「新天地はよろしくフジヤマ?」


 日本は東京、二十三区の一つである新宿。そこから電車を利用し、埼玉方面へ行った場所に麻帆良学園都市がある。
 学園都市という名からも分かることだが、明治時代に創設された麻帆良学園は、幼等部から大学部までのあらゆる学術機関を集結させた学園都市と称するに相応しい土地であり、また学校が主に置かれた場所柄、治外法権的な力を有したある意味で日本の中にある独立国であった。
 もっとも、沖縄などにおける軍事施設と違い、島への出入りはよほどの事がないかぎり自由という面から旅行者や見学者も多く、散歩気分で訪れる事の出来る観光地という陽気な一面が際立っているのだが。
 そんな麻帆良学園都市において、七福神の一柱である寿老人を思わせる風貌の老人――学園長という事実上トップに等しい立場にいる近衛近右衛門は、職員会議に使用する広い会議室を見渡し、豊かに伸びた白い顎鬚を扱きながら言った。

「それでは、集まったようじゃの」

 長く、フサフサした眉の下から覗かせた目に映ったのは、会議室に置かれた長机の前に腰を下ろした九名の人間である。
 灰色の短髪をワックスで固め、眼鏡をかけた渋い雰囲気の男に、目の細い優男の風貌をした男や、短く髪を刈り込んだ黒人男性、サングラスに濃い口髭を生やした黒服の男、一人のんびりと持参したらしい菓子を齧るふくよかな体型の男など、統一された印象を持ちにくい人物達が椅子に座り、近右衛門を見ていた。

(ふむ、麻帆良の中でも指折りのメンバーが揃っておるな。これなら何の問題もあるまい)

 その事に満足そうに頷き、彼らの後ろの席に並んだ大柄でサングラスをかけたスキンヘッドの男や、シャツの上に茶のベストを着ている眼鏡の男、ビシリとスーツを着込んだ髪の長い女に、場違いな修道服を着る褐色肌の女にも視線を送った後、近右衛門は事前に用意しておいた資料を灰色髪の男に渡した。
 会議室にいる個性溢れる面々に資料が渡り切るのを待ち、顎鬚を整えるように扱いて口を開く。

「本題へいく前に、皆に話しておこうかの。もう知っている者もおるかもしれんが、彼――ネギ君が麻帆良へ来る事が正式に決定した」

 近右衛門の言葉に、会議室にいた者達からどよめきが生まれた。

「あの話は本当だったのか……」
「英雄の息子が麻帆良に?」
「修業とはいえ、どうしてこんな時期に……」
「それ以前に、先生というのは無理があるのでは……」

 会議室にいる面々が潜めた声で思い思いに言葉を交わすのを、近右衛門は黙って眺めていた。
 ただ一人、口元に苦笑を浮かべて静かに話の続きを待ちながら、灰色髪の男は気持は分かると呟く。
 今でも、自分達の間で類稀なる力を持つ英雄として語られているのだ、ネギの父親は。そんな彼の血を受け継いだ、たった一人の子供が麻帆良へ来る――――これは事件以外の何物でもなかった。
 しかし、

(どうやら今日は、そんな知らせ以上に驚く事があるみたいだけど)

 パラリとめくった資料。そこに書かれている文章を目で追い、驚きと呆れから苦笑を隠せなくなった灰色髪の男に気付いたのか、近右衛門が片眉を僅かに持ち上げてその様子を見ていた。

「そろそろいいかの?」

 ネギが先生として麻帆良に赴任する際、必要になる教員免許などの問題は自分が何とかする。そう断りを入れてから、一先ずの落ち着きを取り戻したらしい面々へ問いかける。
 慌てたように頷き、事前に配られた資料に一同が手を伸ばした所で近右衛門は話した。

「それで今日の本題じゃが。ネギ君の赴任に伴い、ある青年もここへ来ることになった」

 渡された資料の一枚目に印刷されていたのは、高校生辺りの年齢に見える人物の履歴書。
 それに目を通した面々の顔に、「この青年は何者だろう?」という疑問符が浮く。
 ネギと一緒に麻帆良へ来る青年というのは、この履歴書に貼られた写真に映る人物で間違いないのだろうが、英雄の息子と一体どのような関係にあるのか。それがまったくと言っていいほど想像できなかった。

「学園長、この青年は?」

 ネギと一緒に麻帆良へ来るということは、メルディアナ魔法学校の生徒か何かだろうか。
 修道女の質問に、どう答えたものかと顎髭をしごきつつ、近右衛門は資料の中身を訝しげに眺め、困惑から眉を顰めている一同に答えた。

「使い魔らしいの、ネギ君が間違えて喚んでしもうた」
「――――は?」

 修道女が目を丸くし、普段なら絶対に口にしない間の抜けた声を漏らす。
 他の者も同様、呆気に取られた顔で、近右衛門にどういう事だと物問う眼差しを向けていた。
 無理もない。
 心持ち、落ち込んだ犬の尻尾の様に垂れた眉毛の下で、自分に聞かれても正直、困ると糸目を作りながらも同意する。
 何をどうすれば、使い魔召喚用の魔法陣で人間を引っ張りだせるのか、長い人生を魔法使いとして歩み、極東最強の魔法使いの名を手に入れた自分にも理解できないのだから。
 メルディアナの報告を信じるなら、ネギの魔力が暴発して今までの常識を打ち破る魔法陣を作成してしまった、との話だが。
 これも英雄の、サウザンドマスターとまで呼ばれたナギ・スプリングフィールドから受け継いだ血と、少年の体に分不相応な魔力が可能にした『天災』とでも思わねば、平静でいられなかった。
 ネギが麻帆良へ来ると聞かせた時よりも大きく、そして低くざわめいている一同の注意を引くために咳払いを一つ。シン、と水を打ったように静まり返った部屋の照明を落とし、会議室に備え付けのスクリーンを広げる。

「まあ、使い魔どうのこうのは置いておくとしてじゃ」
「お、置いておく訳にはいかないのではないですか、学園長? この資料に書かれている事が本当なら、サウザンドマスターの息子を麻帆良に来させるなんて呑気な話をしている場合ではないでしょう」

 英雄の息子云々抜きに相応の罰が与えられなくては、この召喚されてしまった青年があまりに哀れではないか。
 人間を使い魔という、魔法使いの所有物や小間使い的な身に貶めた行為に不快感を隠さず指摘してきた修道女へ鷹揚に頷き、近右衛門はスクリーンに映像を映すためにプロジェクターを弄りながら答える。

「確かにその辺り、英雄の子だからどうので済ませられる話ではないし、断じて済ませてはならんのじゃがな……。その召喚された当人がネギ君を特に責める事もせず、またメルディアナの校長達と相談して、使い魔……立場的には付き人みたいなもんかの。その方向で雇用されてもいい、と譲歩してくれたらしい」

 ある意味で破格の条件じゃの、と髭を扱く近右衛門や、そんな上手い話があるのだろうかと猜疑的な反応の面々を余所に、スクリーンに映像が映し出されていた。
 のどかな田園風景を思わせる広い草原。その中を、一人の青年が必死の形相で駆けていた。

「これは……?」
「メルディアナの校長から送られてきた……何じゃ、プロモーションビデオ? じゃ」
『――――はあ?』

 今度ばかりは満場一致で呆気に取られた声を漏らす一同に、「儂は事前に見させてもらったが、なかなか面白かったぞい」と近右衛門は不自然極まりない好々爺の笑いを上げた。
 スクリーンの後ろにあるスピーカーから響くのは、連続する爆音の合間合間に出される青年の――ジローの悲鳴である。

『卒業試験なんだから逃げない!』
『無理です、無理無理無理ッ! 生身で絨毯爆撃を潜り抜けるとか、人のやるこっちゃないですって!!』
『私達は魔法使いだから、その限りではないわよっ』
『無茶苦茶な理屈だ!?』

 空襲に怯え、逃げ惑う民衆の如くジローは頭を抱えて、相手――ドネットの放つ魔法から逃走し続ける。
 こけつ転びつ、上空から雨霰と降り注ぐ『魔法の射手(サギタ・マギカ)』から逃げるジローの姿はお世辞にも機敏とは言えない、ひたすらに泥臭い逃げ方だった。
 あまりに見っともない様子に、会議室に揃った面々の顔に苦笑が浮く。ついさっきまで、ネギの失敗に対し眉を顰めて苦言を呈していた修道女でさえ思わず、くすりとしてしまった程だ。

『くのっ!』

 画面の中で進行している戦闘に変化が起きたのは、映像が始まって五分経った頃。
 魔力が残り少なくなってきたのか、それとも作戦なのだろうか。身体強化の魔法を四肢のみに集中させたジローが、まるで猫科の肉食獣のように草原を縦横無尽に駆ける。
 次々と地面に着弾する魔法の射手が土砂を巻き上げ、画面の中を見づらくさせていく。

『迅い……でも!!』

 土煙に姿を隠そうとしている、と考えたのだろう。常に上空に陣取り、魔法による砲撃を続けていたドネットが高度を落とし、手にした杖を槍の如く構えた。
 上下左右と容易に捉えさせない動きで接近するジローを迎え討たんと、ドネットは無詠唱で魔法の射手を放つと同時に杖を引き、かかって来いと低く構えた体勢で告げる。
 会議室で画面を見守る一同が、思わず唾を飲んでしまう緊迫した空気が映像の中に充満する。

『ハッ!!』

 裂帛の気合とともに繰り出された杖の石突が、一直線に突っ込んでくるジローに向って繰り出された。
 明らかに本気と分かる一撃に、映像を見ていたメンバーから息をのむ音が聞こえる。
 しかし、その行為が杞憂からなるものだと思い知らせる映像が、画面の中で繰り広げられた。
 石突を紙一重で躱し、見事にドネットの懐へ潜り込んだジローの手が、極々自然に伸ばされる。

『ほいっ!』
『っ!?』

 眼前に突き出された両の手がパンッと激しく打ち鳴らされ、ドネットの体が電流でも浴びたように硬直する。
 猫騙し――日本だけでなく、近年は海外でも通用するようになった相撲の戦法の一種。
 本来は立合いの開始と同時に放ち、相手に目を瞑らせる奇手をこの場面に至って使用するなど、一体誰が予想できるというのか。
 魔法使い同士の立合いと考えてよい状況で放たれた猫騙しに、ドネットの意識に刹那の空白が生まれたのも無理からぬこと。
 その短い、寸毫ほどの隙を突いてジローが視界から消えるのを見たのは、恐らく彼女一人だけであろう。
 映像を見ていた一同はハッキリと見ていた。前方回転受け身の要領で、杖を突き出した格好で固まるドネットの脇をすり抜け、背後を取ったジローが彼女の腰を両腕でロックするのを。
 そして、

『ふんっぬ!!』
『えっ、ちょっと――――きゃああぁっ!?』

 そこから間髪入れず、また容赦の欠片もなくドネットの体を持ち上げ、蕪や大根を引き抜くかの如く勢いをつけ、彼女を抱えたまま腰を後方へ反らすまでの流れを。
 映像に過ぎないと分かっていても、思わず眉を顰めてしまう鈍い音がスピーカーから響いた。
 魔法使いがバックドロップで投げ倒される。そんなシュールで悪夢と大差ない映像に、麻帆良学園の会議室にいた一同――魔法先生を自称する面々が浮かべたのは、ただただ唖然とした表情だった。

「ブッ……! クッ、ククク……!!」

 一人、サングラスに濃い口髭を生やした男だけは、口元を手で覆って込み上げてくる笑いに肩を痙攣させていたが。

『っしゃあ!!』
『イタッ、タタタ……「っしゃあ!!」じゃないわよ! 何でバックドロップなの!? 魔法を使いなさいっ、魔法を!! 何のために一年も学んだのよ!!』

 プロレス技を使った者の常なのか、右の拳を突き上げて叫ぶジローに、頭を押さえて涙を浮かべたドネットが突っ込みを入れていた。
 顔が赤らんでいるのは、どう考えてもプロレス技で投げられたことに対する羞恥の感情のせいだろう。ジローの胸倉を掴み上げ、「魔法使い舐めてるのか、この野郎」と言わんばかりに前後へ揺すっている。
 般若を思わせる形相で怒る魔法の師を相手に、やる気なさげにガクガクと首を振りながらジローが言葉を返していた。

『あー、すーみーまーせーんー。いくら卒業試験兼ねた試合だからって、お師さんを殴る蹴るするのは体面悪いかと思って』
『バックドロップの方が数倍悪いわよ! 主に私の体面が!!』
『ですよねー』

 最早、卒業試験を兼ねた試合など忘れた勢いで抗議を続けるドネットに、へらへらと緩い笑みさえ浮かべて同意していたジローだが、唐突に緩さを不敵なもので塗り替えて上空を指差した。

『だから……ちいっとばかし趣向を凝らしてみました』
『え?』

 注意を促すように伸ばされた人差し指に釣られ、星と月以外の光源がないはずの夜空を見上げたドネットの顔が驚愕に引き攣った。
 今頃、気付いたからだ。自分達が立っている草原が、妙に明るくなっている事に。
 それもそのはず、

『――――魔法の射手もこれだけ用意すれば、まあ有効ですかね』
『そ、そうね……』

 ニタリ。そんな意地の悪い音が聞こえそうな笑みで問い、ジローは天を指差していた手を前方――いまだに胸倉を掴んでいるドネットへ向ける。

『くっ……!!』
『普通にやってちゃ、魔法使いにはまず勝てませんからねえ』

 ここに至り、ようやく距離を取るために後方へ跳んだドネットに指を向けたまま、ジローが呟いた。
 直後、夜空に待機状態で浮かんでいた――恐らくバックドロップの後、天に向けて拳を突き上げたのと同時に仕込んだのだろう――百を超える魔法の射手が、頭上に障壁を展開したドネットに降り注ぐ。

『これまで色々ありがとうございました、ドネットさん。魔法その他を叩き込んでくださった御恩は生涯、忘れないといいなと思います』
『この……程度でぇッ!!』

 あからさまに嘘泣きだと分かる目元を拭う素振りで、魔法の射手の集中豪雨に耐えている自分に感謝の言葉を述べるジローが気に入らなかったのだろう。青筋を浮かべて障壁に注ぐ魔力を上昇させながら、ドネットが歯軋りとともにジローを睨み――――今度こそ、知的で有能な秘書然とした表情を凍りつかせた。

『あ……れ、ちょっと……? その意味深に向けた手のひらは何かしら?』
『…………紅き焔(フルグランテイア・ルビカンス)?』

 顔を青褪めさせ、声をどもらせながら問うドネットとは対照的に、爆炎を放つ中位の炎魔法を撃つ瞬間、ジローの顔は清々しいまでに輝いていた。
 ズモッと妙に重たげな音が響き、麻帆良の魔法先生達が見ていた画面が真紅の炎に塗り潰される。
 そこで記録を止めてしまったのか、それとも別の理由で映像を記録できなくなったのか。真っ暗になって砂嵐の音だけを上げるスクリーンを遠隔操作で片付け、近右衛門は髭を一撫ぜしてから魔法先生達へ言った。

「戦い方はともかく、実力は向こうのお墨付きというのは分かってもらえたかの。どうじゃ、なかなか愉快そうな青年じゃろ?」
『どの辺りがですか!?』

 突っ込みも御尤も。
 会議室にいるほぼ一同が綺麗に揃っての叫びに、だが近右衛門は矍鑠たる笑い声を上げる。
 照明が灯され、明るさを取り戻した部屋に麻帆良学園の、否、関東魔法協会理事としての言葉が響いた。

「麻帆良へ来る経歴が経歴の子じゃて。色々と戸惑わせられることもあるだろうが、決して偏見や差別の目で見ることなく、魔法使いの先輩として面倒を見てやってくれ。本日の話は以上じゃ」

 最高責任者にそう言われては頷くしかない。戸惑いや義務感、あるいは同意から首を振った魔法先生達に「うむうむ」と満足そうに頷きを返し、近右衛門は会議の終了を告げてさっさと部屋を出てしまった。
 残された魔法先生達も、とりあえず言われた通りに接しようと側にいる同僚と話をしながら席を立ち始めた。

「どう思いますか、彼?」

 そんな中、スーツで決めた眼鏡の女性が、隣で律儀に資料を読み返している修道女へ問い掛けた。
 顔にあるのは、女性特有のぶしつけな格付け談義でも求める苦笑。
 自身も手にした資料を開き、履歴書に貼られた青年――ジローの写真に視線を落として呟く。

「いまいち、真面目なのかどうか分からない顔をしてますね、この子」

 微妙に瞼が下がっているからか、気の抜けた炭酸水を連想してしまうジローに笑いつつ、胸中で考えるのは自分が世話している少女の事。
 この青年までとは言わないが、もう少し肩の力を抜けば今よりも遥かにマシになるというのに。
 密かにため息を溢す眼鏡の女性を無視するように、読んでいた資料を閉じて修道女は席を立った。

「どう思うも何も、私は学園長の仰っていた通り一人の人間として接するつもりです。使い魔というのも便宜上のものですし、偏見や差別する感情などを持つ気も毛頭ありませんから」

 修道女という立場からか、あるいは彼女自身が生真面目な性分だからか。
 眼鏡の女性が持ち掛けてきた世間話程度の話に、空回りした真剣さで以て答え、規則正しいパンプスの音を残して会議室を後にしてしまう。
 付き合いの長い顔見知りに対しても、そうした堅い態度が常なのだろう、眼鏡の女性は特に気分を害することなく、ただやれやれと言う風に首を振るだけだった。
 半眼に近付くほど瞼を下げ、手に持った資料に貼られたジローの写真に一瞥をくれてぼやいた。

「苦労するかもしれないわね、この子」

 何となくだが、感じられたのだ。
 この青年には、既に去ってしまった修道女が担当する二人の少女の片割れ――悪戯好きが高じて、強制的に大人しくする様、彼女に厳しく指導を受けさせられている少女に似たトラブルメーカーっぽさがある、と。

「まあ、その辺りは当人達に任せるとして……。フフ、きょっうはー、久しぶりのデエット〜」

 人の不幸は蜜の味とでも言おうか。
 生真面目で、融通が利かないお堅い修道女に叱責を受けそうなジローの資料を小脇に抱え、調子っぱずれな鼻歌を流してスキップする眼鏡の女性は、先に立ち去った修道女と比べて実に緩かった。
 もうすぐ消費期限がやってくる、指で押すと跡が残りそうな熟柿の様に――――








 メルディアナ魔法学校にある大聖堂を思わせる広間。そこに、厳粛な空気が張り詰めていた。

「卒業証書授与――――この七年間よくがんばってきた。だが、これからの修行が本番だ。気を抜くでないぞ」

 胸の下まで伸びた立派な白髭に、年季の入った豪奢なローブという、いかにも高位の魔法使い然としたメルディアナ魔法学校校長が、壇上の下に並ぶ今年度の卒業生達に祝福の言葉を贈っていた。
 卒業生の数は五人。男の子は深緑、女の子は紺色のローブに三角帽と、それぞれ新米魔法使いらしさを匂わす服装で、顔に緊張を滲ませて立っている。
 そんな未来を感じさせる少年少女達の中央で、殊更背筋を伸ばして立っているのはネギ。緊張しているのだろう、帽子の陰から覗く赤茶色の髪が小さく揺れている。
 だがそれも、首席ということで今年度卒業生代表に選ばれた事を考慮すれば、致し方の無い事に思えた。

「ネギ・スプリングフィールド君!」
「ハイ!」

 卒業式開始と同時に続いていた訓辞がようやく終わり、ついに卒業証書の授与に移る。

「う、うぅっ……ネギ、あんなに立派になって……」

 一番最初に名前を呼ばれ、強調するように胸を張ったネギが芯の通る声で返事し、壇上へと進み出る。
 堂々とした足取りで校長の前まで歩み、「おめでとう」という祝福の言葉とともに卒業証書を渡されるネギの姿に成長を感じて感極まったのか、ネカネが口元を押さえて嗚咽していた。
 卒業証書を脇に挟み持って卒業生達の所へ戻るネギへ、魔法学校の教員や在校生達と同じく祝福の拍手を贈りながら、ジローは込み上げてくる欠伸を噛み殺すのに難儀していた。卒業式前日だというのに、昨夜は遅くまでドタバタと忙しく動き回っていたからだ。
 普段ならその事に愚痴の一つでも溢すのだろうが、今日のジローは違っていた。

「日本で先生をすること、か……。魔法使いと先生にどれだけの関係があるのか知らんけど、俺としてはありがたい」

 昨日の夜、校長やドネットに聞かされた魔法学校卒業後にネギが行う修業内容を呟き、随分と遠く感じるようになった故郷へ想いを馳せる。
 まったく望みもしないハプニングから、日本を離れること早一年近く。胸に湧き上がるのは、郷愁よりも米味噌醤油に対する愛しさ狂おしさ。

「麻帆良、だったか。どうせ厄介事だらけなんだろうけど……それさえ瑣事に思えるな」

 イギリスの食事が不味かったわけではない。ただ、美味しいと思える舌も持ち合わせていなかった、それだけの事。
 とりあえず、日本に戻ったら夢に出てきた和食を全て制覇しよう。卒業式が終わり、ネギ達だけでなく職員や在校生達が広間を後にし始めている事に気付き、自分も同じく動き出しながらジローは誓っておいた――――







 卒業式が終わり、ネギの卒業証書に『A TEACHER IN JAPAN』の文字が浮かんで一悶着があった日から、半年の時が過ぎるのは非常に早く感じられた。
 もしかすると、自分がそう感じただけなのかもしれないが、本当に麻帆良へ向かうまでの六ヶ月は羽でも生えたかの如く駆けていった。

「……日本の空気が無性に懐かしいな」

 新宿駅の騒がしい雑踏を躱し、改札口の脇へ逃げて一息ついてからジローは呟いた。
 ウェールズから日本へ飛行機で移動した時にも口にした言葉だが、国際線出口から出てくる外国人の流れに包まれながら言うよりも、こうして一応は日本人の群れの中で呟く方が一層、感慨深い物を感じる事ができた。

「待ってよ〜、ジローさーん……」
「これでも待ってるんだから、もう少し急げよ。こっから乗り換えで麻帆良まで行かにゃならんのだから」
「ええー、まだ電車に乗るの〜……?」

 空港から乗り換えに乗り換えたというのに、まだ乗り換えるのかと、うんざり顔でぼやくネギの手を引きながらジローがぼやき返す。
 麻帆良へ向かう路線を調べる際、目にした環状線の駅数と、それぞれの所要時間が理解できず首を捻ってしまったと。

「ここまでごちゃごちゃしてるとか、日本人の俺もびっくりだよ。正直、必要かって思うぐらい駅があるし……歩けるだろ、一キロも離れてないんだから」

 それでも地下鉄よりはマシなのかもしれないが。
 下手をすれば蟻の巣に匹敵する、複雑怪奇に入り組んだ地下の路線図を思い出し、都市開発も手当たり次第やればいいというものではないな、と自然が多く残っていた故郷――当然、ネギ達と過ごしたウェールズではなく、本来暮らしていた日本の一地方都市の事である――の景色を脳裏に浮かべながら呟く。

「わっとと、少し早いよジローさん」
「赴任初日から遅刻したいなら、ゆっくり歩くけどな。ほれ、もう快速が出るみたいだぞ、これ逃したら遅刻の可能性大だ」
「えっ、ええっ!? じゃあ急がなきゃ!!」

 手を引いたまま不自然に歩く速度を上げた事で、背中に差した杖が落ちそうになったと抗議するネギへ面倒そうな目を向け、ジローは現在の状況に適した言葉で急かしておいた。
 本当は発車まで一分ほどの余裕があるのだが、もうすぐ電車が出てしまうという言葉を鵜呑みにして慌てだしたネギにため息を一つ吐き、そのまま歩みを緩めることなく進む。

「やっていけんのかねえ、こんなので……」
「な、なんだよ急にー。僕、ちゃんと先生頑張るよ!?」

 空気の抜ける音とともに電車の扉が閉まるまで暫し。
 通勤通学途中のサラリーマンや学生で埋まり、当然の様に座れない座席に「だろうなー」と固く閉じた扉に背中を預け、窓の外を流れる景色を見ながら溢したジローの呟きを耳聡く聞き咎めたネギが、頬を膨らませて文句を言う。

「はいはい、意気込みだけは買いましょうねえ」
「もー! やる気なさすぎなジローさんに言われても、全然嬉しくないよ!!」

 その様子は何事においても緩そうな兄と、何に対しても真面目な弟の対比と見ることができ、思いがけず心和む光景を目にできたと車両にいる何人かが笑みを溢す。
 現在進行形で両手を振り上げ、遺憾の意を表しているネギを一瞥した後、それっきり興味を失って意識の外へ放置したジローの目に、電車の窓に微かに映る己の顔が入った。
 緩い、やる気がなさそう、真面目さが感じられない。
 聞き飽きるほど聞かされた『八房次郎』の友人達の言葉に、不自然に口元が歪むのが分かった。

「そうでなきゃやってられん事なんて、腐るほどあるからなぁ」

 苦笑するように、だが同時に吐き捨てるように小さく出した言葉がどこに、そして誰に向けられたものか分からぬまま、ジロー達を乗せた電車は滑る様に走り続ける。
 正式な魔法使いになるために必要な免許を取得するため、ネギが教師として、ついでにジローも教師扱いで赴任する事となった麻帆良学園に向けて順調に――――







 ――学園生徒のみなさん、こちらは生活指導委員会です。今週は遅刻者ゼロ週間、始業ベルまで十分を切りました。急ぎましょう。

 麻帆良学園中央駅に滑り込み、扉が開いた電車内に街頭スピーカーから流れた放送が届くよりも早く、ゲートが開いた競走馬の如く地響きを立てて走る生徒達の波から逃れ、余裕を持って改札を出たジローは、グッと背筋を伸ばして呟いた。

「ヤバいかなぁ、とは思ったけど……完璧はぐれたな、ネギと」

 怒涛の勢いで疾走する麻帆良学園の生徒や、移動購買部が脇をすり抜けて遠ざかるのを眺めながら思い返す。
 電車の扉が開くと同時に流れ出た人の波。それに飲み込まれ、見覚えのある赤茶色の髪と、グルグルに布の巻かれた杖が悲鳴を上げながら消えていったのは、やはり見間違いではなかったのか、と。
 流石に道路へ出てきた蛙よろしく、満遍なく踏み潰されて圧死などにはならないだろうが、些か心配ではある。

「あー、でもまあ、大丈夫でしょうよ」

 最後に「……たぶん」と付け足してから、ジローは駅のホームにあった麻帆良学園のパンフレットを開いた。
 『夢の王国』として有名な大江戸デゼニーランド――大江戸とは名ばかりの、旧名下総国辺りに建国された巨大テーマパークである――の地図みたく、見やすいよう学校の区分ごとに色分けされた地図を頼りに、麻帆良学園女子中等部を目指し歩いていく。

「にしても、先生やれとか面倒この上ないな」

 魔法使い全般が素晴らしい称号だ、と掲げる『立派な魔法使い』と教職にどれほどの関係があるのか。
 ジローからすれば正直、理解しかねるのだが、少なくともネギの方は先生を立派に努めれば、魔法使いとして大成できると信じていた感じなので、特に気にしない事にしていた。
 そう考える理由に、『立派な魔法使い』に対してさして関心がない事が挙げられるのだが、それ以上に大きかったのは、

「ネギが立派に先生できようができまいが、ついでに一人前の魔法使いになれようがなれまいが関係ないからなぁ」

 使い魔という形で雇用されている以上、然るべきフォローは行うし、求められれば手も貸すが、結局のところ成否は当人のやる気と資質次第。ろくに人生経験も積まないまま、なあなあで与えられる賞賛や資格で腐るよりは、いっそ過剰なぐらい叩かれて伸びた方が、年若い少年にとって為になるというもの。
 数えで十歳という、どう見ても子供でしかない相手に少々厳しい視線を向けながら、ジローは面倒臭げに頭を掻いた。

「とは言え、とは言えだ……」
「取りッ、消しッ、なさいよ〜〜〜〜ッ!」
「あ、いや、あわわ!?」
「人間伸びるのはいいけど、首が伸びるのはちょっと困るな」

 のんびり歩いても、追いつける時は追いつけるらしい。
 麻帆良学園女子中等部へ続く道の先に、荷物の詰まったリュックサックと布を巻いた杖を背負った、見覚えのある赤茶色の髪を発見して嘆息する。
 一体何があれば、天下の往来で中学生と思しき少女に頭を掴まれ、宙吊りにされるというのだろうか。
 視線の先に待ち構えていたシュールな絵面に、就任もまだだと言うのに頭痛がした。
 いっそ、このまま見ぬ振りで放置して、自分一人だけで先に学園へ行きたかったが、そうは問屋が卸さぬというもの。

「あー、もしもーし、ちょっといいですかー?」
「ああん!? 何か用なの、アンタ!」
「あうあう……ああっ、ジローさん、助けて〜!」

 若干引き攣った愛想笑いを浮かべ、背後から声を掛けたジローに飛んできたのは、非常に剣呑な少女の眼差しと、はぐれた知人との再会よりも、助けてもらえる事を喜ぶ少年の眼差し。
 二月という寒さの厳しい季節柄、制服である臙脂と赤を基調にしたブレザーの上に、丈の短い学校指定のコートを羽織った、長い髪を鈴の付いたリボンでツインテールにした少女の、左右で色の違う瞳――虹彩異色症なのか、右が碧で左が青になっている――に珍しさから一瞬、眉を顰めてジローは考えた。
 どうすれば、穏便に話をつけることができるのだろうと。
 理由は知らぬが、激怒している事だけは分かる少女の刺々しい視線を、緩い表情で適当に受け流しながら近付き、とりあえずはネギの奪還を果たす。

「こいつが何やったのかは知らんけど、たぶん考えなしに言ったかやったかした事なんで、どうか矛を収めてやってくれんかね」
「えっ、あれ?」

 軽く伸ばされたジローの手が触れたか触れないかの間に、掴み上げていたネギの頭の感覚が消え、戸惑った少女が自分の手を見やった。
 何をどうされたのか、あれほど力を込めて吊し上げていた少年を容易く奪われた事に目を剥き、妖怪でも見たかの表情で一歩下がった少女に苦笑しつつ、ジローは猫の如く手に提げていたネギを地面に下ろした。

「ジローさん〜、どこにいたの!? 僕、すごく怖い目にあってたんだよ!!」
「はいはい、そりゃ悪うございました。つーか、少し離れただけで面倒事に巻き込まれてるお前さんのが怖いよ、俺は」
「何だよ、それー! さっきだって、何だか僕の方が悪いみたいな言い方してたし……僕はただ、あの人達が占いの話してたから、失恋の相が出てますよって教えてあげただけだよ!?」

 先ほど、被害者であるはずの自分側に非がある様な言い方で救出されたせいか、頬を膨らませて憤慨するネギへ半眼を送り、それは相手に激怒されても仕方がないだろう、とジローは胸中で思った。
 この年頃の少女達がする占いとくれば、恋愛絡みが大半。それも、自分達に都合のいい言葉やアイテムを教えてくれる、政事などに大きな影響を与えた本来の占いとかけ離れた一種の遊び。
 結果が良いにしろ悪いにしろ、笑って良い方向に捉えられる物で遊んでいるところに、見ず知らずの人間が余計な茶々を入れてくれば気分を害して当然だろう。
 だからといって、見た目からして幼い子供の頭を掴んで宙吊りにするのは褒められたものではないが。
 結局のところ、どっちもどっちという事か。

「むむ〜〜〜っ、親切で教えてあげたのに……」
「これだからガキは嫌いなのよ! 無神経でチビでミジンコなのに、一丁前の口利くし!! ……だいたい、あんた達どうしてこんなトコにいんのよ? ここは麻帆良学園女子校エリア! 男はとっとと出て行きなさいよね!!」

 いまだに頬を膨らませてブチブチと文句を垂れているネギと、目を吊り上がらせて、ろくに息継ぎもせずに喚いている少女を交互に見やり、投げ遣りに嘆息する。
 その面倒臭そうな態度が一層、少年と少女を騒がしくさせるのだが、久しぶりに日本の土を踏んでノスタルジアを感じているジローに、律儀に二人の相手をしようという気は起きなかった。

「あー、悪いんだけど、学園長室がどこにあるのか教えてくれんかね」
「ん? じいちゃ……学園長のおる部屋? それやったら、校舎の三階の真ん中らへんにあるけど」
「そう、ありがとう」

 再び睨み合いを始めたネギとツインテールの少女を余所に、ジローが声を掛けたのは、長い黒髪と穏やかな表情が見るからに育ちの良さを感じさせる少女。
 聞きたい事だけ聞き、軽い調子で礼を述べて立ち去ろうとするジローの背中へ、少々戸惑った感じで黒髪の少女が声を掛けた。

「えーっと、あの子、アスナと喧嘩しとるんやけど、放っといてええの?」
「あー?」

 ジローがネギと知り合い、それも比較的親しい間柄だと判断したのだろうが、今の彼にはありがたくもなんともない。
 呼び止められ、面倒そうな半眼で少女の肩越しにネギと、アスナと呼ばれた少女が睨み合っている様子を窺い、心底拘りたくないと思っている事が分かるため息を漏らす。

「お互い好き好んで喧嘩してんだから、止める必要はなさそうさね。放っておけば、そのうち落ち着くでしょうよ」

 触らぬ神に崇りなしとばかりに手を振り、もう一つため息を漏らして歩き出す。
 まだ何か言いたそうな少女の困り声が聞こえたが、相手にする気も起きず、急速に重くなりつつある体を引き摺る様にして、ジローは女子中等部だけにしては大きく、歴史を感じさせるレンガ造りの校舎へ足を踏み入れた。
 東京駅の外見に似ていたな、とぼんやり考えながら来客用のスリッパを履き、少女に教えられた学園長室へ行くにはどうすればいいのか、入ってすぐの壁に設置された見取り図を眺める。

「学園長室なら、そこの階段を上っていくと一番早いよ」
「ん? ああ、そうなんですか、ありがとうございます」

 校舎の大きさと比例して、まるで迷路の様に複雑になっている見取り図に、口を曲げて頭を捻っていたジローへ、唐突に話しかける人物が現れた。
 礼を述べて視線を向けた先にいたのは、灰色の髪をワックスで固め、咥え煙草をした眼鏡の男。
 咥え煙草をしている割に、物腰が柔らかそうで理知的な顔をした男は、

「やあ、急に声を掛けて悪かったね。僕は高畑……高畑・T・タカミチ、この学校で先生をさせてもらってる」

 手短に自己紹介を終え、「君は……八房ジロー君、でよかったかな?」と、口の煙草を指に挟んで聞いてきた。
 特に不審に思う事もなく、「そうですけど」と頷いたジローに苦笑し、高畑はチラリと玄関の向こう側を見て問う。

「いいのかい? ネギ君のこと、放って置いたままだけど」

 先ほど、黒髪の少女に問われたのと同じ言葉を口にした高畑に、今度はジローが苦笑する番だった。

「あれはお互い、意地張って言い争いしてる状態ですから。頭に血が昇ってるってのはあるでしょうが、やりたくてやってる事です。俺が止めてやる義理はないですね」
「そんなものかい?」
「言い方を変えますと、子供の喧嘩なんて気が済むまでやらせとけ――でしょうか」

 ジローの答えが気に入らなかったのか、複雑そうな顔で首を傾げた高畑に別の表現で答え、言葉を付け加える。

「どっちかが仲直りしたいとか、喧嘩なんてしたくないって考えてるなら、説得も効果あるんでしょうけど。どっちも人の話聞きそうにない感じですし、それなら勝手に疲れるのを待った方がいいですよ、たぶん」
「ああ……その辺は残念ながら同意見かな」

 ツインテールの少女の名前なのだろう、「アスナ君も、ああなると手が付けられないし」と煙草を吸いながらぼやく高畑に、ネギも似たようなものですと返して、ジローは肩に掛けたバッグを担ぎ直して歩き始める。

「それじゃ、俺は先に学園長の部屋に行っておきます。ネギ達の事、よろしくお願いしますね」

 そのために下りてきてくれたんですよね、と至極当然の物言いをするジローに、「やっぱり気付くよね」と職員室のある上の階から、ネギ達が喧嘩をしている姿を最初から眺めていた事を言外に指摘された高畑は、背広の胸ポケットに入れている携帯灰皿に短くなった煙草を捻じ込み、玄関へ足を向けた。

「やれやれ、就任前から生徒と口喧嘩してちゃ先が思いやられるよ? ネギ君」

 会って早々、喧嘩した相手がアスナという事に多少の『運命』を感じながらも、苦笑を禁じ得なかった。
 玄関から外に出た高畑の目に映ったのは、お互い大きな声を出し過ぎ、荒い息をついているネギとアスナの姿。
 向かい合って立つ少年と少女の背丈が、一瞬だが逆転する。
 ネギと同じ赤茶の髪をした、杖を片手にローブを着た青年と、ツインテールと左右で色の違う瞳はそのまま、ネギよりも幼くなったアスナの姿となって。

(これからきっと、色々起こるだろうけど……大丈夫ですよね、きっと)

 誰に向けた言葉なのか、それは高畑にしか分からなかったが、その声にならぬ呟きは、視線の先にいる少年と少女の幸福を願って止まぬものであった。

「彼には少し……いや、かなり申し訳ないことになる、かな?」

 そのために、彼に皺寄せが行くことも多々あるはずだ。
 ネギの失敗で召喚された青年の疲れた背中を思い出し、多大な申し訳なさと同時に、だからこそ自分達――麻帆良学園にいる魔法先生達は、公私ともにジローと友好的な関係を結んであげなくては、と考える。
 ネギが、サウザンドマスターの子供が何かにおいて優遇されるのは分かり切っているのだ。例えネギがサウザンドマスターの――ナギ・スプリングフィールドと同じ存在ではなく、ただ魔法が使えるだけの子供に過ぎないと理解している高畑でさえ、それは仕方のない事だと思っている。
 人は血の繋がりを深く、そして重い物だと考え、期待してしまうから。
 蛙の子は蛙ではないが、英雄の息子が英雄としての素養を持つ事に期待するなと言う方が無理なのだ。
 だが、その英雄の素養を持つ――かもしれない少年が原因で、大切な物の全てを失い、それでも絶望する事なく、強く生きようとしている青年を蔑ろにするのは、魔法使いとして、否人間として間違っている。
 高畑自身、そう強く信じているし、麻帆良にいる魔法使いの大半も同じ考えでいてくれている。

「ジロー君もここを……麻帆良を好きになってくれると嬉しいな」

 静かに、そして優しく微笑した高畑は、「さて、それじゃあアスナ君達を宥めにいかないと」と自分へ言い聞かせる様に呟いて、呼吸を整え、再び激突しようとする素振りを見せるネギ達に大きめの声を掛けるため、少し強めに息を吸った――――







 既に予鈴が鳴っているせいだろう、人の姿がないがらんとした廊下を歩いていたジローが、ふと窓の外を見た。

「…………何があったんだ、ありゃ?」

 悲鳴のような声が微かに聞こえて、丁度側にあった窓を覗いたのだが。
 ジローが見たのは、ネギと高畑、そして黒髪の少女に囲まれる形でへたり込んでいるアスナの姿であった。
 何故か、熊のワッペンが付いた毛糸パンツだけという全裸に近い恰好で胸を隠しているアスナに顔を顰め、だがすぐに「まあいいや……」とため息とともに流して、ジローは来客用のスリッパを鳴らして学園長室を目指す歩みを再開する。
 その背中に、慣れてはいけない物に慣れてしまった哀愁を漂わせながら――――

〈続く〉

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