「喚ばれて飛び出てコンニチハ?」


 何故、今頃になって使い魔の召喚などを行おうと考えたのか。
 英国はウェールズに存在するメルディアナ魔法学校に通う少年 ネギ・スプリングフィールドは、手にした魔法書のページを開きながら自問した。
 片手に持つ、漫画やゲームに登場する魔法使いが持っている様な木の杖を使い、地面に魔法書の中に記されているものと同じ紋様――円の中に、複雑な記号や図形を法則を持たせて描き込んだ魔方陣と呼ばれるものだ――を写しながら、ブツブツと誰に聞かせるでもなく語る。

「うん、そうだよね、使い魔は魔法使いの力を象徴する存在だ、ってこの本にも書いてるし……」

 魔法学校に通うようになってから、既に四年近くの月日が経っていた。
 子供心にも長いと感じる時間の中、自分がどれだけ魔法使いとして成長したのかを知るのに、今回の使い魔召喚の儀式は打ってつけなのだ。
 当然ながら、これから使い魔を召喚するという事は誰にも知らせていない。知れば、きっと反対されるからだ。心配症の姉や、何かと世話を焼いて年上ぶる幼馴染、魔法学校の教師達――――みんなが自分を大切に思っているからこそ、少しでも危険から遠ざけようとしてくれている事ぐらいは、ネギにも分かっていた。
 だが、

「僕はもっと強くなりたいんだ……。『あの人』みたいに、誰かを守れる力を持った『立派な魔法使い』になるために……!」

 思いつめた表情で魔法書を凝視し、何かにとり憑かれた様に杖を動かして地面に魔方陣を描き上げていく。強くなるためには、まず自分の現在の力量を知らなくてはならない。その為に必要不可欠な儀式なのだ、これは。
 完成した魔方陣に間違いはないかチェックし、第一段階はクリアできたと、浮いてもいない額の汗を拭う。

「えっと、それで次は……魔方陣に魔力を注ぎながら、自分が召喚したいものをイメージする。喚び出したい使い魔の姿などが明確であればあるほど、儀式の安全性や成功率は向上……フムフム」

 魔法学校に通う同年代の子供はおろか、経験を積んだ大人の魔法使いでさえ読解に時間がかかると言われる召喚の秘儀が記された書を片手間に読みながら、使い魔を喚び出すための手順を踏んでいく。
 魔法書と反対の手に持つ、命と同じぐらい大切な魔法の杖を媒体に、魔方陣へ魔力を流し込みながら想像するのは使い魔の姿。
 はたして、自分はどのような使い魔を召喚できるのだろうか。考えただけで胸が高鳴るのを感じる。
 英国ウェールズの国旗にも描かれているドラゴンや、その亜種のワイバーン、グリフォン。神話伝承においても指折りの強さを誇る幻獣の姿を脳裏に浮かべながら、ネギは膨らみ続ける期待感を抑えて儀式を開始した。

「我、誓約の名の下において命ずる‥‥」

 呪文の詠唱を始めると同時に、杖を介して魔方陣へ供給される魔力の量が増加する。また、周囲の空気も重く、厳格なものへと変化し始めていた。
 順調に儀式を進められているようだ。内心、満足そうな頷きを一つした後、ネギは自分が喚び出したいと願う使い魔の姿を頭の中に描いていく。強き力を持ちながら安易に力を振るうことなく、何かを、誰かを守るために全力を尽くしてくれる――そんな、自分が理想とする『立派な魔法使い』に近しい在り方を持った存在。

 ――孤高でありながら、寂しい時に親しく歩み寄って励まし、傷ついた時に慰めてくれる優しき獣。

 魔方陣に魔力を注ぎながらイメージを練る少年の心に、雷鳴の如く浮かんだイメージ。
 ドラゴンやワイバーンといった当初の希望の使い魔ではないものの、それは十分にネギの希望に応えてくれる姿形をしていた。
 意識を集中するために閉じていた目を、カッと見開いて杖を振り上げて召喚の仕上げとなる言霊を叫ぶ。この使い魔召喚の儀式は絶対に成功するという、自信に満ち満ちた詠唱。

「ネギ・スプリングフィールドの喚びかけに応えよ! 来たれ――――!?」

 突如、違和感を感じてネギは顔を強張らせた。
 鼻の奥に広がる、ツンとした痛みにも痒みにも思える刺激。生理的な反応でムズムズと動き出した鼻に集中が乱れる。腹部に力を入れ、口で息をするなどで対策を行うが、一旦、疼き始めた鼻の奥が鎮まるはずもない。
 体が求めるまま、口が大量の空気を取り込みだした。

「ふあ……ふぁっ――――――――ハクシュン!!」

 駄目だ。
 考えた時はもう遅く、体を丸め込む様に屈めたネギの口から、大音量のくしゃみが漏れ出した。空気を割るような音と同時に、ネギから魔方陣へ流し込まれていた魔力が爆発的に増加する。
 並みの魔法使い数人分を優に超える魔力量に、使い魔召喚用の魔法陣が大きく軋みを上げ、巨大な水槽に亀裂が入るような不吉な音を鳴らした。

「あ……し、しまった!!」

 異変に気付いたネギが、顔を青褪めさせて叫ぶ。くしゃみの拍子に暴発させた魔力が陣の容量を超え、内部の記号や文字をところどころ削り、本来の機能を果たせなくしてしまったからだ。
 術者の力量不足や不測の事態による召喚の失敗。そこから派生して起きる被害というのは生半可の物ではないと、手にした魔法書の一番初めの項に書かれていた事を思い出し、焦燥に駆られながらも制御を取り戻そうと杖を掲げたネギを待っていたのは、魔方陣から断続的に噴き出した白い火花の洗礼。

「アウッ!?」

 咄嗟に障壁を張ることで火傷は免れたが、魔力の壁越しに伝わった熱と光に、堪らず尻餅をついたネギを余所に、異変はさらに続いていた。術者であるネギを威嚇するように噴き出していた火花が魔法陣の中央に収束し、大きな球体へと変化する。

「そ、そんな……どっ、どうしよう、こんな……こんなはずじゃなかったのにっ」

 近付かずともわかる膨大な熱量だけでなく、バチバチと空気を叩くプラズマの光まで纏った白い光球が、もはや自分の手に負える物でないと悟ったネギの口から、望まざる結果を信じたくないという呻きが漏れた。
 尻餅をついた時に魔法書を取り落した事に気付けない程、頭の中が焦燥に焙られている。どうすれば今、目の前で起きている召喚魔法の暴走を抑えられるのか、それが何一つわからない。
 ネギにできたのは、ただ命と同じぐらいに大切にしている魔法の杖――英雄と呼ばれた父から手渡された『形見』を、この場にいない誰かに縋るのと同じ様に抱きしめる事だけだった。

「う、うぅっ……! わからないよ、どうしようお姉ちゃん……アーニャ……」

 こんなはずじゃなかったのに。姉や同じ魔法学校へ通う幼馴染に助けを求めながら、理不尽な出来事に見舞われ、不幸になった人が口にする拒絶の言葉を繰り返す。
 自分はただ、使い魔を召喚しようとしただけなのに。魔法学校の授業や、姉や魔法学校の教師達に隠れて続けている魔法の特訓の成果を、少しでも確かめたかっただけだったのに。
 ジワリと滲んだ涙に、視界が波打つように歪む。時折、しゃくり上げながら目の辺りを袖で擦って、感情を抑えきれなくなったネギは叫んだ。

「誰か……ヒグッ、助けてよ――――何とかしてよぉっ!!」

 助けてくれるのなら誰でも、どんな人でもよかった。
 ただ一心に、この怖い状況から自分を救い出してくれる存在を少年は求め、先の魔力の暴発を遥かに超える力が付加された泣き声を滾らせた。
 と同時に、魔法陣の中央に浮かんでいた光球に変化が生じる。まるでネギの絶叫に呼応した様に、白い光の塊は魔法陣の中へと吸い込まれて一柱の光を発生させた。

「――――え?」

 突如、訪れた魔法陣の変化に、涙を浮かべたまま目を丸くするネギを尻目に、光の柱は純白から澄んだ碧へとその色を変える。
 荘厳でありながら、安らぎを覚える暖かな色をした柱は範囲を広げ、ネギを内に包みこんだと思った次の瞬間、碧の光柱は一気に魔法陣の中心へと収束し、ボンッ、と今し方まで続いた異変の終わりを告げるには間の抜けた音を立てて、綺麗さっぱりと消失してしまった。
 そして、

「――――――――うお?」
「…………ふえ?」

 あまりに急速な事態の推移についていけなくなり、呆然とその光景を眺めているしかなかったネギの前に現れたのは、黒髪黒目の東洋人らしき青年であった。
 買い物の帰り道だったのか、ブランド物らしいスポーツウェア姿で片手にスーパーの店名が入ったビニール袋を提げ、ペットボトルのお茶を飲もうとした姿勢のまま周囲を見渡し、訳が分からないと言いたげに眉根を寄せて首を傾げている。

「……ここ、どこだ? 何がどーしてどーなってんだ?」
「えっと、あの……」

 何を言ったのかは分からないが、自分に質問しているという事だけは分かった。言葉は理解できなくとも、今の自分が彼と同じ心境である事は疑いようがなかったから。
 青年の話す聞きなれない言葉に内心、「ニッポン人かな?」と考えながら、どう説明すればよいものかと頭をフル回転させるネギに、若干眉は顰めたまま、だが見ていると何となく肩の力が抜ける緩い顔をした青年が歩み寄った。
 もしかすると、思い悩んだ自分の様子から、この異常な状況の原因に思い至ったのかもしれない。

「あー、っとだな……」
「ヒッ……ゴ、ゴメンなさいっ、ゴメンなさい!!」

 知らない人という事以上に、自分が使い魔召喚魔法の暴走で喚んでしまったという罪悪感に脅え、引っ込んでいた涙を再び浮かべて頭を抱えてしまったネギに構わず、青年は手にしたスーパーの袋を漁り、ある物を発見して差し出した。

「よく分からんけど……まあ何だ、少年」
「ハヒ?」

 キョトンとした顔で、差し出された手のひらに乗っている緑色の飴――ネギには読めなかったが、中身を包むビニールには『爽やかキュウリソーダ味』と書かれていた――と自分の顔を交互に見るネギに、青年は炭酸の抜けたソーダ水に似た笑みを返す。

「――――飴ちゃん、食べるか?」
「………………い、いただきます」

 それが、魔法使いの少年 ネギ・スプリングフィールドと、使い魔として喚ばれたらしい青年――八房次郎の、出会いと呼ぶには色々と問題がある状況の中で交わした最初の会話――――






 二〇〇一年四月某日。
 無事に志望校への合格を果たし、晴れて高校生となった日に青年 八房次郎は使い魔となった――――らしい。

「何分、こうした事例は今までなかったものだから……。ごめんなさいね、どうすれば元の場所に還してあげられるのか、私達にも分からないわ」
「はあ……」

 ネギが使い魔召喚の儀式で失敗した際、放出した膨大な魔力に気付いて駆けつけた自称・魔法学校の教師達。何故か過剰に警戒する彼らに囲まれ、ひたすらに困惑していた次郎の前に現れた日本語のできる金髪ショートカットの女性の、頭痛に耐えながらの返答に曖昧な相槌を打つ。
 左前髪を髪留めを使って持ち上げ、額が見える様にした知的な印象を与える髪型の女性――ドネット・マクギネスに通されたメルディアナ魔法学校の応接室のソファーに座り、次郎は自分が今、置かれているらしい状況の把握に努めていた。
 つい先ほどまで説明されていた、魔法使いや魔法学校というトンチキな話と一緒に思い出すのは、どうやっても『元の場所』とやらに還れないという有難くない確信を抱いた瞬間の事。
 使い魔として召喚された、はまだ良い。いや、あまり良くはないのだが、自分の力試しをしたくて失敗した子供を責めるのは酷な話だと諦めもつく。
 問題は、

「何で家に電話したら、普通に自分が出てくるのか……ですよね」
「お願いだから言わないで、思い出すだけで頭が痛くなるから」

 ぼやくように呟いた次郎の言葉に、訛りの一つも見当たらない堪能な日本語で返し、ドネットが頭を抱えて俯いていた。
 どうやら、異常な事態に置かれている次郎以上に堪えているらしい。だが、それも仕方のない事に思われる。
 何しろ、今回の召喚魔法の失敗による騒動を収拾するために駆け回り、後は召喚された本人を帰国させるだけという段階になって、どうやら八房次郎がもう一人いるらしいと判明したのだから。

「ほんの少しだけ位相のずれた、こことよく似た世界……SF的な表現をするなら、並行世界や異世界から喚ばれたのか、あるいは、元から世界に存在した人を使い魔にした際に生じた齟齬を世界の方で勝手に修正して、まったく同一の存在を創り出したのか……。もしくは、あまり考えたくない事だけど、今ここにいる君の方が同一存在――――ようするに、八房次郎という人間のコピーなのか」

 最後の推測を重々しく話し、「本当、分からないことだらけよ……」と呟いてテーブルに置いてある冷めた紅茶を口にするドネットを余所に、次郎は頭を掻いて唸りともため息ともつかない声を漏らす。
 話がややこしいだけでなく、まったく嬉しくない方向に重過ぎて、あれやこれやと思考するのが面倒になってきたのだ。
 暗い顔で電話を持ってきたドネットに促されるまま掛けた国際電話。家の主である自分が掛けているのだから、留守番電話が作動して然るべきの状況の中、平然と電話口に出てきた自分。

「出席日数やらの心配がないのは良いとして……」
「余計なチャチャを入れる様で悪いけど、良いの?」
「日本の高校生を舐めちゃいけませんよ? 夢や将来云々以上に、成績出席は大切なんです」

 依然として暗い顔で突っ込みを入れるドネットに平然と返し、ソファーの背もたれに体を預けて次郎は言った。

「まあ、世の中いろいろありますし。こうなった以上、なるようにしかならんでしょう」
「ず、随分と受け入れるのが早いというか、潔いのね」

 とりあえず、使い魔として喚び出されたという事でもあるし、ネギとかいう少年に仕えてみるという方向で一つ。
 面倒臭いと思っている事がありありと分かる緩い顔で、自分の身の振り方をあっさりと自分達――魔法使いに投げ渡してきた次郎に困惑し、それと同時に僅かに警戒を抱いたドネットは考える。
 平和ボケしていると世界で嘲笑される事がある日本人。とはいえ、自身が巻き込まれたトラブルに対してまで冷静に、いや、こうも淡々と受け入れる事ができるのだろうか、と。
 自棄になって喚き散らせとは言わないが、『元の場所』――自分がいたいと思う場所を諦めるのは早すぎるのではないか。

(無気力とか機械的ってわけでもない。どう表現すればいいのかしら、この……浮き草っぽさ?)

 今回の場合は降り懸かっただが、自分に訪れた望まざる境遇や運命を、淡々としながらもしっかりと己の意思で以て受け入れている風にも見える。
 強いて挙げるなら、観光も兼ねて日本を訪れた際、ちょっとした縁で出会った神職関係の人間――確か、住職と呼ばれていただろうか――に似た在り方を感じさせた。
 そこに思い至り、漠然とだが理解する。

(……なるほど)

 この子供と呼ぶにはやや大きく、かといって大人と呼ぶにはまだ年若い青年の、浮き草を思わせる在り方の源、それは『明らめ』なのだと。
 何かに抗おうとする意志を断念する諦めではなく、今できる事とできない事をしっかりと見極め、その見極めた範囲の中で自分の在るがままを通す。そのための方法をはっきりとさせようという心の在り方。
 自身の力で運命という川を堰き止め、力を誇る西洋人的な生き方からは考えもつかない、激流に身を任せながら、決して呑み込まれまいとする強き心。
 ネギの求めた孤高でありながら優しい獣ではないが、確かに使い魔として考えるならこれ以上なく頼もしいものを持っている。
 だから、

「私としては、もう少し深刻に捉えた方がいいと思うのだけど……しばらくは――ネギ君が一人前になるまで、かしら。そこまでの間、彼の使い魔として仕えてくれる――――そういう話で纏めていい、のね?」

 ドネットは問う事にした。選ぶ道をなくした相手に同情や憐みの手を差し伸べるのではなく、あくまで対等の立場として契約を持ち掛ける。そうした意味を込めた念押しの言葉で。

「色々面倒な事情なりがあるんでしょうけど、まあ頑張ってみるとします。何をすればいいのかなんて、しがない高校生をしてた自分には分かりませんけど」

 仕方がないと、首を傾げる様に苦笑を返した次郎へ同種の笑みを返し、ドネットはソファーから腰を上げた。
 何事か、と緩い眼差しで見上げる次郎に立ち上がるよう促しながら告げる。

「来てちょうだい。今後の方針が決まったという事を、ネギ君や校長にも話しておかないといけないみたいだから」
「ああ、なるほど、お手数おかけします」

 律儀に頭を下げる次郎――いや、これからはジローと呼んだ方がいいのだろうか。後ろを歩く次郎を盗み見て考える。本人が望むなら諦めるが、同じ人物がいる以上、ややこしくなる事は避けたかった。
 召喚術の失敗とはいえ、使い魔召喚用の魔法陣で人間を喚べる可能性があると判明してしまったのだ、悪用されるのを防ぐためにも、二人に増えた八房次郎という存在は可能な限り伏せておきたかったのだ。

(ネギ君達への紹介が終わったら、魔法陣の撤去を急がせないとね……)

 何かと『問題』があるネギの事だけでも神経を使っているというのに、厄介な事だ。
 そのネギに喚び出された次郎に対して考える言葉ではないが、と断りを入れつつ思う。

(実際問題、この青年が一番の被害者なわけだから。正直、こうしてしっかり受け止めているのは驚きとしか言えないわね)

 たんにお気楽太平楽なだけかもしれないが、鍛えれば化けるかもしれない。
 もしかすると、もしかするのではないか。メルディアナ魔法学校校長の秘書兼従者になって以来、とんと御無沙汰になっていた教師としての血が目を覚ましたらしい。
 ネギが卒業するまでの時間で、どこまで『使い魔らしい魔法使い』を育成できるのかを考える自分に苦笑し、それでもドネットは次郎を振り返る。

「ジロー君、君……魔法を習ってみる気はある?」
「――――はい?」
「そう、わかったわ。本人が望んでいるのだから、それを叶えてあげるのが魔法先生の義務だから」

 唐突に過ぎる質問に、目を丸くして疑問の声を上げた次郎に対し、ドネットは邪気がない割に恐ろしさを感じさせる笑みを口元に湛える。怖い事に、次郎の疑問の声を勝手に同意のものと解釈して。

「これは校長にも話を伺わないと。私だけでは効率的なカリキュラムを組めないですし――」
「え、ちょっと…………ええ〜?」

 顎の下に手を当て、ブツブツと呟きながら歩き出したドネットに取り残された次郎の口から、ひたすらに困惑している事が分かる声が漏れる。
 今更かもしれないが、平穏無事にしがない高校生を続けるのは不可能らしいと悟った次郎は、大きく肩を落として嘆息する。
 今は亡き家族の祖父母と、家で飼っていた白い犬――ヌイの姿を思い浮かべながら呟く。

「ホント、勘弁してほしいよな……。もう遅いんだろうけど、いろいろと」

 先の自分が置かれた状況を受け入れる明らめではなく、純粋な諦めの言葉を口にしながら、使い魔になってしまった青年 八房次郎改め、八房ジローはこれから始まるであろう受難の日々を想いつつ、思考に没頭して歩くドネットの背中を追うのだった――――







「――――いい? 魔法を使う時に重要なのは、魔法を行使する自分を明確にイメージする事。分かりやすい様に噛み砕いて言うなら、魔法を信じる心が大切……でいいのかしら?」
「……何で疑問形なんですか」

 初心者向けと紹介された難解この上ない魔法書を、辞書片手に読み進めていたジローが突っ込みを入れる。

「心構えなんていうのは、本人の認識に頼るしかないから。万人に通用するコツなんてないのと同じ」
「ああ、刀の手の内みたいなもんですか」
「それはよく分からないけど、たぶんそんなものよ。心や精神力の強さと魔法の強さは比例すると覚えておきなさい」

 二人しかいないせいか、やけに広く感じる執務室。その部屋の主であるドネットを講師役に、使い魔らしい魔法使いの教育を受け始めて三ヶ月の時が過ぎていた。

「しっかし、あれよあれよと言う間にもう七月。早いもんですねえ」

 机に齧り付きの姿勢にも飽き、視線を上げたジローは外に続く窓を見る。換気のために開け放った窓から、緑の匂いが混じる初夏の風が吹き込んできた。
 ネギに偶発的にだが使い魔として喚ばれ、成り行き上、仕方く契約を結ぶという流れになってから色々とあった。
 喚び出した本人と友好的な関係を築くのに多大な労力を要したのが、色々あった事の筆頭だろうか。子供だてらに罪悪感だけは一人前に抱くようで、何度「怒っていない」、「気にしなくていい」と言ったのか、今では思い出したくないレベルに至っていた。
 その努力が実を結び、ネギ少年に敬語を使わせないまでに親しくなれたのは素直に喜ばしいと思えるし、そんな少年の姉であるネカネや、幼馴染でアーニャと呼ばれる少女――フルネームはアンナ・ユーリエウナ・ココロウァというらしい――に、友好的に接してもらえる事もありがたい。
 ほぼ毎日のように魔法学校を訪れ、朝からネギが授業を終えて帰宅する時間まで魔法の講習を受けているお陰で、少なからず挨拶などを交わす相手もできてきた。
 ただ、イギリスはウェールズ、由緒正しきメルディアナ魔法学校で魔法の講義を受けている、などと知れば祖父母や愛犬のヌイは笑うのだろうか。時々、主に魔法習得のための実践訓練が辛い時などに、そんな事を考えてしまうのは否めなかった。

(面白けりゃ大概オッケーなじいちゃんはともかく、ばあちゃんやヌイは病院の脳外科に連れて行こうとするだろうなあ、生きてればだけど)

 鬼籍に入っている家族達の生前の姿を思い返し、すぐに馬鹿らしいとかぶりを振って忘れる。良くも悪くも、死んだ人間は何も言ってくれないのだから。

「はい、休憩してる暇があったら魔法書を読み進める」
「休憩って、窓の外を見ただけですけど。つーかこの三ヶ月、講義に来たらひたすら魔法書の読解と訓練の連続で、休み時間なんて貰った記憶がないんですけど?」
「気のせいじゃないかしら? 食事と手洗いの時間は与えているはずよ」

 手を打ち、意識を魔法書に戻るよう指示してきたドネットに抗議するが、顔色一つ変えずに一蹴され、口元を引き攣らせながらも読解作業を再開する。
 漠然とだが、火系統の魔法中心に編纂している事が分かる本を読むジローの側で、自分の仕事を手際良く処理しながらドネットがぼやく。

「三ヶ月で『火よ灯れ』、『風よ』を習得したまでは良かったけど、それ以降がからっきしなのよね。なのに、瞬動や簡略版の『戦いの歌』は使える様になったり……色々順序を間違えてるわね」
「近所に道場があったりで、子供の頃から運動は得意でしたしね。自分の体を動かす分、何ですか……魔力? そーいうものの流れを把握しやすかったんですよ、きっと」

 本の項をめくりながらの上の空状態で、出来の悪い生徒を見る目を向けるドネットに答える。彼女に言われた通り、順番というものを間違えているなと胸中で思いながら。

「……まあ、ネギ君の卒業まで講義は続くんだから、そこまで焦る必要はないんだけどね。どうしても習得が難しいというのなら、最後の手段で強制的に記憶させる事もできるし」
「サラッと怖いこと言うの止めてくれません? そんなだから、魔法使いってジメジメした部屋で大鍋掻き回すイメージが付くんですよ」
「――――――――」

 半眼で魔法書を眺めたまま、人権無視の強制記憶をほのめかしたドネット、というより魔法使い全般を揶揄した瞬間、部屋の空気が凍りついた事に気付き、ジローは肩を震わせて動きを止めた。

「あー」

 恐る恐る横目で、知的でクールでスマートな魔法学校校長付きの秘書で従者な女魔法使いの様子を確認し、すぐに見なかった事にして魔法書へ逃避する。愉快なジョークでも聞かされた様に目を細め、柔らかく唇で笑みを形作るドネットのこめかみに、見間違えようのない血管が浮いていたからだ。
 先までの自習室や図書室を思わせる落ち着いた空気が霧散し、ピリピリと肌を刺す張り詰めたものに置き替えられていた。開けっ放しの窓から、絶えず心地良い初夏の風が吹き込んでくるというのに、ジローの頬を一筋の汗が伝う。

「確かにジロー君の言う通り、部屋に籠ってばかりじゃ体に悪いわね。魔法書を区切りのいいところまで読んだら、希望通り外で健康的に魔法の勉強でもしましょうか」
「それって雨霰と飛来する魔法の射手を延々躱し続ける、性質の悪い罰ゲームですよね」
「日本の言葉で習うより慣れろ、っていうのがあったわね。あれ、とてもいい言葉だと思わない?」
「そうですね……慣れさせられる立場でなけりゃ、とてもいい言葉だと思いますよ」

 口は災いのもと。随分と懐かしく感じる様になった日本の諺を思い出しながら、ジローは魔法書の読解を継続する。時間を引き延ばしたところで、どうあっても実戦形式の訓練からは逃れようがないと確信していたから。
 紅き焔、と和訳できる炎魔法の詠唱呪文をノートに書き取り、口ずさんで暗記に勤しみながら、ジローはもうすぐ、アーニャと楽しく昼食を取るのだろうネギの顔を思い出して溢す。
 学園始まって以来の秀才と誉高いのだから、さっさと卒業してくれんかね――と。

「その場合、否応なく適性のある魔法を全種、記憶してもらうことになるわね」
「……ちょっと考えただけですから、イソイソと趣味の悪い装丁の魔法書を取り出さないでください」

 事務机の引出しから、本を抱きしめる悪魔の骨格が表紙の魔法書を取り出し、理知的に微笑んでみせるドネットに全力で辞退の意を示したところで、部屋に来客を知らせるノックの音が響いた。

「あら……?」
「失礼します。ドネットさんにジローさんも、この辺りで一息入れませんか?」
「ああ、もう昼食時だったのね」

 ノックの後、気軽な感じに扉を開けて顔を出したのは、黒に金糸や白布で装飾が凝らされたローブを着た、金髪碧眼の女性――ネギの姉であるネカネ・スプリングフィールド。
 普段からそうした調子なのだろう。腰まで届く髪を揺らし、遠慮もせず部屋に入るネカネを気にするでもなく、ドネットは提案通り休憩を取ることにした。
 手首に巻いた腕時計に目を落とし、魔法書の写しに戻ろうとしていたジローへ告げる。

「それじゃ、午前の分はそこまで。昼食の後、少し休んだら実践の方へ移しましょう」
「うへーい……」

 どちらにしろ、外で健康的に魔法の勉強をする事に違いはないと知り、ジローは魔法書を閉じながら弱々しく返事をする。昼食後に休みを置いてからというのがまた、ありがたくない優しさだと素直に悲しみながら。
 自業自得と言えばそれまでだが、と肩を鳴らしてジローが立ち上がるのを待っていたネカネが、慰めの入り混じった苦笑を浮かべて話しかけてきた。

「毎日、ご苦労様です」
「いやはや、出来の悪い生徒をやらせてもらっています」
「ウフフ、そんな事ないですよ」

 瞼を下げ、気だるそうにしているジローの隣を歩きながら、ネカネが口元に手を当てて淑やかに笑う。
 やや前方を歩くドネットの背中を見て、内緒話でもするように顔を寄せてジローへ囁いた。

「あれで意外とドネットさんも楽しんでいるみたいですから。校長もですけど、ジローさんの特訓メニューを一生懸命、考えてくれてるんですよ?」
「それはまた、気が重くなるやら申し訳なくなるやらな話ですねえ」

 頭を掻きつつ溢す。感謝半分、有難迷惑半分といったところだった。
 ネギの卒業と一緒にメルディアナ魔法学校を去り、色々と訳ありな少年に付き合って相応に苦労するであろう自分に対する彼女達なりの手向けなのだろう、その特訓メニューとやらは。

「今日のお昼も、いつもと同じセットにするんですか?」
「あー、そうですね。他にもメニューはあるんだし、挑戦してみてもいいんですけど……」

 教員向けの食堂に入るなり振り返り、どこか窘める風に聞いてくるネカネから顔を逸らしてジローは答えた。
 いつもと同じセットというのは、パンにチーズ、ピクルス、生野菜の三種を添えただけの『プラウマンズ・ランチ』の事で、ジローは魔法の勉強を始めて以来ずっと、「農夫の昼食」の名を持つメニューを食べ続けていた。
 育ち盛りとまでは言わないが、それでも大量のカロリーを欲する年頃の青年が注文するには軽すぎるメニューである。だというのに、ジローは初めて学校内の食堂を利用した日以外はずっと、何があってもプラウマンズ・ランチだけで昼食を済ませていた。
 その理由は、単純にしてこれ以上なく明快であった。
 お盆の上に頼んだパスタのセットを乗せながら、眉を顰めたネカネが言う。

「そんなに口に合いませんか? イギリスの食事は……」

 表情で朝と夕に出している自分の料理もそうなのか、と尋ねるネカネに首を振り、心底申し訳なさそうにジローは答えた。

「いえ、ネカネさんの料理はほら、日本人の俺も気遣った味付けで出してくれているから問題ないんですけど。ここの料理の場合、完全にイギリス人仕様な訳で、その、不味くはないんですけど、美味しくもないと言いますか……」

 ひたすらに恐縮しながら答えるジローに、そんな物なのだろうかと首を傾げつつ、

「じゃあ、お夕飯は気合いを入れて作りますから、楽しみにしておいてくださいね」

 そう残し、一足先に三人分の席を確保して食事を始めているドネットの元へ向かったネカネの背中を見送り、ジローはため息をついた。

「心や精神力の強さと魔法の強さは比例するー、ってドネットさんが言ってたけど……それなら、今の段階で結構な心の強さを手に入れていると思う」

 たった三ヶ月、されど三ヶ月。
 白米、味噌、醤油その他もろもろ。日本食の代名詞とも言える主食や調味料の味や香りを思い出し、無性に日本へ帰りたくなりながら、ジローは食堂のおっちゃんが出してきたプラウマンズ・セット三人前をお盆に乗せて、ドネットやネカネの待つ席へ向かう。
 ネギがメルディアナ魔法学校を卒業するまで、自分は日本食恋しさに心砕けずにいられるのだろうか、と自問を繰り返しながら――――

〈続く〉

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