――――朝靄のしずくが名残惜しそうに草木にしがみつく。そんな暁の終わりに、少女が一人立っていた。



 空が薄暗く肌寒い中、乳白色の笠を透かす白いの光が仄暗く裏庭を照らす時刻。

 暗い道にはまだ街路灯が光を燈している。そんな暗い朝。……にもかかわらず、私は外に出ていた。

 

 なぜここにいるんだろうか? 

 こんな朝早く、外にでる用事なんて無いはずなのに。

 不思議に思いながら部屋に戻ろうとすると。




 「あれ? 本屋ちゃん何してんの?」

 



 こんな朝早くなのに、神楽坂さんが声をかけてきた。

 隣にいるのは近衛さんに、転校してきた桜さん。(先生と同じ苗字だから名前で呼んで欲しいと頼まれた)




 「あ、ほんまや〜。のどかや〜。こんなに朝早く何してるんえ〜?」

 「い、いえ、そ、それがなんでここにきたのか………」



  そう言おうとして、急に思い出した。

 

 「あ、朝なんだか眼が覚めて―――その後、外でネギ先生の声が聞こえた気がしたんです〜」



 なんで忘れてたんだろう? 

 ネギ先生の声が聞こえた気がして外を見たんだけど、暗くて何も見えない。

 怖いけど。それでもネギ先生に会いたくて。

 ネギ先生が住んでいる小屋まで、見に行こうとしたんだ。

 さっきまで覚えていたのに、急に忘れて。



 ……神楽坂さん達が来て、また思い出すなんて。

 それに、この先には行きたくないとなんで思ったんだろう?

 その気持ちも、神楽坂さん達3人が近づいてきたらなくなってしまった。





 「あっ、そうなんだ? 私はこれからバイトなんだけど桜さんと木乃香が衛宮先生に用があるらしくてさ」

 「そうなんえ〜。うちも桜さんの和食のお師匠さんの味を食べてみたくてな〜」

 


 そういえば桜さんの料理は洋食なら超包子に勝るとも劣らない味だと、神楽坂さん達に聞いた事がある。

 桜さんはしきりに謙遜していたけど。

 近衛さんとタイプは違うが、奥ゆかしくてまさしく大和撫子といった感じだ。

 

 優しいし、よく気がつく。……衛宮先生がからんだ時だけ少し怖くなるけど。

 

 それ以外は優しい人だと思う。



 ……でも、この人はナゼカ苦手だった。怖いと感じていた。

 

 きっかけは、彼女が寮に入ってすぐの事だろうか? 

 夜、凄い悲鳴が聞こえて。

 何事かと廊下に出ると、神楽坂さんの部屋の前に人が集まっていた。

 皆が話していた事によると、桜さんが悲鳴をあげて寮長のライダーさんがまず部屋に入り。

 次にネカネさんが部屋に入って、桜さんを落ち着けたらしい。

 その後、皆に桜さんは謝っていたけど、その時の様子があまりにも怖くて苦手なままだった。 


 
 その悲鳴が、あまりにも恐ろしかった。




 
 遠い雨9話


  



 深い藍の空に広がる朝の色。その色を赤毛に透かし飛び散る汗。

 いつもの優しい笑顔ではなく、私が好きになった大人びた顔。

 普段の可愛い顔じゃなく頼りがいがあって、真っ直ぐな瞳。

 そんな顔でネギ先生は衛宮先生と戦っていた。

 

 何かの稽古だろうか? 

 よく衛宮先生と稽古してるって聞いたけど。

 

 「………なにしてんのよ。あいつ」

 

 となりで少し不満そうに、神楽坂さんがつぶやく。

 こんなに綺麗な演武なのに、何で怒っているのかわからない。

 まるで読んだ本の中で描かれているような演舞だった。

 古菲さんの中国拳法とも違う綺麗な演武。

 

 なのに、まるで実戦みたいにみえる。

 汗を滴らせて、歯を食いしばり、いつも持っている杖と小さな子供用の竹刀を振るうネギ先生。

 対していつもの優しい笑みじゃなく、どこか馬鹿にした様な酷薄な笑みを浮かべる衛宮先生。

 綺麗な演武の形なのに、衛宮先生の顔はまるでテレビの悪役のようだった。

 思わず見惚れる私達にかまわず、ネギ先生が衛宮先生の短剣を弾き杖で衛宮先生のノドに突きをいれようとする。



 決着はついた。

 ネギ先生の勝ちだ!
 

 


 そう思った瞬間。



 ―――――私の体に“泥のような殺意”が流れた。



 熱いコールタールが鼻から咽を焼き、その後に泥の粘っこさが呼吸を塞ぐ。
 息苦しさ共に体が重くなる。目に見えぬ泥に体が圧迫される。
 横も見れない。前にいるネギ先生も衛宮先生のノドに杖を突きつけたまま固まっている。
 早く空気を………。そう思っていると咽から泥がなくなり、体が動いた。そして………。

 



 「――――ずるいですよ。士郎さん」

 そう言いながら、年相応にむくれるネギ先生がいた。



 「ごめんごめん。でもこのぐらいの殺気にびっくりしているようじゃ、まだまだだな」

 そう言いながらいつもの笑顔に戻ってこっちを向く衛宮先生に、ほっとした。

 先程までの冷たい笑顔じゃなく、いつもの顔に戻ってこっちに歩いてきた。



 

 「今日は随分大勢だな? 桜に近衛に神楽坂、宮崎か」

 「こっちは心臓止まるかと思ったわよ。なんですかさっきのあれは?」

 「うん、なんや急に寒気がしたと思うたら………」

 そう言いながら、まだ少し震えている私達。

 私はまだ喋る事もできない。平気な顔をしているのは桜さんだけだ。

 「スマン。なんかいきなり気配がしたもんでな。つい………」  

 



 先程言っていた殺気を飛ばしたというのだろうか? 

 そんなもの本当にあったんだ。

 本の世界だけだと思ってたのに。
 

 
 
 「先輩と久しぶりに朝食を作ろうと思いまして」

 「うちはその料理を教えてもらえへんかな? とおもうて」 
 
 

 来訪の目的を話す桜さんと近衛さん。2人ともさっきのコトは簡単に流している。

 ココ麻帆良は凄い人が多い。

 二足歩行ロボットどころか、二足歩行恐竜のロボット造る大学の工学部。

 下手したらオリンピック級、どころか自動車並みに早いんじゃないかという学生。


 でも、なにより凄いのが。

 ソレが当然のように認知されていることだ。


 今回の“殺気”も当たり前のこととして認知している。



 超然とした自然体の2人の態度をみていると。おかしいのは私なんじゃないかと思えてしまう。






 「私は………って、遅刻だー!」



 時計をみた、神楽坂さんが叫んでいた。オロオロしたあと。



 「ネギ、あんたのせいだからね!」


 
 ネギ先生に八つ当たり気味に怒鳴って、凄いスピードで走り去っていく。

 いつも思うんだけど本当に中学生なのかな?

 どうしたのか聞くネギ先生に、神楽坂さんは両親がいなくて学費を稼ぐ為にバイトをしている事を話すと。




 「えう、それって大変じゃないですか。士郎さん。僕、手伝ってきます」 




 そう言いながら、衛宮先生がなにか言う前に神楽坂さんと同じくらいのスピードで走り去っていった。

 まだ子供なのに凄い。

 あの神楽坂さんとおなじくらいのスピードなんて。

 




 「――――さてと2人が腹すかして帰って来るまでに、食事を用意しておこうか」

 その言葉で動き出した皆さんと一緒に、私もネギ先生の為に食事を作らせてもらうことになった。




 ◇





 私の後からきたネギに新聞を半分渡し、それぞれバラバラに配っていた。

 地図をひと目見て、全て覚えたアイツに少し嫉妬しながら。………さっきの稽古を思い出していた。



 来た時も思ったけど。アイツは普通じゃない。

 魔法使いだから普通じゃないのは当たり前だけど、でも違う。


 
 まだ10歳のガキ。喋ってみれば(頭のよさを別にすれば)考え方はどこにでもいるガキだ。

 そんな子供が魔法の勉強、学校の勉強。

 更にさっきみたいな“武術の稽古”までしている。


 あんなの絶対、普通じゃない。




 
 魔法を使って“筋力”をあげている子供。

 だから鍛えているのは“神経”であり“業”である。

 成長期には“無駄な筋トレより必要なのは神経を鍛えることだ”とか何とか言ってたけど。

 それだって“キツイこと”には変わりがない。

 
 なんであんなガキが、そんなコトしなくちゃいけないんだろう。

 10歳といえば、遊びたい盛りの子供だ。

 

 そんな幸せに生きられる子供が、なぜ。

 何か目的があるとしても、そこまで無理なんかするべきじゃないと。

 
 ………なぜか、心の奥から。ネギを止めるべきだと。思っていた。 






 ◇




 ネギに手伝ってもらい。仕事を終えた私は、衛宮先生と木乃香、本屋ちゃん。……それに桜さんが作ったご飯を食べにきていた。



 頭には先ほど感じた疑問。

 なぜ、ネギはあんなに頑張るのか?

 
 ソレを考えて、食事をしていた。

 

 だが、考えゴトと食欲は別のようで。 

 美味しい食事に段々と気をとられ、舌鼓をうっていた。

 ………凄く美味しい。美味しいんだけど。



 「桜さん? ひょっとして今まで手を抜いてた?」



 思わずそう聞きたくなる。いつも食べている食事も美味しいけど今日の朝ごはんは別格だ。

 ものすごく美味しく感じる。

 あははー、と笑いながら眼を背ける桜さんをジト目で見る。




 朝食は3人と衛宮先生の合作だったんだが、桜さんがつくったというとろろ芋の味噌汁。

 とろろ昆布のおにぎり(私達が遅くなった時、登校しながらでも食べられるように作ってくれた)

 きゅうりを軽く巻いて串で刺した、一口で食べれる大きさの牛肉のニンニク醤油煮。(もちろん無臭ニンニク)




 ――――どれも美味しすぎる。



 衛宮先生が一緒に食べるというだけでここまで味に違いが出るの?

 これ絶対、衛宮先生と協力したから美味しくなったって話じゃないでしょ。

 本屋ちゃんと木乃香に衛宮先生が料理を教えてたって、言ってたし。



 ってことは桜さんと衛宮先生は、協力して朝食を作ってないってことだよね?

 衛宮先生が食べるから、気合いれて作ったってコト?



 「そ、そろそろ登校時間ですね。急がないと間に合いませんよ」



 私のジト眼に耐え切れなくなったのか、桜さんは食事を急がせようとするけど時間はまだまだ余裕だ。

 向こうで微笑ましく本屋ちゃんとネギが食事してるけど、気にならない。

 不機嫌そうにみる私から眼を逸らせ、それから思い出したように。



 「神楽坂さんも、高畑先生にお料理作ってあげたらどうですか?」

 「いいわよ、どうせ木乃香や桜さんみたいにうまく作れないし」

 

 と、逃げをうって、ネギたちをみると。



 「宮崎さんが作ったんですか? この出し巻き卵。うーん、美味しいです。
 エプロン姿も可愛いですし、宮崎さんをお嫁さんにもらえる人は幸せですね」

 


 そんなどこのホストだ? 
 と聞きたくなるようなネギの褒め言葉を、本屋ちゃんは真っ赤になって聞いている。

 

 ………確かに、あれが高畑先生なら私も本屋ちゃんみたいになるかもしれない。

 料理か。本格的に習おうかな。

 そんなこんなで朝食は終わり。制服に着替える為、私達は寮にもどった。



 

 ◇





 早朝、明日菜さんの新聞配達のバイトを地図を片手に半分手伝った時。

 彼女が凶暴な無法者ではなく苦学生ということを知ってしまった。

 

 魔法使いである事を黙っててもらうってこともあるし、将来マギステル・マギを目指す身としてはなにか力になりたい。

 そう思ってまずは教師らしく、勉強で頑張ってもらおうと授業で明日菜さんに和訳をお願いした。

 

 のだが。意味不明の形で訳してしまったため、皆に笑われてしまった。

 ……いや、僕も笑ってしまったけど。

 だって、あの“和訳”はないと思う。




 でもそのことで明日菜さんは、より怒ってしまったようだ。

 しかも途中、魔力が暴走して明日菜さんの服が脱げてしまった。


 その後の明日菜の怒り顔は………思い出したくない。



 かえって悪い事をしたみたいなので、部屋で落ち着いて考えをまとめる。




 ――――なにか明日菜さんに喜んでもらえること。

 


 そういえばタカミチさんが好きで、惚れ薬が欲しいとか言っていたよね。

 おじいちゃんから昔もらった丸薬セット。これにまほネットの情報を足して………。

 うん。これできっと喜んで貰えるはず。あとはこれを冷凍庫に入れて………。   



 放課後に教室に戻り、明日菜さんに近寄っていった。

 まだ不機嫌そうに、僕をジロリと睨んでくるけどコレを知れば喜んでくれる筈。

 「―――明日菜さん。“例の薬”できましたよ」

 不思議そうなその顔に「惚れ薬」と小さく囁いた。不審そうな顔だけど。

 「大丈夫です。まほネットで手に入れたものですから」

 ちょっとした嘘をついた。手に入れたのは情報だけど、まあ効果は同じだし。

 どこにあるのか聞くので。




 「士郎さんと住んでいる家の冷凍庫にあります」

 そう伝えて、家まで一緒に歩き出した。





 「――――惚れ薬ってどんなタイプなの? 漫画みたいなの?」



 歩きながら明日菜さんは“ホレ薬”について聞いてきた。

 日本の漫画は、あまり読んだ事ないからどんなのか知らないけど。

 例をあげればいいのかな?




 「えっとですね。それを食べた人は最初に見た人を無条件で好きになるって薬です」


 食べる? と明日菜さんは不思議そうな顔をする。




 「見た目はただの粒状のチョコレートなんですが、それが惚れ薬になってるんです。あとはこれを溶かして綺麗な形に調理すれば」

 「――そっか、バレンタインのプレゼントになるってわけね」




 おお、さすが明日菜さん。タカミチさんの事になると理解が早い。


 

 ………授業もこのくらい理解が早いといいな。





 「ネギ………あんた今、凄く失礼なコト思わなかった?」

 「い、いえ。ナニモカンガエテナイデスヨ」 

 しかも妙に鋭い。

 「でも、間違えてパンツ消すような奴が薦める薬じゃ信じられないなあ――――」

 うう、まだ根に持ってたんですね。

 「じゃ、じゃあ最初に一粒だけ僕が食べます。全部で一時間ぐらいしか持ちませんから、一粒なら数分しか持ちません」

 それで効果を判断してくださいと言うと、明日菜さんは納得したように頷いた。

 


 ◇





 玄関を開け、そこには香ばしいスパイスの香りが。今日はカレーかな。 

 「ただいまー、士郎さんいますかー」

 カレーの香りがする台所に行くと。

 「あ、ネギお帰りなさい。神楽坂さんもいらっしゃい」

 

 士郎さんとなぜかネカネお姉ちゃんがいた。

 どうやら今日は、士郎さんとお姉ちゃんがカレーを作っているようだ。



 たかがカレー。されどカレー。

 士郎さんと桜さんのカレーのレシピは異常に多い。

 ホワイトカレー、中華風カレー、スリランカ、バターチキン数え上げるときりがないらしい。


 カレー粉を発明した国として、イギリス人として。

 負けるわけにはいかないと、ネカネお姉ちゃんも幾つかのレシピを提供している。



 更に味を深めるために3人でカレーを研究している。

 本人達はNGOやマギステル・マギの仕事して重要だといっていた。

 災害時や難民。彼らに出す食事は栄養価が高く、どんな宗教でも食べられる食事がいいらしい。



 簡単に言えば汁物、もしくは野菜の食事だ。

 汁物は栄養価が高く、大量に作ることが可能。

 肉や魚が禁止の国でも、別口で野菜だけのものを作ることができる。

 

 美味しくて、簡単で。喜ばれる食事。

 それを目指すのも、立派なNGOの仕事だといっていたのだが。



 ………正直、怪しい。 

 最近はヘルシーカレーが基本みたいだからだ。

 市販のルーを使わず、満足できて………体重を減らせる。

 そんな研究に一生懸命みたいだ。


 どう考えても、NGOよりダイエットが中心な気がする。

 肉や魚が食べられない国ばかりに、NGOがいくわけないし。


 
 でも……なんでダイエットしてるのかは聞かない。



 ……コレは士郎さんと僕の2人の約束だ。

 体重というものは、女性にとって重要で繊細なネタである。

 そして、男にとっては破滅を呼びかねない危険なネタだと士郎さんに教えてもらった。


 ――――君子危うきに近寄らず。
 
 


 だから士郎さんは黙ってヘルシー(ダイエットと言ってはならない)カレーを作り。

 僕は傍観者に徹している。  




 だから今日がその日だとは知らなかった。

 それに用事があるのは、ホレ薬。

 だから2人にはかまわず、冷凍庫を開けると………チョコレート(惚れ薬)が無かった。




 

 「し、士郎さん? ここにあったチョコレート知りませんか?」
 
 知らないと言う士郎さんの横で。

 



 「――――あ、ごめんなさいネギ。これネギのだったの? カレーに入れるのにちょうどいいから使わせてもらったのよ」

 お姉ちゃんの手にあるのは、僕が作った惚れ薬。

 カレーにチョコレートって、士郎さんは美味しくなる隠し味だって言ってるけど、よりにもよって。






 「ネ、ネギ。あれって………」

 無言でうなずく僕に、明日菜さんの顔が青褪める。

 おろおろする僕達に不思議そうな視線をむける2人は、それでも完成したのかカレーをみて。

 
 
 「うん、こんなものかな。じゃあネカネさん味見してみて」    
 
 それをあわてて止めようとしたときには遅く、お姉ちゃんは一口飲んだ後。フラリと座り込んだ。

 


 「――――ネカネさん! どうしたんだ?」
 
 あわてて駆け寄る士郎さんに、ゆっくりとお姉ちゃんが士郎さんを見上げる。ああ、目が虚ろだ。

 そのまま、士郎さんはお姉ちゃんを抱き起こそうと膝をついた。





 「士郎さん……」

 「大丈夫か? ネカネさん。一体どうしたんだ?」

 士郎さんは、ほっとしたのか腕の中のお姉ちゃんを見下ろしている。

 お姉ちゃんは可愛らしく胸元に手を置き、目を見開いて士郎さんを見ている。     


 


 ………まずいよ。


 

 「………」

 お姉ちゃんは何か小さく呟いた。

 「え? なに? どこか痛めたのか?」

 士郎さんは心配そうにしながら、話を聞こうと顔を近づけた。





 「………好きです。士郎さん!」

 お姉ちゃんはそう言いながら士郎さんの首に手を廻し、思いっきり抱きついた。

 「うわ、え、ネカネさん?」 

 あわてて身を引こうとする士郎さんを逃がさないように、お姉ちゃんは右手に腕がらめをかけて、そのまま首に抱きつく。

 


 ………本当に正気を失ってるんだろうか?

 前から首を固めて腕がらめって、以前、士郎さんに教えてもらった古流柔術の投げ技に持っていく技じゃ? 

 


 「ネカネさん!? もう桜が来ますよ! 今日一緒に料理するんだろう?」

 ああ、3人で作る予定だったんですか。じゃあこの寒気は気のせいじゃないですね。

 


 「士郎さん。私のこと………嫌いですか?」

 眼を潤ませながらそう聞くお姉ちゃんに、

 「いや、ネギ君や神楽坂も見てるしそういうことは………」

 言い聞かせながら、士郎さんは一生懸命離れようとしている。

 「………嫌い、ですか?」

 


 ああ、まずい。そんな言い方したら士郎さんは。

 


 「いやそんな事ないけど、俺には……って極まってる! 腕、極まってるって、ネカネさん」



 それでも拒否しようとした士郎さんの言葉を最後まで言わせず、




 「――良かった」

 


 そう言いながら、士郎さんの“都合のいい箇所”までしか聞かず、更に抱きつく。

 僕の後ろから感じる“冷気”に体が震え、隣の明日菜さんもカタカタ震えている。

 うん、その気持ちわかります。でも振り向けませんよね。

 そしてお姉ちゃんは、僕らにかまわずヒートアップする。





 「士郎さ『先輩?』ん」

 ああ、やっぱり。

 「楽しそうですね? 先輩」

 そう言いながら、僕達の間をすり抜け。



 黒い冷気を纏いながら、―――ゆらり。

 と士郎さんに近づき。


 そのまま首に手をかけた。



 



 ◆
 






 「さ、桜? おちつ――――ガッ―――!」



 俺はネカネさんに腕を極められ、身動き出来ないまま桜を落ち着けようとしたが。

 影が首を絞めて声が出せません。



 

 「先輩? 何も言わなくていいですよ。すぐ楽にしてあげますから」



 俺の言葉など少しも聞いちゃいない、桜さん。

 クスクス笑いながら、その目は決して笑っていない。
 
 嗤い声に反応するように、少しづつ締まっていく俺の首。


 言い訳どころか、声が出せそうにありません。



 まずい。本気で殺されるかも。





 「あ、あれ? 私なんで?」


 現在進行形で命の危険に怯えていた俺の前で、ネカネさんの様子が劇的に変わる。

 自分が何をやっているのか、分かっていないようだ。

 何事か呟くと。


 

 「―――きゃ、す、すいません。士郎さん」
 
 正気に戻ったのか、あわててネカネさんは俺から離れた。

 

 「良かった。少量だから効き目がすぐ無くなったんですね」




 ――――ピクリ!


 ネギ君が発した不用意な一言に、反応する桜さん。

 “しまった”という顔して逃げようとするネギ君の足に絡まる黒い影。

 なぜか一緒にいた、神楽坂も捕まっています。

 


 「――――ネギ君? どういうことかしら?」

 黒い影を纏いながらにじり寄る桜に、ネギ君と神楽坂はブルブル震えながら説明を始めた。





 ◆


 

 「なるほど神楽坂を喜ばそうと思って、惚れ薬を………」



 今、ネギ君はネカネさんと桜に怒られている。

 惚れ薬は本当は違法だと知らず、ネギ君はかなりのショックを受けているようだ。(まあ、俺も知らなかったが)

 


 だが冷静になればどう考えてもまずいということは、わかりそうなもんだが。

 戦闘ばかりで一般常識を教えなかった俺のせいか?

 さんざんしぼられて、ふらふらになったネギ君は自業自得だから無視するとして。




 「どうするかな? この大量のカレー」

 せっかくネカネさんと俺で作ったカレー、これから桜も混ざってサイドメニューも作る予定だったのだが。

 しかし、こんな危険物を食べるわけにもいかない。

 やっぱりもったいないけど捨てるべきだろう。

 そう思って鍋を持つと。




 「先輩? なにしてるんですか?」

 「いやなにって、危険物を処理しようとしたんだが」

 「先輩知っていますか? 今、現在どれくらいの人が餓えているか」 

 


 ………う、そう言われると弱い。

 マギステル・マギの手伝いとしてNGOの手伝いをした事もあった。

 そのたびに、医療品と食材の確保には泣かされた。

 戦闘より、少ない食材をどうやって分配するかに頭を悩ませたものだ。




 「―――毒物でもない食物を捨てるなんてバチが当たります」 



 桜の言い分は正しい。

 基本的には美味しいし、毒であるわけでもない。

 あの頃に比べれば、コレを残すなんて許されない。




 だがな桜。こんな危険物、誰が食べると………。まてよ?




 その事実に気がついた俺は、そのままダッシュで裏庭から脱出を試みようとする。

 桜の微笑みでなにをするか分かった。

 コレはまずい!



 

 「―――フィッシュ!」





 無理だった。瞬殺だった。影に捕まった俺は椅子にそのまま縛られる。

 「先輩。幸運にも、ここには惚れ薬を使っても問題ない人間が2人もいますよね♪」  

 やっぱり、そういうオチか?

 「というわけで、私達で食べちゃいましょう♪」

 そういいながら桜さんは満面の笑みで近づいてくる。

 ってネカネさん? なに神楽坂とネギ君を外に連れ出そうとしてるんですか?

 なんですか? そのわかってますよ、って顔は?

 


 桜も落ち着け。こんなことしなくても、お前との関係に間違いは無い。

 それにいくら恋人同士とはいえ、薬でというのはまずいだろ?

 「先輩? 私と食べるの嫌なんですか?」


 一旦俯いた後、桜は俺を見上げる形で『駄目ですか?』と不安そうな瞳を向けてくる。

 ああ、可愛いよチクショウ。

 最近の桜はこんな搦め手まで上手くなっている。

 こんな顔を惚れた女にされたら、男なら絶対頷いてしまう。



 

 ―――だけど俺は見逃さなかったぞ。



 俯いた時、歪にゆがんだ“口元”を。桜。



 ――――それ絶対に演技だろ!    

 

 だが、演技とわかっていてもそんな表情をされては、男である俺に選択肢は無い。

 ネギ君を恨みつつ、俺は覚悟を決めることにした。






 ◇ 






 家から連れ出された僕達は、ライダーさんの住む管理人室の前で正座をさせられていた。

 首から“ただいま反省中につき話しかけないでください”と書かれたボードをかけて。

 廊下を歩きながらこっちを見る、皆さんの視線が痛い。

 ある程度、人が廊下から消えると、



 

 「ネギ、一つ聞いていい?」

 明日菜さんが退屈しのぎに、という態度で聞いてきた。

 「あんた、なんでそんな一所懸命なの? 今朝の稽古、どう見ても10歳の子供がするような稽古じゃなかったわよ?」

 

 返答に困っていると、

 

 「それに今回の惚れ薬だって、他人事じゃない。魔法の法律を破ってまで、私の為にする事じゃなかったんじゃない?」

 「ぼ、僕は明日菜さんの先生ですし、それに困っている人を助けるのがマギステル・マギの仕事ですから」

 「それだけ? それだけで遊びたい盛りの子供が、朝から大人相手にあんな稽古する?」

 


 明日菜さんは、不審そうというより不機嫌そうな顔で僕を問い詰める。

 士郎さんとの稽古。

 士郎さんにも、頑張り過ぎないように何度も言われたこと。




 でも、それに対する答えを僕は一つしかもっていなかった。 







 それは多分、僕にとってのだいじな記憶。はじめてのお父さんとの出会い。

 「……実は僕、憧れている人がいるんです。……ただ皆はその人は死んだって言います。でも僕にはあの人が死んだとは思えない」

 いまでも眼を閉じれば思い出す。茜色の空。

 「あの人は千の魔法を使いこなす最強の魔法使い“サウザンドマスター”世界を旅しながらたくさんの不幸な人たちを救ってるんです」

 この杖と共にかけられた言葉を。その背後で炎に包まれた村を。 

 



 「だから僕はあの人のような立派な魔法使いになりたい。そうすればこの広い世界のどこかであの人に会えるかも知れない」 



 父さんと士郎さんの戦いを。その時感じた悔しさを。

 何もできなかった自分。

 見ている事しかできず、父の姿を求めるだけで。なんの努力もしなかった。




 「――――だから、あの人と共に戦った士郎さんに稽古をつけてもらってるんです」



 だから、せめて。

 あの時の彼のように。

 いつか父さんの横で戦えるように。






 ………明日菜さんは怒ったように顔を赤くした後、髪の毛をクシャクシャとかき混ぜ、

 「ふ、ふん。ガキのクセに言うじゃない。まあ今回の事じゃ迷惑かけたし、私の不用意な一言から騒動になったみたいだし………」

 なんだか声が小さくて聞き取りづらい。

 「あ、あの明日菜さん?」

 しばらく俯いた後、

 「だからマギステル・マギっていうの目指すんでしょ。あの無茶な稽古もその為に必要なのもわかったわよ」

 なにが言いたいんだろう?

 

 「とりあえず、その為には先生をうまくやんなくちゃいけないんでしょ。協力するわよ………出来る範囲で」

 そう言いながら、明日菜さんは赤い顔のまま。僕の頭をクシャクシャと乱暴にかき混ぜた。

 ただ乱暴なそのしぐさにも、どこか暖かい明日菜さんの優しさを感じていた。






 ◇






 ネギ達を外に正座させて、ライダーさんと向かい合ってお茶を飲んでいた。

 今頃、桜さんと士郎さんは仲良くしているのだろうか。

 半分諦めているとはいえ、やはり少々辛い。
 
 


 「……カネ?」

 でも、きっと必要な事。

 


 「ネカネ? 聞いてるんですか?」

 「ごめんなさい。ライダーさん。なんのお話でしたっけ?」

 


 ライダーさんは少し溜息をついた後、

 「良かったのですか? あの2人をあのままにして」

 不思議な事をいう。

 「ライダーさんはあの2人が仲良くするのは嫌なんですか?」

 彼女は静かに首を振った後、

 「いえ、私が不思議なのはあなたの態度です」

 そう言葉を続けた。

 


 「私は最近まで、あなたは……士郎を心配し。同時に焦がれていると思ってました」

 

 確かに、最初はその気持ちから始まった。

 誰より優しくて、歪な人。

 桜さんが誰よりも大事で、同時に。……自分が嫌いな人。

 他人を救うのに、躊躇しない。
 
 桜さんが大事で、次に他人が大事で。……なにより、自分が嫌いで。

 その歪さに惹かれ、そしてその身を案じていた。


 

 「ですが、士郎をあなたの方に振り向かせる方法としては少々、問題が多い」  
 
 ―――でもそれだけじゃいられないとわかった。

 「あなたは士郎と2人の時に言い寄る事はないが、桜がいる時だけ狙ったように言い寄る」

 “桜さん”を知ってしまったから。

 


 「それでは上手くいくはずがない。なのにそれをくりかえす。なにを考えているんですか?」

 それは言えない。桜さんとラインが繋がっているライダーさんには。

 「何のことですか?」

 とぼける私に、






 「―――最近、桜が夜にうなされなくなった事と関係があるのですか?」

 そうライダーさんは核心を突いてきた。

 正直、彼女を侮っていたのかもしれない。





 「前に話しましたね。向こうの世界でまだNGOに入る前は、桜がよく夜にうなされていたと」

 桜さんは過去、罪を犯しその罪を悔やんでいると知った。

 その罪から良心が痛み、夜になるとよくうなされると士郎さんが言っていた。


 士郎さんと離れ、ココ“麻帆良”にきた時。また、うなされていた。

 過去の恐怖、己が成した罪。……全てに怯えていた。 

 

 士郎さんはそれを桜さんのせいではないと言い続けたけど。




 「向こうの世界でNGOに入り、夜にうなされることは少なくなりました」 
     
 それも聞いていた。それに似た症例を知っていたから。

 

 「しかしこちらの世界に来て数日、桜は何度も発作のように夜になるとうなされました」

 それはしょうがない、心がまだ罪を感じ続けているのだから。

 急にストレスから解放されたから。
 
 



 「そして4年前、士郎のプロポーズを凛が来たら受けると言った頃から一時発作が酷くなりました」

 沈黙を通す私に彼女は、

 「その頃からです、あなたが士郎の心を思いやって桜に辛く当たり、士郎に言い寄るようになったのは」

 確かに、あの頃はなにより士郎さんが大事だった。

 「そして同時に。桜が夜にうなされることが無くなりました、更に士郎と会えなかったこの数日。桜には発作が起こった」

 偶然の一致でしょうか? 
 
 そう聞く彼女に、私は答える言葉を持っていなかった。

 私も最初は士郎さんだけを見ていた。

 でも、気がついた。桜さんが昔の患者さんに似ていると。







 「――――質問を変えましょう。桜のなにを恐れているんですか?」

 私は短く息を一つ吐くと、

 


 「いつ、気がついたんですか?」

 そう聞いた。これは知らなくてはならない事。桜さんが不審に思わないように。

 


 「最初に言ったとおり桜の前でしか士郎に近づかなかった事、しかしその方法は桜を挑発するだけで、
 士郎の気持ちを振り向かせるものではなかった。―――そしてあなたは白魔法に長けている」

 



 黙っている私に彼女は言葉を続けた。




 「そしてこの前、桜は。あなたが「士郎の妾になる」という言葉に怒り。愚痴を言いに来ました」

 そうなんだ、少し安心した。

 


 「桜が士郎以外の事で私に愚痴をいうなど無かった。彼女はいつも“悪いのは自分だ”と思い続けている所がありますから」 

 確かに桜さんは自責の念が強すぎる。まるで、その罪を自分に刻み付けているように。

 そして“この病”は、そういう人がよくなりやすい病。

 自分の怒りを外に向けてガス抜きできない人。

 でもガス抜きできるようになったのなら、まずは一安心だ。






 「その桜が愚痴を言うほどに士郎を強く思っているはずのあなたが、先程はすぐ身を引いた」

 やっぱりあの時か。ネギにお仕置き増やさなくちゃ。





 「あの時、惚れ薬が切れたのは本人しかわからないはずなのに、あなたはそのまま士郎に抱きつくことなくすぐ離れた」




 ――――本当に、士郎を愛しているのなら。そのままでいることもできた。……にもかかわらず、貴女はすぐ離れた。



 ライン越しに見ていたのか、霊体化していたのか。

 ソレはわからないけど。

 あの時の様子を見られたのでは黙秘は無理かな。

 黙秘を続けたい所だけど、

 


 「話していただけませんか? 大丈夫です。ラインで繋がっているとはいえ、桜に隠すコトくらいは出来ます」

 そう強くうなずくライダーさんに、かつて経験した患者さんの事を名前を伏せて話し始めた。

 これから先、協力者が必要になるコトを考えて。

 


 ◇



 私は以前に白魔法の修行として、医者として振舞う“白魔法使い”と共にすごした。

 外科や内科だけでなく精神科医の人もいた。

 その中で知った事がある。

 


 ――――人は不幸、不運だけでなく“幸福”にもストレスを感じるということを。

 

 マリッジブルーという有名な言葉から始まり。

 子供が独り立ちし、やさしい嫁と可愛い孫に恵まれた女性がうつ病になるという話もある。

 また少しケースは違うが、宝くじに当たった人は早死にする確率が高いという統計もある。

 今まで苦労してきた人ほど、突然の幸運や喜びでストレスを感じ、精神のバランスを崩してしまう。

 これが過去に罪を犯した人はより顕著に現れるようだ。

 

 

 ――――その患者さんは女性だった。

 彼女は過去、大勢の男性と不倫の関係にあったがその後、理想的な男性と結婚した。

 男性は彼女より少し年上だったが、優しく経済力もあり。とても幸せだった。

 だが、彼女の幸せは。


 ………夫に過去をばらすとおどかすストーカーによって、壊されようとしていた。

 そして、表向きは精神科医だが実は白魔法使いである、私の魔法学校の先生に相談に来たのだ。

 過去つきあった、もしくは不倫した男性が自分の幸せを壊そうと“ストーカー”になって私を脅かしていると。

 だからそのストーカーを診断して、ストーカー行為をやめるように説得して欲しいと相談に来たのだ。





 ―――だが、現実は違っていた。


 そもそも、ストーカーの捜査など警察の仕事であり精神科医の仕事ではない。

 なのに……精神科医に“相談”をしにきた患者。



 これに、先生は疑問を持ち調査を開始する。

 結論から言えば、捜査自体はとても簡単だった。



 なぜなら。―――“ストーカー”とは、患者である“彼女”自身であったのだから。


 

 不倫をしていた“過去”を隠し。

 幸せな生活を送る彼女は優しい夫に恵まれ、とても幸せだった。

 そしてその幸せに、彼女は耐えられなかった。

 


 自分の罪と夫に対する引け目から、自分を“汚れた存在”と思い、過剰なストレスを感じたのだ。

 彼女はストレスから二重人格となり、自分の過去の不倫などの経歴を自分に送り続けた。

 自分をストーカーする“犯人”の人格。

 それがストーカーの正体だった。

 露悪趣味とでもいえばいいのだろうか?

 



 彼女は自分の汚れた過去を夫に話し、楽になりたいと思う一方で。

 夫にだけは知られたくないと思い続けた。



 ……その狭間で精神の均衡を崩してしまった。

 そして、存在しないストーカーを作り出してしまった。

 



 そして“存在しないストーカー”は捕まえられない。

 

 彼女にあなたは二重人格で、あなたのもう1人の人格がストーカーだ。

 という事実を彼女に伝えるのはさすがに酷だ。




 ――――故に先生は。

 夫に全てを話し、妻の為に“存在しないストーカー”になるよう依頼した。

 


 あなたの妻の為に泥を被って欲しいと。彼女の為に“彼女に軽蔑されて欲しい”とお願いした。
 
 夫はそれを了承し、妻に不倫の過去の写真などを送り続けたのは自分だと妻に懺悔した。

 完璧だと思っていた夫の醜い(作られた)真実の姿。弱い人間。

 


 その事により、夫の弱い一面を見せられた妻は安心して。

 “夫を許す”という行為により、夫に対する“劣等感”から解放され副人格が消えた。



 ――――――自分だけが“醜い人間”なのではない、彼も。夫も“醜い人間”だった。


 ソレを知った、副人格はいる意味をなくした。
  
 彼女の副人格、それは“自分だけが醜い過去”を持ち。

 彼に対して劣等感を持ち続ける故にできた“副人格”



 劣等感がなくなった以上、彼女に。……副人格がいる必要はなくなった。



 その後、夫に浮気をしたように見せかけるなどし、彼女のコンプレックスを刺激しないように行動するようにお願いした。

 夫が完璧であると“汚れた過去”のある妻がストレスを感じる。

 そのストレスを軽くする為に“完璧でない夫”を演じてもらう。

 これが、過去の治療が成功した症例だ。





 ◇


 

 話が終わった後、

 「彼女は単なる不倫だけでした。しかし桜さんが“犯した罪”それに今まで受けたという“幼少時の虐待”」

 これから導き出される答え。

 「“多重人格障害”になる可能性がありました。そしてそれによる魔力の暴走も」


 



 ――――多重人格障害。

 それは、特に幼児期に性的虐待などの強い心的外傷から逃れようとした結果。


 解離により個人の同一性が損なわれる疾患。

 桜さんは私が知っているだけでも、幼少時にかなりの虐待を受けていた。

 そして、過去。かなりの罪を犯した。

 これだけで多重人格障害になる要素は持っていた。過去の症例より、厳しい桜さんの状況。







 ――――だが、そこから士郎さん達が救い出した。

 それにより、桜さんの士郎さんに対する思慕の念と劣等感はより強くなる。
 
 不倫したという“彼女”より、桜さんはより己を“汚れている”と感じているに違いない。




 身の穢れ、自分が犯した罪。

 それに罪悪感を感じ、行き場の無くなった思い。

 それに拍車をかけてしまうのが“士郎さん”の存在だ。

 弱い者の味方で、桜さんだけを愛し。

 汚れた心が無いのではないか? と疑いたくなるほど優しく歪な人。







 ―――その優しさが桜さんを追い詰める。

 桜さん自身が今を幸福と思えば思うほど、自分が汚れている事を感じ。“過ぎた幸福”にストレスを感じる。

 

 過去の症例では夫に“悪役”をさせ、その後“浮気のふり”をさせるなどで妻の副人格は落ち着いた。




 ――――だが、士郎さんにはそれが出来ない。

 演技だといい含めようと「桜が傷つく事なんてできない」その一言で終わるだろう。

 桜さんがストレスを感じているのは“過ぎた幸せ”。

 それを失う“恐怖”なにより桜さんからみて、綺麗過ぎる士郎さん。

 

 綺麗な士郎さんに、自分はふさわしくないのではないかという“劣等感”。 

 全てが桜さんを追いつめた。 




 「―――――だから、ですか?」

 「他の方法もあったんですが………」

 


 桜さんからみて、士郎さんに劣等感を抱かせなくする事。

 これが過去の症例からみて一番の特効薬。

 桜さんに誰か男の人が言い寄り、士郎さんがやきもちを焼く。

 そして士郎さんが桜さんに対してストーカー行為をする。

 それにより桜さんが士郎さんを“弱い人間”と認識し、自分が“愛されている”と安心し、士郎さんの罪を許す。

 


 こんな方法がベストだった。

 だが、桜さんは士郎さんに“依存しすぎる”ほど離れない。

 あれでは桜さんに言い寄る男性はいないだろう。




 そして桜さんが自分を頼っているのが解るから、士郎さんは嫉妬とは無縁でいられる。



 ――――それが桜さんを追い詰める。




 自分を“汚れている”と感じている桜さんにとって、士郎さんの優しさ、困っている人を助ける心、桜さんを愛する気持ち。

 全てが幸せだから、汚れている自分にとってあまりにももったいなくて。

 だから夜になると桜さんの無意識の良心が、彼女を責める。

 



 ―――“幸せ”すぎるから。


 

 桜さんにとって“幸せ”とは必ず失われるもの。
 
 そんな筈はないと自分に必死に言い聞かせながらも。
 
 


 ……こんな自分が幸せになって良いのかと。

 士郎さんにはもっとふさわしい相手がいるのではないかと。

 その重圧に何時負けてもおかしくなかった。

 


 今までが不幸すぎたが故に、与えられた幸せが怖くて。

 



 ……だから必要だったのだ。幸せになる為のリハビリが。

 ヒントは、NGOなどに参加した時、夜にうなされなくなった事だった。

 


 今、現在。

 身の危険もしくは軽いストレスを感じていれば、幸せと感じすぎず悪夢も見ない。

 かといって、いつも戦いの中に身を投じるわけにはいかない。

 ならば桜さんにとって、一番大事な人をとろうとする“恋敵”が現れたらどうなるだろうか?

 



 結果は予想以上だった。

 元々、士郎さんは女性に優しい。だから近づく女性もいる。

 女性に言い寄られても、桜さんを愛する士郎さんは……けっして浮気をしない。

 だがそれを見ている桜さんは違う。



 どうしても士郎さんに嫉妬し、そして士郎さんが裏切らない事実を知って。

 自分の嫉妬心を“醜いもの”として、自己嫌悪してしまう。これでは意味が無い。 




 では、2人の仲を祝福しつつ、士郎さんの身の安全を得る為に言い寄る“恋敵”ならどうだろうか? 

 桜さんは嫉妬しつつも、決して自分を卑下しなくなった。

 自分も士郎さんの心を守ろうとしているから。

 


 だから私に怒りを感じストレスを感じても、士郎さんを守ろうとする同志として認める心も生まれる。

 それが、今現在。桜さんが安定している理由だ。




 元々、私は誰かを傷つけ、誰かを守るたびに傷つく士郎さんの心を護りたかっただけだ。

 だが。士郎さんに近づき、桜さんの心の傷を知ってしまった。




 そして2人が互いに強く心が通じ合っている事も。

 それゆえに桜さんが以前経験した患者さんのようになっている事も。

 だから、





 「士郎さんが幸せになるために、桜さんの心の傷を癒すのを優先させただけです」

 桜さんは過去の罪で贖罪したいと思っているかもしれない。
 
 でもその根っこには士郎さんがいる。  

 


 ――――士郎さんに嫌われたくないから。



 でも傍にいると自分の汚さを意識してしまって怖くなる。

 だから、自分も……人を助けようとする。

 でも士郎さんほど、無私に人助けなんか出来ない。

 そこにストレスを感じる。




 桜さんと“彼女”は違うけど。でもあまりに危険に見えたから。




 「だから桜を助ける為に嫌われ役をすると?」

 そんな気はなかった。

 隙あらば士郎さんと一緒になりたいというのが本音だった。

 でも、結婚を申し込まれた時の桜さんが。


 幸せなはずなのにどこか悲しそうだから。




 「結婚した時、追い詰めすぎないようにちょっと負荷をかけたんです」

 桜さんは4年前、士郎さんに結婚を申し込まれた時。


 
 何時来るかわからないお姉さんを引き合いに出して答えを遅らせた。

 何より望んでいたはずの士郎さんとの結婚。

 それによるストレスを無意識に恐れて。

 

 自分は士郎さんにふさわしくないという恐怖、罪を償わず幸せになる事に対する良心の呵責。

 
 
 
 だから、

 「結婚しても、すぐ幸せにはならないと脅かしたんですか」

 ライダーさんが呆れたように溜息をつく。

 だが、他に思いつかなかった。



 ――――士郎さんに安全な生活をさせ、桜さんのストレスを防ぐ方法を。

 いきなり幸福になるとストレスを感じるなら、適度に不幸になるようにストレスを感じさせる。

 料理のスパイスのように。

 例えるなら、スイカをより甘くさせるために塩を振りかけるようなものだ。






 「ネカネ、いつまで続けるんですか?」

 「桜さんが自分に自信が持てて、士郎さんに劣等感を感じなくなるまでですね」






 心配そうなライダーさんの言葉に、そう答えるしかない。


 以前の患者さんは、根気よく診察して。さらに“夫の協力”があったから順調だった。

 彼女の劣等感を刺激しないように。夫に浮気を臭わせる事までして。

 


 でも今回、士郎さんの協力は期待できない。

 士郎さんに浮気の真似事をしろといっても無理だろうし、どうみても彼は嘘が苦手だ。

 士郎さんが桜さんの為に演技をしていると、桜さんにばれたら桜さんはより自分を追い詰める。




 ―――――だから、士郎さんを狙っている恋敵が必要なんだ。

 桜さんが、今の幸せは自分にはもったいないと思わないように。

 幸せすぎて自分を貶め“無意識の自傷行為”にはしらせないために。




 「―――――ネカネ。なぜそんな事をするんですか?」

 なぜそんな事するかなんて、答えは決まっている。

 「手に入らない男性とその恋人。別にネカネが悪評を立ててまで守る必要はないと思いませんか?」




 ………悪評なんて気にしない。
 
 必要なのは、私が私自身の生き方に誇りが持てるかどうか。
 
 「それに「ライダーさん、知ってますか?」………は?」

 ライダーさんの言葉を遮り、私は。






 「――――私は“マギステル・マギ”を目指してるんですよ」

 



 そう思いを伝えた。

 私は、士郎さんのように弱い人を護る盾になれない。弱い人を護る剣も振るえない。

 石になった人の“解呪”なんて出来ない。

 桜さんのように、ライダーさんのような強力な使い魔を使役できない。

 膨大な魔力を使って、修復不可能と思える傷を治す事もできない。







 「困っている人を救うのが、マギステル・マギなんです。―――だから」

 でも、それらをおこなう事ができる彼等の心を救う事は出来る。

 


 多くを救う事は出来なくても、多くを救うであろう2人を救う事。

 それが私の誇り。ナギ・スプリングフィールドの血縁として、私なりのマギステル・マギへの道。

 だから「このことは2人だけの秘密にしてください」と約束させた。

 この事は2人の秘密。

 


 この事実を知って桜さんが、私にまで劣等感を持ってストレスを感じてはいけない。
 
 あくまで違う方向に、ストレスのベクトルを向ける。

 


 劣等感ではなく、怒りに。士郎さんを思う優しさに。

 あの患者さんのように、病気を発症させない。

 桜さんは発症したら、魔力の暴走ではすまない可能性がある。だから守る。彼女達にわからないように。

 桜さんの為にも、士郎さんの為にも。

 


 ―――――これが出来るのは近くにいる私だけ。

 異世界から2人が来た事を知っていて、桜さんの心の傷を知ってる白魔法使い。

 

 士郎さんの心を護り、桜さんの心を護る。

 あの2人が成し遂げるであろう事が出来ない、私なりのプライド。

 


 大戦の英雄サウザンドマスター。多くの不幸な人をすくったナギ・スプリングフィールド、彼の血縁として。

 スプリングフィールドの家名を汚さない為に。私自身の誇りの為に。




 士郎さんには“解呪”の専門家として平穏な暮らしをして“立派な魔法使い”となって欲しい。

 桜さんには士郎さんと平穏な暮らしをしてもらいながら、過去のトラウマに悩まない人になってもらう。

 そして、その膨大な魔力で治療の魔法使いとして“立派な魔法使い”と呼ばれて欲しい。

 


 何の力もない私だけど。

 そんな私でも、かれらの心は救えるはず。



 ―――――だって私は、彼ら“立派な魔法使い”を救うマギステル・マギになるんだから。





 



 
<続>


感想は感想提示版にお願いしますm(__)m





 考察という名のあとがき

今回出てくる二重人格の女性は某精神科医漫画サイコドク○ー○恭介のファイル12「追いか○られる女」を参考にしてます。
(元ネタ知らない方ごめんなさい)
あくまで私の意見ですが、HFルート後の桜は夜、うなされて起きるSSが結構あると思います。
そしてその理由は、罪に怯えるのと同時に士郎に対する劣等感ではないだろうか? と思いました。
サイコドク○ー○恭介のファイル12は、夫に対する劣等感をもった罪を背負った妻という話です。
彼女の劣等感を無くす為、夫に同じような罪を持つように演技をさせる。これが精神科医が行った治療です。
当初、士郎に浮気の演技をさせる予定でしたが、どのSSでも演技が下手な為、断念。
このため、白魔法が出来るネカネさんに登場していただきました。
白魔法が使えるということは、多少、一般医療にも詳しいと思い、
あまりに幸福になりすぎると今まで報われなかった分、反動でストレス障害を起こすという精神科医の話をくわえました。
桜は幸せすぎると、失う事を恐れそれを補うのは士郎の愛というのが普通ですが、
サイコドク○ーを読むとそんな簡単な事ではないと思い、桜を陰で支えるネカネさんに登場していただきました。
桜が士郎に劣等感を抱き壊れそうになるのを止めるには、士郎が汚れて桜に安心感を与えるか、
士郎の事を想うあまり、士郎の誓いを汚そうとする恋敵の存在を作る。
これにより桜が過去の罪、士郎への劣等感を考えなくさせる。
これがこのSSなりの、桜を幸せにする為のリハビリ第一弾です。

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