真円に近い月が浮かぶ夜空の下、夜目にも鮮やかな、桜の彩りがある。
 その桜並木の中を、走る影があった。
 髪を左右で小さく縛った、やや小柄な少女。
 手に持った桶の中では、手拭いとシャンプーのボトルが揺れている。
 
「――は」
 
 少女の呼吸は浅く、目尻には涙が浮かんでいる。
 すると、
 
「――――」
 
 ざ、という音と共に、黒い影が飛び出した。
 
「ひっ……」
 
 小さく声を上げ、少女が足をもつれさせる。
 転倒。
 
「きゃあっ!」
 
 少女が木に背中を打ち、手から桶がこぼれる。
 目の前には、黒い影が迫る。
 
「あ……、いや……」
 
 直後、桜並木に悲鳴が突き抜けた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 麻帆良学園中央駅を、奈留島は歩いていた。
 周囲には雑踏と喧騒。入り乱れる人と声だ。
 人の流れは改札に集中し、そこを越えると四方八方へと散っていく。
 紺のスーツを着込んだ奈留島は、その流れの一つに足を向けた。
 後ろから前へ走り抜けるのは、臙脂色のベストに、チェック柄のプリーツスカートを身に着けた、十代半ばほどの少女達。
 そんな中、一際目立つ一団がいた。
 背中姿に見えるのは、大きくたなびく黒髪の少女に、橙色のツインテール。それに、
 
 ……子供?
 
 二人の間、優に頭一つ分低い位置に、後ろ髪をまとめた赤毛がある。
 たまに見える横顔は、遠目に見ても明らかに幼い。
 喧騒に紛れて聞こえないが、赤毛の子供とツインテールの少女が何か言い合っている。
 その仲裁に入るように、黒髪の少女が間に手を出している。
 その雰囲気に、奈留島は微笑。
 前方を仰げば、あるのは煉瓦造りの欧米風の建物。
 奈留島は、わずかに足に力を込め、建物へと速度を上げた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 奈留島は、学園長室のソファーに腰掛けていた。
 正面には昨晩と変わらず、執務机越しに座している学園長がいる。
 
「……で、学園長。そのサポートする先生というのは?」
 
 足を組みながら発した奈留島の問いに、応えたのは学園長ではなく、背後から響く扉のノック。
 
「ネギです。よろしいでしょうか?」
 
 ドアの向こうから聞こえる声は高い。
 学園長は顔に楽の色を浮かべ、
 
「――ほ。ナイスタイミングじゃぞ、ネギくん。入っとくれ」
 
 失礼します、と開かれた扉の向こうにいたのは少年。
 赤毛を頂いた顔付きは、十に届くかどうかという幼いもの。
 鼻の頭には、小さい丸眼鏡が乗っている。
 振り向いた奈留島は、わずかに驚きの表情を作り、
 
「さっきの……。学園長、これはどういう――」
 
「彼が、君の担当する3年A組の担任、ネギ・スプリングフィールドくんじゃよ」
 
 スプリングフィールド、と奈留島が口の中で復唱し、
 
「――あぁ」
 
 軽く手を打った。
 すると奈留島は、ソファーから腰を上げ、ネギと正面から向かい合う形で立った。
 近付けば、その幼さがより顕著に見られた。
 特に身長は、頭二つ分近く差がある。
 
『はじめまして、Mr.スプリングフィールド。今年度から副担任をやらせていただきます、奈留島です。以後よろしく』
 
 紡ぎ出した挨拶は英語。
 言って差し出した手は、陶磁器のように白く、細い。
 ネギはそれを笑顔で握り返し、
 
「学園長が言ってた新しい先生ですね? こちらこそよろしくお願いします!」
 
 答えは流暢な日本語で返ってきた。
 へぇ、と奈留島が感嘆の息を漏らす。
 
「日本語がお上手なんですね」
 
「いえ、奈留島さんの英語こそ、訛りもなくてすごく綺麗でしたよ!」
 
 子供らしい、はきはきした口調で称賛を送るネギに微笑を浮かべ、
 
「ありがとうございます。――では、早速教室へ向かっても?」
 
 問いは振り返った先、学園長へ向けたもの。
 
「あぁ、えぇぞ。今日は授業もないでな。自己紹介だけしといとくれ」
 
 学園長の答えに、分かりました、と返事をして、
 
「じゃあ、行きましょうか。ネギ先生」
 
「はいっ!」
 
 先に廊下へ出たネギを追うように、奈留島が後ろ手に扉を閉めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 教室の中からは賑やかな喧騒が聞こえる。
 それを背中に受けるように、奈留島は壁に体を預けていた。
 
「3年! A組!! ネギ先生ーっ!!」
 
 わ、という歓声が壁越しに届いてくる。
 それが収まると、ネギが喋り始めた。
 
「えと……改めまして3年A組担任になりました、ネギ・スプリングフィールドです。これから来年の3月までの一年間よろしくお願いします」
 
 ネギの言葉に、はーい、と元気のいい返事が返ってくる。
 
「そして、今年度から副担任として新しく先生がやって来ました。奈留島先生、どうぞ」
 
 ネギの呼び掛けに、ドアの前で深呼吸を一つ。 取手に手をかけ、引き開けると一瞬の静寂。
 一歩教室へ踏み込むと、そこかしこで小さなざわめきが起こる。
 
「……綺麗」
 
「肌白いねぇ」
 
「うん、しかもすごい細い」
 
 わずかな驚きと大きな羨望を込められた視線を受けながら、奈留島が教卓に立った。
 奈留島は教室全体を一望し、
 
「はじめまして。今日からこのクラスの副担任と、3年生の歴史を担当する――」
 
 一度言葉を区切り、振り返って黒板に文字を書き連ね始めた。
 
「――奈留島琉那です。以後、よろしくお願いします」
 
 自己紹介を終えると、教室内で拍手が沸き起こった。
 中には、よろしくー、などと叫んでいる生徒もいる。
 
「はい、ではHRもまだ少し時間があるので、奈留島先生に質問のある人は――」
 
「はーい!」
 
 ネギが言い終わるより早く、多くの手と、その数だけ声が上がる。
 
「えっと……、じゃあ、朝倉さん」
 
 ネギに指名され、席を立ったのは、赤味がかった茶髪の少女。
 その手には、携帯電話がレコーダーのように握られている。
 
「では、皆を代表して、報道部の朝倉が質問させていただきます」
 
 朝倉と名乗った少女を中心に、教室に苦笑の空気が流れた。
 
「まず初めに、年齢は?」
 
「19です」
 
「趣味や特技は?」
 
「趣味は読書、特技は武芸を少々」
 
 朝倉の機関銃のような質問に、奈留島は澱みなく答えていく。
 
「肌がお綺麗ですけど、どのような化粧品を使っていますか?」
 
 そこで初めて、奈留島の表情が怪訝そうなものに変わる。
 
「……すいません。そういった物は使ったことなくて……」
 
「今時珍しいですねぇ。じゃあ、着ているのが男物のスーツなのは、スカートがお嫌いとか?」
 
「あー……、ちょっと待ってください」
 
 手と併せて出された制止の声に、朝倉のペンが止まった。
 
「はい?」
 
「何か大きな誤解があるみたいなんですが――」
 
 一息。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「――こう見えて、僕は男ですよ?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 数秒の沈黙。そして、
 
「……え、えぇーっ!?」
 
 30人を超える叫びは、高く青い空によく響いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あとがき
 ネギと塩の相性はバツグン!!(挨拶)
 
 どうも。さかっちです。
 
 
 
 そんなわけで、当作品の主人公は生物学的に男でした。
 
 一応、地の文では男と明言せず、一人称も最後まで一切言ってないんですが……ちょっとわざとらしかったですかね?
 
 というか序章を読んでも『男じゃねぇの?』とか思えてきて……。
 
 ともあれ、また次回もよろしくお願いします。

〈続く〉

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