十六話・昼休み
森の中を走る。
光を通さぬ深い森では、時刻がひどく曖昧だ。
視線はめまぐるしく動き、時折、跳躍による上下の動きが加わる。
しかし、違和感があった。
肌に風の感触は無く、切り傷による熱もない。
鼻は草木の香りを捉えず、足下に広がる血溜まりからの不快な臭いもない。
耳に虫の羽音はもちろん、人の物とはかけ離れた絶叫も届かない。
……あぁ、またか。
内心でため息を吐くが、視界は意に介する事なく動き続ける。
ため息を吐く間に、絶叫が3つ追加された。聞こえないが。
噴水もかくやという勢いで湧き出る赤黒い液体が、辺りに濃厚な死の臭いをもたらす。臭わないが。
一度、脇腹に丸太のような重い打撃を受け、肋骨が軋んだ。感じないが。
……やはり慣れないなぁ。
昔のように取り乱すことはなくなったが、根本的な解決は為されていない。
後でシャワーを浴びようと思う。温度は高めの42℃で。
そう決意すると、視線の動きが緩慢になった。
周囲には、既に動く者も動く物もいない。
しかし、視界は肩に合わせて上下を続けており、逃げ出す鳥などを目で追いかける。
視界が、反転した。横方向に180°。
視線が、草陰に潜む影を捉えた。
視界が、影に向かって一気に距離を詰め、右下から斜め上に何かが走った。
そこで、初めて音が生まれた。
き、とも、あ、とも聞こえる、長い音。
悲鳴だ。
それを聞いて、意識が闇に落ちた。
最初に来たのは、背中への打撃だ。
不意に浴びた衝撃に、肺から空気が強制射出される。
辺りは騒音で埋め尽くされていた。車輪が定期的に枕木を叩く音と、汽笛の音だ。
「痛……っ」
起き上がると体が左右に揺れているのが分かる。立ち上がると、それがより顕著に表れた。
ふと目をやれば、艶のない黒に包まれた車体がある。それに、
「――てい」
拳を叩き込んだ。
真上から振り下ろされた拳は、車体の背にある赤いスイッチを正確に押し込み、停車の音を最後に静寂を取り戻した。
機関車を模した目覚ましを止めると、寝起きでふらつく体を引きずりながら、
部屋を横切る。
その際、つい先ほどまで乗っていたはずのベッドの脚につまづいた。
寝室を出て、更に8畳ほどの広さを持つ部屋を抜けると、金属製のドアまで続く細長い廊下がある。
その間に枝分かれした扉の内、手前から二番目をくぐると脱衣場に入った。
無造作に衣類を脱ぎ捨てようとすると、寝間着にしていたTシャツが汗を吸い、重くなっているのに気付く。
「……やはり慣れないなぁ」
嘆息しながらシャツを洗濯機に入れ、バスルームへ。
入口脇にあるコンソールを操作し、湯温を42℃に設定。
少し待ってからバルブを捻れば、シャワーヘッドから熱めのお湯が降り注ぐ。
それを頭から浴びて、汗と眠気を洗い流した。
シャワーを軽めに済ませ、バスタオルで体を拭いながら洗面台の前に立つ。
貧弱、という表現が真っ先に浮かんだ。
陶磁器のような白い肌。
骨と皮だけ、とまではいかないが肉付きの乏しい肢体。
その上にはバスタオルを被った頭があり、やたらキツい目つきをした中性的な人物がこちらを睨んでいる。
「……さて。一応、連絡はしときますか」
正面に立っていた人物と同時に視線を切り、洗面台の脇に置いてあった携帯電話を手に取る。
キーを叩く音が高速で続き、操作を終えると伸びを一つ。
「じゃあ、行きますかね?」
そう呟き、着替え一式を手に脱衣場を後にした。
エヴァンジェリンは、時計の短針が8を過ぎても、全身をベッドと一体化させたままだった。
日差しの熱を鬱陶しく思いながらも布団から出る事はなく、時折寝返りを打って放熱を促している。
エヴァンジェリンの意識は既に醒めているが、意志が体を起こす事を拒んでいた。
思い起こされるのは昨晩の出来事。
追い立てられたネギの表情、明日菜に蹴られた頬の痛み、身体が落下する際の不快な感覚。そして、
……なんで奴の顔が浮かぶ!!
激情に任せるように、拳で枕を何度も叩く。
すると、ドアをノックする音と共に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「マスター、起きておられますか?」
珍しいな、という思いがよぎった。
既に数回、卒業できない卒業式を経験しているエヴァンジェリンにとって、学園は退屈以外の何物でもない。
それでも、呪いの影響で最低限行かねばならないのだが、遅刻やサボタージュは日常茶飯事となっている。
故に、エヴァンジェリンに付き従う茶々丸も、自然と欠席日数が右肩上がりなのだが、
……起こすように言った覚えはないが……?
頭に疑問符を浮かべつつも、エヴァンジェリンは返事を返そうとするが、先に放たれたのは第三者の声だ。
「……というか、いつもこの時間まで寝てるんですか? Miss.マクダウェルは」
全身が軋みを上げて制止した。
喉は蓋をされたように発声の方法を忘れ、口だけが開閉を繰り返している。
「……いえ、普段ならもう起きている時間なのですが。やはり昨晩の疲れが溜まっているせいかと」
茶々丸が説明する間に、エヴァンジェリンは音を立てずに慌てていた。
髪を手櫛でとかし、寝間着のシワを伸ばし、いっそ着替えた方がいいかとまで考え、
……だから、なんで奴の為にここまで気を遣わねばならんっ!!
少し思考を巡らせれば回答に行き着く気はするが、そこに行き着くと何かが崩壊しそうなので、一歩手前で思考がループし続ける。
そうして頭を抱えているエヴァンジェリンを気にすることなく、ドアの向こうで動きがあった。
「……そうですか。しかし遅刻されても困りますね」
仕方ない、と呟いた後に、扉越しにも聞こえる程大きく息を吸い、
「――Miss.マクダウェル! 君は一方向から完全に包囲されている。無駄な抵抗は止めて、大人しく出て来なさい!! 故郷のお子さんやお孫さんやひ孫飛ばして玄孫が悲しむごっ!?」
ドアを蹴破り、向こう側にいた馬鹿を黙らせた。
顔面をしたたか打ちつけたのか、奈留島が顔を手で覆ってうずくまっている。
「い、いきなりですねっ。Miss.マクダウェル」
鼻を押さえながら上げる抗議を無視して、エヴァンジェリンは奈留島の胸ぐらを掴んだ。
「いきなりはどっちだ! 昨日の今日で人の家に上がり込みおって!! 何の用だ貴様っ!」
「いや、昨日の今日だからこそ、敗北の悔しさに枕を濡らしてふて寝してるんじゃないかと――」
「アホかーっ!!」
言葉と共に奈留島の上半身を前後に揺さぶる。
奈留島の頭が力なく揺れるが、笑みの表情は崩れない
「ま、まぁ落ち着いてください、Miss.マクダウェル。……ところで」
「なんだ!?」
奈留島はぴっ、と人差し指を立て、
「今日のお昼、空いてますか?」
昼休みのオープンカフェには、多くの生徒が集まっていた。
テイクアウトで購入して離れる者もいるが、大半は陽光に照らされる白のテーブルに腰を落ち着けている。
そんな中、明らかに異質な空気を放つ一角がある。
長方形のテーブルには3人の影がいた。
奈留島と向かい合う形で、エヴァンジェリンと茶々丸が席につき、その目の前には買ったばかりのカップコーヒーが湯気を立てている。
「――さて、この度は集まっていただき、誠にありがとうございます」
仰々しく話し始めたのは奈留島だ。
「この度は、じゃないだろう。……どういうつもりだ、一体」
真っ先にエヴァンジェリンが反応し、奈留島から見てため息を吐く。
奈留島は両手をテーブルの上で組み、口元を隠しながら、
「いや何、昨晩の事で色々と訊きたい事が……ね?」
目を緩く弓にしならせるが、眉はフラットな角度を保っている。
その表情にエヴァンジェリンは、ぐ、と息を詰め、
「……悪かったよ。坊やのことはともかく、佐々木まき絵達を巻き込んだことはな」
それを聞き、今度こそ奈留島が笑顔になり、組んでいた手を解いた。
「いえいえ、そう言っていただけるのならいいんです。さぁ、コーヒーが冷めない内に」
どうぞ、と言って勧められるままに、エヴァンジェリンがカップに口を付けた。
熱がそのまま喉を通過し、後から強めの苦味と風味が口に広がった。
少し苦いな、と眉根を詰めるが、気分を害するほどではない。
「……しかし、貴様も冷たいな。坊やの無事には無関心か」
エヴァンジェリンが皮肉を込めた笑みを浮かべて言う。
奈留島は心外とでも言うように、不満を露わにした表情で、
「無関心はひどいなぁ。こう見えて、心配はしてますよ?」
ただし、と付け加え、
「――仮契約の件はいただけませんが」
「まだ言ってるのか。そこまで一般人を危険に晒すのが嫌か?」
「まぁ、半分くらいはそれが理由なんですが。……それ以上に魔法の存在が広まるのが、ね」
ふぅん、と納得半分の雰囲気で、エヴァンジェリンがコーヒーを口にする。
やはり苦味が強い。砂糖はあるかと探そうとしたが、
「……あぁ」
カップをそっと置き、何かを思い返すように目を伏せた。
「そういえば、奴もこういう味を好んでいたな」
「? ……奴、とは?」
奈留島が首を傾げ、問う。
それを聞き、エヴァンジェリンが目を丸くして、驚きの表情を作る。
「なんだ、知らずに選んだのか?」
「えぇ、まぁ……」
「……はっ。いや、つくづく――」
エヴァンジェリンは呆れを含んだ笑みを浮かべ、
「――親子だな」
心臓が大きく一打ちした。
同時に、眼球が内側から圧迫されるような錯覚。
……また個人的にクリティカルな話題を……。
「あー、いつ気付きました?」
眉間をほぐしながら、なるべく平静な口調を保つように訊いた。
エヴァンジェリンはイニシアチブが自分に移った事を悟ったのか、腕を組み、いくらか尊大な態度に変わった。いつも通りとも言う。
「昨晩だよ。貴様、私の従者への主導権を“奪った”だろう」
……あぁ、それでか。
納得、と呟きながらカップを揺らし、コーヒーに波紋を作る。
波紋を幾重にも広げたところで、奈留島があることに気付いた。
「そういえば、絡操さん」
「はい。なんでしょう、奈留島先生」
ずっと沈黙を保っていた茶々丸に声をかけるが、いきなり話題を振られた戸惑いもなく、返事はすぐにきた。
「先ほどから、コーヒーを飲んでないみたいですが……、もしかして紅茶派でした?」
だとしたら申し訳ないな、などと思いながら訊くと、途端に焦りが見え始めた。
「い、いえ、そのような事はっ。ただ、私はガイノイドなので飲食はフェイクでしか出来ませんので……」
「……というか、貴様も一向に減ってる様子はないのだが?」
茶々丸の焦った様子を見てたエヴァンジェリンが、幾分か視線をキツくして奈留島を睨む。
言われてカップに目を落とせば、確かにコーヒーはなみなみと注がれたままだ。
奈留島は苦笑を浮かべ、
「いやぁ。こう見えて、猫舌なもので」
言ってカップに口を付けた。まだ少し熱いなぁ、などと思っていると、エヴァンジェリンが口を開いた。
「しかし、似てないな……」
「? ……あぁ、母親似なもので」
自分の顔をさすりながら、そう答える。すると、
「へー。ルナ先生ってお母さん似なんだ」
唐突に後ろから声をかけられた。
正面のエヴァンジェリンが明らかに不機嫌そうな顔をしたのを確認してから振り返ると、
「神楽坂さんとMr.スプリングフィールド……」
言葉通りの二人がトレイを持ち、並んで立っていた。