紺のスーツに身を固めた奈留島は、眼下にいる二人の少女を見つめていた。
 その内の一人、金髪の少女が目を軽く見開いたが、睨むように見据えること数瞬、
 
「こんばんは、先生」
 
 即座に余裕に満ちた表情で切り返した。
 それを見て、奈留島は苦笑。
 
「……驚かないですねぇ」
 
「坊やのサポートについた奴だからな。ただの一般人とは思わんさ」
 
 なるほど、と奈留島が目線を合わせるように高度を落とした。
 その足下には、夜の闇より暗い色を持った、黒塗りの杖がある。
 長さは2mほど。光沢は無く、しかし滑らかな表面をしたそれは、杖というより棍に近い。
 エヴァンジェリンはそれを一瞥し、降りてきた奈留島と目線がかち合った。
 
「で、なんの用だ? ……まぁ、どうせじじぃ辺りが、私に釘を刺すために寄越したんだろうが」
 
「えぇ。概ねそんなところです」
 
 臆面もなく肯定する奈留島に、エヴァンジェリンが浮かべたのは嘲笑。
 
「――は。“闇の福音”も舐められたものだな。いくら封印されているとはいえ、差し向けられたのがこんな若僧とは」
 
 軽い口調に反して、エヴァンジェリンの全身からは威圧的な雰囲気が滲み出ている。
 
「あー……、じゃあ僕はこれで――」
 
「待て」
 
 頬を掻きながら、杖の上で回れ右をした奈留島に、エヴァンジェリンが制止の一言をかける。
 振り返れば、再び黒衣を纏い、夜空に浮いたエヴァンジェリンがいた。
 手には液体を詰めた小瓶。それと同じ物を、後ろに控える茶々丸が複数持っている。
 
「どこへ行く貴様」
 
「いやぁ、気分を損ねてるようなので、話はまた後日にしようかと」
 
「私に釘を刺すんじゃなかったのか?」
 
 笑みと共に投げかけられた問いに、額から汗が一筋流れる。
 奈留島はしばし黙り込むと、エヴァンジェリンに向けて人差し指を突き出し、
 
「……悪いことをしたら、――めっ」
 
 直後。
 ガラスの割れるような快音が響いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 小瓶が投じられると同時、奈留島は足下の杖を蹴ってバック宙。
 上から下へ流れる景色の中、凝結した氷塊が霧のように細かく砕けていくのが見えた。
 
 ……まいったなぁ。
 
 内心、苦笑を浮かべながら、奈留島は背後にあった建物の屋根へ着地。
 それを追うように、目の前に着地、疾走するのは、緑色の長髪をたなびかせた長身の女性。
 
「こんばんは、絡繰さん」
 
「はい。こんばんは、奈留島先生」
 
 言葉と共に、茶々丸が右の掌底を放つ。
 奈留島はそれを首を振って回避。
 左頬に風を感じる。鋭く、冷たい風だ。
 その空を切った茶々丸の腕を、奈留島の左手が袖を掴んで捕らえる。
 茶々丸は腰だめに構えた左腕を突き出すが、上半身の捻りが加わらない突きは遅い。
 それより速く、奈留島の右手が相手の襟首に伸びた。
 奈留島は踵を支点に、相手の懐に潜り込むよう回転し、茶々丸の突きを半身になってかわす。
 そしてそのまま、完全に背を向けるところまで回り、奈留島は膝を落とすと、
 
「――やッ!」
 
 投げた。
 縦に綺麗な円弧を描いたその技は、柔道の一本背負い。
 地面に吸い込まれるように、茶々丸が背中から落ちる。が、
 
「――――!」
 
 地面を打つ音はなく、代わりに生まれたのは光。
 光源は茶々丸の背中。ど、という音を伴って噴き出すそれは、体を浮き上がらせるほど力強い。
 
「おっと」
 
 奈留島はあっさり引き手を切ると、すぐさま反転。
 視線の先には、屋根の端に立つエヴァンジェリンがいる。
 その表情には、わずかな驚きが含まれている。
 それを見ると、奈留島は口元に微笑を作り、疾走開始。
 前傾姿勢で大股で駆けるその様は、走りというより跳躍に近い。
 奈留島が二歩目を踏み出すのと、背後から地面を蹴る音が聞こえるのは同時。
 正面の少女までは約15m。わずか2秒足らずで詰めきれる間合いだ。しかし、背中には音が怒涛となって響き、その振動は確実に強くなる。
 
 ……ギリギリですかねぇ……?
 
 更に、前方にも動きがあった。
 少女の五指には、液体の詰まった試験管が挟まれている。
 それが両手に、計8本。
 うわ、という奈留島の声は、この夜一番の轟音によって掻き消された。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 視界が白に染まる。
 足元すら見えなくするそれは、刺すような冷たさを持った氷の粒だ。
 
 ……少しやりすぎたか。
 
 そう思案するも、エヴァンジェリンは茶々丸から受け取っておいた魔法薬を再び構えた。
 肩に震えが走る。春とはいえ、夜に肌着のみではさすがに冷える。
 加えて、自分が放った氷爆が視界と体温を急速に奪った。
 しかし、とエヴァンジェリンは誰にでもなく呟く。
 
「これで終いか……」
 
 声には、期待外れといった落胆の色がある。
 だが、あの状況で奈留島ができた事と言えば、氷爆を障壁で防ぐか、とっさにバックステップを踏むくらいだろう。
 どちらにしろ、その硬直の隙に茶々丸が捕らえているはずだ。
 自分の勝利は揺らがない。そう思い、構えを解いた瞬間、
 
「マスター!!」
 
 鋭く貫いたのは、聞き慣れた従者の声。
 その叫びには、明らかな焦りが出ていた。
 声色の意味を理解するより速く、両手の試験管を構え直すが、
 
「…………」
 
 エヴァンジェリンは無言。
 ただ、自分の首筋に感じた威圧感に、ゆっくりとした動きで試験管を離した。
 水をぶちまけるような、ガラスの破砕音が辺りに染み入る。
 やがて、白い冷気が薄れてきた。
 冷えた空気は、比重の影響で下へ下へと落ちていく。
 最初に見えたのは、3mほど先に立つ、眉尻を下げた従者の顔。
 そして、視線を左に移せば、白銀の髪と、漆黒の瞳が目に入った。
 髪は月光に反射して輝き、瞳は弓に細められている。
 ようやく自分の肩まで冷気が落ちると、喉元に貫手が突きつけられているのが見えた。
 エヴァンジェリンが奈留島を睨み付けるが、頭二つ分の身長差は見上げる形を作った。
 
「……ただのつまらん若僧かと思っていたが、なかなかどうして、面白い事をしてくれるじゃないか」
 
「いやぁ、下がっても止まっても捕まりそうだったんで。一か八かヘッドスライディングみたいに突っ込むしかないなーと思いまして」
 
 苦笑する奈留島に、エヴァンジェリンは形のいい唇を歪め、
 
「そういう無茶をする馬鹿は久しぶりに見たよ」
 
「誉め言葉として受け取っておきますよ」
 
 そう言って、奈留島が空いている方の手で髪を掻き上げると、何かが砕けるような硬質な音を立てた。
 
「……うわぁ。僕、この歳で総白髪ですか?」
 
 左右に分けている前髪をつまんでみれば、霜が降りたように白く染まっていた。
 見下ろしてみれば、紺のスーツも所々に白のまだら模様が混じっている。
 奈留島はため息を漏らし、黙考すること数秒、
 
「――さて、Miss.マクダウェル。この度の事件に関してですが」
 
 真剣な雰囲気を持った視線で、エヴァンジェリンを貫いた。
 それに呼応して、エヴァンジェリンの雰囲気も硬くなる。
 
「生徒及び教師への暴行、学園都市内における器物破損。更には一般人の目の前での無闇な魔法使用。これらはいずれも許容し難い行為です」
 
 文書を読み上げるような、事務的な口調で奈留島は続ける。
 
「よって――」
 
 途端、奈留島が突き付けていた貫手を下げ、
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「――マクダウェル、絡繰の両名に、一晩の自宅謹慎を命じる。……要するにとっとと帰って寝てください」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 言葉と共に、奈留島は踵を返して歩き出した。
 その背中を見送るエヴァンジェリンが、言葉の内容を理解し、思考が再起動するまで十数秒。
 
「……っ! 待て貴様!」
 
 鋭い制止の声に、奈留島はゆったりとした動きで振り返る。
 
「なんですか? Miss.マクダウェル」
 
「なんですか? じゃない! 貴様、私を拘束なりなんなりするんじゃないのか!?」
 
 その問いに、奈留島は驚いたように目を見開き、
 
「? なぜですか?」
 
「なぜって……、貴様は――」
 
「僕が依頼されたのは、桜通りに吸血鬼が出没するという噂の原因を調査、及び監視です。別に吸血鬼を討伐しろとは言われてません」
 
 エヴァンジェリンの言葉を遮った奈留島の声には、笑みが含まれている。
 
「第一、拘束したら調査も監視も必要なくなっちゃいますし。そしたら僕お払い箱ですよ?」
 
 多分ですけどね、と付け加え、奈留島はエヴァンジェリン達に背中を向け、再び歩き出す。
 エヴァンジェリンはそれを引き止めない。ただ、
 
「……行くぞ、茶々丸」
 
 傍らに控えていた茶々丸に一声かけ、屋根から跳躍。直後に黒の羽ばたきと白の噴射が飛び出した。
 それを見届けると、奈留島は屋上を横切り、非常口の扉を開いて階段を降り始める。
 奈留島は建物を抜けると、不意に立ち止まり、右手を水平に掲げた。
 直後、一陣の風が吹いた。黒い風だ。
 風が収まると、奈留島の手には黒の長杖が握られていた。
 奈留島は、所々に霜が付いたそれを二、三度振ると、
 
「――よし」
 
 満足げに頷き一つ。そして、
 
「あぁ死ぬかと思った――!!」
 
 夜空に向けて、吹き出す汗と共に叫びを打ち上げた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
おまけ『その頃のネギ』
 
 麻帆良女子寮の一室。
 そこには、丸テーブルを中心に、三人の少女と一人の少年が座していた。
 
「あぅ……。私、あんな所では、はだかに……」
 
 泣き出しそうな声で呟くのは、長い前髪で目元を隠した少女。宮崎のどかだ。
 その細い体には、タオルを巻き付けているだけで、あとは何も身に着けていない。
 
「気にしたらあかんえ? のどか。事故なんやから」
 
 そう言って、黒髪の少女がのどかに制服を一式手渡す。
 そんな暗い雰囲気の下、ネギが口を開いた。
 
「そうですよ! アスナさんだって事故で裸になっちゃった事あるんですから!」
 
 言葉がもたらしたのは沈黙。
 
「そ、そうなんですか……?」
 
 のどかが気まずそうに、アスナに問いかける。
 
「うん! まぁ、事故でね!!」
 
 引きつった顔で、事故の部分を強調してアスナが答える。
 ネギは更に身を乗り出し、言葉を続ける。
 
「しかも一回じゃないですよ! いわば、アスナさんは路上脱衣の先駆者ですよ!!」
 
 笑顔で喋るネギを、アスナは頭を撫でながら、
 
「褒めすぎよネギったら! あっははは〜ちょっとこっち来なさい」
 
「えぇ!? なんで、なんでぇ〜!?」
 
 話すネギの両腕をアスナが抱えて、部屋の外に引きずっていく。
 見送ってしばらくして、廊下から妙な悲鳴が聞こえた。

〈続く〉

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