「燃えよ拳? 前編」
両側を建物の壁に挟まれた、人がすれ違うには難しそうな幅しかない路地裏で、俺はただぼーっと空を見上げていた。
身を刺すような冬の寒さが和らぐ気配は見えないが、それでも、これから春に向けて暖かくなっていくであろうと予感させる鴇色の空。
勝手に春が近付いきていると感じているせいか、どことなく暖かみを感じる色で塗られたキャンバスを、数羽の渡り鳥らしき影が過ぎっていった。
こうして落ち着いた心持ちで周囲を見渡せば、四季の移ろいというのは案外、わかるものである。
どことなく文学的というか、何かそういう感じのことを考えて、そろそろ現実に帰還することにした。
「君らもさ、こう……青春のパトスや、十代特有の溢れんばかりの元気が有り余ってるのはわかるけど。……もう少しまっとうな方向で解消しようや」
「うぅぅ……」
「痛ぃ〜」
「ままぁ……」
大きくため息をつき、心洗われる夕暮れの空から、下手すると咳き込んでしまえる埃っぽさに満ちた路地裏の地面へと視線を移す。
赤・青・黄(金?)・白……何ともまあ、個性的で色鮮やかな髪色をした、俗に呼ぶ不良――あー、でも、うちのクラスの連中も桃色・紫・水色・緑と、たいがい個性的な髪の色してるしな……色鮮やかな髪色だから不良、と呼ぶのは止めておくか。
視覚的な色の違いで差別するのはいかんと考え直し、すぐに代わりの呼び方――戦隊物な方々に語りかける。
「煙草吸うのも酒飲むのも、個人で好きにすればいいさね。それを人に強制したり、我を失って暴れたりしなけりゃ。でもさあ、そういった形で発散できないストレスやらを、人に絡んで解消しちゃおうってなぁいただけないな」
今日も一日、しち面倒くさい教師の仕事を全うしての帰り道。
やっと気を抜けると、最近凝り気味な肩を回しもって歩いていた俺を、ちょうどいいカモだと思ったのであろう。
無駄に手際良く路地裏まで連行してくれた、染髪戦隊カラーズ(頭の色が鮮やかだから、そう命名した)を恙無く打ち破り、しみじみと呟いた俺に言葉を返す者はいなかった。
「……何でだろうなー? こっちが被害者なのに、地味にこちらが悪いことをした気分だ」
石の床でも横になると眠くなるのか、完全に動きを止めて沈黙しているカラーズを見下ろし、ポリポリと頭を掻く。
人気の無い路地裏にて、彩り鮮やかな『色物』達の屍(死んでないけど)に囲まれて立ち尽くす己の姿というのを鑑みて、思わず顔を顰めた。
どう考えても俺が加害者です、ハイ。
「こんなところをネギやガンドルフィーニ先生に見られたら、きっと文句言われるんだろうな」
我が御主人である、赤毛で小さい丸眼鏡をかけた少年や、刈り上げた短髪に堅物っぽい四角眼鏡をかけている、「悪い人じゃない」な黒人教師の姿を思い浮かべる。
まあ、罪というのは露見して初めて罪になるわけで。バレなきゃ大丈夫だろう、と適当に判断しておく。他にもバレると恐い人がいるんだけどねー、褐色肌のシスターとか。
ブルッと体を震わせて、「くわばら、くわばら」と口の中で繰り返し転がす。
「とりあえず、帰って夕飯でも作るか……」
軽くとはいえ少し運動したせいか、いつもに増して空腹を訴えるマイストマックを宥め、染髪戦隊カラーズを残して路地裏を出る。
「あー……そんなとこで寝てると風邪ひくから、家に帰って寝た方がいいぞー」
「ぃ、ぃや……できれば、救急車を〜……」
去り際、後方を振り返って心ばかりの言葉を残しておいた。何か呻き声っぽいものが聞こえたけど、たぶん空耳であろう。
まあ……あと一時間もすれば、歩けるぐらいには回復するだろうし――いい薬になったらなったで、後々怪我の巧妙だと笑えるかもしれないし。
それっきり、染髪戦隊カラーズのことは意識から切り離して、夕食は何にするかを考えだした。
「何食べよっかなあ……」
俺一人なら、適当に漬物と味噌汁に丼飯、気分によっては卵をセットにして食す、でもいいんだけど。間借りさせてもらっている、ロフトの持ち主な少女二人を思い浮かべ、細いため息をつく。
「飽きさせず、バランス良い食事を作るのって難しいねえ〜」
カロリー、栄養、味の好み……世の給食のおばちゃんを尊敬してしまう、とある夕暮れの一幕であった――――
――――で、次の日の夕方。
拝啓 あの世のじいちゃん、ばあちゃん、それとヌイ。
そちらはお変わりないでしょうか?
胸中で、すでに故人となってしまった家族の顔を思い浮かべつつ、俺はそっと天を見上げてみた。
現在、午後十七時そこらを過ぎたところ。時間が時間なので、日もだいぶ沈んでしまっていたが、空の端っこの方は、昨日と同じように温かそうな鴇色を残していた。
一番星……ではないが、空を見上げて目に入った一等星にぼやいてみる。
早く春になってくれないかなー。寒いのは嫌いじゃないけど、とりわけ好きというわけでもないので。
やっぱりさ、春の方が何かと気が楽なんだよね。散歩するにしろ、どこか屋外で昼寝するにしろ――
「さあ、ジロー先生! 私と勝負するアルヨ!」
「あー……何故に?」
夕飯を作るのが面倒くさく、かと言ってロフト主たる少女二人に夕飯を作らせるわけにもいかず(何が楽しくて、一日の締めになる食事をレーション、あるいは質素な一汁三菜で済まさねばならぬ?)、ここは一つ超包子のお持ち帰りセットを買ってこようと出かけた先で、突然にストリートファイトを挑まれるにせよ、だ。
彼此、一年近く前になるのだろうか。真偽の程は定かではないが、クシャミのせいで術式が吹っ飛んで、ロシアンルーレットみたいな状態になった召喚魔法で喚ばれて以来……やれ使い魔だ、特別メニューで特訓だ、腕試しだ、通り魔だと、刺激的なイベント盛りだくさんだよ、オイ。
『ピーピーッ♪』
『がんばれー、菲部長ー!』
『ぶっ飛ばせー!!』
男は家を出たら、敵が最少で二十人はいるって教えられたけど……世の中敵だらけだよ、ヌイ。
周囲にたむろっている観客の応援が、目の前の褐色肌で功夫服を着た少女にしか向いてないことに、ほんのちょびっとだけ悲しさを覚えた。
かと言って、応援されても困るんだけどな。少なくとも俺は、ストリートファイトなんてしたくないし。
視界の先で鼻息荒く構えている、肩口ぐらいに伸びた金髪の両サイドを、毛玉みたいな髪飾りで房に結っている、碧眼で健康そうな小麦色の肌をした少女――独特な「アルアル」のイントネーションと、民族色豊かな功夫服からもわかるように、中国からの留学生なクーフェイ(古菲)嬢に尋ねてみる。
「えー、出席番号十二番の古菲さん? 教えて欲しいんだけど、何故に勝負とか叫んで、夕飯の買出しに来た俺の前に立ちはだかっているのかな?」
「決まてるアル! ジロー先生が強そうだからアルヨ!!」
願わくば、「奴がどれだけ強いのか……それを見極めたい」的な、興味本位の行動ではありませんように、と祈った俺を露ほども思いやらず、クーフェイ嬢は目を輝かせて即答してくだすった。
ため息まじりに、お願いだから勝手に決めないでくれと嘆き、再び空を見上げる。
胸中でだが、とっぷりと暮れてしまった紫がかった空に向けて、右から左、上から下と指で十字を切って吐き出した。
(天に在す我らが神よ…………あんた、ちょっと面貸せ)
こんなことを言っていると知られたら、また教会に呼び出されるかもと考えつつ、何故このような状況になったのかに思いを馳せる。心当たりがあるっちゃあ、あるのだ……。
あれはそう、俺とネギが麻帆良に教師(もどき)として就任した日のこと。
念入りに準備されていた、鳴滝ツインズ他の歓迎トラップの数々。それらを正面からではなく、背後から潰していくという裏技で解除していた時、うっかり作動させてしまった吸盤付きの矢……あれを指で挟みとった時から、好戦的な目を向けられること数数多。
徹底的にそれに気付いてませんな姿勢を貫いていたため、最近ではそれもなくなっていたのだが……。
とりあえず、夕飯買出しという重要任務を遂行して、早く絶品中華のお持ち帰りセットに舌鼓を打ちたいです。
人は戦わなくても死なないけど、ご飯を食べなきゃ死ぬのだと、哲学っぽい響きを持たせて呟き、愛想笑いを浮かべて決闘の誘いを断らせてもらった。
「いやー、俺じゃ相手になりそうにないから、謹んでお断りさせていただきます」
「ダメアル。私、ジロー先生なら本気を出していいとわかってるネ!」
一蹴する、とはこういう即行での却下を指すのであろう。万分の一秒すら考える素振りを見せずに返答したカンフー少女のせいで、また一段と、自分の目蓋が重くなって下がるのを自覚した。
『おおーッ!』
『何だって、菲部長が本気を!?』
『何者だ、あの男……』
『ホラ、あいつだよ。噂の子供先生の保護者――』
『ああ、例のワーカーホリック青年』
ノリがいい麻帆良だからなのかは不明だが、次第に大きくなる周囲のざわめきに、否応なしに気が滅入ってきた。
好き勝手言ってくれる……誰がワーカーホリックだって? 俺が好き好んで仕事してると思っているのか、バカ野郎。
訳なんて知りたくもないけどな、日を追うにつれて始末書と報告書の量が増えてんだよ。別に御主人とか2Aとか、御主人とか2Aとか、御主人とか御主人とか御主人のせいだ、とは言わないけど。
(実に働き甲斐がありますよー、ええありますとも……。ありすぎな気もするけどな、コンチクショウッ)
構えを取ることなく、胸中で労働の素晴らしさについて謳っていた俺に焦れたのか、若干口を尖らせたクーフェイ嬢が申し立てを始めた。
「むう……誤魔化そうとするのはズルイアル。ジロー先生が腕立つというの、楓から聞いてるアル。それに昨日、路地裏から出てくるの見たアルヨ?」
「ッ!?」
楓から腕が立つどーのこーのと聞いていたのは、まあ後日、本人に相応の説明をしてもらうとして。
どことなく機嫌を損ねた表情で、俺にとって何気に危険な単語を呟いたクーフェイ嬢に、全身の毛が逆立つのを錯覚した。
「気になって覗いてみたら――」
「スターーップ! Since they are younger,they are allowed to make more mistakes……じゃなかった、若さ故の過ちならなるべく許してあげよう、クーフェイ君!」
クリッとしたドングリ眼で、自分が見た屍達のことを語ろうとした少女に手を突き出し、声を荒げて待ったをかけた。
よほどテンパッていたのか、最近とんと使わなくなった英語が飛び出したりしたのだが、理解してくれないということも含め、日本語に言い換える。
いきなりこの娘は、なんちゅう危険なことを。そのことで今日、ガンドルフィーニ先生に詰問されたばかりなのに。
大変だったんだぞ、騙すの? どこで話を聞きつけたのか、某シスターまでやってくる騒ぎになったし……。
高畑先生は俺のこと、イタズラ小僧を見るみたいにしていたので、『路地裏の染髪戦隊全滅事件』の真相を知っていたのかもしれないが。
「あー、できることなら、そのことに関して他言無用ということでお願いします」
少なくとも、ほとぼりが冷めて時効になるまで、そのことを忘れておいて欲しい。両手を合わせて一心に願いつつ、これでもかというぐらいに深く頭を下げた。
「んにゃ? どうしても言うなら黙ておくが……どして慌ててるアルか?」
首を傾げながらも、快く了承してくださったクーフェイの言葉に、深々と息を吐いて胸を撫で下ろす。
世の中にはね、君の知らないであろう法律が幅を利かせているのだよ。麻帆良はその辺、やけに緩い気がするけど。
「――そだ、ジロー先生。ジロー先生の頼み聞くから、代わりに先生も私のお願い聞いて欲しいネ♪」
「…………」
さて……最後の最後で落とし穴があるのが俺の人生なのでしょうか?
ニパッと笑い、良いこと思いついたとばかりに言ってくれた少女のせいで、一時は沈静化した頭痛が盛り返してきた。
何が楽しいのか、ニッコニッコと笑ってるクーフェイ嬢にジト目を向けて思う。
きっと純真で心の綺麗な娘なんだろうなー。誰だ、等価交換なんて言い出したの? この法則はなあ、子供しか使えないんだぞ。
『お前、それでも男かー!』
『菲部長が、「頼みを聞いて欲しい」? こ、殺されろーー!!』
「――――ハアァァァ……」
ぼんやりと褐色肌の少女を眺めている俺に、周囲の観客から野次罵倒が飛び始める。段々、俺への風当たりがきつくなってますよ、ばあちゃん。
これはもう、腹を括るしかないのでせうか……? クーフェイから視線を外し、深々と……本当にもう、自分でも感心するぐらいに深々とため息をついた。
「さあ、構えるアルヨ、ジロー先生!」
「ハァ……冷静に思い返してみれば、俺の意思・希望が通されたことなんて滅多になかったさね」
諦めたようにため息をつく俺を見て、戦う決心をしたと判断したのか、クーフェイが構えなおして叫ぶ。
これから戦えるということに興奮しているのか、血色が良くなっている少女にため息をつき続けてしまった。
人間百人いれば、百通りの気質があるのだろうが、何でそう、楽しそうに戦おうと誘えるのかねー?
戦うことが幸せなのだろか……。何でもないことが幸せでありますように、と祈れる俺もおかしいのかもしれないが、それも結構おかしいと思うんだけどなー。
「生徒が相手ってのはアレだけど……やるしか、ないのか」
「おっ、やる気になたアルね♪」
麻帆良というのはあれだ、物事を成したり、相手を理解するために戦わざるを得ない場所なんだ。うん、そうに違いない。
肉体言語でしかわかりあえない土地、それが麻帆良なのだ、と阿呆なことを考えつつ深呼吸を繰り返し、体の隅々にまで酸素を、そしてやる気を充足させていく。
本当は今だって乗り気じゃない。できることなら、目の前の功夫少女を無視して、超包子で買い物をしてさっさと帰りたいのが本音。
だが、クーフェイがそれをさせまいとしているこの状況。俺が超包子のお持ち帰りセットを手に入れるために、彼女と戦わなければならぬのなら、そして何としてでも勝利せねばならぬと言うのなら――
「まだ買出しの段階だから、そこまできつくは言わないけど……古今東西、楽しい楽しい食事の時間を妨害する奴ってなあ、ロクな大人になれないと相場が決まってるんだぞー」
相手がいかに強大であろうと、そんなもの知ったことか。目の前に立ち塞がって、俺のやるべきこと(食事の買出し)の邪魔をする壁として、打ち砕かせていただく。
軽口とも非難ともつかぬ言葉をクーフェイに送り、僅かに腰を落とす。右足を前にやや半身になって、右と左の掌、それぞれで水月と顎を隠すように構えた。
特に流派なんてない……と思うのだが、じいちゃんやばあちゃん、ついでに知り合いというか、幼馴染というか……まあ、そういう感じの奴も使っていた構え。
じいちゃんやばあちゃんに教えてもらった技法の中で、何とか様になったのは剣術ぐらいなのだが、相手が無手なのにこちらは刀を、なんてことをするのは憚られるし。
対するクーフェイは、軽く指を伸ばした両の手で正中線を隠し、前足に三分の体重をかけた虚歩に、後ろ足に残り七分の体重をかけた中国拳法っぽい構え。
「あー、確か……え〜と、八卦掌?」
記憶の端っこの方にあった流派名を引っ張り出して聞いてみると、構えをピクリとも崩さぬまま、クーフェイ嬢は満面の笑みを浮かべて答えてくれた。
「オォッ、正解アル。私はコレの他に、八極拳とか形意拳も使うアルヨ♪」
自分の流派を言い当てられたことが嬉しいのか、黙っておいた方が有利な情報まで教えてくれる。何なんだろうか、この娘の遊び相手を見つけた子犬チックな瞳は。
ヤバイ、『拳の児』とかゲームで見たとは言えない。あまりに純粋な少女の瞳に、人知れずダメージを受ける。
よくよく考えてみると、真面目にその流派の鍛錬を積んでいる人からすれば、例えばゲームのキャラが使ってる構えや技だ、と言われるのは、かなり腹立たしいことなのではなかろうか?
まあ、本当にその道に勤しんでいるのなら、何を言われようと気にならないのだろうけど。
武術諸流派の、「ゲームや漫画、アニメで有名になることによって生まれる弊害」について考えることを止めたところで、クーフェイが構えの向こう側から話しかけてきた。
「ジロー先生、別に武器使ってもいいアルヨ?」
「あー……武器を使うのって、時と場合によるから。今日は胸を借りるつもりでやらせてもらうよ」
やはり、見る人が見ればわかるのだろう。こちらの構えを見て剣術やらの癖でも見て取ったらしく、なのに素手でやろうとする俺に対して、少し不思議そうな顔をしたクーフェイの勧めに、やんわりお断りの言葉を述べた。
「素手でも自信アリネ……わかたアル! それじゃ、遠慮なく戦るアルヨ!」
「えーっと、胸を借りるの意味は……知らなさそうだーね」
どうやら、一番マシに『遣える』武器を使用しない姿勢を余裕と受け取ったらしい。
きっと、俺がやる気を出そうと出すまいと、全力で戦うつもりだったに違いない『小さき』獣が、その『ミニマム』な体に気を漲らせる。
スゴイ威圧感に、眉間の辺りがムズムズした。2Aでも前から数えた方が早い背丈の、『小さい』クーフェイの肢体が、まるで巨大な岩に見えた。
「…………ジロー先生、何か私の悪口考えてないカ?」
「気のせいじゃないカ?」
己を見据える瞳に警戒や闘志以外の何かを見たらしく、少し険の寄った目付きでクーフェイが問うてきた。片言で問われたので、こちらも片言で返してすっ呆けておく。
緊張感の不足した会話を最後に、お互い口を閉じて呼吸を探り始める。俺とクーフェイ、両者の間で空間が陽炎のように揺らいだ――気がした。
『禁じ手は目と金的。時間無制限・真剣勝負一本! Ready――Fight!!』
「ふえっ!?」
「!」
二人の間で凝縮し、叩けば硬質の音を立てそうな張り詰めた空気。その真っ只中に突如として現れた黒子が、左右の手に持った紅白旗を交差させ、覆面越しのくぐもった声で試合開始の合図をかける。
瞬間、俺の驚きを余所に、クーフェイとの間で軋みを上げていた空気が弾けた――――
「いくアルヨーッ!」
「ちょ、さっきの黒子さん何!?」
「麻帆良審判部の人アル!」
突如として現れ、試合開始の合図を終えると同時に雲霞の如く姿を消した黒子に、ジローが素っ頓狂な声を上げる。
短くジローの問いに答えながら、獣のように敏捷な踏み込みで、クーフェイは一気に打ち込みの間合いまで潜り込んだ。
「ハアッ!」
打突の際、後ろ足で地面を蹴るようにして、拳打の威力を余すことなく相手に伝える、中国拳法の特殊な技法の一つ――震脚を併用した、獲物に飛びかかる獣の鋭さを有する一撃が、ジローの構えた手の脇を通り、顎めがけて奔った。
迷いのない動き。ただ一直線に、相手の出方を窺うこともしない、本気の拳。
「チィッ!」
麻帆良審判部――つまり、さっきの黒子はまっとうな学生ということか。
某なんちゃって忍者娘よりも正しく、忍ぶ者をしている黒子のせいで、また一つ、自身の常識に小さなヒビが入ったことに舌打ちしながら、ジローは相手の視界から水月を隠すように構えていた右手を跳ね上げ、素人なら一発で人生に支障をきたすであろう拳打を弾く。
がつっ、と鈍い音がした。手刀気味に跳ね上げたジローの右手が、クーフェイの突き出した腕の、手首部分を打った音だ。
目標であった顎を外し、軌道をずらしたクーフェイの拳が、ジローの耳を掠めるかどうかの距離で通り抜けた。
間近でバットでも振ったような風のうねりが、ジローの髪を揺らす。
「怖っ」
風鳴りから拳打のおおまかな威力を把握し、戦慄したジローが呟きを洩らす。
「まだまだいくアルヨー、ほいっ!」
手首を打ち据えられたというのに、まったくダメージを受けた様子もなく、素早く拳を引いたクーフェイが、疾風の如き連撃を繰り出した。
相手を幻惑する足捌きで体を躍らせ、雨霰と拳を、掌打を叩きつけてくる。
(疾いッ!)
クーフェイの攻撃のことごとくを、左右の掌打や手刀で捌き、凌ぎながら、ジローは胸中で驚きの声を上げた。
考えていた以上に疾く、そして重い攻撃である。ジローの本来の狙いは、掌打や手刀で手首、あるいは腕にダメージを蓄積させることにあったが、クーフェイの拳打が疾すぎて、受け流すことで手一杯であった。
本人の性格がそうだからなのか、クーフェイの攻撃にはフェイントが少ない。そうだからこそ、逆にフェイントが効果を発揮して厄介なのだが――それはさて置き。
ジローから見て、クーフェイは実に戦いやすい相手であった。どこぞの魔眼持ちのガンナーのように、反則だと思えるまでのフェイント・トラップがないのだから。
右の拳を突き出すという顔で、正直に右の拳打を打ち込みにくる。左の掌打で顎をかち上げてやると眼が語れば、その通りに掌底が下方向より飛んでくる。
だが、それがわかったところで、ジローの攻撃を割り込ませるだけの隙が、クーフェイの連撃にはなかった。
威力と速度を兼ね備えた、武術家として理想的な攻撃の数々を、ジローはただ只管に捌き、あるいは受け止め、かわし続ける。
「ヤァッ!」
「ぐっ……!」
切れ目のない拳と掌打のコンビネーションから続く、横から叩きつけにくる右の肘。
身長の差により、こめかみではなく左頬に突き刺さってくるそれを、ジローはギリギリの距離で見切ってかわそうとする。
頬肉を削るようにして、クーフェイの肘が浅く入った。
たまらず、足が勝手に後ろへ下がり、右方向へ体が傾く。自然、ジローの顔は、クーフェイにとって打ちやすい位置まで下がった。
その機を逃すまいと、地面を震わせて踏み込んだクーフェイが拳を突き出す。
――――決まった!
周りで、ジローとクーフェイの試合を見ていた野次馬の中にいた、武道経験者達がそう思った瞬間、ジローの体が右足を軸に、反時計回りに一回転する。
素人目には、クーフェイの拳が顔面に刺さり、その高すぎる威力に体が回ったように見えた。
野次馬していた武道経験者の大半も、そう見ていた。何故なら、彼らも経験上、よくわかっていたからである。
ジローの顔面に向けて拳を突き出した、褐色肌の小柄な少女――麻帆良で行われる、大格闘大会『ウルティマホラ』の覇者・クーフェイの放つ拳打が、尋常ならざる威力を持っているということを。
ワーカーホリックでありながら、クーフェイ相手によくもった。それが、この場にいる武道経験者達の、感嘆の息交じりの感想であった。
だが、違う。クーフェイの必倒の一撃は空を切っていた。
「ッ!?」
「――――」
当たると確信していた拳が透かされ、クーフェイの顔に驚愕の色が浮く。
体ごと翻って、再び正面を向いたジローの顔。とりわけ特徴があるとは言えぬ、普通な日本人らしい黒の眼に、クーフェイの姿が映る。
剣呑なものが、瞳の奥で熾火のように光っていた。クーフェイの頭の中で、けたたましく警鐘が鳴り響く。
「シィッ!」
鋭い呼気の音。さながら、蛇が敵を威嚇する時に出すような音を洩らし、体を三百六十度回したジローが、しなりを存分に利かせた左の裏拳――バックハンド・ブローをクーフェイに放った。
最高のタイミングで打たれた拳へのカウンター。腕の先端にある拳が霞んで見える疾さで、裏拳がクーフェイの肩口へと飛んだ。
ジャッ、という摩擦音が生まれる。一拍遅れて、右斜め後方に跳んだクーフェイが、しゃがみ込むように着地した。
「チッ……」
「ヒャア〜、危なかたアル♪」
ジローの口から、小さい舌打ちが洩れる。カウンターで叩き込むはずだった裏拳。それが外れたからだ。
裏拳が肩に食らいつく寸前、後方に跳ぶことで攻撃を回避したクーフェイが、歓喜の色を滲ませた声を上げる。
完全にかわせたわけではなかった。掠る程度に拳を当てられただけで、引き攣るような痺れを訴える肩に笑みを浮かべ、クーフェイは構え直しながら聞いた。
「思てた通り、ジロー先生は強かたアルが……ちょとだけ、手を抜いてるネ?」
「いやいや、抜いてませんて。抜いたら死ねそうだし」
この後に再開させる試合が楽しみで仕方がない、という顔で聞いてくるクーフェイに、ジローはあからさまにゲンナリした顔で即答する。
その答えが気に入らなかったのか、笑顔から一転、口を尖らせたクーフェイが言う。
「じゃあ、どうしてさっきの裏拳、途中で打つトコ変えたアル? 途中で肩狙わなかたら、ちゃんと顎に当たてたアルヨ」
「あー……」
クーフェイの詰問に呻きながら、さすがに良い眼をしている、とジローは思った。
あの状況――最高と言って差し支えのないタイミングで打った、カウンターの裏拳。本当ならそれは、顎を斜め上から打ち抜くように放つべきであった。
仮に相手がクーフェイではなく、見ず知らずの男だったとするなら、ジローも間違いなくそうしていた。
では、何故そうしなかったのか。考えられる理由は一つしかなかった。
自然、クーフェイの顔に不満の色が広がり、頬が膨らんでいく。
「ひょっとして、私が女の子だからアルか?」
「むぅ……」
クーフェイのブスッとした声に、ジローが声を詰まらせた。
そこから自分の問いかけが正解だったと悟り、機嫌を損ねたクーフェイは、頬を風船のように膨らませてしまった。
正直、馬鹿にされたと感じたからだ。女の子だから顔に攻撃できないというのは、武術家である自分にとって侮辱に等しいもの。
過去、クーフェイに挑戦してきた男の中にも、相手が女の子で顔面攻撃ができなくて負けた、と言う者がいた。
そう言われる度に、クーフェイは相手を卑怯だと思うと同時に、どこか物悲しい気持ちにさせられた。
こちらは顔を殴られようが、腕の一本を持っていかれようが構わないと覚悟して戦っているというのに、そうした逃げ口上や言い訳を使われるのは、やはり自分が女の子だからだ。
どれだけ強くなりたいと思って鍛え、相手と戦い勝利したとしても、そう言われてしまうと、まるで自分が女の子で、仕方なく手を抜いてやっていたから勝てたのだ。そう揶揄されているようで――
武術を修めるもの同士、相手と対峙した瞬間、そうした男女の垣根など飛び越えた場所で、あらゆる行為を許す覚悟を持って戦うべし。
実のところ、クーフェイにそこまで深い考えがあるのかどうかは不明だが、彼女は一武術家として、そのことを極自然に理解し、受け入れていた。
端的に言うなら、何があっても恨みっこなし。
武術の試合において、全力で体を動かし、戦っている間に感じられる爽快感というのは、彼女にとって至福のものである。それを感じる代償として、怪我などがあったとしても、だ。
もしかすると、そういった代償を払わなければならない、というスリルがあるからこそ、余計に戦うことに楽しみを見出しているのかもしれないのが、このクーフェイという少女の怖い所だが。
とにかく、彼女がジローに対して思ったことは一つ――
「ジロー先生、自分に嘘つくのダメアルヨ。もっとこう、ドーンとバーンと戦わないと気持ちよくないアル」
先ほど、裏拳を放つ寸前にジローが見せた、瞳の奥で熾火のように光っていたもの。あれこそ、ジローが自分と同じ種類の人間であることの証。
そう確信して、クーフェイはどこかたしなめる声でジローに言う。自分が全力を出すに相応しい相手でありながら、「女の子の顔は殴れない」などと、己に枷をはめて戦うのは止めて欲しいと。
だが、クーフェイの言葉に対するジローの反応は芳しくなかった。むしろ、あからさまに嫌そうに、顔前でちゃうちゃうと手を振って見せる。
「いやいやいや、俺は根っからの普通人ですから。そんな、『お前も戦いが好きなんだろ?』みたいな顔されても困りますて」
炯々と目を光らせ、戦いの愉悦へと誘いかけるクーフェイに、さすがにうんざりしてきたのか、ジローが面倒くさげに頭を掻いて告げた。
「俺ぁただ、早いとこ公開処刑みたいな試合を終わらせて、絶品中華のお持ち帰りセットを買って帰りたいだけです。いい加減、ひだるいから通してもらいたいんだけど?」
「むー、強情アル……ひだるいって何アルか?」
「……非常にお腹が空いて、動くのが面倒って意味だよ。今日の古典の授業でやったはずだけど?」
「う、うむむぅ」
頑として、自分は戦闘好きではないと言い張るジローに、困り顔になったクーフェイが呻き声を上げる。自分の出した、ひだるいとは何ぞや、の質問が墓穴だったからかもしれないが。
とにかく、顔を殴るか否か。こと、この問題に関して、ジローに譲る気はなさそうだと、クーフェイは考えるに至った。
「どしてそんなに、顔を攻撃したがらないアルか〜……」
「今度は泣き落としかよ、オイ」
考えるに至りはしたが、眉尻を下げて、しょんぼりという表現が似合う顔でしつこく問うクーフェイに、ジローは眉間に指を当てて歯軋りする。
目の前の、戦闘狂に分類される少女が持つ業の深さを教えられ、ジローは盛大にため息をつき、渋々とだが口を開いた。
「自分はお前を殴りにいくから、お前も自分を殴りにきてもいいよって言いたいんだろうけどなぁ、それを強制されるのは真っ平ごめんさね。
クーフェイの武術家としての覚悟、戦いに挑む姿勢ってのは、その道の人からすれば立派なのかもしれないけど……そんなもん向けるのは、武術家相手に限定してくれ。俺がここで戦っているのは、ひとえに夕飯の買出しがあるからだ」
「んむむ」
戦りたいのなら、戦りたい奴ら同士でやってくれ。ジトッとした目でそう告げられ、思わず言葉を詰まらせたクーフェイに対して、面倒くさそうにだが、ジローが再び口を動かす。
「だいたいな、俺はじいちゃんやばあちゃんに、女の子の顔は極力、殴る蹴るしちゃいけないって言われてるんだ。もしもだ、顔に一生消えないような傷こさえさせてみろ、俺は一生後悔する羽目になるだろうが。責任取ってくれるのか?」
「んにゃむ……」
顔に傷をつけられた場合、責任を取らされるという理不尽な条件を突き出され、さすがのクーフェイも返答に窮した。
逆ギレ的な意見に思えなくもないが、そも、ジローに勝負を吹っかけたのは彼女である。嫌がる相手に勝負を強制した自分に、それを拒否する権利があるのかどうかを暫し考え、クーフェイはデフォルメ化した顔に一筋の汗を垂らし、蚊の鳴くような声で答えた。
「――――そ、それはチョト困るアルな……」
「だろう?」
同意を得られたジローが、それは嫌だろうと首を傾げて、強調した疑問形で問う。
ちなみにこの時、二人の頭の中では、タキシードを着たクーフェイと白無垢を着たジローという、色々な意味で重いイメージ映像が浮かんでは消えていた。
閑話休題――
「ム、ムムム……」
「んじゃあ、お互いの将来のために勝負はこれまで。ここらでお開きってことにしようよ、俺の降参でいいので」
言葉に詰まり、構えたまま動かなくなったクーフェイを見て、流石にここまで言えば、もう戦闘を再開する気にもなるまい。そう判断したジローが、ひょいと片手を上げて、半目の眠たげな顔で飄々と告げる。
「……わかたアル」
「ハァ……やれやれ、これでやっと夕飯にありつける」
構えたままの状態で、俯きがちにクーフェイが小さく同意するのを聞き、緊張を解いて体を弛緩させたジローが、先ほど口にした通り、実にひだるそうな足取りで歩き出し――
「――――」
「……あー、クーフェイさんや。何故に君は、そうやって人の進行方向を塞ぐように移動するのですか?」
まるで、通せん坊のように進行方向を遮ったクーフェイに、ジローが胡乱な目を向ける。
無視して通ろうともしたのだが、ジローが右に行けばクーフェイは左に、左に行こうすれば右にと、その悉くを妨害をする。
俯いて構えたまま、滑るような足取りでジローの歩みを塞いでいたクーフェイが、ゆっくりと顔を上げて告げた。
「覚悟決めたアル……。私、ちゃんと責任だて取るから、本気で戦って欲しいアルヨ、ジロー先生!」
「――――えぇ〜……」
並々ならぬ決意を燈して瞳で、冗談にしては笑えない台詞を叫んだカンフー少女に、ジローは思わず空を見上げて、信じられないとばかりに声を洩らした。
流石にこれは想定外であった。顔を殴られてもいい、怪我をしてもいい、骨が折れてもいいぐらいは言うとわかっていたが、まさか人生を賭けてまで戦いたいと言い出すとは思わなかったのである。
戦闘狂の面目躍如たるものがあるのは確かであったが、何かが激しく間違っている。そう感じずにはいられないジローであった。
見上げたままの空に浮かんだ、星になった自分の家族――祖母の鈴姫と、白い毛並みの愛犬・ヌイが、優しい憐憫の眼差しを送ってくれていた。
その後ろで、転げまわって爆笑している祖父の龍斗に関しては、見なかったことにしておいた。
「さあ、ジロー先生! これで問題ないアル。変な気を遣わずに、ドーンとかかってくるアルヨ!」
「おかしいよ……? 戦いたいからってこの娘、大事な片道切符を安売りしちゃってるよ?」
どの辺りで問題が解決したのか、そのことについて懇切丁寧に説明して欲しいと考えながら、ジローは困惑した眼差しを周囲に巡らせてみた。
この野次馬っている阿呆な連中の中に、少女の未来を憂いて、この勝負に待ったをかけてくれるような良識ある者はいないのか。
『菲部長がそこまで言ってくれてるんだから戦え、バカヤロー!』
『お前が心配しなくても、菲部長が無傷で勝つに決まってるだろーーー!!』
『思い上がるな、ワーカーホリック!』
「ゴメン、そんな人がいるとか期待した俺がアホだった……」
そうした人が出てきてくれることを切に願いながら、三百六十度を見渡したジローに返ってきたのは、無駄にテンションの上がった武道関係者(主に男性陣)からの罵詈雑言。
はたして、自分の戦いたくないという意見はどこに消えたのか。胸中でそう尋ねながら、ジローは俯き加減で顔に手を当て、ため息を垂れ流した。
顔に触れる指の隙間から、睨め付けるようにクーフェイを見上げる。
「もうわかったよ、やればいいんだろう、やれば……。俺だけ難易度が酷く上がった気がするけど、そんなの気のせいさ……」
「オォ、ヤタアル!」
疲れのせいか、ドッと老け込んだ声で呟きながら構えを取ったジローに破顔一笑し、クーフェイはいつでも来いとばかりに、地面を踏み鳴らして構えを取った。
熱気を取り戻した周囲の野次馬からの歓声に目を据わらせ、ジローがたしなめる様に言う。己が身を軽んじて『責任』という言葉を使った少女への、副担任(仮)としての忠告。
「あー、君の希望通り戦わせてもらう代わりなんだけど、これからは戦ってもらいたいからで責任を取る、みたいなことは言うんじゃないぞ。下手な口約束して、本当にそれをする羽目になったらどうする?」
「んー、確かにそうアルが……私、腕の立つ強い人なら好きになてもいいアルヨ?」
本人が年齢その他で、そうした問題に疎いというのもあるのであろうが。どことなくずれたクーフェイの『好きになる』の基準に、やれやれと頭を振ったジローが言葉を返す。
「若いうちはそう言ってても、きっとわかる時が来るさね。本当に好きになると、腕が立つとかどーとかは些細な問題なんだって――――まあ、これはじいちゃんの受け売りだけど」
「む、そうなのアルカ? 何だか難しいアルヨ」
「だな。正直、俺もよくわからん」
自分の発した言葉に首を傾げる少女に苦笑しながら、ジローも同じく首を傾げて見せる。
内心、「自分よりも腕っ節の女性が好きだった」と語っていた祖父が、「腕が立つとかどーとかは些細な問題」と言っても説得力に欠けるな、と思っていたりもした。
「まあ、さっき言ったことを、頭の片隅にでも置いといてくれると有り難い」
「よくわからんが、了解アル♪ というわけで、ジロー先生……勝負再開するアルヨ!」
きっと彼女はもう、自分が言ったことを欠片も覚えていないのだろう。
これからまた戦える。その悦びを体全体で味わっているらしいクーフェイに苦笑して、ジローはそう思った。
しかし、すぐに表情を引き締めて、クーフェイを迎え撃つための心構えをする。
「――――」
「――――」
同じく表情を一変させ、じっと自分を見据えているクーフェイの目に、ジローは背中を這い上がる震えを感じる。先ほどまで耳障りであった、野次馬の歓声や周囲の音がやけに遠かった。
それは、向かい合って構えているクーフェイも同じであった。久しぶりに、自分が全力をぶつけてもいいと思える相手が、目の前で戦うために構えている。
身を縛るような緊張感の中にありながら、クーフェイは自分の口元が緩むのを自覚した。同時に、無駄な体の力みが解けたことも理解する。
もう、我慢せずに飛び出していい。いや、飛び出さないと、自分がどうにかなってしまいそうだ。
体の内側で吼え猛っていた獣と、自分の欲求が上手く噛み合った瞬間、クーフェイは構えを崩さぬまま、前方の獲物に向けて踊りかかった――――
「燃えよ拳? 後編」
しなやかな動きで駆け出した少女が、目標である青年に攻撃を開始した。
「ヤァッ!」
二間――現在の距離で三メートル半ほどの距離を一歩で詰め、裂帛の気合とともに、クーフェイが左右の掌打を放つ。
弧を描いて水月と顎を狙いにきた掌底を、ジローは僅かに身を引いてかわした。
それを追ってクーフェイは体を翻し、腕全体を振ってしならせるように左手、右手と叩きつけた。
「シッ!」
「ッ!」
頭上から降ってきた両掌の打ち下ろしを、ジローはステップを使い、クーフェイの左側面に飛び込んで回避する。
深く踏み込みすぎた。着地したばかりのクーフェイの顔に、己のミスを悟った色が浮かんだ。
焦りの色が浮いたクーフェイの顔を見下ろして、ジローが腰溜めに拳を置いたまま、滑り込むような足取りで踏み込む。
どのような隙間でもすり抜けていくような、水の如き踏み込み。そこから繰り出されたのは、岩さえ陥没させそうな右正拳突き。
「雷霆――突きッ!」
「クァッ!?」
咄嗟に伸ばしていた両手を引きつけ、十字の形に交差させた腕で、クーフェイはジローの放った正拳突きを防御しようとした。
ずしん、と体の芯に重く響く衝撃が駆け抜けた。踏みこらえようとしたクーフェイの意志に反して、ふわりと浮いた体が拳打に押し飛ばされる。
「タ、アタタッ……」
拳の当たった部分は赤くなっているが、ちゃんと手は動く。骨も折れていない。
地面を擦るように着地して、突きを防いだ自分の腕に異常がないことに安堵しながら、クーフェイが尋ねた。
「ジロー先生、さっきの発勁アルカ?」
「さて……さっきのは、じいちゃんに文字通り叩き込んでもらった技だけど……よくわからないな」
拳が触れた瞬間、防御を突き破って、体の内側へと食い込んできた衝撃。それは、クーフェイ自身が誰よりも知っている、そして得意としている、中国拳法の技法の一つ――発勁を彷彿とさせるものであった。
先の技が発勁を用いたものかどうかの問いかけに対し、技を使った当の本人は首を傾げて、プラプラと右手を振る。
「まあ、人が考え付く技だし? どっかしら似ててもおかしくないだろ」
静かに両の手をもたげさせて構えたたジローが、さながら、発勁は中国拳法の専売特許ではない、と言いたげな笑みを浮かべた。
「それに、だ。仮に俺が発勁なり中国拳法なり使えたとして……何か問題でもあるのか? どうせ、そんなの関係なしに戦りあうんだろ?」
「――フフ……クフフフ、それもそうネ。そんなの、小さな問題だたアル!」
ジローの言い分に自然、クーフェイは笑みを形作った。限界まで空腹に耐えた状態で獲物を発見した、野生の虎や豹を思わせる獰猛な笑みを。
自分が睨んだ通りだと、クーフェイは思った。
普段の飄々とした、あるいは茫洋とした顔や雰囲気の裏側でうねっていた何か――獣に姿を変え、肉を食い破って現れる、理性では制御し難い狂い荒れる何かが、気魂とともにジローの体に満ちている。
「怖いアルなー、ジロー」
「ああ、怖いな。殴り合いが好きで好きでたまらない、って感じに笑ってる女の子なんて。似合わないぞ? 可愛い顔に青タンなんて」
「オヨ、褒められちゃたアル……。でも、私が言てるのはジローのことアルヨ!」
「失礼なこと言わないでくれるかっ!?」
互いに軽口を叩きあい、ジローとクーフェイは同時に前へ飛び出した。
たちまち、二人の距離が詰まっていく。
クーフェイに、引いたり横へ跳んだりして距離を取るという考えは微塵もなかった。ただ一直線に、己の自慢の拳を叩きつけに前へと向かう。
さっきまでと打って変わり、ジローもただ真っ直ぐに前へ出た。
「シッ!!」
打撃の間合いに入るやいなや、ジローが拳を打ち込んだ。
容易く人の意識を刈ることのできる、右のジャブが二発。そこから、左の捻り込むような突き。
「ッ!!」
一発一発が必倒のジャブや突きを、クーフェイが掌打で捌き、受け流す。
「フッ!」
「ヒャッ!?」
「ラァッ!」
瞬間、ジローが彼女の左脇へと流された左腕を捻るように上げて、顔面狙いの肘打ち――と見せかけて、水月狙いの右アッパーを放った。
悶絶必至の拳が、クーフェイの胴体へと飛ぶ。
ぼっ、という音を立てて、ジローの拳が空を切った。
『おおーっ!?』
「――しまっ……!」
「スゥ――――」
ジローの拳が空を切ったことに、周囲の野次馬が驚きと安堵の入り混じった声を洩らす。
右の拳を突き上げた姿勢で固まったジローの懐に、拳が体にめり込む寸前、右足を斜め前へと踏み出したクーフェイが、肩からぶつかるように体を潜り込ませていた。
思わず声を上げたジローの懐から、クーフェイの大きく息を吸う音が聞こえた。
間髪入れず、クーフェイが激しい震脚とともに、肩の後ろ側――肩甲骨の辺りに存分に乗せた勁を、ジローの胸部に叩き込む。
「ホイッ!」
「――だあぁっ!?」
『出たー、菲部長の鉄山靠!!』
愛嬌のあるかけ声と同時に、洒落にならぬ衝撃が駆け抜け、ジローの体を後方へ弾き飛ばした。
肺の中の空気が吐き出され、気味の悪い浮遊感を味わう。直後、どすん、と背中を叩かれるのを感じた。
仰向けで地面に倒れたジローの視界いっぱいに、見る者を引きずり込むような闇と、無数の小さな光が広がる。
チカチカと瞬いているものが、夜空に散りばめられた星なのか、それとも頭の中にばら撒かれた光なのか、ジローには判別できなかった。
だが、視界に映る星が本物か偽物か、それがわかったところでたいして意味はない。
「っ……!」
無意識のうちに、ジローは頭部を庇いながら、跳ね起きるように立ち上がっていた。
幼少のみぎり、祖父の龍斗や祖母の鈴姫に刷り込まれた、素晴らしき条件反射、あるいは悲しき習性と言うべきか。
あのまま寝ていると、接近したクーフェイに真上から、頭部に踵を蹴り込まれると思ったのである。
「ムッ、あれでも決まらなかったアルカ」
『うえええぇぇっ!!?』
その光景を見て驚いたのは、クーフェイよりも、むしろ野次馬連中であった。
立ち上がったのだ。しかも、そこからすぐに構えてみせたのだ。惚れ惚れするほどのタイミングで、クーフェイの一撃を受けた状態で。
――――信じられない。
見物していた武道関係者達の体を、言い知れぬ震えが走る。
自分達が戦っているわけでもないのに、背中や額から汗が吹き出ていた。
「頑丈アルな〜、ジロー。あれ喰らて立つ人、久しぶりアル」
「ハッハッハ……『育ちが良い』んでねー。あの程度で休めるような暮らしはしてないんだよ。つーか、ちょっと前から呼び捨てになってるですよ?」
「んにゃ、そうだたアルカ?」
「まー、先生って呼ばれるほど人間できてて、立派なわけでもなし。別に構わんけどね」
そんな観客達を余所に、クーフェイは満面の笑みを、ジローは皮肉っぽい笑みをその顔に湛えて、仕切りなおしとばかりに構えあった。
「――そろそろ終わりにしようかっ!」
「イヤアル! もうちょっと楽しむアルヨ!!」
「こっちゃ、もうお断りさね! 思った以上に心と体が痛いんだよ!!」
同種の獰猛な笑みを浮かべ、しかし、口では逆のことを叫びあって、ジローとクーフェイが前に駆け出す。
「シッ!」
「ヤアッ!」
まったく同時に、相手に向けて拳を突き出した。
鈍い音が響く。お互い、体にめり込んだ右の拳が生む痛みに、低い呻きを洩らした。
しかし、ジローとクーフェイは一歩も退かない。まるで意地の張り合いでもするように、次の攻撃を出し合う。
「せえっ!」
「〜〜ッ、ハイッ!!」
脇腹狙いの右膝蹴りが、クーフェイの体に突き刺さった。
左腕を引きつけて防御した上で、なお息が詰まる衝撃。
だが、クーフェイも負けていない。腕を捩じ折るような膝蹴りを止めるやいなや、右の掌底でジローの顎を突き上げていた。
「グッ……!」
『いけぇっ! トドメです、菲部長!!』
視界が揺れ、後ろ向きに倒れそうになったジローが数歩さがる。
固唾を呑んで試合を見守っていた野次馬の中から、クーフェイのファンや、彼女が部長を務める『中国拳法研究会』の部員と思しき連中の声が響いた。
――言われるまでもない。
野次馬の余計な叫びに無意識でそう返しながら、クーフェイは止めの一撃となる右の拳打――強烈な震脚から繰り出される、形意拳の五行拳が一つ、『崩拳』をジローに叩き込むために地を蹴った。
単純にして明快。ただ真っ直ぐに、相手を昏倒させる勁の乗った右縦拳が、がら空きになったジローの胴へ向かう。
「崩拳ッ!」
拳を突き出す際、クーフェイが技名を叫んだのは、自分がどんな技で倒されたのかを覚えていられるように、という気遣いであったのだろうか。
「――――」
「!?」
だが、結果として、クーフェイの気遣いは無用のものとなった。
ザシュッ、と激しく布地を擦る音が響く。
全身のバネを使って『撃ち』込まれるはずであった崩拳は、標的を掠るに終わっていた。
拳が体に突き刺さる寸前、いや、それこそ一寸の隙間もない距離に拳が迫った瞬間、ジローが右足を引いて、左半身に突きをかわしたのだ。
突きを外して伸びたクーフェイの右腕を、ジローが両手で抱きかかえるように掴んでいた。
左手で肘の辺りを押さえ、右手で刀の柄を握るように手首を。
「胴体、庇っといた方がいいぞ?」
「〜〜ッ!!?」
その言葉の意味はわからなかったが、クーフェイは全身の毛穴が開くのを感じた。
ジローに掴まれていた肘と手首から電流のように痛みが走り、握り締めていた拳が強制的に開く。
腕を引かれたと思った瞬間、何をどうされたのか、クーフェイは自分の視界が天地逆さまになっていることに気付いた。
――柔術の投げ技? 受身を!
頭から地面に叩きつける、容赦の欠片もない投げ。そう判断し、頭の下に手を置く。
しかし、その判断は早計であった。
「!?」
「――シィッ!!」
そのまま地面に落とせば、間違いなく極まっていた――へし折れていたクーフェイの右腕を、ジローがあっさりと解放する。
突然、体を包んだ浮遊感に、クーフェイが目を見開く。その開かれた目の片隅に、唸りを上げて迫る右の蹴りが映った。
――胴体、庇っといた方がいいぞ?
クーフェイの脳裏に、先ほど聞いたジローの言葉が蘇る。
その言葉があったから、という訳ではないが、咄嗟に交差させたクーフェイの腕に、ジローの蹴りが叩き込まれた。
「アクゥッ!!」
「ぷぅ……これでさっきの鉄山靠、だったか? の体験料は払ったぞ、と」
とんとん、と右の爪先で地面を蹴り、大きく息を吐いたジローが、蹴りで数メートル先に飛ばされ、仰向けに倒れているクーフェイに告げる。
「ゥ、ムゥ……ちょとだけ、お釣りが出る気がするアルヨ……?」
「あー……なら、その分はチップとして取っておいてくれ」
「悪いから返すアル……チップって何アルカ?」
「……もしかして、日本語が嫌いでわざとやって――はないよな、やっぱり」
「うにゃ?」
よろめき、頭を振りながら立ち上がったクーフェイに生温い視線を送り、眉間に指を当てて、ジローは深々とため息をついた。
わざとボケられているのか、それとも本気でボケられているのか。願わくば、わざとであって欲しいという希望は叶いそうにない、とわかったからだ。
デフォルメ顔に黒いドングリ眼を乗せて、きょとん、としているクーフェイに苦笑して、ジローが固めた拳を突き出して見せる。
「で、どうだ? 顔面なしの相手でも、それなりに満足できてるか?」
「む?」
「いや、何。さっき、女の子だからとか、顔面ありに拘ったりしたのって、あれだろ? どうせ負けた奴に相手が女の子で顔殴れなかったから、とか言われたからだろ」
「……そうアル。もしかして、知ってたアルカ?」
「やー、昔の知り合いに似た娘がいてねー」
ジローの言葉にやや憮然とし、わかっているのなら何故、と口を尖らせて聞いたクーフェイの質問をはぐらかすように空を見て頭を掻き、ジローが懐かしむように呟いた。
それから視線をクーフェイに戻し、口の端を吊り上げて皮肉っぽく笑う。
「言いたい奴には言わせておけ。俺のじいちゃんならこう言うよ、顔面なしっていう条件で、クーフェイと五分に戦りあえるだけの鍛錬をしていなかった。ただそれだけのことさね、って」
「そういう考え方もあるアルカ……」
「顔殴らないなら殴らないで、その条件で勝てるように戦えばいいだけだろ? それで負けたら……自分の鍛錬が足りなかったで、次に向けて鍛えなおせばいい」
言い終え、ジローが握った拳を軽く開いた。
「いい加減に疲れてきたし……ホント、次で終わりにしようよ」
「――――そうアルナ……その勝負、買ったアルヨ」
お互い、憑き物の落ちた顔で笑って構えあう。
ほんの数秒の時が、何分、何時間と引き延ばされたように感じ、まんじりともせずに試合を見守っていた野次馬が、小さく喉を鳴らした。
『――――――――ゴクッ』
その喉を鳴らす音は、静寂の張り詰めた空間で異様に大きく響いて聞こえた。
瞬間、ジローとクーフェイが地を蹴り、今までで一番の迅さで前に駆ける。
「シッ!」
「フゥッ!!」
両者同時に拳打の間合いに相手を捉え、拳を繰り出した。
どんっ、と鈍い音が一つ、完全に日の落ちた闇色の空に響いた――――
拝啓 あの世のじいちゃん、ばあちゃん、それとヌイ。
何だか『こっち』……というか、麻帆良を訪れて以来、痛い目に遭い続けなジローです。
しくしくと疼く腹を押さえて、俺は糸目に青い顔でぼやいた。
「あー……ものっそ痛い……」
「ニャハハ、最後まで顔に攻撃せぬからネ。最後の一発、顔狙いだたらジローが勝ってたアル」
「……自分で決めたルールを破って勝っても、それは負けと同じだからな」
苦笑しているクーフェイに、憮然とした顔でそう返した。
試合の最後、お互いに全力の一撃を繰り出す――ってところまでは良かったんだけど、刷り込まれた習性や癖とは恐ろしいもので。
まず、無意識に相手は確実に倒せの教えに従った俺は、打ちやすい場所にあったということで、ついクーフェイの顔面に向かって、正拳突きの凶悪版みたいな雷霆突きを出しそうになって……。
次いで、女の子の顔は極力殴る蹴るしてはいけない、という教えを思い出して、拳を死ぬ気で脇へ逸らし。
その直後、清々しいほどに全力全開な、勁入り拳打を叩き込まれました、と。
「ハァ……胃が飛び出るかと思った」
「大袈裟アルヨ〜、ジロー」
「なんなら、一度腹に雷霆突き喰らってみるか?」
「え、遠慮するアル……」
腹を押さえ、しみじみと呟いた俺の背中をバンバン叩き、お気楽顔で笑ったクーフェイにジト目を向けて提案してみる。
お気楽顔に冷や汗を一筋垂らしているとこからして、ある程度は理解しているのだろう。自分の拳打がどの位の威力を持っているのかを。
それがわかっているのなら、やたらめったら勝負を売らないで欲しいものだ。こちとら、人畜無害な(元)普通人で、今はしがない半使い魔なんだから。
とっぷり暮れて暗くなった、女子寮への帰り道。何となく、流れでクーフェイと二人並んで歩きながら、俺は夜空を見上げて首を捻った。
「さて、さっきの胃が飛び出すで思い出した……。何か俺、大事なことを忘れてないか?」
「んむ、忘れてることアルカ? むぅ……オォ、きっと次の勝負はいつにするか、とかアルヨ♪」
「まず、有り得ないな」
こちらの疑問を聞いて、腕を組んで暫し首を捻っていたクーフェイが、電球を一個光らせて、ぽんと手を打つ。
半ば反射的にツッコミを入れて、頭を平手で軽くはたいておいた。
「んにゃっ!? 何するネ!」
「あー…………その、じっ、実に中身がアレな良い音だな」
ポペンッ、とはたいた側が気まずくなってしまう音が響いて、ついまじまじと、手ごたえの軽すぎた手の平を見つめてしまう。
頬を膨らませて抗議するクーフェイから目を逸らしてしまった。
もしや、彼女の拳打の重さというのは、勉学に割くべき部分まで犠牲にしたが故に生まれた、悲しむべきものなのではなかろうか?
「不意打ちはズルイアルヨ、ジロー! お返しアル、ホイッ!!」
「うわっ!? ちょっと待て、ツッコミに肘打ちでお返しはなしだろ!」
「問答無用! ちょうどいいから、もう一回勝負アルー!!」
頭をはたかれたのを良いチャンスと考えたのか、ツッコミへのお返しを中断して人の腕を取ったクーフェイが喚きたてる。
「お断りだ! ええい、駄々っ子みたいに腕を引っ張るな!」
「ムゥ〜、勝負〜、勝負して欲しいアル〜」
「いやっ、怖いから!? 腕這って負んぶの体勢って、自然法則無視しすぎだろ!?」
聞き分けのない子供みたく(充分、子供な年齢だとは思うが。俺も含めて)、人の手にぶら下がって足をバタバタさせる少女を振りほどこうとした努力も虚しく、ついには猿か虫かな動きで背中にライド・オンされて、全身に鳥肌を立てた。
つーか、あれだけ殴り合いをして、まだ勝負を所望なさるか。体力ありすぎだっての。
背中の上でやいのやいの叫んでいるクーフェイを振り落とそうと足掻きつつ、それでも真面目に寮への帰路を辿り……疾走しながら思った。
「何だろうな? この、ライオンとか虎に懐かれちゃいました、な気分は」
「オオオォォォッ、落ちる、落ちるアルヨ、ジロー!?」
「当たり前だ、落とす気で走ってるからな!」
「ヒャアアァァァッ!?」
夜の帳がおりた麻帆良に、カンフー少女の悲鳴が響く。
背中に乗って叫んでいるクーフェイに、いい気味だと口元を緩めて、寮までの道を全力で駆け続けた。
まあ、結果として振り落とすことはできず、背中の憑き物も、最後はキャッキャと笑い声を上げていたのが悔しいところですが。
――で、クーフェイを彼女の部屋に放り込んで、風呂入ってしっかり柔軟して、それから寝ないと筋肉痛で泣くぞと忠告して。
俺も疲れたので、さっさと借りロフトに戻って寝よう、と部屋に戻ったまではよかったのだが。
「遅かったですね……それに、何だか疲れているような」
「あー、何故か、生粋の戦闘民族と攻防を繰り広げる羽目になってな」
「は、はあ……」
部屋主の一人である刹那に聞かれて、色々あったのだと答えておく。
納得しがたい答えだったのか、刹那はヨロヨロになったスーツや俺に視線を巡らして首を傾げていた。
「それはいいとして、ジロー先生。夕食である中華のお持ち帰りセットはどうしたんだい?」
「――――――――あ」
俺がボロっちくなっていることにノータッチで、もう片方の部屋主たる真名嬢が、若干眉を顰めて聞いてくる。
そこでようやく、自分が何のために外に出ていたのか。そして、クーフェイと戦闘を繰り広げたのかを思い出し、まじまじと自分の両手を見つめて呟いた。
「うん、手ぶらだぁ」
「ジロー先生、任務放棄は許されないことだ。だから……もう少しだけ待ってあげるよ」
「…………ハイ」
笑顔の真名に見送られて、本来の目的だった『超包子』のお持ち帰りセット求めて部屋を出た俺の心を占めていたのは、表現しづらい寂寥感だった。
寮を出て、夜空に瞬く星を見上げて、我 思ふ。部屋、というかロフトを借りてる居候って、立場的に弱いなあ、と。
とりあえず、次の外出では無事、中華のお持ち帰りセットを手に入れることができた、とだけ記しておこう。
ああ、あと……クーフェイに良い一撃を腹に入れられていた俺は、どんなに頑張っても食欲が湧いて来ず、結局水だけで過ごしたとも。
まあ、それさえも次の日から始まった受難(災難ではなかったと思う)に比べると、可愛いものだったのかもしれないが――――
まず困ったのは、昨日の戦闘によって人を同類認識したというか、変な感じに懐いたらしいカンフー少女である。
「ジロー、勝負アル!」
「ク、クーフェイさん?」
「……これからHRだよ」
HRで教室に顔を出した俺を見た途端、椅子と机を蹴り飛ばしそうな勢いで立ち上がり、やる気満々で構えてみせるし――
「さあ、決着をつけるネ!」
「昨日、いい感じに負けてたと思うんだけど? つーか、飯食わせてくれ。殴られた腹が痛くて、今朝も水だけなんだよ」
「むー、ご飯をちゃんと食べないと元気でないアルヨ? 仕方ないアル、ご飯食べ終わるまで待つアル」
「い、いや、食べてすぐに戦闘って、色んな意味で惨事になると思うぞ?」
「そ、それは怖いアルネ……。じゃあ、私が代わりにご飯食べてやるアル♪」
「何が楽しくて、自分の代わりに飯食ってもらわにゃならんのだ!?」
昨夜から水だけで過ごした俺の、待ちに待った昼食タイムを邪魔しに来た挙句、さも名案だと言わんばかりに、人の弁当寄越せと手を出してきたり――
「オヨ、どこ行くアル、ジロー? ムム、さては隠れて修業アルネ!」
「…………別称・かわや、雪隠れ、雪隠、突き当たり、三番」
「――ト、トイレだたアルカ。アヤー、スマンアル……」
人の行く先々に現れちゃあ、コバンザメみたくチョロチョロ、チョロチョロと付き纏う始末。冗談抜きに、顔面ありで勝負してやろうかなんて思っちゃいました。
ごめんなさい、じいちゃん、ばあちゃん。俺はまだまだ、人に対して寛大になるということができないようです。
あの世の家族に対して謝罪しながら、ほろりと涙を流してため息をついた。
「ハァ……こんなことになるなら意地でも戦わずに、逃げに徹するべきだったよ、ヌイ」
「ジロー、元気ないネー。体動かせば、元気出るアルヨ?」
「ええい、懐柔策に出るな。つーか、腕に止まるなー!」
心配しているフリをして、やっぱり戦いたいだけのカンフー娘が、人の右腕にぶら下がっていることに気付く。
どんなに腕を振って剥がそうとしても、アルアル鳴く蝉は離れず、逆に腕に強くしがみ付く。何気に極められた関節が、ぎちぎちと嫌な音を立てていた。
腕が枯れ木みたく音を立てて曲がるのが嫌だったので、夏祭りの夜店で売っているものの定番・ダッコちゃん人形となった少女の顔を掴んで、無理矢理引き剥がすという強硬手段に出る。
「は〜な〜せ〜!」
「うぐぐ……勝負してくれるまで外さないアルゥゥゥ」
「ジロー先生、この間の本はどう……でした……」
「んぐぐ……ん?」
何とかクーフェイを引っぺがそうとしていた所に現れたのは、独特な髪型とパックジュースが個性(?)な少女・綾瀬夕映ちゃんだった。
先日、貸した本の感想を聞きにきたらしい夕映ちゃんだが、クーフェイに腕を極められている俺の状態に驚いたのか、目に見えて動きが緩慢になる。
言葉が壊れかけのラジオみたくブツ切れになっているのも、彼女の驚き具合をよく表していると思った。
「夕映ちゃん?」
「あ、いえ、先日、お貸しした本の感想を聞きたくて……」
こっちを向いたまま、どうしたものかと目を泳がせている夕映ちゃんに声をかけると、しどろもどろながらも言葉が返ってくる。
そのことに内心、ホッとしながら、夕映ちゃんに借りた哲学者だったお爺さんの著書の感想を述べる。腕を極めているカンフー少女に関しては、夕映ちゃんと二人して無視しておくことにした。
「イテテ……ああ、さすが哲学者のお爺さんの本だけあって、為になる話が多かった。要所要所の、和ませてくれる冗談も面白かったよ」
「ウグムムゥ〜」
「そう……ですか」
そう感想を述べてから、腕にしがみ付いた少女剥がしを再開する。
だがそこで、夕映ちゃんの表情が妙に堅いことに気付いた。
感想が短すぎたのだろうか? つられて表情が曇った俺に気付いたのか、夕映ちゃんが慌ててハッキリしないことを喋りだす。
「い、いえ、感想が気に入らなかったとかではないです。要所の冗談に、よくぞ気付いてくれたという感じですし……。ただ、よくわからないのですが、急にこう、胸がつかえたというか何というか……」
要点を捉えられず首を傾げた俺に、本当によくわからないのです、と夕映ちゃんも首を傾げて見せた。
哲学研究会所属として自分の内面を分析できなかったのが恥だったのか、僅かに頬を赤らめた夕映ちゃんが、腕に寄生している少女を指差して問う。
「と、ところで、さっきから気になっているのですが、どうして腕にくーふぇさんが止まっているのですか?」
「ああ、これは――」
「ジローがイジワルして、勝負してくれないのアル」
「あー、俺が悪いのか?」
こちらが答えるよりも早く、クーフェイが答えてくださった。
あまりに傍若無人なクーフェイ様にツッコミを入れる。しかし、伏兵とは思わぬ場所から現れるもの。
「はぁ……あまり生徒に冷たくしてはダメですよ、ジロー先生」
「えぇっ?」
何故か、さもありなんという顔でため息をついた夕映ちゃんに呻きを上げ、胸中でツッコミを入れる。
ちょっと夕映ちゃん、いや、ブラック。バカレンジャーのニヒル担当として、キチンと仲間に注意して欲しかったのですが?
「――何となく、今日はジロー先生の自業自得な気がして……」
俺の愕然とした顔を見て、胸の内を悟ったのであろう。こちらから視線を外し気味に、夕映ちゃんが納得いかない、な顔で呟いた。
そのまま、背中で話しかけるなと語り、夕映ちゃんは遠ざかっていく。何とも言えぬ、表現しにくい悲しみが胸中に飛来した。
信じていた娘に見捨てられるというのは、なかなかにきついものがある。できることなら見捨てないで欲しいという俺の願いも虚しく、夕映ちゃんは一度も振り返ることなく去っていった。
これが、クーフェイに纏わり憑かれて困ったこと其の二――
「おや? 随分と大きな腕輪だね」
「はは、思考がふやけてるな」
「オオ、真名アルカ」
あからさまに、こちらをからかう気満々な真名にジト目を向けて唸る。
右腕に同化するのでは、と危機感を抱かせる少女を指差して尋ねた。
「殺虫剤持ってないか? いい加減、このアブラゼミを落としたいんだ」
「フフッ、先生はクーの人気を知らないから、そんなことを言えるんだよ? この光景を男子生徒に見せたら、きっとジロー先生は人気1になれる」
「……ちなみに何の?」
もったいぶって含み笑いをする真名を半眼で見て、聞きたくもないことを聞いてやる。ここで聞いておかないと、負けたような気がしたので。
「決まっているだろ? 闇討ちさ」
「…………ハァ」
やっぱり、聞かない方が良かったのだろうか。
望みもしない内容でbPになれると保証されて、やるせなくてため息をつく。
「負けちゃダメアルよ、ジロー!」
「ああ、もう。この能天気娘は……」
俺が闇討ちされる元凶であろう少女の応援を、軽く頭をはたく形で感謝しておいた。
「フフ……じゃあね」
そろそろ、右肩が抜けそうです。無理な負荷のせいで、背骨が曲がったらどうしてくれるのだろうか。
悠然と去る真名の背中に恨みを込めた視線を送りつつ、今日の彼女の夕飯はふりかけご飯にしてやろうか、とだけ思う俺であった。
あくまで思うだけで実行しないのは、真名みたいな奴でも女子中学生ということで、栄養を偏らせるわけにはいかないという、実に主夫じみた考えがあったからで、部屋をおん出されるのが怖かったからじゃないと信じたい。
まあ、これが困ったこと其の三――
「……なあ、何で睨むんだ?」
「えっ? そ、そうでしたか?」
「スゴイ目つきだたアルヨ……」
腕に引っ付いたクーフェイと二人、怖い眼差しを向けていた刹那に退きながら、恐々と声をかける。自分のことだというのに、首を傾げている刹那にため息が出た。
夕映ちゃんもそうだったけど、刹那も何故に自分の機嫌が悪いのかがわからないのか。これはアレだろうか、十代特有の反抗期?
「――す、すみません、失礼します」
暫く戸惑った顔で俺と、文字通り右腕と化してしまったクーフェイを見比べた後、これまた背中で話しかけるなと語って、刹那が遠ざかっていく。
何で女の子って、急に不機嫌になることが多いのだろうか?
これで困ったことも其の三までいったな、と考えながら首を捻る。
「ジロー、勝負アル〜」
「なあ、クーフェイ。段々、右腕が冷たくなってきてるんだけど?」
「超に頼めば、本物と変わらない義手作ってくれるアル♪」
「笑顔で言うなっての……」
「ヒャイタッ!? ま、またぶったアルネ!?」
腕が壊死したらどうしてくれると尋ねたら、笑顔で義手を勧めてくれた少女の笑顔が眩しくて、ツッコミの頭はたきが止まらない俺であった――――
で、流石に周りのおかしな反応や、右腕の異常にもダメな方向で慣れてきたところでトドメが来るのだから、人生嫌になるのである。
「――――な、なあ、楓?」
「何でござるか、ジロー殿?」
「いや……」
目をバッチリ開いた楓に、頬を一筋の汗が流れた。普段の糸目に慣れたせいか、何か変な感じ。
楓も、夕映ちゃんや刹那と同じく、クーフェイを引きずって歩いていることに驚いたのだろうか?
だとしても、感情を見せるのは忍者として致命的なのではないか、と思いながら右腕を指差して尋ねる。
「さすがにもう、右腕がもちそうにない。どうにかして、この呪いの腕輪を外したいんだけど、妙案はないか」
こちらの助けを求める声を聞き、楓が心得たとばかりに頷いた。
「相わかった。クー」
「ん? どしたアル、楓」
「アッチ向いて、ホイ♪」
「アッチに何か……ホニャ?」
クーフェイが楓の指差した方向を見た瞬間、楓が手にした針が首に刺さる。
ストン、と電池が切れたおもちゃのように腕を離して、クーフェイは廊下にうつ伏せで倒れてしまった。
「――忍」
「……いや、不安になるぐらい即効なんだけど」
「定番の売り文句でござるが、『象でも昏睡』な麻酔薬でござるからな〜」
爪先で小突いてみるが、毛ほどにも反応しない少女に寒気がする。
のほほんと廊下の天井を見上げ、顎を擦っている楓が怖くて仕方がなかった。
昏睡って気楽に言ってますが、アンタ。肉体の大きさごとに、麻酔の適量があるって知っていますか?
「クーなら大丈夫でござるよ」
俺の不安と胸中でのツッコミがわかったのか、楓はこちらに顔を向けて笑って見せた。
止めてくれないか、目を開きっぱなしで笑うの。ギャップあり過ぎで怖い。
「それでは、次の授業が始まるでござるから――これにて」
「あ、ああ」
どう返したものかと考えあぐねていた俺から目を逸らして、床に突っ伏したままのクーフェイの足を引っ掴み、楓は足早に去っていくのであった。
「……よくわからないけど、楓も機嫌悪かったのかね?」
ようやく解放されて血が巡りだし、ピリピリした痺れを訴えている腕を労わってやりながら、ぶらりぶらりと職員室に戻り始める。
歩きながら廊下の天井を見上げて、しみじみと呟いた。
「疲れるなー、先生って……」
先生とはあまり関係のない場所で苦労している気がするのは、きっと被害妄想なんだと信じ込むことにしておいた――――
後書き?) 「燃えよ拳?」改正版。やってしまったボケを直すついでに、苦手な戦闘を頑張ってみようと考えてやった結果……話の長さが倍ぐらいになりました。最後の方、少し駆け足……すみません。
戦闘自体、特に向上したとは言い難いですが、前よりもマシになったと感じていただけると僥倖です。
感想・アドバイスお待ちしております。