「恋は最高のビボルック?」


 拝啓、あの世のじいちゃん、ばあちゃん、それとヌイ。
 時を駆けた大バカ中華娘のせいで、苦労と騒動まみれだった麻帆良祭も終わり、蔓延していたお祭り空気も消えてくれた今日この頃。
 ……我がクラスに所属するバカレッドのせいで、新たな苦労が生まれていたりするのですが、それはまた別の日に語るとして。
 こちらは変わりなく、いつも通りな日々を過ごしております。未熟ながらも先生として、何か決定的なものが欠落している少女達に頭を痛め、麻帆良祭の一件で、また無駄に大人ぶろうとする子供先生に内心イライラしつつ、時々張り倒しつつ行動を共にし――

「ジロー君、お茶のお代わりはどうかしら?」
「あー……いただきます」

 いつの間に決まったと地味に問い詰めたい、参加することが当然になった教会でのお茶会で、自分用のカップを傾ける日々をです。
 俺は俺で、その日々に違和感を覚えることもなく、こうして呼ばれる度にお茶会に参加しているのだが……。まあ、こちらが押しかけるのではなく、相手側から呼ばれて参加している形なので、特に問題はなかろう。
 何だかんだで、ここでお茶を飲む時間は気に入っているので、自分から波風立てることを言うのは止めておくべき。シャークティ先生に淹れていただいた紅茶を味わいながら、そう自己弁護しておいた。

「ど、どうかしましたか、ジロー君?」
「いえ、別に何も。大丈夫ですから、そこまで心配しないでください」
「そう……」

 俺が物思いに耽っているように見えたのか、シャークティ先生がどこか不安そうに声をかけてくる。
 必要以上にこちらを気遣う様子に、胸中でため息を洩らす。色々ありすぎて振り返り見るのも面倒な、麻帆良祭の乱痴気騒ぎの数々。自分が巻き込まれることも少なくなかった騒動の中で、この人には随分と迷惑をかけた。
 親友の裏切りによる望まざる『仮契約』に、中華娘が主催した超人大会の調査中に起きた『事故』に――

(極めつけが、『一回目』の麻帆良祭最終日関連のこと、か……)

 『二回目』は『二回目』で、思い出すのも恥ずかしいことがあったのだが。『一回目』については恥ずかしい云々といった感情ではなく、俺の中に消えない棘を残していた。
 超に渡された反則アイテムのせいで『なかったこと』になっている以上、俺がどんな感情を抱いても無意味なものなのだが、「ハイ、そうですか」と言って忘却できるほど、軽々しい出来事ではない。
 反則アイテムの持ち主として、それを使ったネギがどの程度、消してしまった『可能性』を背負っているのかは知らないが……対価として圧し掛かるこの重さを忘れるほど、物忘れが激しくないと信じたい。

 ――もし、都合よく忘れていたり、『対価』の存在にすら気付いていないのなら、流石に考えさせてもらおうかな、イロイロと。

 不穏なことを考え、密かに口元を緩めた時に蘇ったのは、『二回目』の麻帆良祭最終日に戻る少し前に聞かされた言葉。



『約束ですよ? また……出会って、くれますね?』



 わかっているのに、果たせもしない約束を交わすもんじゃない……。随分と酷い約束をしたものだと、胸中で何度目かになるため息をつく。
 大丈夫と言ったのだが、麻帆良祭関連で俺への信頼値は底値に達したのだろう。目の前の席に座り、チラチラとこちらの様子を盗み見ているシスターを視界に入れぬ様、微妙に目を逸らして紅茶を口に含んだ。
 花柄の洒落たソーサーにカップを置いて、ひょいと顔を上げた拍子にシャークティ先生…………の隣りに座って、お茶請けに用意された焼き菓子を頬張っていたココネと目が合う。

「…………モグ」
「あー……美味しそうに食べてるな、ココネ」
「――ウン」

 可愛らしいけど、あまり欲張ると喉に詰まるぞと苦笑いしながら、俺の分に用意されたお茶請けに手を伸ばした。
 今日のお茶請けとして出されたのは、軽い食感とバターの風味が人気の秘密だと思う、ラングドシャというクッキーの一種。フランス語の表記は『langue de chat』で、意味は猫の舌だそうだ。微妙に不味そうに感じた人は、猫に舐められた経験があるに違いない。
 これを使った有名な土産物に、「白い恋人」というものがあったりする。最近では、それの姉妹品で「黒い恋人」もあるらしい。まあ、白かろうが黒かろうが美味しければ問題ないので、味が落ちないよう頑張って欲しいもんだ。
 どことも知れぬ菓子屋の商売繁盛を祈りながら、甘い焼き菓子を齧って苦い思考を払拭する。
 シャークティ先生の手製らしく、適度に甘さの抑えられた菓子を食べながら、胸中で自嘲の笑みを浮かべた。こうやって今の状況に関係ない薀蓄を考えるのは、心のどこかで居心地の悪さを感じているからだろうか、と。

(ほんと迷惑なことしてくれたよ、あの中華娘……)

 この麻帆良で数少ない、程よく肩の力を抜けた場所を『壊させてくれる』なんて。アイツ本人に壊されるならまだしも、実行したのが自分だけに文句も言えない。にが苦しい感情を消すためにもう一枚、菓子を口に放り込んで、ため息と共に紅茶で飲み下す。

「…………」
「――ん、どうしたココネ?」

 何だかんだで時間が経てば、お茶のような『程よい味』なってくれるのかね。そう考えたところで、頬張っていた菓子を飲み込んで、こちらをジッと見ているココネに気が付いた。

「ジロー、どうかしたのカ?」

 首を傾げた俺に首を傾げ返して、どこか心配そうに聞いてきたココネに、内心ギクリとさせられる。
 一瞬、胸中の天気模様が表にも出ていたのかと焦ったが、ココネの顔を見て違うようだと胸を撫で下ろす。子供独特の勘という奴だろう、何となく気になって聞いてみたと顔に書いてあった。

「どうもしてないぞ? いつも通り、のんびり気楽にしてるさね」
「……ハァ」

 もっとも、美空が来た時点でそれも終了だけど。そう付け足して、安心させるように緩い笑みを浮かべて見せる。悩みのなさそうな顔に呆れたのか、半眼のココネがこれ見よがしにため息をついた。
 美味しいからと、頬張りすぎたせいだろう。口の端に菓子の欠片をつけた状態でそんなことをされても、まったく腹立たしくない。
 似合わない少女の行動がおかしかったらしく、苦笑したシャークティ先生がハンカチを取り出して、ココネの口を優しく拭う。

「ほら、少しジッとしていなさい。汚れを拭いてあげますから」
「ン」

 言われた通り、キュッと口だけでなく目まで閉じたココネが返事をする。常に半眼で感情の起伏がわかりにくいが、ちゃんと子供らしい部分を持っているココネの姿が微笑ましい。
 こうしているのを見ると、普段の無愛想な表情や手厳しいツッコミに、プチ毒舌といった可愛げのなさまで愛嬌に感じられるから困る。
 ココネとシャークティ先生。二人の仲睦まじい様子を眺めながら、胸中で呟いた。大層なことを言う気はないけど、あの時、自分達にとって都合のいい世界を選んだことで、この光景があるのだとしたら――

(ちょっとばかし救われた気になれる)

 これも自己弁護に過ぎない、可能性についての解釈に過ぎないけどな。勝手に緩む口元を隠すために、ティーカップを口に運んだ。
 そこで、何気なしに視線を落として気が付く。口の周りを綺麗にしてもらい、心なしか嬉しそうにしているココネの前に置かれた、茶請け用の皿が空になっていた。
 まあ、一度に三枚も四枚も頬張っていたのだ、すぐに無くなるのは仕方がない。シャークティ先生の手製の菓子は折り紙付きの味だし、たくさん食べたいって気持ちもわからなくはないけど。
 今頃、自分の分の菓子が残っていないことに気付いたのか、無表情に落ち込んでいるココネに苦笑いして、俺の分に用意された菓子の残量を確かめる。
 今日は考え込む時間が多かったせいか、用意された菓子はほとんど手付かずで残っていた。これ幸いとばかり、数枚のラングドシャが乗った皿を指差してココネに聞いてみる。

「あー、ココネ。まだお菓子が残ってるんだけど、良かったら食べるか?」
「食べル」
「ははっ、そうかそうか」

 時間にして一秒にも満たなかったと思う。聞いた次の瞬間に返ってきた返答に吹き出しつつ、自分用の菓子皿をココネに向かって差し出した。
 美味しいお菓子をもう一度、食べられるのが嬉しいのだろう。少し急いた感じ手を伸ばしたココネが、俺の差し出した皿を受け取ろうとして――

「いけませんよ、ココネ」
「ゥ゛」
「へ?」

 直前、隣りから発せられた制止の声によって動きを止めた。ピシリと石化したように固まったココネに惚けた声を出し、ツイと視線を横に動かして声を発した人物を見やる。
 ココネの隣りで若干、眉を顰めていたシャークティ先生が、俺に視線をぶつけながら口を開いた。

「ジロー君、あまりココネを甘やかさないでくれますか? 自分の分のお菓子は食べたのですから、もう我慢してもらわないと」

 ココネの保護者としてだろう、渋い表情で苦言を呈してくるシャークティ先生に、こちらも少しばかり眉を顰める。言いたいことはわかるのだが、それは少し厳しすぎではなかろうか?
 見れば、シャークティ先生の隣りに座るココネは唇を尖らせて、やや俯き加減に座っていた。心なしか目が潤んでいるのは、せっかくお菓子をもらえると思って喜んだ矢先に、もう食べてはいけないと言われたからだろう。
 虫歯になっているのならいざ知らず、少しぐらいいいではないか。用意された菓子がマフィンやマドレーヌならば、夕飯を食べられない危険もあるので俺も我慢させるけど。
 胸中でそう溢してから、シャークティ先生に対して言葉を返す。

「甘やかすつもりはないですけど……別にいいじゃないですか。このぐらい食べても、ちゃんと夕飯は残さず食べれますよ。なあ、ココネ?」
「……ウン」

 チラチラとシャークティ先生の横顔を窺いながらだが、俺の質問にココネが頷いてみせる。やはり美味しいお菓子を諦めきれないのだろう、上目遣いの視線は目の前の菓子が乗った皿に向いていた。

「そういう問題ではありませんッ。自分の分はちゃんと食べたのに、人の分まで欲しがるのは意地汚いと言っているのです」
「意地汚いって……。そんな言い方しなくてもいいんじゃないですか? ココネだって自分の適量ぐらいわかります、無理して食べないようにって注意してあげればいいだけでしょうに」

 少し声を荒げたシャークティ先生につられてか、こちらまできつい物言いになってしまう。

「ジ、ジロー? シスターシャークティ?」
「う……」
「あー……」

 一瞬、部屋の内に険悪な空気が充満しかけるが、それはココネの困惑した声によって霧散させられた。何をムキになっているのか。お互い、どちらともなく視線を外して、気まずい空気を誤魔化すように紅茶を飲む。
 非常に気まずい沈黙が、俺とシャークティ先生の間に流れていた。どうにかせねばとは思うのだが、さっきの今で話かけるのは想像以上に難しく。
 さて困ったと、部屋の外に繋がる窓を見るとはなしに見ながら、こっそりと嘆息した。

「…………いつもそうですよね、ジロー君は」
「何がですか?」

 声がした方に視線を移すと、拗ねた表情で自分のカップを見つめるシャークティ先生の姿があった。話題に挙げられた理由がわからず、言葉の指す所を問い返した俺を無視して、シャークティ先生の独り言に似た愚痴が始まる。

「いつもいつも、ココネの味方をして私ばかり悪者にして。たまに叱ることがあっても、お説教は一言二言で済ませてしまいますし。
私がココネや美空に注意している時も、『まあ、そのぐらいでいいじゃないですか』って庇うから、それ以上はきつく言えませんし……」
「悪者にする気なんて微塵もありませんよ。大体、ココネはともかく、美空に注意してる時は、自業自得で俺も放置してるじゃないですか」

 先ほどの話で、今までの納得いかないアレコレを思い出したのか、どんよりした表情でブツブツと溢されている。一応、こちらの反論の言葉は聞こえたらしく、ティーカップに刺さっていた恨めしげな視線が俺に向けられた。

「いいですよね、ジロー君は来た時だけ、ココネ達に優しくすればいいのですから。小煩いお説教をして反感を持たれるのは、全部、私の役目……。悪者にする気がないのなら、少しぐらい、こちらのことも考えていただけると嬉しいのですが?」
「む……」

 美空に優しくした記憶は、念入りに探しても見つからなかったのだが、ココネを甘やかしていることについては、些かの自覚があったので言葉に詰まる。
 返答できずに困る俺に、それ見たことかという風にため息をついて、視線を外したシャークティ先生がぼそりと呟いた。

「ズルイです、ココネ達ばかり。少しぐらい、私に優しくしてくれても……」
「え? 少しぐらい私に……何です?」

 声が小さ過ぎたこともあり、肝心の部分を聞き逃してしまったので再度、繰り返してくれるようお願いする。どういう訳か、頭の片隅で聞かない方がいいと警鐘が鳴っている気もするが、アナザーマスターでもあるシャークティ先生の要望だ。内容次第では聞き入れる事も吝かでない。
 自分で言うのもなんだが、本来の主人であるネギに対するよりは真摯な姿勢。だが、先ほどの呟きはシャークティ先生自身、意図せず口に出してしまったのだろう。みるみる顔を赤らめさせて、音が鳴るほどの勢いで首を振って拒絶なされた。

「ぇ、ぁ、な、何でもないです!!」
「あー、本当ですか?」

 あまりに不自然な態度に、こちらとしても先の呟きに対して怖いもの見たさ……この場合は、怖いもの聞きたさが湧いてくるというもの。
 本人に聞いても素直に教えてくれないだろうと、俺はシャークティ先生に向けていた訝しげな視線を、彼女の隣りに座っていたココネに向ける。
 シャークティ先生の愚痴が始まった辺りから、急に落ち着きを取り戻して紅茶を飲んでいた少女が、こちらの視線に気付いて顔を上げた。無言のまま、小さく首を傾げるココネに苦笑しながら、シャークティ先生が一体何を呟いていたのかを問う。

「なあ、ココネ。さっき、シャークティ先生が何て言ってたか聞いてただろ? できれば教えてくれないか」

 俺よりも近い場所にいたのだから、あの小さな呟きも聞こえていたはず。そんな俺の予想はどうやら当たっていたらしく、横目にシャークティ先生を見た後、ココネはコクリと頷いて口を開いた。

「さっき言ってたのは――」
「アアァァァッ!? コ、ココネ!!」
「――モゴモゴ、モゴ」

 だが、その直後、ビクリと体を震わせて正気の返ったシャークティ先生が、言わせてなるものかとばかりにココネの口を塞いでしまう。
 モゴモゴと、口を塞がれたココネが半眼で続きを話しているが、何を言っているのか全然わからん。ついでにシャークティ先生は、ものっそ強張った顔で笑顔を浮かべて誤魔化そうとしてるし。
 明らかに無理のある笑顔を送るアナザーマスターに、今度ばかりは隠し切れないため息が洩れる。

「ハァ……。何故にそこまで必死に阻止するのかは知りませんけど、俺に聞かせたくないってことだけはわかりました。もう聞きませんから、ココネを解放してやってください」
「ホ、ホントですね? 油断させておいて、なんてしませんね?」

 念を押してきたシャークティ先生に、ヒラヒラと手を振って見せる。こちらの了解の意志が伝わったのか、ゆっくりとだがココネの口を塞いでいた手が外された。

「……フゥ」
「変なこと聞いて悪かったな、ココネ。さっきの質問、聞かなかったことにしてくれ」
「――――構わない、私ハ」

 新鮮な空気を吸って、小さく息を吐くココネに謝っておく。何も聞かなかったことにしてくれと言った俺に、半眼の少女は妙に引っ掛かる言い回しで許してくださった。
 何となくだが、こちらに投擲される鋭い視線が「少しは察しろ、阿呆」と語っている気がする。残念ながら、俺は心を読める妖怪のサトリではないので、実際に言葉としてぶつけてくれないと理解できないぞ。
 渋い顔をしている俺を見て、諦めた風にため息をついたココネは紅茶に口をつけた後、カップの中で揺れる琥珀色の液体を眺めながら、ボソリと呟いた。

「……喧嘩、終わっタ?」

 結局、有耶無耶に終わったシャークティ先生の呟きとは違い、しっかりと聞こえる程度の声量。妙な緊張が解けて、気の抜けた空気が満ちかけていたタイミングで発せられた少女の声は、驚くほど大きく感じられた。

「いや、喧嘩って……」
「コ、ココネ? さっきのはそんなのじゃなくて、ただの不満というか改善して欲しい所を挙げていただけで……え、えっと」

 思いがけない問いかけに、二人して言葉に詰まらされる。シャークティ先生がどうにか言い繕おうとしているが、結局は言葉が見つからず沈黙するに終わった。
 お茶会をしていた部屋の空気が、恐ろしい速度で重さを増す。確かにココネぐらいの歳の子供からしたら、さっきまでの言い合いや愚痴をぶつける行為は、喧嘩に見えてしまうのかもしれない。
 大人――俺はまだ未成年であると強く主張しておくが、立場的にはそう在るべき身である俺や、シャークティ先生から見ればどうってことのない指摘のし合いも、幼い子供には口の出せない怖いものに感じられるのだ。
 そんなことにも気付かず、自分達は何をしていたのかと、思わず自己嫌悪を覚える。その後で、まず誠意を込めて謝ってから、さっきまでの言い合いは喧嘩ではないと教えて、しっかり誤解を解かなければと考える。
 頭の中で段取りを組み立てて、シャークティ先生に視線を送る。向こうも同じことを考えていたらしく、目が合った瞬間、力強い頷きが返ってきた。
 意思疎通に関しては、主人よりも遥かに頼もしい。そのことに些かの満足感を覚えながら、紅茶のカップをソーサーに置いて、顔を上げたココネに声をかけようとする。

「あのな、ココネ――」
「えっとね、ココネ――」

 だが、同時に口を開いた俺とシャークティ先生の耳に届いたのは、どこか嬉しそうにも聞こえるココネの呟きであった。

「犬も食べないって本当だっタ」
「は?」
「犬も……食べない?」

 唐突すぎる言葉に虚を突かれ、間抜けな声を上げて首を傾げてしまう。
 納得したように何度も頷いているココネを見ながら、少女の言葉が何を意味するのか頭の中で検索してみた。
 「喧嘩」と「犬も食べない」、その両方が関係している日本語は何か。どこかで聞いた気がするのだが、はてどこで聞いたのやら。
 犬も食べない喧嘩……喧嘩、犬も食べない? あーでもないこーでもないと、順番を入れ換えたりして考えてみる。その直後、俺は国語の代理教師をしていたことを、色々な意味で後悔した。
 案外をつけなくていいぐらい簡単に、「〇〇喧嘩、犬も食べない」に付けられる単語が検索に引っ掛かる。それと同時に、盛大な勢いで顔が歪む。
 苦虫を数十匹、いやさ数百匹まとめて噛み砕いた感じに顔を歪めた俺に、シャークティ先生が不思議そうな顔で聞いてきた。

「ど、どうかしたんですか、ジロー君?」
「あー……いや、えー……ナ、何でもないです、気にしないでください」

 咄嗟に誤魔化してしまった俺は悪くないと思う、絶対に。キョトンと首を傾げているシャークティ先生の顔を直視できず、首の可動域限界まで顔を背けてしまう。
 じわじわと、首の下から熱がせり上がってくる。このままではマズイと、頭の中で最大級の警報が響いていた。
 まかり間違って、シャークティ先生がココネの呟きの意味を知れば、死ぬほど気まずい思いをすることになる。それだけは何とか阻止せねば。
 そう決意して、どう言い含めるかを考えながらココネに目を向けて――

「ココネ、さっきの言葉の意味は何だったのですか?」
「ことわざ……。美空に教えてもらっタ。さっきのは――」
「?」

 厚すぎる紙一重の差で、手遅れになっていることを知った。
 内緒話をするように手招きして、シャークティ先生に耳を近づけさせたココネが、普段から小さい声をさらに潜めて耳打ちする。

「――――なっ、なぁ、ななななっ!?」
「……ハハ、終わった」

 思わず右手で目を覆って、肘を突いた姿勢で項垂れた。暗くなった視界の中、うろたえたシャークティ先生の叫びが実によく聞こえる。気は進まなかったが、顔を覆っていた手を外して目を開けた。
 案の定というべきか、不憫なほどに顔を赤面させたシャークティ先生を目撃して、尋常ではない気まずさを覚える。
 かわいそうなぐらい赤く染まった顔を伏せて、時々潤んだ目でこちらの様子を窺うシスターの姿に、再度顔を見られぬよう首を曲げておいた。
 とりあえずアレは、ココネに変なことを言われたショックで泣きそうになっているのだ、そうに違いない。今すぐ、この場から逃げ出したい衝動に耐えながら、落ち着けと自分に言い聞かせる。

『…………………………』

 息をするのも辛い沈黙が、部屋の中に充満していた。時折、マイペースに紅茶を飲むココネが立てる音がいやに響く。この息苦しい沈黙が生まれる原因を作っておきながら、何故に関係ないって顔をしていると言いたい。
 今日が初めてではなかろうか? 美空が来るのを待ち遠しいと感じたのは。
 掃除当番だった為、まだこの場に来ていない少女の小憎たらしい笑みを思い出す。何故か無性にイラッとさせられた。
 腹いせに、菓子皿のラングドシャを口へ放り込んだ。それを見て、ココネが小さく声を上げていたが聞こえない。ザクザクと容赦なく噛み砕き、紅茶で喉の奥へ流し込む。
 ああ、美味しい。猫の舌、とても美味しゅうございます。ソーサーを砕かない程度の勢いでカップを置き、人心地ついたと大きく息を吐く。
 「やっと落ち着くことができたぞ、この野郎」と、特に意味もないのに、心の中でこれでもかと絶叫しておいた。

「ぁ……オ、オオッ、お茶がなくなりそうですね! ポットの方は空みたいですしッ」

 淹れ直してきます、とポットを引っ掴むようにして、シャークティ先生が部屋を出ていく。バタンと扉の閉まる音に続き、パタパタと駆けていく足音が遠ざかってゆく。
 慌しい足音が聞こえなくなったところで、ようやく俺は肺に溜めていた空気を吐き出した。

「……フハアァァ」
「大丈夫か、ジロー?」

 体を投げ出すようにテーブルへ倒れこんだ俺へ、ココネの呑気な声が届く。テーブルに顎を突いたまま、恨みの篭ったジト目を送りつけておく。

「ココネ……頼むから、さっきみたいな心臓に悪いことを、サラッと言うのは止めてくれ」
「…………ワカッタ」

 こちらの抗議に対して、ココネは不服そうな面持ちで頷いた。どうやら機嫌を損ねたらしいことを悟り、頬を冷たい汗が一筋流れる。
 ココネの半眼を意識しないようにしながら、ノロノロと体を起こして嘆息する。何か言いたいことがあるのか、ジッとこちらを凝視する少女の無言が痛い。
 内心、戦々兢々しながら沈黙を守っていた俺に、ココネがさり気なさを装って聞いてきた。

「さっきの『心臓に悪い』って……ジロー、シスターシャークティのこと嫌いか?」
「――カハッ」
「……?」

 牽制もへったくれもない問いかけに、またもテーブルに突っ伏してしまう。何だ、その全力全開の上段回し蹴りみたいな質問は?
 ここで突っ込んだら負けだと、確信めいた予感に震える体を抑えながら顔を上げる。視線の先で、無表情なのにどこか真剣な面持ちのココネが座っていた。
 泣きたい気持ちになりながら、選択肢の書かれたカードはないかと視線を巡らす。試しに持ち上げたカップの裏側も覗いてみるが、そんな便利なアイテムは見つからない。

「あー、えーとだな、さっきのはシャークティ先生のことを嫌ってるとか、そういう意味で言ったんじゃなくてだな……」
「言ったんじゃなくて?」

 もしかして、この子の本質は鬼ではなかろうか。乗っている木船が転覆しないよう、波風立つなと祈願している俺を嘲笑うかの如く、答えに窮する問いの追撃を行うココネに薄ら寒いものを覚える。
 どうやって説明すればいいのやら。子供に聞かせるには忍びない、大人の事情的なものがあるのだと言っても、きっとココネは気にせず問い詰めてくるであろう。
 そも当人からして、麻帆良祭のせいでズレた自分の感情や気持ちがどこに向かっているのか、いまだに理解も把握もしきれていないのに。それを上手に他人へ説明するなど、何をいわんや。
 ジワリジワリと、音を立てて狭まっている……気がする包囲網にテンションを下げながら、ため息交じりに天井を仰ぎ見る。胸中で上げるは、極楽浄土にいるはずの父と母へ助けを求める声。

(それを理解したから何? って考えてしまう今日この頃。俺にどうしろってんだろうね、父さん、母さん)

 運が良ければ、蜘蛛の糸ぐらい垂らしてくれるかと期待したのだが、目蓋に浮かんだ父は、えらく複雑そうな苦笑を浮かべ、母は満面の笑みで父の頬を捻りながら、こちらに手を振っている――ように感じた。
 何故、父が不憫な子を見る目で笑っているのか、母が在りし日の思い出を懐かしむ目で、夫の頬を捻っているのか。この際、それは二百由旬彼方へ蹴り飛ばしておこう。
 遥か上空で星になった関心を見送った後、俺は組んだ手に顎を乗せて、重苦しく嘆息した。
 ココネを制止してくれるであろう、シャークティ先生は戻ってこず。助けを求めたところで、そう都合よく現れてくれるはずもなし。

 ――もういっそ、恥も外聞もなく、ごめんなさいと頭を下げておくか?

 朝帰りしたじいちゃんが、笑顔で湯飲みを握り砕いたばあちゃんに見せた最期の手段……『悪くなくてもまず土下座』を使うことも視野に入れたちょうどその時、意外なことに神から救いの手は差し伸べられた。

「WAWAWA、私参上〜♪」

 遠慮の欠片もない力加減で、教会の礼拝堂へ続く方の扉が開く。パッと振り向いた俺の瞳に映ったのは、ベリーショートの髪型をした麻帆良の似非シスター(見習い)こと春日美空嬢の姿。きっと某丘の上で磔にされた男性も、死刑執行寸前に救いを与えられたら、こんな気分になっていたに違いない。
 呑気に歌を口ずさみながら部屋に入ってきた美空に、胸中でグッジョブと親指を立てる。対してココネの方は、俺の肩越しに美空の姿を確認して、水を差されたといわんばかりのため息をついていた。

「あー、よく来たな、美空。掃除、意外と手間取ってたんだな、待ってたぞ」
「……美空、空気読んで」
「え、何この対応の温度差?」

 俺とココネから両極端な言葉をかけられて、美空が少し仰け反りながら疑問の声を上げる。部屋に入る直前まで繰り広げられていた少女尋問を知らないが故に、この場に残る異様な空気に首を傾げていた。

「まだ道のりは長い……」
「道のりって何の道だ、オイ」

 美空の乱入で、俺への目的不明瞭な追及をする意欲が薄れたのだろう。考え事をしていますとアピールするように腕を組み、完璧なさり気なさで皿ごと奪った人のお茶請けを頬張るココネに苦笑いしつつ、俺はカップを持ち上げた。

「あ、私もお茶欲しいッス」
「今、シャークティ先生がお茶淹れ直してくれてるから、もう少し待ってろ」

 真面目に掃除して喉でも渇いているのか、人の飲んでいる紅茶を欲しがる美空に席へ座って待つよう促し、自分はお替りが来る前に温くなった分を飲み干してしまおうと、一気に呷る。
 できれば、ここでお茶を飲むことが苦痛にならないよう、密かに祈りながら。

「ココネー、私にもクッキー頂戴〜」
「……一枚だけ」
「わっ、サンキュー、ココネ♪ うん、美味ーい!」
「美空、子供にお菓子ねだるなよ……」

 意地汚く、自分のマスターでもある少女に菓子をもらって、実に嬉しそうに齧っている美空につられてか、自然な笑みが浮かぶのを自覚してかぶりを振る。
 ついさっき、ここでやるお茶会が苦痛にならないどうのこうのって祈ったけど、その心配は当分の間、しなくても大丈夫そうだった――――





 夜も更け、心を落ち着かせる静寂に抱かれて教会が眠りについた頃――

「フゥ……」

 ジローを交えたお茶会の終了後、残っていた仕事を一通り済ませたシャークティは、鏡台の前で湿り気を帯びた髪をバスタオルで拭きながら、小さく吐息を洩らした。

「日本に来てから、お風呂によく入るようになりましたが……お湯の温度が高すぎるのはさて置き、やはり良いものですね、あれは」

 シャワーのように体の汚れを落とすだけではなく、全身の血行の巡りを良くしてリラックス感を与え、蓄積した疲労も解消してくれる日本の風呂文化に感心する。
 元の肌の色が小麦色でわかりにくいが、入浴後でほのかに朱に染まった顔を映す鏡を見ながら、シャークティは水気を拭き終えた前髪を指で抓んで呟いた。

「いつの間にか、また伸びてきましたね……」

 麻帆良祭が始まる前、思い切ってショート気味に揃えた後ろ髪も、気付けば肩にかかる長さにまで伸びていた。
 抓んでいた前髪を離して、鏡に映る自分の姿を注意深く観察する。寝巻きとして使用している、簡素な白いローブ風の服に身を包む己がいた。その場で首を傾げてみたり、ゆっくり後ろを向いて、髪のバランスが悪くないか等をチェックする。

「――も、もう少しだけ、伸ばしてみるとしましょう」

 伸びているの見た時、前と同じ、肩にかからないぐらいのショートにしようかと考えたのだが、今の長さもそう悪くないとの評価を下したらしい。
 仮に髪が短かろうが長かろうが、『相手』と会う時は常にシスター服に身を包んで、髪型もわからないようになっているのだが、それは彼女にとって些細な問題なのであろう。そのことについて思考する機会は、ついぞ訪れなかった。
 一応、満足したらしいシャークティが鏡台の鏡を閉じるのと同時に、彼女の部屋の扉がノックされ、間を置かずに開かれた。

「あら、まだ寝ていなかったのですか、ココネ?」
「ウン。あまり眠くない」
「ハァ、お茶の飲みすぎです。仕方のない子ですね……ホラ、お部屋へ行きますよ」

 眠くないことが不思議そうなココネに、呆れと苦笑が半分ずつの表情でシャークティが近付いて、その手を握って少女の部屋へと連れてゆく。
 教会の奥に続いている居住区の中で、ココネのものとして割り当てられている部屋の扉を開いて、部屋の隅に設置されたベッドに入るよう促した。モソモソとベッドに登り、夏用の薄めのシーツを被ったココネの頭を撫でて、シャークティは優しく声をかける。

「お休みなさい、ココネ」
「お休み、シスターシャークティ」

 入ってすぐに睡魔が訪れるわけではないが、ベッドの上で目を瞑っていれば自然と眠りに落ちるだろうと、シャークティはココネの部屋を後にした。電気を消す際、豆電球の灯りだけ残しておいたのは、完全な暗闇だと逆に不安でココネが眠れないだろうという、小さな気遣いである。




「ふぁ……私も、今日は早めに寝るとしましょう」

 自室に戻り、小さな欠伸を噛み殺しながらシャークティは独りごちた。今日は色々――毎度の事だが、ジローを交えたお茶会で色々とあったせいで精神的に疲れていた。
 身を投げ出すようにして、自室に置かれたベッドへ倒れこむ。

「ココネにも困ったものですね。語彙を増やすのは結構ですが、美空に余計なことまで吹き込まれて……」

 お茶会の時にココネが暴発させた、『犬も食べない』に関する諺を思い出して、シャークティの頬が湯上り時と遜色ない程に赤くなった。
 上気した顔を意識しないよう努力しながら、闇の中でポソリと呟いてみる。

「『夫婦喧嘩、犬も食べない』……ですか」

 どういう意味かまでは知らないが、きっと夫婦の問題は当人達に任せておけ――そのようなことを示唆しているのだろう。含蓄のある言葉だと納得した風に頷いてから、ふと浮かんだ疑問に首を傾げた。

「この諺に出てくる犬というのは、一体誰が飼っているのでしょうか?」

 考えてすぐ、益体もない事だとかぶりを振って忘却する。恐らく、何年研究してもまともな答えは出てきそうにない。
 そうこうしている間に、シャークティの元へ訪れた睡魔が、彼女を夢の中へ誘い始めていた。次第にボウッとしてきた頭で、シャークティは妄想する。

「しかし……夫婦、ですか。夫婦ということは、やはり一緒に暮らしているのでしょうね」

 眠さに抗うためか、至極当たり前のことをわざわざ口に出して確認する。少なからず頭がクリアになるが、自分が今なにを口走っているのかまで自覚するには至らない。
 まともな思考能力が欠けた頭で次に考えたのは、昨今の新生児出生率低下の問題について。

「やはり子供がいなくてはダメですよね……」

 当然、子供が生まれれば苦労も増えるであろうが、夫婦――すなわち、自分の想い人との間に生まれる子だ。その苦労はきっと、幾倍もの幸せとなって返ってくるであろう。

(日本には、一姫二太郎という言葉がありますが……。やはり最初に生むのは、女の子が好ましいのでしょうか――)

 名前はどう付けるべきか。日本生まれらしく日本名にするか、それとも片仮名にするか。
 再度、眠りに落ちかけた頭でそれを考えたところで、ようやくシャークティの意識が覚醒した。同時に、とんでもない妄想を続けていた自分を猛烈に恥じ入る。

(な、何てことを考えているのですか、私は!? ま、ま、まだ、ジロー君が私のことを好いてくれていると決まったわけではないのに!)

 美空やココネの言葉を信じるなら、そうなる可能性もなくはないのだが、生真面目な彼女にとって、その可能性に期待すること自体、不埒なことに感じられた。

(で、ででで、でも、本当にそうなったら――――)

 過剰に熱を帯びたシャークティの頭の中で、様々な未来予想図が上映される。
 例えば、誰かさんと同じ黒髪の女の子を抱いた自分や、銀髪の男の子を抱く誰かさんだったり。

(う、うぅ……ダメです、このような浅ましい妄想……!)

 しっかりするよう、シャークティは己に喝を入れるが、ろくに効果がないことは熱く感じる程に火照った顔が証明していた。

(こ、こんな……こんなぁ…………うぅ、ゴメンなさいジロー君……)

 愚かしい自分に対する羞恥と、妄想に使ってしまった青年への申し訳なさに打ち震えながら、シャークティはそれほど大きくないベッドの上を転がり続ける。
 悩める麻帆良のシスターが深い眠りにつくまで、もう暫くかかるようであった――――





後書き?) SSS(スーパーショートショート)と銘打っておきながら、いつも書いてる本編の一話ぐらいの長さになってしまいました。後悔している、でも反省はしていない。コモレビです。
 題名に使用した、ビボルックという単語。意味はイタリア語のビボ(生き生きした。英語のVividに当たる)と、英語のLookの合成和製語。意味は生き生きした化粧。
 まあ、適当に「恋は女性を生き生きさせると同時に、綺麗に(可愛く)してしまう化粧である」――とか、都合よく解釈してください。

 一万HIT超えちゃった記念で書くと言ったお話ですが、アンケート終了時点で二万HIT超え。話が完成した時点で三万HIT突破していたという状況。HIT数が多いからいいわけではないのですが、嬉しい誤算という奴です。

 リクエストにあった教会組のお話ですが……いまいち甘さが足りないような?
 この話の場面は、一応本編での麻帆良祭終了後〜夏休み編の間に起きたできごとのつもりです。刹那イベントの話もそのつもりでした。忍者・ロボ娘・ジュースは……まあ、細かいこと(時間軸)は気にすんな、ということで。

 記念HIT作品、短編でないとマジで厳しいということは身に染みてわかりました……。
 唐突ですが、クロス、または三次創作書いてやるぜ! あるいは書いちゃったぜ! なんて奇特な方は、軒先の掲示板にてご一報ください――なんて。自分が見ている・考えているジロー像が、他の方にはどう見えているのかというのは興味深いのですがね。
 感想・アドバイスお待ちしております。

〈続く?〉

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