも私達に勉強を教えるってだけでも理解できないってえのに……)

 今まで無視していたが、正直忍耐レベルも限界に来ている。
 頭を抱える腕と机の隙間から、じっとりと据わった眼差しでネギの立つ教壇から少し離れた場所を見る。
 教室前方の窓際、そこにどこかから引っ張ってきたらしいパイプ椅子を置き、やる気なさそうに座っている青年――ジローが待機していた。
 時折、板書に苦労しているネギの様子を見る以外、遠い眼差しで窓の外を眺めたり、懐から取り出した紙の束――『MM之心得十ヶ条』と書かれている――を読み進めているジローに、「なにマイペースにやってんのよ!?」と歯軋りする。

「ねえ、ジローさん、さっきから何読んでるの?」
「あー? さっき学園長に渡された資料をなぁ」

 胸中の罵倒が聞こえたのだろうか。
 授業を中断してジローに話しかけ始めたネギに、不本意ながらも「よく聞いた!」とアスナは小さくガッツポーズを取り、ふと思い至る。

(ってか、よくよく考えたら、あいつ自己紹介もしてなかったわね。何か自然に入ってきたと思ったら、椅子に座ってマイペースにやってたし)

 そう考えると、ついさっきまで普通に授業が進められていた事に違和感を覚える。
 自慢できた事ではないが、自分のクラスには一の話題の種を十の騒動に変える連中が群れているのだ。ネギほど弄り甲斐に富んではいないだろうが、それでも正体不明の闖入者という要素は、騒ぐのが三度の飯よりも好きな連中を刺激して止まないだろう。
 騒ぎが起これば、あの忌々しいガキも授業ができずに困るに違いない。
 教壇に立つネギを見て、意地悪く口元を吊り上げるアスナの予想は正しかった。

「そ、そうだったぁー! 普通に授業が進んでたんで聞くの忘れてた!!」
「わわっ、な、何ですか!? え〜っと……出席番号三番の朝倉和美、さん?」

 突然、椅子を倒して立ち上がり、オーバーに頭を抱え出した、後ろ髪を持ち上げて花火かパイナップルか、な髪型をした少女――朝倉和美の異変に目を白黒させ、恐る恐る尋ねたネギを余所に、和美の叫びを切っ掛けに騒ぎが起きた。

「よかったー、このまま授業終わるまでスルーするのかと思ってたよ!!」
「うんうんー! ネギ君、ネギ君、ちょっとだけでいいから質問タイムにしよー!!」
「ネギ君と親しそうな感じだけど、どういった関係なんですかー!?」

 右側の髪を束ねた元気そうな印象を与える少女や、サイドを左右に分けた変則おだんごヘアで、常に笑っていそうなイメージのある少女、緩いウェーブを掛けたロングヘアで大人っぽさを狙っているらしい少女など、ネギの自己紹介の際、異様なまでに騒ぎ立てていた面々が手を上げ、質問させろと大いに主張し始める。

「あっ、私も質問したーい!」
「私も私もー!!」
「ずるいよー、私だって聞いてみたい事あるんだからっ!」

 それらに呼応して、我も我もとネギに当ててくれと望む手が増えていく様子は、さながら柄杓を求める船幽霊の如く。

「むっちゃ可愛いショタっ子と、正体不明の緩そうな男の組み合わせ……ムムッ、何かインスピレーション来ちゃったよ!?」
「また病気が出ましたか……。あまりディープなのを描かないでくださいよ? 見せられる側としては苦痛ですから」
「大丈夫、そのうちそれが気持ち良くなるからッ!」
「なりませんよ。アホですか、あなたは」

 極僅かというか、ピンポイントで一名、暴走してジローとネギの名誉を著しく傷つけるレベルの創作物に着手しだす、二本の触覚を持つ黒髪の眼鏡少女がいたが、不幸な事に彼女に気付いたのは、すぐ隣にいた小柄でやや冷めた口調の少女だけだった。

「あっ、ああ、あのっ、みなさん落ち着いて……! ジ、ジローさん、どうしよう授業が〜!?」
「知らんよ。適当に質問なりさせて、サクッと授業に戻ればいいんじゃないか?」
「おっ、お兄さんの方はその気になったみたいだね? じゃあ、ネギ君、最初に質問するチャンスは私に頂戴!」
「え、ええー……じゃあ、朝倉さん」

 蜂の巣をバットで殴ったような騒ぎに、口の両端を下げた面倒そうな顔で、好きにさせればいいだろう、と投げ遣りな対応策を提示され、さらに生徒達の一丸となった賛成の声まで聞かされたネギが渋々、頷いたことで騒ぎに一先ずの落ち着きが訪れた。
 本人の強い希望通り、最初に質問をする権利を手に入れた和美が、胸ポケットから取り出したメモ帳片手にジローへ質問という名の取材を開始する。

「じゃあ、まずは名前から教えていただけますか!」
「八房ジロー。ジローは漢字じゃなくて片仮名な、冗談みたいだけど」
「ふむふむ、珍しいですね……じゃあ、次の質問。ネギ先生との関係は? この教室に来たって事は、もしかしてあなたも教育実習生?」
「ネギとの関係は……あー、ウェールズで下宿させてた家の子供と、させてもらってた居候の間柄? この教室に来たのは、ネギのサポートで副担任する事になったから様子見」

 本当は魔法使いと、使い魔として雇用されている魔法使いもどきなのだが、その辺りを馬鹿正直に話せば気の毒そうな目で見られるだけである。
 言ったところで、この賑やかなクラスなら笑い飛ばされて終わりそうな気もするが、無駄に魔法や魔法使いの存在をバラす事を喋ってはならない、と近右衛門に渡された『MM之心得十ヶ条』――MMは『MAGISTER MAGI』の省略らしい――に書かれていた教えを守り、自分との関係性を聞かれて顔を青くしているネギを横目に、ジローは適当に作った話を聞かせる。

「なるほど、ネギ君専門の副担任。イギリスで下宿していたって事は、ジロー……先生もオックスフォードを卒業して?」
「一応、そうなるのかね。まあ、英語で分からない事がある時はネギに聞くといい。話したり読んだりはできるけど、書く方は信用しない方がいいから」
「自分に聞け、じゃないんですね……やる気はなさげだが、経歴等はまあまあと」

 ペンを舐め舐め、面白い記事が書けそうだとほくそ笑みながらメモを残している和美の様子から、彼女の質問タイムは終わったと判断したのだろう。再度出現する船幽霊の群れに慌てふためきながら、ネギは一刻も早く授業を再開するため、質問したいと待っている生徒達を捌いていく。
 「歳は?」、「趣味は?」、「得意なスポーツは?」、「好きな食べ物は?」等々、ネギが自己紹介した直後、マシンガンの如く投げかけられたものと似た定番の質問が溢れる中、時折、「一番自信のある得物は?」、「手合せするアル!」、「改造人間に興味はないですかー?」、「今ならサービスで自爆装置も付けちゃうヨ!」といった不気味且つ不穏な声が聞こえたりもしたが、そういったものは自分の年齢を言った時のどよめき――教室の所々から、嘘だの全然そうは見えないだの、サバを読んでいるだの聞こえた気がした――とともに一切無視して答え終え、ジローはパイプ椅子から腰を上げた。

「さて、職員室に戻るとするか」
「えっ、急にどうしたの、ジローさん? 僕の授業、見てくれるんじゃないの?」

 膝の上に置いていた書類を脇に挟み、パイプ椅子を畳み始めたジローへ訝しげにネギが聞いた。
 呆れ半分、申し訳なさ半分といった微妙な表情で見返し、ジローは自分の手首に巻いた腕時計に視線を落とす。

「いや、もうそろそろ授業時間終わるし。一足先に他の先生方に挨拶しておこう、って思ってな」
「――――へ?」

 告げられた言葉の意味が分からない。
 教壇に最も近い席で姿を凝視していた、長い金髪と碧眼を持つ委員長に眩暈を起こさせるキョトン、とした顔でネギが首を傾げたところで、

 ――キーンコーンカーンコーン

 という、ネギにとっては初めての、ジローや他の生徒には聞き慣れたチャイムが響いたのは、なかなかに空気を読んだタイミングだと言えた。

「あ……終わっちゃった……」
「まあ、初日一回目の授業なんて質問と交流で潰れるもんさね」
「半分はジローさんのせいじゃないかー!?」

 他人事だとカラカラ笑い、パイプ椅子片手に教室を出ていこうとするジローの背中に、涙声になったネギの罵倒が飛ぶ。
 兄にからかわれ、ムキになって怒る弟の様子というのが、二人の関係性を表すのに最も近い喩えか。

「拗ねちゃってー、可愛いんだからネギく〜〜〜ん!!」
「お姉さんが慰めてあげるよー?」
「ちょっと、うえ!? やめてくださ……ジローさん、置いてかないでぇぇっ!?」

 休憩時間になったという事で、欠片程度にはあった教師への遠慮を放り捨て、新たな質問や、過度な接触を伴うコミュニケーションを行う生徒の波に呑み込まれたネギの悲鳴が、さっさと教室を後にしたジローを追って廊下に響く。

「案外、楽かもしれないなぁ、ネギ専門の副担任って。賑やかしい生徒達はあいつが引き受けてくれそうだし……」

 肩に掛ける様に担ぎ直したパイプ椅子を鳴らし、のんびりした足取りで進みながらジローは独りごちた。
 最も、ネギというトラブルメーカが相手だけに、それは甘い希望だろうと思う自分も存在している。この辺り、悪い意味でネギという少年と一緒にいる事に慣れた証明と言えた。
 ふ、と苦笑して足を止め、窓の外に広がる豊かな緑の中、雄大にそびえ立つ大樹と、その周りにある歴史を感じさせる学園の建物を眺める。

「ちいっとばかし面倒でも、人と関わっていかにゃあな。でなきゃ、ネギにひっついて来た意味がない」

 いい加減、受け入れてもいいはずだが、と頭を掻きつつ歩みを再開する。
 大丈夫、この麻帆良というのはとても優しく、温かい場所だと、自身に言い聞かせる様な呟きを残して――――

〈続く〉

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