「ワルプルギスの夜・開幕?」



 麻帆良学区内にある教会に隣接して建てられた、修道女や神父が生活するための居住区。
 その居住区部分の炊事場、と呼ぶには規模が小さいので、台所と呼ぶのが相応しかろう場所で、「カシャン!」と陶器の割れる硬質な音が響いた。

「――――ァ」

 床に飛び散った陶器の破片を見て、やや唖然とした表情で声を漏らしたのは、褐色の肌に赤い眠たげな半眼と、腰まである綺麗な黒髪を持った少女。
 就寝前にホットミルクを飲もうとしたのだろう、水玉模様のパジャマを着た少女――ココネの手には、小さな鍋に入った熱い牛乳があった。
 どうやら小鍋から直接、洗い場の縁に置いたカップにホットミルクを注ごうとして、手元が狂った拍子に床に落としてしまったのだろう。

「どうかしましたか、ココネ。早く寝ないと、明日の――――」

 陶器製のカップが割れる音を聞いたからか、それともいつまで経っても台所から出てこないココネに疑問を持ったのか、少女の名を呼びながら現れたのは黒い修道服を着た銀髪褐色肌、そして紫水晶のような瞳を持った、シャークティという女性。
 職業は魔法使い兼シスターという、微妙に矛盾した人物である。
 床に散らばったカップの破片を、小鍋片手に見下ろしているココネに眉を顰める。
 状況から、ずぼらなことをしようとして、カップを壊してしまったのだと鋭く推測し、玉杓子を使えばこんな事にならなかったでしょう、と細めた瞳で語るシャークティに、依然として小鍋を持ったまま、ココネは神妙な面持ちで頭を下げた。

「……ゴメンなさい」
「まったく……」

 小さくため息をつき、飛び散ったカップの破片を拾おうとしたシャークティの手が止まり、咎めるような視線でココネを見上げる。

「これはジロー君用のカップじゃないですか……何故、自分の物を使わなかったのですか」
「…………ジローのカップの方が、大人な感じがしたから」
「なんですか、その理由は……」

 普段はシニカルな名言を放つ、白黒のビーグル犬が描かれたマグカップを使うココネだが、今日は気分を変えてみようと思い付き、たまたま目に入った、ジローが使っているカップ――陶器の白に、青で蔦と花の模様を入れた、温かい風合いのカップである――を選んだのだ。
 しかし、人間というのは気分を変えようとした時に限って、普段はしないような失敗をしてしまう生き物である。
 失敗してから、自分用のカップを使っておけばよかった、と口を尖らせて後悔しているココネに、

「そんな不服そうな顔をして……自分が招いてしまった失敗でしょう? 素直に反省なさい」
「……ハイ」

 ピシャリと言い聞かせたシャークティは、床に散らばるカップの回収を始める。

「まったく、明日にでも買いなおしに行かないといけませんね。それにしても何故、ジロー君が修学旅行に出かけている時に……」

 今、破片を回収しているカップも美空の情報を元に、ジローの好みにあうものを選んだつもりだが、どうせ買いなおすのだ、本人に希望を聞くなり、直接選んでもらうなりした方がいいだろう。
 頻繁に使う物ですしね、と胸中で呟きながらカップを拾うシャークティを、常時眠たそうな半眼で見つめていたココネが、ポツリと声を漏らした。

「……時代劇だと、持ち主に何かあった時に身代わりに割れるって、ジローが――――」
「まだ言い訳するのですか? あなたが落とした以外に原因なんてありませんよ。だいたい、床に落としても割れないカップの方が、よほど不吉です。それより、小さな破片を集めたいので、ホウキとチリトリを持ってきてください」

 納得して頷くしかない突っ込みを入れたシャークティが、いまだに小鍋を持って立ち尽くしていたココネにジト目を向け、掃除道具を持ってくるよう指示したのだが、

「――――」
「な、なんですか、その目は……」

 無表情なのにどこか不服そうで、また同時に縋るような顔で自分を見つめる少女に、シャークティは困惑した様子で口篭もり、それから少し逡巡するように瞳を逸らして言った。

「……で、では、修学旅行から帰ってきたら、美空と一緒にお茶会にでも呼びましょうか。その時、何もなかったと聞けば、あなたも安心するでしょう?」
「ウン……ホウキとチリトリ、持ってくる」

 僅かに語気を強め、話はこれで終わりです、と言外に告げるシャークティに、ココネは不満顔をするでもなく、むしろ逆に満足したように頷いて、明るくなった無表情で掃除道具を取りに行くために台所を出ていく。

「フゥ……ジロー君が来るようになってから、妙な感じに感情を表すようになりましたか? 表情はいつも通りなのに」

 その辺り、喜んでいいのか悪いのか微妙ですね、と愚痴を溢した後、シャークティは拾い終えた大きな破片を床に重ねて置き、ココネがまだ戻ってこないことを耳を澄まして確認してから、

「――――――――美空と違ってしっかりしているので、特に心配ないと思うのですが……」

 一応、念のために、と素早く十字を切って、今は京都にいる使い魔青年の無事を祈っておいた――――






 風呂場での騒動から辛くも脱出に成功し、逃亡の途中に詠春から話があるので、後で部屋に来てくれと言われたジローは、一人関西呪術協会の廊下を歩いていた。

「夜になると一層、桜の綺麗さが際立つなぁ」

 ジローの視線の先には、所狭しと植えられた桜の木の群れ。
 月明かりの蒼白な光に照らされ、仄かに蒼く光りながら咲き誇る桜花は、幽玄の美を体現しているようで、まるで自分が冥界に迷い込んだように錯覚させた。
 このまま何時間でも廊下に突っ立って、夜桜見物と洒落込みたい気もしたが、人と会う約束をした手前、この場に長居するわけにもいくまい、と惜しみながらもジローは足を進め、目的の場所――詠春が自室として使用している部屋の前で立ち止まる。

「あー、詠春さん、お待たせしました」
『ああ、中に入ってください』
「では――失礼します」

 部屋の主に一声かけて許しを得てから、ジローは障子を開いて中に入った。
 文机に向かって、何かの書類を作成していたらしい部屋の主に頭を下げた後、横向きに膝を突いて障子を閉めたジローに、内心「妙なところで古風というか、礼儀正しいですね」と苦笑する詠春。

「えーっと、それで……話があるって言ってましたけど――――?」

 勧められ、部屋の中央付近に置かれた座布団に腰を下ろしたジローは、一体何の目的があって部屋へ呼んだのか、と尋ねようとしたのだが、

「まあ、その前に少しよろしいですか」

 その質問は、顔に向けて伸ばされた詠春の手に制止される。
 若干、眉を顰めて訝しそうにするジローに、詠春は少し待つよう言い残して、襖で仕切られた隣の部屋に消えた。
 特にすることもなく、また西の長という、目上の人間の部屋で暇潰しになる行為をする気もなく、ジローはただ座布団の上で端座して待つ。
 ほどなくして、心なしか嬉しそうな顔をした詠春が部屋に戻ってきた。

「やあ、待たせてしまいましたね。どこに何があるのか、いまいち分からなくて……」
「いえ、お気になさらず」

 もしかして、西の長が手ずからお茶を用意してくれたのか、と申し訳なさを覚えて視線を向けたジローに、詠春は手に持っていた一升瓶を持ち上げて聞いた。

「とりあえず、日本酒を持ってきましたが……君はいける口ですか? こうして、人と差し向かいでお酒を飲む機会は久しぶりなので、私としては――」
「あ、あのー……」
「む、何でしょう、日本酒よりビールやワインの方が好みでしたか?」

 西の長になると、楽しくお酒を飲むこともできなくなるのだろうか。
 下手に飾る必要のない相手とお酒が飲めると、微妙にテンションを上げて、「京都の地酒で、飲みやすくて味もよいものですよ」と勧める詠春に、ジローは納得いかなそうに瞼を下げた半眼で告げた。

「まさかとは思いますが……俺はまだ未成年で、華の十七歳だったりするのですよ?」
「――――」

 ジローの嘘偽りない告白に、目をパチクリさせた詠春は、まじまじと目の前の青年の顔を見て、次に手に持った日本酒に視線を移し、それからまたジローの顔に視線を戻して、

「大丈夫、ここは一種の治外法権ですし。内緒にしておけばバレません――――というわけで、まずは一杯……」

 年頃の娘を持つ親として、そして人を指導する立場にある者として、それは如何なものか、と首を傾げたくなることを言って、もう片方の手に持っていたぐい飲み――深い苔色をした、一見して上物とわかる品だ――にお酒を注ごうとする。
 そんな西の最高責任者の腕を、ジローは無礼を承知で掴んで制止し、そして半ば本気の怒りを込めて抗議した。

「ちょっと、絶対に俺の言葉、信じてないですよね!? さっき人の顔見て、十七歳じゃないって判断しましたよね!?」
「八ッハッハッ、そんなことはありませんよ。さあ、遠慮せずにどうぞ。何だか君を見ていると、若かった頃の自分を思い出すようで……きっと楽しくお酒を飲めます」
「その前に! お酒を飲み交わすのは無問題として!! せめて俺が十代ってことを信じてくださいませんか!? その、『触れて欲しくないなら、触れないでおいてあげましょう』な目をやめてください!!」
「信じますから、血の涙を流しそうな顔にならないでください。しかし、なるほど、お義父さんの『会ったら驚くぞい』という言葉の意味が、今頃ようやく理解できました」

 魂からの主張が通じたのかどうか、それは定かではないが、本心から意外そうな顔で呟いた詠春に胸を撫で下ろしながら、ジローは目を血走らせて、声にならぬ怨嗟の呻きを漏らす。
 曰く、「学園長、帰ったら今回の一件についてじっくり、たっぷり説明していただきます」と――――






 関西呪術協会に所属しているとはいえ、基本、女性である巫女達。
 それ故に、噂話などの雑談には殊更、興味関心が尽きぬものである。
 甘い物は別腹という金言と同じように、女同士のお喋りというのは、それこそ何時間、何十時間でも可能な楽しみなのである。

「それでさ、今日長に親書持ってきた魔法使い君だけど、結構可愛かったねー。西洋魔術師のイメージが変わっちゃった♪」
「妨害にあったとかで、怪我してたのに……あんなに小さいのに健気だよねー。確か、お父さんがあれなんでしょ? 昔、長が所属してた『紅き翼』の――――」
「マジ、有望株って奴ですよねー。あー、もう将来が約束されたも同然じゃないですか」
「あんな形だけど、魔法使いとしての才能は高いみたいだよ? なんか、本場の魔法学校を飛び級で卒業して、しかも主席だったとか!」
「信じられないなー……もう、それだけで勝ち組って感じですよね」

 ネギ達が呪術教会を訪れた時は、呪術師として、凛然とした雰囲気を持っていた彼女達も、一日の業務が終わって、後は身を清めて就寝する時間になると、世間一般の女性と変わらぬ存在に戻る。
 年がら年中、三百六十五日、昼夜問わずに気を張り詰めていられるほど、巫女という仕事は楽ではない。こうして一日の終わりに、今日の出来事などで雑談の花を咲かせることが、彼女達の数少ない娯楽であった。

「一緒にいた女の子達って、結局なんだったんですか?」
「長に聞いた話だけど、魔法使い君って麻帆良学園で先生してるんだって。それで引っ付いてきた生徒みたいよ」
「元気だったよねー。もう、私なんて若さを分けてもらいたいぐらい――」
「アハハ、先輩、言ってることがオバサンっぽいですよー♪」
「おまっ、オバサン言うなー!!」
「キャー、助けて犯される〜♪ って、変なとこ触らないでくださいよ!」

 取り留めない話に顔を綻ばせ、時に少々過剰なスキンシップを行いつつ、掃除も終了して、後は灯りを消すだけの部屋を出るため、巫女達はぞろぞろと出入り口へ向かう。

「ねえねえ、そういえばさ、魔法使い君と他にもう一人、男の人がいたじゃない? あの人も西洋魔術師なのかなー」
「ああ、あの長に挨拶してた人? うーん、やっぱりそうなんじゃないかな、麻帆良の魔法先生は二人って話だし……」
「正直、あっちの人が親書を渡すと思いましたよ、私。堂に入った挨拶だったし、何ていうか……渋みというか、枯山水みたいな魅力がありましたし」
「うっそー、あの人、ただの変わり者っぽいし。アンタ、少し男の鑑定眼が曇ってんじゃない?」
「私は、あの魔法使い君の方がいいかなー。絶対にエリート街道まっしぐら、って感じだし」
「私もー。今のトレンドは、若くて才能があって、しかもカッコ可愛いよ!」

 忌憚のない意見とはいうが、忌憚がなさ過ぎて、とても当人達には聞かせられない巫女達の寸評会は、ジローよりもネギの方が買いである、との結論に至ったらしい。

「でもでも、麻帆良で魔法先生してるんだし、あの人も魔法使い君と一緒でエリートなはずですよー」
「甘い甘い、魔法使い君と……八房さん、だったっけ? どっかで聞いた苗字だけど――――あの二人って、イメージ的にエリート警視と叩き上げの警部じゃない」
「どーせあれでしょー、アンタってお父さんが好きー、とか言ってたし。あの枯れた空気が気に入っただけでしょ」

 他の巫女達と感性がズレていたのか、一人だけジローの擁護に回ってしまい、全員からブーイングや酷評を受けた巫女は、滂沱の涙を流しながら出入り口の障子に手を掛けた。

「るー、いつの時代も、少数派は虐げられる運命なんですね〜…………って、アレ?」

 どうせ、私は男性を見る目がないですよー、と拗ねながら障子を開いた彼女の視界に入ったのは、灰色の学生服を着た、年の頃十四、五の白髪の少年だった。

「…………」
「えーっと……何か不都合がございましたか?」

 何も語らず、無表情に立っている白髪の少年に内心、首を傾げながら客人への対応を取る。
 しかし今日、この総本山を訪れた一団の中に、このような少年はいなかったはずだが、と考えながら、自分が記憶違いや見落としをしていないか疑う。

「あの、申し訳ありませんが、あなたはどちら様でしょうか……」

 念のために今日一日の記憶を振り返り、やはり目の前の白髪の少年は見ていないという結論に至り、警戒から僅かに身を固くした瞬間、

「悪いけど……少しの間、静かにしておいてくれるかな」
「きゃっ――――!?」

 ファザコンの気があると言われていた彼女の意識は、何が起こったのかを理解する間もなく、奈落の底へと突き落とされていた。
 人という存在から、石像という無機物へ変質させられたことによって。

「え……?」
「ま、まさか、侵入者!?」
「急いで警鐘を――――!!」

 白髪の少年が如何なる技を用いたのかはわからずとも、同僚が若干の怯えを見せる石像に変えられたことで、緩んでいた気を引き締めなおす。
 だが、

「『――――小さき王・八つ足の蜥蜴・邪眼の主よ・時を奪う毒の吐息を‥‥石の息吹』」
「マズイッ! みんな、早く逃げて長に報こ――――!!」
「セ、センパイ!」
「きゃあぁぁっ!?」

 最も戦闘経験があったらしい巫女が時間を稼ぎ、総本山に敵襲があったことを詠春に報せるよう、他の巫女達へ指示する余裕も与えずに、白髪の少年は完成させた石化の術を展開させた。





「……少し、範囲が大きすぎたかな」

 部屋の中を濛々と立ち込める白煙の中、煙たそうに顔の前で手を振りながら、白髪の少年がポツリと漏らした。
 目の前に並ぶ、怯えや困惑、驚き、恐怖――――そうした負の感情を滲ませる、ついさっきまで巫女達だった石の像を前にして、英単語のスペルを一文字だけ間違ってしまった、とでも言うような調子で。

「これで本山の人間は粗方、眠らせたかな。次はここの長と、あの変な男の人か……」

 まったく、面倒で仕方がない。そうぼやくように、無表情のまま小さくかぶりを振った白髪の少年は、部屋に残る巫女達の石像を振り返ることなく、その場を後にする。
 その足取りは、出掛けるついでに頼まれた買い物を済ませに行くように自然で、軽々しいものに感じさせた――――






 己が正真正銘の十代であることを、涙ながらに主張する。
 この時点で開始してはいけないジローと詠春の酒盛りは、お互いに勢いよく飲むタイプではなかったこともあって、静かに、その割りに和気藹々とした雰囲気で進んでいた。

「いや……しかし、君を見ているとお義父さんの言っていた、『悪い子じゃない』という表現がよくわかりますね」
「恐ろしく含むものがある評価ですねー」

 交代で一升瓶を持ってぐい飲みに酒を注ぎながら、僅かに酒気を帯びた顔で苦笑いを浮かべあう。
 くい、と軽く杯を傾けた後、綻んだ顔のままで詠春は、首を傾げるように尋ねた。

「ハハハ……ですが、『良い子』ではないのでしょう?」
「そりゃあもちろん。良い子だなんて、ゾッとしませんや」

 問い掛けに対し、どこか皮肉げに口元を緩めたジローは、伝法がかった喋りで答えを返した。
 酒によって顔は少しばかり赤らんでいるが、依然として折り目正しく端座して、ちびちびと思い出すようにぐい飲みに口を付けている姿は、彼が十代である、という事実を疑わしいものにさえしている。

「しかし、あれです。一通り聞き終わった後で言うのも何ですが、さっきの話って酒を飲みながらするものでしたか?」
「フフ、確かにそうかもしれませんが、あまり思い悩んだ空気の中でするのもどうか、と思いまして」
「まあ、違いねぇですが……酒盛りしながら聞かせてもらいました、は言わない方がいいですよね」
「確かに。その辺りについて聞かれたら、上手くぼかして話してあげてください」

 菜の花や筍といった春の京漬物を肴に酒を舐めつつ、ジローと詠春は気が重いとばかりに嘆息した。

「こういう言い方すると、誤解を招くかもしれませんが…………異類婚姻譚ぐらい、どうってことないと思うんですけど。だって、『そういうトコ』でしょう?」
「異類婚姻譚の中でも少々珍しい例だった、ということもありますが……正面からそう問われると、違うとは言い切れないかもしれません」
「摩訶不思議な力を使うんだから、奇妙奇天烈な存在を受け入れるぐらい、わけないと思うんですけどねぇ」

 西洋魔術師の方が強い、いや由緒正しき伝統ある呪術師だ、などという力比べでいざこざが起きる世界で、どうして異類婚姻譚程度に目くじらを立てる。
 理解し難い、と眉を顰めて酒を舐めてから、ジローが思い出したようにぼやいた。

「そういえば、異類婚姻譚てぇのは、水の神さんが動物の姿で現れて娘を娶るとか、恩のある人間の元へ、人に化けた動物が『結婚してくだされ〜』ってのがパターンとして決まってるんですけど……水の神さんの方はともかく、後者は狐女房とか鶴女房、蛤女房――――モチーフが多すぎですよね」
「そうですね、水神の方の話――蛇か猿が多いようですが、そちらと違って異類女房の話は題材が多すぎて、分類が難しいほどです」
「……昔から、そーいう特殊な趣味があったとは考えたくないですね」
「ああ……確かに」

 前者に男が現れる話が多く、後者は女が人間ではないパターンが多いのは何故か。
 三輪山式、苧環型、水乞型など、水神は正体がばれて消える、あるいは死んでしまうことがお約束だが、そこには如何なる理由・目的が隠されているのか。
 正体がバレることで、幸せな生活を過ごしていたはずの動物女房は姿を消すが、不幸な別れ方で終わる話が多すぎではないか。
 そうした民俗学的、文化人類学的な話をしつつ、ジローと詠春の二人は一升瓶の酒を減らしていく。

「考えられるとしたら、蛇やらは男性を意味する隠語で、『まれびと』は実在の人物……例えば山間で生活する狩人集団だったとか、流浪の旅人だった、漂流でもして流れ着いた人物と結婚したけど、その人は迎えが来て帰った……辺りでしょうか?」
「フム、ジロー君の話に当て嵌めて考えると、異類婚などの伝承も、また違った見方ができるかもしれません……あまり気持ちのいい話ではないですが」
「実際、昔話や御伽噺には、性描写を目的に書き綴られたものもありますし」
「結局のところ、私達がどういう捉え方をするか、に落ち着いてしまうようですね」
「そうなるんでしょうねぇ……当時の話を又聞きしたものを記録として残してるから、信憑が定かでないものばかりだと、知り合いも嘆いていました。人を鬼や天狗として表現することで、物語を作ってる場合もあるようですし」
「ふむ、現実に鬼や天狗が実在していたりするので、ややこしさも倍増でしょうから……真偽をはっきりさせるのは、難しいと言わざるを得ませんね」

 そこで唐突に話の流れが切れて、二人は空になったぐい飲みを眺めてから、お互いの顔を見合わせて首を傾げた。

「――――ところで、何故に俺達は民間伝承の真相について話し込んでいるのでしょうか?」
「さて……どうしてでしょう」

 今更ながら、自分達は何の話をしていたのか、と半分ほど中身の減った一升瓶から酒の酌を交代で行いながら考える。
 その様子は紛うことなく酔っ払いであり、事実、二人してとても良い気分になっていた。
 どちらともなく居住まいを正し、酒盛り開始時の真面目な空気を復活させる。

「話を戻させていただきますが……できることなら、刹那君をそれとなく助けてあげていただけますか。しっかりしているように見えて、まだ精神的に脆いところがある女の子なので」

 ほろ酔い気味の赤らんだ顔。だが、酔狂ではない真摯な気持ちから詠春は頭を下げた。
 陰日向なくネギのサポートに回るだけでも大変だと知りながら、木乃香の親友で、同時に、血の繋がりがない『我が子』でもある少女の幸せを想って。

「あー……俺は助けたりしませんよ? まあ、自分で動こう、頑張ろうって考えてもらえるよう、口は出すかもしれませんが」

 詠春と同じく赤らんだ顔で、迷惑そうな半眼になったジローが、口を尖らせるように返した。
 本心から迷惑だと考えているのではなく、厄介な問題を押し付けられて、さてどう動くべきかと頭を捻っているのだろう。
 気難しげに眉根を寄せているジローに、妙な親近感と申し訳なさを覚えて苦笑した詠春は、静かに酒の杯へ口を付けてから言った。

「それだけでも充分、ありがたいですよ……私個人としては、少しばかり不満かもしれませんが」
「はあ……?」

 ほろ苦く笑って杯を傾けている詠春に、気の抜けた相鎚を打ったジローは、手に持っていたぐい飲みを畳の上に置いて、

「すみません、厠をば使わせていただきたく」

 何だかんだで、それなりの酒量を飲んだからだろう。神妙な面持ちで、少しだけ席を外したいと申し出た。

「ええ、どうぞ。場所はわかりますか?」
「そちらはご心配なく、把握していますので」

 声をかけてきた詠春に首を巡らせて頷き、部屋を出た後、静かに障子を閉じて歩き出す。

「麻帆良の宴会と大違いだなぁ……」

 時々麻帆良で開かれる、魔法先生の寄合の名を借りた酒宴の様子と、ついでに泣き上戸なのか笑い上戸なのか、はたまた甘え上戸なのかはっきりしない某シスターに絡まれる不幸も思い出して、ジローは苦々しく笑った。
 廊下の突き当たりにある手洗いに入り、用を済ませる。

「しっかし、まぁ……面倒なこって」

 詠春から聞かされた、刹那に関する『とある秘密』について思いを巡らし、しみじみとため息をついた。
 話を聞いたお陰で、大切な友人であるはずの木乃香に頑なな態度を取り、その反面、何がなんでも守ろうとする矛盾した行動や、極稀に感じさせた『線引き』の理由についても、腑に落ちたのだが。

「悩み多き思春期、って奴さね」

 うんうん、と訳知り顔で頷いているジローの顔に、思い悩むような真剣さは見当たらなかった。

「この場合、刹那と木乃香の両方に悪いとこがあるなぁ、うん」

 確かに、壁を作って引いた刹那にも、堅く冷たい態度を取られて、結局は刹那と同じように引いてしまった木乃香にも、反省すべき点はあるのだろう。
 だがそれは、近付いて嫌われたくない、傷つきたくないという心と、下手に踏み込んで嫌われたくない、傷つけたくないという、思いやりと怯えに似た感情ゆえに。

「何だっけか……ハリネズミのジレンマとか、何かそーいう感じだな」

 酒のせいで僅かに揺れる頭で考えを纏めていく。
 結論として弾き出されるのは、

「あー、あれだ、俺がどーこう言っても意味ないな。どっちかがこう、ドーンと相手の懐に踏み込まないと」

 酔っ払い独特の、擬音を用いた大雑把な言葉。
 それができるなら、今こんな状況にはなっていないな、と緩い苦笑を浮かべながら廊下を歩き、ジローは詠春が待っている部屋の障子に手を掛け――

「ッ!!」

 突如、背中を走り抜けた悪寒に突き動かされるように、大きくその場から飛び退いた。
 横へ跳んだジローの影を、障子を突き破って現れた数本の石杭が貫いて、背後の庭にある桜の木へ撃ち込まれる。

「な゛――――お前っ!?」
「…………」

 何が起きたのか理解できぬまま、受け身を取って立ち上がったジローの前に、倒れた障子の上を歩いて廊下へ現れたのは、灰色の学生服を着た白髪の少年。
 ただの木片と化した障子が、白髪の少年――フェイトの足の下で擦れる音を立てる。

「逃げ……なさいジロー君、その少年は只者ではありません!」

 思いがけない人物の登場に目を見開いたジローに、部屋の中にいたらしい詠春の声が届く。その声には逼迫した響きがあり、彼が何らかの攻撃を受けたことを感じさせた。

「驚く程の勘のよさだね。まさか、あのタイミングで躱されるとは思わなかったよ」

 表情を変えることなく、自身の力が相手よりも優位であると認識しているからこその言葉を呟き、フェイトが佇んでいた場所より姿を消す。

「――!?」

 フェイトが姿を消す直前、ジローは彼と対峙していた場所から後方に跳び退っていた。
 だが、それでもフェイトは当然のようにジローの懐に踏み込み、無感情な瞳で彼の事を見上げていた。
 全身の血液が凍るような悪寒が駆け抜ける。

「あなたは毛色が違いすぎて……目障りだよ」
「っ、く!!」

 目障り、故に理想的な形で排除しておく。言外に宣言する言葉と共に、自分の胸へと伸ばされたフェイトの手を、ジローは咄嗟に鉄槌――正拳の小指側で叩く技――で下にずらしていた。
 次の瞬間、廊下にドズンッ、と皮袋を強かに打ち据えたような音が響き、

「――――ガッ、あ゛ぎッ……!?」

 腹部を巨大な釘を思わせる石の杭に穿たれ、数メートルも宙を飛ばされたジローが転がっていた。
 石の杭が生えた腹の辺りを押さえ、全身を駆け回る熱のような痛みに耐えかねて、廊下で溺れているようにのた打っているジローを、フェイトは依然として冷めた瞳で眺めていた。

「随分と思い切ったことをするね。横にずらそうとか、躱そうとしていたなら、さっきので楽にしてあげられたのに」
「ハッ、が、ぐぅぅ……!!」
「あまり大きな声は出さないでほしいかな。まだ、お嬢様の確保も残っているし」

 目に涙を浮かべて喘ぎながら、廊下の柱に縋るようにして立ち上がったジローに、フェイトは何の感情も見せず言い捨てる。
 そして、彼にトドメを刺すつもりなのだろう、悠然と手を持ち上げた。

「それじゃあ――」
「ハァッ、ァ……ア゛ァッ!!」
「!」

 だが、フェイトがトドメとなる攻撃を放つよりも一瞬早く、ジローが手より小規模の爆炎を撃ち出した。
 無詠唱で呪文も使用せず、また腹部に刺さったままの石の杭のせいで、ろくに集中もできずに編まれた魔法の炎は、フェイトはおろか、周囲の柱や障子の紙すら燃やせない虚仮威し。

「…………ある意味、潔いと言うべきかな?」

 恐らく障壁なしでも、火傷さえできないだろう目晦ましの炎が消えた後、一人廊下に残されたフェイトはポツリと呟いた。

「普通なら、部屋の中の人が無事かぐらい知りたいと思うはずなのに」

 ついさっきまでジローが立っていた場所は、最初から人などいなかったように静かな空気を湛えている。
 ただ、そのすぐ横にある部屋。そこの出入り口である障子が、部屋の中に向かって倒れていた。
 手で開ける暇も惜しんで、蹴り破ったと見える。

「…………」

 後を追って、完全に息の根を止めておくべきか。無表情に剣呑なことを考えながら、フェイトは後ろを振り向く。

「無理に動くと、大変なことになりますよ」
「ぐ、ぬ……」

 巫女達が喰らったものと同じ術によって、下半身を石化させられたらしい詠春が、ままならぬ体を引き摺るように廊下へ出てきていた。

「君は、一体……天ヶ崎千草の仲間、ですか」
「……ご想像にお任せしますよ」

 必死の形相で質問をする詠春に素っ気無く答え、フェイトはそれっきり興味を失ったように視線を前に戻す。

「ま、待ちなさい……!」
「心配しなくても、一般人の女の子達に危害は加えません。ただ、暫くの間、静かにしておいてもらうだけです」

 制止しようとする詠春に振り返りもせず、フェイトはそれだけを言い残して廊下を歩いていく。
 石になりかけた体は言うことを聞かず、遠ざかるフェイトの白髪を見送るしかなかった詠春が、自嘲するように呟いた。

「参りました、ね……本山の守護結界をいささか過信、していたようです……」

 平和ボケここに極まれりです、と声に出さず自分を罵る。
 現役の頃なら、サウザンドマスターと共に戦場を駆け回っていた頃なら、酒を飲んでいた程度で不意を突かれるなど、あり得なかったはずなのに。
 全ては結果論だと理解しながら、自身の衰えを目の前に突き出された遣る瀬無さに、詠春は眉尻を下げて寂しげに笑う。
 いつの間にか、過去を懐かしむほどに自分は老いていたらしいぞ、と。

「さ、て……ジロー君の無事を確かめたくは、ありますが……。まずは、この……ことを誰かに伝えなくては……」

 歩くたびに、ゴトゴトと立て付けの悪い引き戸のような音を立てる足で、詠春はネギや刹那達のために用意した部屋を目指す。
 下半身から聞こえるピシピシという音は、徐々に石化が進行している証。
 残された時間が少ないという焦燥と、己の体がリアルタイムに無機物へと変わっていく、肌が粟立つような怖気に急かされて、詠春は壁伝いに夜闇に染まる廊下を進んでいった――――






 大半が破れかぶれで放った魔法で、どうにかフェイトの前より逃走を成功させたジローだったが、

(……マァズイ、身体が冷たくなっていく)

 現在、彼は襲撃を喰らった詠春の部屋から七つ、八つは離れた部屋の中で転がっていた。
 左脇腹の辺りに、岩から削りだしたような石杭を突きたてたままの、百舌の速贄を思わせる無惨な状態で。
 自分の体ではないように、石の杭に貫かれた腹部が疼いている。
 立ち上がらなくてはと思うが、熱病に侵されたように体は重く、脂汗が滲む頬を畳に擦り付けるだけに終わった。

「――――っ、まぁだだ……まだ、寝るなよ……」

 痙攣するように肩を震わせ、い草の香りを気付け薬代わりに意識を奮い立たせた。
 芋虫のように緩慢な動きで上半身を蠢かせ、ずるずると壁際まで移動する。

「しかし、手酷くやられた……。個人的に、あの白髪頭に恨みを買った覚えはないん……ですけど?」

 そう言って、ジローは自分の腹部に視線を落とした。
 洋服チェーン店で買ったばかりのTシャツとジャケットだが、もう着れないだろうと苦笑しながら、背中まで突き抜けている石杭の先端を撫でた。
 壁に背中を預けて額にびっしり浮いた汗を拭い、ジャケットの懐に入れた携帯を取り出そうとして、苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちする。

「どぉしてくれんのよ……携帯までオシャカですよ、コレェ? 安くなるって店の人に言われて、機種変更したばっかなのに……!」

 内ポケットに入れていたせいで、石の杭が直撃したのだろう。基盤やパーツを溢す、二つに分断された携帯電話を投げ捨てて愚痴る。

「あ゛ぁ、労災云々ってレベルじゃねぇよ、もう……」

 できることなら、電話で済ませたかったのだが、とジローは忌々しげに歯軋りした。
 頭を悩ませているのは、総本山に引っ付いてきた3Aの生徒達をどうにか逃がすための算段。
 正直なところ、ネギの力や魔法の存在を知っているのどかや和美にしろ、純粋とは言い難くも一般人である夕映やハルナにしろ、ろくに戦闘もできない彼女らの存在は重荷である。
 だが、それ以上にジローが思うのは、

「いやはや、考えが甘かったか? こんな楽しくない騒ぎ、巻き込みとうなかったさね……」

 という事であった。
 携帯電話が壊れていなければ、どうにか誤魔化し、騙くらかして、はぐらかすこともできたのだが、それはもう叶わぬ願いという奴である。
 壁に背中を擦り付けるように立ち上がり、腹部に生えたままの石の杭にジト目を送りつけて、ジローは心の底から願うように呟いた。

「騒ぎが収まった後、総本山を挙げてのドッキリでした〜……みたいな話を信じてくれると、俺としては嬉しいのですが」

 可能性はないとは言い切れない。何故なら彼女達は、悪名高い3Aに所属している少女達なのだから。
 過分に失礼なことを考えつつ、ジローは覚悟を決めたように大きく息を吐いて、腹に突き刺さる石の杭の先端を両手で掴んだ。

「まだ無事だったとして……こんな状態で顔出すのは、やっぱり駄目だよなぁ」

 数回の深呼吸の後、両手に力を込めて無遠慮に動かそうとする。

「ン……グギッ、ガ――――ッ!!」

 途端、焼けた鉄を流し込まれるような痛みが、胃の腑から背中を駆け上がってこめかみを痛打した。

「ギャ、アァッ……ンガァァァッ……!!」

 食い縛った歯の隙間から、次から次に苦悶の呻きが漏れた。
 想像していた通りの痛みに涙を溢しながら、接着剤でも使ったように腹部にしがみ付く石の杭を引っ張る。腹部から届くブチ、ブチという音を聞いて、ジローは口元を絞るように吊り上げた。
 痛みを堪えるための表情。だが、亀裂のような笑みは、まるで今の状況を楽しんでいるようにも見えた。

「ハァ、ハッ……こういう時はあれだ、なぁ? 普通人だった時が懐かしいよ、こんちくしょう……」

 使い魔としてネギに召喚され、そのオマケとして向上したような回復力と修復力に怨嗟の呻きをぶつける。
 手加減抜きに引っ張っているのに、一向に石の杭が動く気配を見せないのは、元に戻ろうとした肉や皮膚に巻き込まれ、癒着してしまったからだ。
 絡まった釣り糸を無理に解こうとするように、肉や皮膚によってぎちぎちに固定された石の杭は、そう簡単に引き抜くことはできない。
 本当に、今この瞬間だけは、無駄に頑丈で死ににくい使い魔体質とやらが憎らしかった。

「ハハッ、ハァ……! もう、痛くて痛くて……何もしたくないぐらいに痛ぇのに…………」

 ギリリッ、と食い縛った歯が軋む音を立てる。
 渾身の力で握られた石の杭に、ビシリという音と共に亀裂が入った。

「――――どうせ休むなら有休で、なんて考えてしまうわけ……ですよっ!」

 凶悪極まりない笑みを浮かべ、だというのに、酷く同情を誘う主張を行いながら、ジローは石の杭を掴んだ手を前方に突き出した。
 ボジュッ、と思わず眉を顰めてしまう、本能的に淫靡に感じるような音が部屋に響く。
 栓の代役を務めていた石の杭が、引き千切られるようにジローの腹部から抜き取られ、大きく開いた傷口から一拍遅れて飛び散った紅が、畳というキャンパスに撒き散らされた。

「ッ、ガハ! ハァ、ハァー……………………やっぱり、ここで休んじゃ駄目でしょうか?」

 部屋の真ん中辺りに石の杭を投げ捨て、背中を壁に預けて荒い息をついていたジローが、顔をクシャクシャに歪めて呟いた。
 腹から溢れ出る血よりも、両の瞳から流れる涙の方が熱く感じた。
 やはり無理はするものではないと、とうに他界した祖父母や、愛犬のヌイに慰めの言葉を求めるように天井を見上げる。
 せめて、腹部の痛みがマシになるまで。涙と一緒に出てきた鼻水を啜り上げて、ジローは大きな、それはもう、本当に大きなため息を吐き出した――――







後書き?)今回はもしかして、十五禁になるのだろうか。そんな話。
 ラカンの強さ表がどういう基準かはわかりませんが、激強なフェイトが相手だし、これぐらいの差はありそうだ、で。
 巷で鈍った衰えたと言われている詠春さんですが、今回は酒を飲んでいたということで敗北。現役時代がどのぐらいかは知りませんが、仮にも英雄パーティー。ただ不意を突かれたよりは、原因があっていい……のかなぁ?
 何だかんだで、今回一番、力を入れたのは冒頭の教会組だろうと思いつつ。
 感想、指摘、アドバイス、お待ちしております。




「第二幕・ボケ殺しの聖剣?」



 総本山を覆うように展開されている守護結界。それに触れるほどの距離にある高い木の上で、天ヶ崎千草は単身、本山に侵入したフェイトの帰還を待っていた。

「なー、千草姉ちゃん。あの新入り、ホンマに大丈夫なんか?」
「やれる言うてたんや、大丈夫なんやろ。無理やったら、ウチらだけで何とかせなあかんのが厄介やけど」
「まー、あの結界の中に侵入できるだけでも凄いしなー」
「…………そうやな」

 背後から、頭の後ろで手を組んで話しかける小太郎に、できるだけ感情の色を見せぬようにしながら返す。
 内心、ネギ達に読心術使いの少女が加わったことで、まんまと出し抜かれた奴が何を呑気に、と思っていたりもするが、過ぎたことを責めても仕方がない。
 足場にしている木の枝から見下ろせる総本山に視線を戻し、千草は背後の別の枝に立っている小太郎と月詠に指示を出しておいた。

「新入りが上手いことやって、お嬢様を連れて帰ってきたら、手はず通りにいくで。たぶん、連中はしつこく追いかけてくるやろからな」
「……おう」
「了解です〜」

 何か思うところがあるのか、総本山だけを見つめて身動ぎもしない千草を、やや訝しく見つめながら頷く小太郎と、雇い主の様子など気にしていない感じに返事する月詠。

「…………ここで三人固まっててもしゃあないし、アンタらは先に持ち場に行っといてくれるか? 新入りはウチ一人で待っとけば十分やし、アカンかった時はバラバラで逃げた方がええから」
「別に構わへんけど……まあええわ、ほんなら先に行っとくで?」

 終始、沈んだ調子で指示を出す千草に眉を顰めつつ、小太郎は躊躇した様子もなく木の枝から飛び降りた。
 地上まで優に十数メートルはあるというのに、微かに聞こえたのは葉や木の枝が擦れる音だけで、着地を知らせる音はしなかった。

「……何か考え事でもされとるんですかー?」
「別に。アンタには関係あらへんやろ」

 一人残り、首を傾げて聞いてきた月詠を横目に見て、千草は冷たい声で質問を跳ね返す。人のことに興味を持つな、と。
 そこにあるのは、金で結ばれた主従関係の領分を越えるな、という警告。

「いややわー、怒らんといてください〜」
「…………さっさと行き」
「了解ですー♪」

 クスクスと忍び笑いするロリータ服の少女に嘆息し、囁くほどの大きさで促す。
 何が面白かったのか、一際明るく返事をした月詠の姿が小太郎と同じく、木の下に広がる闇夜に吸い込まれていった。
 目の奥に残るような、暗闇の中で目立つ色をした月詠の服にため息をついた後、千草は再び総本山に視線を戻して呟いた。


 ――どうせ復讐するなら思いっ切り幸せになって、不運不幸に『ざまあみさらせ』って笑ってやる方が楽しそうだ


 本山に忍び込む直前、フェイトに念を入れて始末しておくよう言っておいた、あの妙に緩い男の言葉が頭をちらついていた。

「思いっ切り幸せになってとか、ざまあみさらせ……? そんなん、本当に大切なモンを奪われたことがない奴の発想や。そのこと、よーわからせたる……」

 行き所のない感情を八つ当たりの言葉にして、飄々と笑っていた男――ジローに囁くようにぶつけて、口元を笑みの形に歪ませる。
 僅かに上げた千草の視線の先にあるのは、黒々とした山のシルエット。その向こうの湖に鎮座『させられた』、今回の計画の『要』の存在に思いを馳せる。

「英雄やのに、極悪非道の化けモンとして殺された存在で、西も東も滅茶苦茶にしたるわ……。サウザンドマスターみたいな、人外の化けモンを英雄として祭り上げとる奴らには、ちょうどええ意趣返しやろ」

 そう言って、木の上に立つ千草は、口元を袖で押さえるようにして笑った。
 クツクツと喉を鳴らすように。気が済むまでたった一人で、誰と共有することもできない、つまらない笑いを続けた――――






 その日、綾瀬夕映は自分の『常識』というものが揺るがされる事態に遭遇した。

「あれー、何僕? お屋敷の子かな?」

 始まりは、部屋を訪れた白髪の少年に声を掛けたハルナが、何の冗談か石像に変えられてしまったことから。

「――――」
「ぶわっ! ケホケホッ、何この煙ー!?」

 突如、外国語――ラテン語と思われる響きであった――を呟いた白髪の少年の手から、白い蒸気に似た煙が噴き出したと思った次の瞬間、咳き込んで口を押さえた格好で石と化した親友がいた。

「パ、パルッ……!!」
「君の『アーティファクト』は危険だね。眠っていてもらうよ」

 その次に石像へ変えられたのは、ハルナと同じく、中学に上がった頃からの親友の宮崎のどか。
 もしかすると、部屋に現れた白髪の少年と戦おうとしたのか。浴衣の帯に差し込んでいたらしい、タロットを思わせるカードを取り出そうとしたのどかに、襲撃者としての本性を現した白髪の少年は、妙な単語を口にしながら白い煙――ハルナの時と同じく、吸うか触れるかすると石化してしまうらしい――を噴き付けた。

「な、ななな、何事ですか!?」
「こりゃあ……」

 混乱して声を荒げていた自分と違い、何らかの事情を知っていたらしい和美の呟きに気付き、事の詳細を問い尋ねようとしたのだが。

「ゆえっち、あんた逃げろ! あんたちっこいし、頭回るし、体力あるだろ!? 早くッ!!」
「あっ!?」

 どうやら、想像以上に危険な状況だったらしく、助けを求めるよう言付けられた挙句、和美に滞在していた部屋の外へ突き飛ばされてしまった。
 加減する余裕もなかったのだろう、和美の肘が当たった胸の辺りは、今もズキズキと鈍い痛みを訴えている。

「し、しかし、そうは言っても朝倉さん! 警察はおろか、こんな非現実的な事態に対処してくれる所など、日本のどこにもないです……!!」

 身を楯にして部屋より脱出させてくれた和美の行為を無駄にしないよう、まずは総本山を離れるために、最初に潜った山門を目指して走りながら夕映は叫んだ。
 こんな時、異常な事態に詳しい人が側にいてくれれば。心の底からそう思う。

「荒事や珍事に耐性がある人……! 誰か、誰かいないですか!?」

 理解の範疇を超えた事態にこんがらがった頭で、自分の知り合いとして記憶している人物から、『トラブル解決』、『騒動に慣れている』といったキーワードに合致する人間を探す。

「――――そう、ジロー先生はどうですか!?」

 咄嗟に浮かんだ人物が、色々と思うところや物申したいところがある青年だったということが、夕映に微妙だが冷静さを蘇らせた。
 帯に差し込んでいた携帯電話を取り出し、震えて滑りそうになる指でボタンを操作して、電話帳に記録してある副担任の番号を呼び出し――

『――――現在、この電話は電波の通じないところにあるか、電源が切られて‥‥』
「つっはぁ!! 何て間の悪い人ですか!? こういう時ぐらい、パッと電話に出てくれても、バチは中らないですよ!!」

 その青年の携帯が、襲撃者である白髪の青年の攻撃によって、無惨にも真っ二つに壊されていることを知らず、理不尽な非難の声を上げる。
 それは偏に、青年なら助けてくれるだろうという期待の裏返しだった。

「お、落ち着くです! こういう時は、こういう時は…………そ、そうです、あの人達なら!?」

 総本山の山門が見えたと同時に、夕映の脳裏に『とある少女達』の後ろ姿が浮かび上がった。
 一人は、留学生として同じクラスに所属している、金髪褐色肌の功夫の達人。もう一人は、隠しているのか、それとも宣言しているのか不明な、現代を生きる忍者。
 どちらも、常人離れした戦闘力や運動能力を有した人物であることは、以前、数名で遭難した図書館島ダンジョンにて実証されている。
 正直な話、このような異常で非常識な事態に協力を頼むのはどうか、と考えないでもない。麻帆良で起きる騒動よりもレベルやスケールが大きくて、彼女自身、今も受け入れることができないでいるのだから。
 最悪、頭を打っていないかなど心配されるかもしれないが――

「頭の心配をされようと、これは間違いなく現実! やるべき問題への対処のためなら、何と言われようと構わないです……!!」

 暗闇を湛えている山門の向こう側を目指して走りながら、夕映はチーム・バカレンジャーに所属しているメンバーの電話番号を呼び出し、発信ボタンを押した。

「……早く、早く出るですよ、バカブルー!」
「――――」

 自分の背後に、親友を始め、本山中の人間を石に変えた白髪の少年が、音も無く現れたことにも気付かずに。
 門を潜らせはしない。無言のまま、そう告げるように手を振り上げ、石化の呪文を唱えようとする白髪の少年――フェイト。
 間近に迫った危機に気付くことなく、夕映は電話の向こうに相手が出てくれることを一心に願いながら走っている。
 だが、次の瞬間、

「!?」

 異常事態に鋭敏になった本能が何かを訴え、バッと音を立てて振り返った夕映の視界。
 そこには、ただ重い夜闇と沈黙を纏った総本山の建物が佇んでいた。

「…………き、気のせいでしたか? と、とにかく急がなくては……あっ、か、かかかッ、楓さん!!」
『おや、バカリーダー? どうした、まずは落ち着くでござるよ――』

 最初に電話をかけた青年と違い、ちゃんと電話に出てくれたクラスメイトの声に泣きそうになりながら、夕映は携帯電話片手に山門を走り抜け、そのまま麓にある駅を目指して駆けていった――――






「…………まあ、一人ぐらい問題ないかな」

 夜の山の闇に飲み込まれ、もう着ていた浴衣の色さえ追えなくなった夕映を見送って、フェイトはどうでもよさそうに呟いた。
 そして、視線を山門から自分の正面に向けて口を開く。

「せっかく逃げ果せたんだから、大人しく休んでおけばよかったのに」
「――――やか、ましい……お前が言うな……」

 フェイトの視線の先で、苦しげに片膝を突いているのは、夕映に電話に出ないことを責められていた青年――ジローだった。
 和美に救援を呼ぶよう、部屋から脱出させられた少女にあっさり追いつき、そのまま他の者と同じように石化させようとしたフェイトだが、それが上手くいかなかったのは、寸前で夕映との間に割り込んで攻撃を仕掛けてきたジローが原因。

「ハッ、ぁぐ……」
「今更、あの女の子を一人逃がしたところで、どうにもならないと思うけど……」

 よろめきながら立ち上がったジローに、フェイトは感情の含まれない瞳を向けて告げる。

「いやいや、わかりませんよぉ? こうして……半死人な俺の邪魔を許してる時点で、お前さんがいかに詰めが甘いか、ってーのが証明されとるわけだし」

 夜闇の中で、紙のように白くなった顔に笑みを浮かべるジロー。
 明らかに無理をしているとわかるのに、その笑みには余裕を感じさせる緩さがあった。

「――――精々、吠え面かかされんよう気をつけるこった、この阿呆」
「…………わからないな、明確な実力差を持つ相手を挑発できる、その無謀な勇気」
「若いくせに総白髪で、楽しみの一つもなさそうなお前さんにゃあ、わからんだろうさ」

 皮肉げに口元を歪め、ふらふらと体を揺らしながら構えたジローに呆れたように息を吐き、

「そうだね、わかる必要もないかな。あなたみたいに、『中途半端』な人間の考えなんて」

 天守閣での千草への語りや、大言を吐くに相応しくない実力、そして、微かに感じたジローの人ならざる部分について、無感情に揶揄したフェイトが動いた。
 最初の戦闘とは呼べぬ一方的な攻撃と同じく、一瞬でジローの懐に潜り込んだフェイトが、腰まで引いた拳を真っ直ぐに突き出す。

「千草さんに言われてるけど……興が冷めたよ。命だけは助けてあげるから、少し静かにしておいてくれるかな」
「――――ッ、くそ……」

 夕映を助けた時が限界だったのだろう。
 腹部の傷のせいで、まともに動くことができないジローの防御を弾いたフェイトの拳が、総本山に蔓延する沈黙を破って、肉を打つ重い音を響かせた――――






 本山に敵が現れた。その驚くべき事態に気付いたのは、全てが後手に回った時だった。
 微かに届いた生徒達の悲鳴を聞き、3Aの少女達が滞在していた部屋に駆けつけたネギが目にしたのは、無惨にも石に変えられた、のどかやハルナ、和美の姿だった。

「――――僕のせいだ……僕のせいでみんなを……」

 シネマ村でジローや刹那、木乃香の三人と合流する予定だった場所に現れた、一般人の生徒達。魔法を知っている、知っていない関係なく、彼女達を『裏』に関わる場所へ連れて入ってしまったことが間違いだったのだ。
 あの時、合流地点に姿を現した少女達を、例え嫌われることになってでも追い返していれば。
 そんな、考えるだけ無駄な『もしも』を考え、力が抜けたように膝を突いたネギを、彼の肩の上に乗っていたカモが叱咤する。

『兄貴、何へたり込んでんだ!! 起こっちまったもんはしょうがねぇだろ!? しょげてても意味がねえんだよ! まず対処だ、今できることを考えるんだ!!』
「で、でも――――!?」

 見様によっては冷たくも感じるカモの提案に、一瞬だが思い出したくない、だが今でも夢に見て後悔の念を抱く、『過去の悲劇』が蘇ってカッとなり、顔を上げたネギの目にあるものが飛び込んできた。
 外から入り込む月明かりに照らされた室内。仄かに明るい部屋の中で、奇妙なまでにくっきり浮き出す色が存在している。

「あれ…………も、もしかして……血?」

 部屋の奥の襖。通せん坊するように、手を広げて立つ和美の石像の後ろにある襖に、べったりと擦り付けられたような赤黒い手形があった。
 大きさから判断するに男性。それも成人か、あるいはそれに近い背格好の人物のものである。

『こりゃあ……』
「…………」

 カモと二人、緊張から唾を飲み込んで、恐る恐る部屋の奥へ近付く。
 あまり考えたくない光景を想像し、ゆっくりと襖の向こうに続く部屋を覗き込んだネギとカモの顔が、薄闇の中で驚きにはっきり歪んだ。
 月明かりが届かないため、途中で闇に紛れてしまっているが、襖の向こうにあった部屋の、さらに向こうの部屋からずっと続いているらしい、赤い斑模様の道を見てしまったために。

「――――ッ、ウ゛……!?」
『お、落ち着け、兄貴! 廊下に出て深呼吸だ!!』

 部屋の中に染み付いたように漂っている錆鉄の匂いは、その赤い斑の道から来るものか。
 鼻血が出た、唇が切れたといった、殴られた時の出血量の比ではない。今まで、こうした血生臭いものに遭遇する機会がなかったネギは、口に手を当てて嘔吐いてしまった。
 血に酔うという表現の通り、胃がひっくり返ったような悪酔いが、頭を掴んで振り回している。
 慌てて外の空気を吸うよう指示するカモに従って、石像になった和美達にぶつからないよう注意しながら、廊下まで走り出て膝を突いた。

「げ、ぇほっ! カッ……カモ君、アレ……」
『…………』

 廊下の柱に縋るように手を突き、勝手に浮いた涙を袖口で拭きながら問うネギに、カモは沈痛な面持ちで無言を返す。

「カモ君……」
『……わざわざ石化を使ってんのは、堅気に危害を加える気はねえって意思表示のつもりだろ。少なくとも、そこだけは安心していい。兄貴、まずはパクティオーカードで姐さんに連絡しろ。そん次は、長を見つけて――――』
「カモ君!!」

 口にしたくない楽観的な答えを求めるネギから目を逸らし、努めて淡々と緊急事態への対処を指示するカモに、痺れを切らしたネギが切羽詰った叫びを上げた。
 殊更、冷静な様子で話すカモに、自分の嫌な予想が当たっていることを悟らされて。

『こんな時に姿が見えねぇ以上、まず相棒が潰された……そう考えて行動しなきゃなんねぇ状況なんだよ、兄貴!!』
「で、でも……!!」
『でもも案山子もねえ、相棒の前に俺っち達は、自分の心配をしねぇとなんねぇんだ!! 本山のバカ強い結界を抜いて、嬢ちゃん達を石化して、不意打ちかなんか知らねぇけど、相棒に相当の怪我までさせてんだ。敵さんはこっちよか腕利きって考えるべきなんスよ!?』
「ぅぐ……」

 非常事態で、しかも相談相手を務めてくれるはずの相方――ジローがいないことが、カモに非情なまでに現実的な対策を考えさせていた。

『…………それに相棒の姿が見えねぇのは、無事に敵の攻撃を切り抜けて、俺っち達と合流するために動いてるからかもな! 飄々としてっけど、あれで相棒は滅茶苦茶、生きしぶといしよ。ひょっこり顔出すに決まってら♪』
「――――う、うん、そうかもしれない……ううん、そうに決まってるよね!」

 先までの血を吐くような口調から一変して、普段のように明るいお調子者の声で話すカモに釣られ、自身を元気付けるような笑顔でネギがガッツポーズする。
 無理矢理に気を楽にしたい、希望的観測に過ぎないとわかっていても、そうして笑うことで二人とも幾分、落ち着きを取り戻した。

『よっしゃ、敵の狙いがこのか姉さんってのはわかってんだ! まずは姐さん達と合流だな。場所は――そうだな、さっきの風呂場辺りがいいと思うぜ』
「うん! じゃあ、カードでアスナさんに――――」

 ズボンの太腿部分に付いた収納部分に入れている、アスナとのパクティオーカードを取り出して、念話を使って呼びかけているネギの肩の上で、カモは首を巡らせて室内の残された、ジローの怪我の痕跡を睨むように見つめる。

(何やってやがんだ、相棒……。早ぇトコ出てきて、いつも通りの緩い笑い顔を見せてくれよ……)

 奇襲程度で自分が相棒と呼ぶ、使い魔もどきの青年が命を落とすとは思えなかった。
 実力がどうとか、命懸けの戦闘経験がどうではなく、ただ純粋に相棒に――ジローに対する信頼が、カモの中で大声を上げて主張していたからだ。

(大丈夫だ……相棒なら大丈夫だ……!)

 だから、自分はネギのサポートに全力を尽くそう。声に出さず、そう決心する。オコジョ妖精の自分にできることなど、嫌になるほど理解しているから。
 それで腐るような、格好の悪いことはしねぇ、とカモは鼻息荒く呟く。
 力がないから、戦闘で役立てる力がないから。そんなものを言い訳に、何もしないなどという、オコジョ妖精の風上にも置けない行為、自称・漢の中の漢 アルベール・カモミールにできるはずもないのだから――――






 パクティオーカードを通じて、ネギから敵襲の報せを聞いたアスナは、ちょうど一緒にいた木乃香を連れて風呂場――先刻、あられもない格好で男四人の前に転がり出てしまったばかりである――に篭って、周囲を警戒していた。

「ネ、ネギの奴はまだ来てないみたいね」
「せっちゃんもいーひん……」

 元々、ネギに合流場所として提示された場所は、風呂に入っていた時、木乃香に話したいことがあるので、と刹那に言われて連れてくる予定だった。
 てっきり、先に来ていると思っていたのだが、ネギも刹那もまだ到着していないらしい。
 いつ敵が襲ってくるのかわからない。味わいたくもない緊張に喉を鳴らし、パクティオーカードを『ハマノツルギ』に変化させたアスナは、木乃香に自分の後ろから離れないよう指示して、忙しなく左右に視線を巡らせる。
 少なくとも目に見える範囲に、敵の影らしいものは発見できなかった。

「――――――――!!」

 そのことに内心、安堵の息をつきかけ、だが次の瞬間、背中に冷水を含ませた冷たい筆で撫ぜられるような感覚が走り、右足を軸に身体を回して、手にしたハリセン型のアーティファクトを振り抜いていた。
 木乃香の頭上を通るよう注意しつつ、手加減抜きの全力で振られたハマノツルギが、アスナや木乃香の背後にあった水溜りの中から、音もなく出現していた白髪の少年――フェイトの顔面を強かにはたいた。

「…………すごい、訓練された兵士のような反応だ」

 ハマノツルギが持つ術者泣かせな能力のせいか、展開させていた障壁を無視してはたかれた顔に指で触れ、無表情だが素直に感心した風にフェイトは呟いた。
 不意を突くから不意打ちなのに、完全に反応して、見事なまでの反撃を繰り出したアスナは、確かに素人の女子中学生の範疇にないだろう。

「ア、アスナー……」
「心配しないでいいよ、木乃香。こんな奴、私が追っ払ってあげるから!!」

 先の超が付くような反応の割りに、素人丸出しの正眼でハマノツルギを構えるアスナが、本来なら隔絶した実力差を持つ白髪の少年を前に、自信過剰に思える啖呵を口にする。
 背中に隠れるようにして、不安な表情を見せている木乃香を安心させるためでもあり、そして同時に、強気な発言で自分を奮い立たせるつもりなのか。
 自分にはよく理解できない、人間の『空元気』や『強がり』の効果に内心、無意味な行動だと嘆息しながら、フェイトは浮遊術で出現した場所に浮かびながら、目の前で武器を持って構えているアスナを観察する。
 先ほど、見事なまでに障壁を抜いて見せたのは、彼女が手にしたアーティファクトの能力があったから。
 術者としては高い位置にある千草の式神を、ただの一撃で式返しできる魔法具というのは厄介極まりない上に、普通に術を使ったところで、アスナに届く前に無力化される可能性もある。
 できることなら無駄な力は使いたくない。そう簡単には眠ってくれそうにないアスナを眺めながら、フェイトは揺れることなく平坦であり続ける思考で、いかに効率良く木乃香の身柄を確保するか考える。

「……折角だし、有効活用させてもらおうかな」
「な、何一人で呟いてんのよ! あんた、考えてることが独り言で出る人!?」

 よし、じゃあこうしよう。ポン、と手を打って呟いたフェイトは、顔を真っ赤にして噛み付いてくるアスナを無視して浴室の床に足を着け、自分が移動に使った水溜りに手を突っ込んだ。
 無造作に伸ばした手は床にぶつかることなく沈んで、そのまま肘の中ほどまで飲み込まれる。

「――――よかった、見つかった」
「ぇ…………ちょ、ちょっと、あんた!?」

 一体、何をするつもりなのか。
 訝しげに眉を顰めるアスナの前で、手品のように水溜りの中へ手を差し込んでいたフェイトが、ポケットの中に入れていた小銭でも取り出すように軽々しい動作で、ある物を、いや、ある人物を引き摺り出した。

「ジ、ジロー……君?」

 アスナの背中に隠れながら、フェイトに襟首を掴まれた状態で項垂れているジローを目にして、木乃香が呆然とした声を漏らす。

「――――――」

 木乃香に小さく呼び掛けられたが、力なく首を垂れるジローが反応を示す気配はなく、水溜りから引き摺り出されたからか、ポタポタと前髪から落ちる水滴で浴室の床を叩くのみで。
 フェイトとの身長差で床に着いた手足はダラリと弛緩していて、骨が溶けたのでは、とさえ思わせる。

「ジ、ジロー……? ちょっと、変な冗談はやめなさいよ……ね、ねえ?」

 精巧に人の姿を模した、生き人形の真似事をさせられているジローの襟首を掴んだまま、フェイトは必死に青年へ喋りかけるアスナへ告げた。

「そんなに心配しなくても、まだ息はあるよ。もっとも、このまま放置しておくと危ないかもしれないけど」
「何、平気な顔して言ってんのよ!? 早くジローを放しなさい!!」

 頭に血をのぼらせたアスナが怒声を上げるが、湖面に張った氷を思わせる表情を毛ほども変えず、フェイトはどこまでも淡々と口を動かす。

「別に返してあげてもいいけど……そちらのお姫様と交換という条件でどうかな」

 軽く手を動かし、力なく俯いているジローを揺らして、物々交換でもするように申し出たフェイトに、今度こそ堪忍袋の緒が切れたアスナが怒鳴った。

「っざけんじゃないわよ!! 木乃香とジローを交換って……二人を物みたいに扱うなッ、このバカガキ!!」
「ア、アスナ……」

 木乃香は渡さない。そして、囚われの身となっているジローも助けてみせる。
 そう宣言するように手を伸ばして木乃香を庇い、フェイトにハマノツルギの切っ先を向けるアスナの後ろで、木乃香が感無量といった感じで声を漏らしていた。

「物じゃない……確かにそうかもしれないね。この人は物でもないし」
「え?」

 誰よりも気高いアスナの啖呵を聞き、視線をジローに移して意味深に呟いたフェイトは、不思議そうに眉を顰めたアスナを無視して言った。

「これ以上、時間をかけたくないから。もう、お姫様は勝手に連れていくよ」
「んなっ! だから木乃香は渡さないって――――なに!?」
「ひゃあっ!?」

 何にも関心を示さない瞳で木乃香を見て、フェイトが静かに指を打ち鳴らす。
 瞬間、木乃香の背後に、壁をぶち抜いて現れた悪魔と鬼の特徴を備えた巨躯を持つ式神――ルビカンテが、浴室の床を踏み鳴らして降り立った。
 突然のことに目を見開き、慌てて振り向いたアスナの前から、木乃香を腕で抱え込んだルビカンテが飛び退く。
 どうやら、アスナの持つハマノツルギの効果が、自分を消滅させる猛毒であると理解しているらしい。

「あっ、こら!? 待ちなさい!!」
「アスナ、アスナー!!」

 必死に手を伸ばし、助けを求める木乃香を取り戻すため、ルビカンテに向かって踏み込もうとしたアスナだったが、

「フゥ……反応以外は素人か――――『ヴァーリ・ヴァンダナ‥‥水妖陣』」
「げ! な、何、お湯ぅ!?」

 フェイトの術で、意志を持つ手と化したお湯に背後から絡みつかれ、驚きの声を上げる。
 元は体を温めるのに最適の温度であったお湯は、長い時間放置されて、ほとんど水と変わらないぬるま湯になっていた。
 冷たいような、微妙に温かいような。はっきりしないせいで、気持ち悪くさえ感じるお湯の手に組み付かれ、床に押さえつけられたアスナがもがく。

「こ、この、離しなさいって! 風邪ひいたらどーしてくれんのよ!?」
「行って」
『クルル、クル』

 水妖陣に動きを封じられながら、それでもジタバタと暴れているアスナを余所に、フェイトに指示されたルビカンテが背中の蝙蝠のような羽で空を打ち、木乃香を抱えて飛び立った。
 浴室に入る時に作った壁の穴を潜り、木乃香を抱えた状態で、あっという間に闇に紛れて見えなくなってしまう。

「アス――――!!」
「このか……このかぁぁぁぁぁッ!!」

 遠ざかったせいで、親友の助けを求める声を聞くことができなくなり、顔を持ち上げたアスナが血を吐くような叫びを迸らせるが、その叫びは木乃香に届く前に、本山の沈黙に溶け込むように消えてしまった。

「あんた……このかに何かあったら、絶対に許さないからね!? ギッタギタにしてやる!!」
「…………ハァ」

 怒鳴ることをやめないアスナに、いい加減、うんざりしてきたのだろうか。
 付き合いきれないと言う風に、胸倉を掴んでいたジローを放り捨てたフェイトが嘆息した。

「ちょっ、乱暴に投げてんじゃないわよ!? 大丈夫、ジロー! しっかりしなさいって、傷は浅いわよ!!」
「――――――」

 床に放り捨てられ、身を投げ出すように転がったジローの背中に、水妖陣に取り押さえられたままのアスナが声をかけている。
 そうすることで意識を取り戻すと思っているのだろうか。
 ジローを、死体一歩手前の惨たらしい姿に追い込んだ犯人であるフェイトは、自分の置かれた状況も忘れ、他者の心配をしているアスナに冷めた視線を送る。

「人の心配をする前に、自分の心配をした方がいいと思うけど」
「へ? な゛……ちょ、何するつもり――――」

 感情の篭らない無機物な瞳を向けられ、映画やドラマで見るような拷問を思い浮かべたのだろう、顔を青褪めさせたアスナだったが、

「え……っ、あはは! ぎゃはははははははっ!? ちょ待っ、いやあはは、ハヒッ、あはははははは!!」

 次の瞬間、涙を浮かべて壊れたように笑いだした。
 アスナを押さえつける水妖陣によって生まれたぬるま湯の手が、彼女の脇腹や脇の下、足裏といった敏感な箇所を、これでもかとくすぐり始めたせいで。
 動こうにも動けない状態で、触られると笑ってしまう急所を水妖陣に攻められながら、アスナは必死になって抗議する。

「アヒャヒャッ、うひゃひ……クフッ、な、何ひょ、この変にゃ攻撃はッ!? やはっ、苦し――あはははは!! やだ、そこダメッ……って、マジメにやりなさいよぉぉぉ……ぎゃひはひははははっ!?」

 ボロボロと涙まで溢して、心の底からの懇願を込めて笑い叫ぶアスナだが、仮にジローが喋れる状態にあれば、間違いなくこう言っていただろう。
 真面目に『殺り』に来られるより、まだ幾らかマシさね――――と。

「あれ……こんな呪文だったかな?」

 自分の使った術が本来と違う効果を発揮しているらしく、僅かに疑問を覚えた表情になり、学生服の内ポケットに入れていた魔法書を取り出して、フェイトは水妖陣にくすぐられ中の少女に視線を向ける。
 涙を流して笑わされているアスナに気付く余裕はなかったが、その視線の中に含まれていたのは、思わぬ場所で稀有な能力を持つ存在を発見した、という剣呑なもの。

「はひ……だ、だゃめぇ……ひぬ、死んじゃう……」
「大丈夫、死ぬまでするつもりはないから」
「もー、十分だって言ってんのよーーーーッ!? うひゃ、うひゃひゃっ!! や、やめーーーーーーーー!!」

 しかし、今はアスナの持っているであろう能力について触れる必要はない、と判断したのだろう。
 青息吐息になりつつあったアスナに容赦の欠片も施さず、フェイトは水妖陣が作り出したぬるま湯の手に、更なるくすぐりを与えるよう指示するという暴挙に出た。
 血も涙もない、まさに残虐非道な行い。
 アスナの笑い声が、泣き声と大差ないものに変わるまで、あまり時間はかからなかった――――






 比較的早い時間で目を覚ますことができたのは、もしかすると近年、稀に見るほどの僥倖だったのではないか。
 ずっと宵闇の中を漂っているような状態から復帰したジローは、薄っすらと目を開いて周囲の状況を確認しようとしながら、そんな勘違いも甚だしいことを考えていた。
 腹部に穴を開けられ、安物とはいえ買ったばかりの服を台無しにされ、機種変更したばかりの携帯電話を砕かれ、挙句、気を失うまでしこたま殴られる。
 まともな感性を持った人ならば、まず間違いなく、幸せに分類できる要素を見つけられないというのに。

(日頃の行いがいい、から…………まぁだ生きてる……)

 これは頻繁に、教会で奉仕活動をさせられた御利益に違いない。夜の帳が下りたように暗い思考の中、冗談っぽい考えが浮かぶ。
 正しくは相手の気まぐれに生かされただけだが、それはそれ、これはこれで口元を歪めようとするが、手酷く痛みつけられたせいでピクリとも動かなかった。
 まだ頭がぼんやりしていて、自分がどこにいるのか、というより寝転がっているのかわからぬまま、機能が復活しない瞳を震わせる。
 役に立たない視覚だけでは判別できなかったが、嗅覚の方はしっかりしていたらしく、鼻腔に檜や石鹸の香りを感じることができた。
 恐らく自分は、襲撃に会う前に入っていた浴室の床に転がっているらしい。
 そのことを理解したジローの耳に、誰かに威勢良く啖呵を切る主人――ネギの声が届いた。

「――みんなを石にして、刹那さんを殴って……ジローさんを傷つけて、アスナさんに酷いことをして!」

 薄っすらとだが、ようやく焦点が結ばれて見えるようになった目に、白髪の少年を精一杯睨んで、父の形見として渡された杖を握り締めて叫ぶネギが映る。

「僕は……僕は……君を許さないぞ!!」
「…………それでどうするんだい? ネギ・スプリングフィールド。僕を倒すのかい?」
(――――なんてーか、少年漫画チックな会話だねぇ)

 真っ先に潰されて眠っていたせいか、蚊帳の外に置き去りにされたような寂しさを覚えつつ、ジローは深く、そして静かに呼吸を繰り返した。
 徐々に意識が覚醒し、萎えていた手足に力が戻ってくるのを感じる。
 酔眼のようにぼんやりしていた瞳に、意識の光が蘇った。
 もっとも、それが理性の光かというとそうではない。

「……やめた方がいい――――今の君には無理だ」

 ジローの目に宿った光の正体。それは、ネギやアスナ、刹那に見られるような、正義や仁義といった前向きで、人に歓迎されるものではなく。
 例えるなら地面に伏せて、通りかかる獲物を辛抱強く待っていた、大型の肉食獣の瞳に宿る光。餓死寸前まで腹を空かせていて、獲物を一撃で仕留めてやろうとぎらつく、生々しくも純粋な殺意だ。
 気取った感じに佇み、ネギに対して知った風な台詞を吐いたフェイトを、ジローは床に倒れたままギョロリと睨み付けた。

『――ぁ、相棒!?』
「え? ジ、ジロー、気が付いたの!?」

 床から禍々しくフェイトを睨め上げる青年に気付き、カモとアスナが思わず声を上げてしまったのと同時に、

「死にっ…………さらせぇッ!!」
「!!」

 ドバンッ、と木の床をたわませて跳ね起きたジローが、物騒な叫びと共に搾り出した渾身の力で拳を打ち出した。
 動けるはずのない傷を負わせた相手が、突然起き上がって攻撃してきたことに目を見開いたが、フェイトはすぐに感情の欠落した顔に戻り、冷静に自分に迫る拳を躱す。

「――ゲホッ! ハァー……ハー……!!」
「ジローさん、大丈夫なの!?」
「――――もう少しきつくしておいた方がよかったかな……まあいい、あなたが動けたところで、僕が困ることはないからね」

 間違えるはずのない算数の計算に答えるように、感情の失せた声で淡々と告げた後、フェイトは地面から螺旋を描いて伸び上がった水に姿を覆われ、

「あっ!? ま、待て!!」
「――――」

 ネギの制止を気に留めることなく、浴室の床に子供一人が立てる程度の水溜りを残して消えた。
 慌てて水溜りに近付き、そこに漂う魔力の残滓を感じ取ったカモが呻いた。

『やべぇぜこりゃ、水を利用した「扉」……瞬間移動だぜ。かなりの高等魔術だ……』

 水や影といった物体を媒体に、長距離移動を可能とする魔法を難なく使用するフェイトの能力の高さに顔を歪め、事が自分達の手に余るのではないかと問う視線を送る。

『相棒、どうする……』
「ジローさん……」

 カモと、彼を肩に乗せて同じような視線を送ってくるネギに、気だるげに瞼を下げた眼差しを返して、頭を手で掴むようにして首を鳴らすジローが言った。

「あー……どうするって俺に聞かれてもなぁ。今から応援頼んでも、まず間に合わないし……」

 どっかと床の上で胡坐をかいて、「ダッルィ……」と血の気の足りない顔で嘆息している青年に、くすぐり地獄から解放されて酸素の有り難味を堪能していたアスナが聞く。

「ダ、ダルイで済まなそうな感じなんだけど……。てか、服とか大穴開いてるし……怪我させられたんじゃないの?」
「た、多少の怪我なら、呪符を使って治癒できますが……」

 アスナと同じように眉を顰め、常時ポケットに忍ばせている回復用の呪符を取り出す刹那を手で制し、ジローは面倒そうに頭を掻きながら吐き出した。

「寝転がってる間に粗方塞がったし。もう、唾つけときゃ治る」
「唾で怪我が治るわけないでしょ!?」
「んーだーよー、細っけぇこと気にするなよぉ……ハアァァ」
「あの、腹部に大出血した痕跡があるのに、細かいこと扱いはできないのですが……」

 少女二人の心配に対して、うんざりと口をひん曲げ、年寄り臭い掛け声と一緒に立ち上がって伸びをした後、ジローは思いつめた様子でフェイトが残した水溜りを見ているネギへ提案した。

「とりあえず、だ……色々、対策を考えないと駄目っぽいけど――――早いトコ、連中にお礼参りと行こぉや」
「ジ、ジローさん、お礼参りって何……?」
「何だ、知らないのか? お礼参りっていうのは、お世話になった人や集団に対して、自分がされたのと同等の行為をお返しすることだ」
「へー……」
「いたいけな子供に何、吹き込んでるのよ……」

 聞いたことのない単語に、不思議そうに首を傾げたネギへ口を尖らせ、サラッと数えで十歳の少年に教えるべきではない語句の説明を行うジローに、眉間へ指を当てて口元を引き攣らせたアスナが突っ込みを入れた。

『ま、まあまあ、相棒も目を覚ましたばっかで、ちっと頭が回ってねぇんだよ……。連中に攫われたこのか姉さんを取り戻しに行くのは確定なんだし、この際、小せぇことには目を瞑っておこうぜ』
「そ、そうですね、一刻も早くお嬢様を取り戻さなくてはいけませんし」
「そ、そうかもしれないけど……」

 取り繕う笑みを浮かべるカモや刹那に、渋々納得するアスナを見て、できるだけ手早く話を進めたかったジローは満足げに頷き、まず行うべきことを提案する。

「このかを取り戻しに行くのは絶対として。敵さんが実に厄介だってぇのが判明してる訳でして……今のまま追いかけても、勝ち目は少ないだろうな」
「う、うん……」
「ちょっと、そんなのやってみなきゃわかんないでしょーが。何、最初から勝ち目がないとか言ってんのよ」
「――――」

 冷静に両陣営の戦力を比較して、フェイトの存在などがある以上、こちらに勝機が少ないと言った青年に、悔しげに唇を噛むネギと、苛立たしげに抗議するアスナ。
 刹那は何も言葉を発しなかったが、無言のまま、ジローの発言が正確な分析に基づくものだと認めているらしかった。
 だが、

「つーわけで、こちらは過剰なまでに武装を固めて、有無を言わさず敵さんを殲滅すべきだと思うわけですよ、僕ぁ」
「え?」
「は?」
「あの、ジロー先生?」
『あ、相棒……?』

 ニヤリ、と顔に影を入れて口元を歪めて不穏な発言をしたジローに、一同は訝しげに眉を顰めた。

「そのために刹那、呪術協会の宝物庫がどこにあるか教えてくれ。場所が場所だし、結構な魔法具とか保管しているんだろ? 非常事態だし、多少のことは目を瞑ってもらえるだろうから――――」
「な、何を考えてるんですか! 駄目に決まってるじゃないですか!?」
「何だよ、ケチ臭い……蔵に放り込んで埃被らせるぐらいなら、華々しく散らせて、道具の本分を全うさせてやった方が――――」
「こ、壊す前提ですか!? 数百年単位の貴重品ばかりなんですよ!?」

 このままでは関西呪術協会が所有する秘宝が、カメラ宜しく使い捨てにされる。いや、まだ使い捨てカメラなら思い出を現像できる分、まだマシか。
 危険を感じて白目を剥いて抗議する刹那に、使われない骨董品は路傍の石以下だぞ、と渋い顔でジローは漏らした。
 しかし、今回の事態が収拾できた後、最高責任者である詠春が泣き出してしまうので! と切実な様子で訴えられ、未練たらたらの顔でだが、宝物庫の魔法具を持ち出すことを諦めた。

「ハァ……じゃあ、頑丈な木刀とか持ってきてくれ。それでまあ、何とかするよ」
「あ、ありがとうございます……」
「あー……こういう場所だし、上手くすれば俺好みの武器が見つかると思ったのに……」
「ジローさん、本当はソレが目的だったんじゃ――」
「いやー、そんなことないぞ? ただ、大事の前の小事というか、火事場の貴重品回収というか」
「あんた、それ火事場泥棒が言いそうな台詞よ……」

 少年少女から白い目で見られながら、それを気にした様子もなく、「前のネギとエヴァの勝負で、秘蔵してた刀剣類全っ部砕かれたんだよなぁ」とぼやいているジローに、何やら「漲ってきた!」状態に瞳を輝かせたカモが話しかける。

『どうやら困ってるよーだな、相棒!』
「あー? ああ、まあ特殊な武器でもあれば、少しは楽できそーだしな」

 魔力は問題ないが体力的にちと苦しいし、と渋面で頭を掻いている青年の言葉を待っていたと言わんばかりに尻尾を振るカモ。

「戦力を少しでも増強しておきたかったんだけどなぁ」
『そんな時こそアレだぜ! 仮契約だよ、仮契約!!』
「はあ?」

 突然の訴えに、ポケットに手を突っ込んだジローがだるそうに首を傾げる。
 チラリと杖を握って立っているネギへ視線を送り、すぐにカモに戻して問う。

「仮契約って……まさかお前、俺にネギと従者契約を結べと?」
「うえ!?」
「ちょっと、それはダメよ! なんてーか、見た目とか倫理的に!!」
「ジ、ジロー先生!?」
『ち、違うっつーの! 誰がんなこと言うんだよ!?』

 頓珍漢な予想をする相方につんのめったカモは、気を取り直して尻尾を使って、ジローとネギのキスシーンを想像して真っ赤になっている刹那を指名した。

『本当は相棒専用の魔法具を用意してぇところだが……この際、それは諦めてだな。刹那姉さんと仮契約して、専用の魔法具をゲットしてもらうんだよ!』
「わ、私ですか!?」

 突然、話の矛先を向けられた刹那が、驚愕した様子で自分を指差す。

「あー、俺は自分の得物が欲しかったんだけど……戦力アップすりゃ、問題解決だしな」

 目を白黒させている少女を、ぼんやりした眼差しで眺めた青年は、フラフラと首を揺らして、

「うん、そだな……。刹那、非常事態っていうことで、こー気軽な感じでいいから仮契約してくれないか」

 間延びした調子で、実に簡単に言ってのけた。
 その表情に緊張は欠片も見受けられないのだが、困ったのはお願いされた刹那の方である。

「そ、そんな急に……。私にも、あの、心の準備というものが……」
「うわー……」

 胸の前で人差し指をモジモジさせ、瞳を泳がせている姿は同じ女であるアスナから見ても、なかなかにアピールポイントが高い動作だと思われた。

「い、いいのかなー……」

 一人、冷静な思考が残っているらしいネギが、非常事態で仮契約――というか、キスを行ってしまうことに難色を示していたが、アスナやのどかと仮契約している手前、非難する資格がないと複雑な顔で口を噤んでいる。
 元より乗り気なカモはさて置き、この場にいるメンバーから大きな反対がないことに、糸目でうつらうつらしているジローが最終決定を下した。

「よし、決まったっぽいなぁ……。じゃあ、刹那――――」
「ハッ、ハイ! ふふ、不束者ですが、どうかよろしくお願いします!!」

 妙にやる気のなさそうな声で促され、肩を強張らせた刹那が深く頭を下げる。
 その姿はまるで、想い人に待ち望んでいたプロポーズをされた少女。

「やけに気合入ってるなぁ、オイ」

 だというのに、刹那の想われ人だったりする青年の方は呆れたように首を鳴らして、欠伸でもしそうな糸目顔でのたもうた。

「じゃあー……ネギ、頑張って仮契約しておくれー」
『――――ハ?』

 瞬間、浴室の中で徐々に温度を上げていた空気が凍りつき、少年少女とオコジョが揃って動きを止める。
 まるで液体窒素でもぶち撒けたように。あるいは、真冬のアラスカに裸一貫で放り出されたかの如く。

「――――んあ?」

 体力回復に努めるつもりで、立ったままうたた寝状態に移行していたジローが、一本の線になっていた目を開いて、呆気に取られた様子で佇んでいるネギ達を見渡して、再度のたまった。

「……ああ、俺がいるとやりにくいのか。それならそうと、最初に言って――――」
「ちょっと待てぇー! やけに軽く許可したと思ったら、そーいうことなの!? このオオボケ副担任!!」
「そーいうことって、どーいうことだ?」

 いつまで経っても眠気が覚めない様子で手を打ち、フラフラと浴室から出て行こうとするジローの胸倉を掴んで揺さぶり、鬼の形相になったアスナが問い詰める。
 その状態でもまったく動揺を見せず、平然と質問を返す眠たそうな青年に、神妙な顔で彼の足元に近寄ったカモが答えた。

『悪ぃ、もしかして説明が足りなかったか? え、えっとだな、俺っちは刹那姉さんと相棒が仮契約したらいいんじゃねーか、と思ってだな――』
「…………お前は何を言っているんだ?」

 ここに来てようやく意識を覚醒させたジローが、某格闘選手を髣髴とさせる真顔になった。
 鼻で笑うどころか、顔を顰めることもできない不快な冗談を聞かされたような表情である。瞳などはもう、「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ? 死なすぞコラ」と雄弁に語っていた。

「…………」
『――――』

 アスナとカモが視線を交わらせる。
 二人とも同じことを考えていたらしく、タイミングを計ったように頷きあった。
 姿かたちは似ても似つかぬが、鏡写しのように交し合った視線を刹那に移す。

「何を言っているんだ……そ、そうですね、私と仮契約だなんて、まさしく何を言っているんだです……。うぅ、穴を掘って埋まるべきですね、私なんて」

 そこには、暗い笑みを浮かべて肩を落とす恋の敗残兵が黄昏ていた。

『ちょいと邪魔するぜ、刹那姉さん』
「あの……?」
『まあまあ、ここで諦めたら女が廃るぜ?』

 そんな刹那に救いの手を差し伸べようと、肩に飛び乗って耳打ちを始める。

「え――――そ、そんな! し、しかし…………え゛えぇっ!?」
『甘ぇ甘ぇ、そんな生っちょろい考えじゃ、相棒はまず陥落しねぇぜ?』

 耳打ちされた途端、瞬間湯沸かし器のように顔から湯気を立て始める少女が、肩の上のオコジョに反論を試みるが、こういう時に積み重ねた人生の年数の差が発揮されるのだろう。
 刹那の言い分を一つ一つ潰すカモは、余裕綽々の顔であった。

「――――あいつら、何の密談をしているんだ? 時間がないってわかってるだろうに……」
「あんたね……」

 時折、自分の様子を窺いながら内緒話に興じる少女とオコジョに、顔を顰めたジローが呟く。
 余裕がない状況の中、こうして内緒話に時間を割かねばならぬ原因を作った存在が、よくもまあ言えたものだ。
 眉間に何層もある皺を作り、八重歯が見えるまで歯を噛み締めたアスナが声を震わせる。

「――――」
『――――いいぜ、姐さん。スパーンッとやってくれ』

 睨むように向けた視線の先で、カモが仰々しく頷いたのを確認して、青年の胸倉を掴んでいた手を片方だけ外して、あらゆる魔を叩き返すハリセンを喚び出した。

「ジロー……あんた、さっき『お前は何を言っているんだ?』って言ってたわよね?」
「あー、言ってたな」

 胸倉を掴んでいる手を外してほしそうにしているジローに微笑んで、アスナがハリセン型のアーティファクトを振り被る。
 何故、武器を振り上げているのか。そう問いたげな顔をする自称・使い魔の青年に、アスナは渾身の突っ込みの言霊を込めてハリセンを振りぬいた。

「あんたがぁ…………一ッ番! 何を言っているんだよぉーーーーーー!!」
「あづあぁぁぁぁ――――――ッ!?」
「ジッ、ジローさん!?」
「――ハレ?」
「ジロー先生……?」
『あ……相棒?』

 その直後、熱湯でも浴びたような悲鳴を上げたジローが、胸倉を掴まれた状態でガクリと糸の切れたマリオネットと化したことに、一同は目を見開いてポカンとなる。

「ダ、ダダダッ、ダダダ……ダダ……ガクッ」

 ハリセンで叩かれた側頭部から、シュウシュウと一本の白い煙を立ち上らせて痙攣している姿は、先のフェイトに捕まっていた時よりも危なげで、手を下したアスナ本人でさえ、嫌な汗を浮かべてしまうものだった。

「ジローさん! ジローさ〜〜〜ん!?」
「え、えと……な、何で?」
『も、もしかして、アーティファクトの効果か……? こないだの式神もそうだったが、召喚された存在に対して効果抜群みてぇだし』

 胸倉から手を放した瞬間、浴室に骨のない蛸よろしく転がったジローにネギが泣きつく中、アスナとカモは恐ろしい物を見る目でハマノツルギを見ていた。
 ただでさえ大ダメージを受けていた人間に対して、自分達は鞭打つどころではない行為をしたのでは、と滝のように冷や汗を流しながら。

「……もしかして私、戦力大幅に削っちゃった?」
『い、いや、元の世界に送還される様子もねぇし、大丈夫だとは思うが……』

 恐らく、ジローにとってアスナのアーティファクトは、高出力のスタンガンと同等の効果を発揮するのだろう。
 カモの予想を聞きながら、心中で割かし本気の謝罪を述べた後、アスナは誤魔化し笑いを浮かべて側にいた刹那へ激を飛ばした。
 どう見ても引き攣っている笑顔は、己の過失をなかったことにする気満々である。

「さ、さあ、刹那さん! 余計な手間が省けた感じだし、その――――ふぁいと!!」
「あ、あの、本当に大丈夫なんでしょうか? 心なしかジロー先生、白目を剥いている気がするんですけど……」
『で、でーじょうぶだ! 相棒のことだから、もう何分かすりゃ――』

 尻尾でバッシンバッシンと景気良くジローの頬をはたきながら、刹那に「さあさあ、覚悟を決めていっちまいな!」と勧めるカモ。

「う、グフッ……ぜ、全然大丈夫じゃあ……ない」
『ホ、ホラッ、相棒もこの通り、ピンピンしてやがるし!! ここで尻込みしてたら、本気で時間が足りなくなっちまうぜ!?』
「そ、そうでしょうか……い、いや、確かに一刻も早く、お嬢様をお助けしなければなりませんし――――」
「ホラ、ネギ。あんた、ちょっとコッチへ来なさい」
「え? ハ、ハイ……」

 先のカモの説得という名の暗示に、刹那の思い込むと真っ直ぐに突っ走ってしまう気質が嫌な具合に化学変化を起こし、彼女の目をまるで鳴門海峡の渦潮のように回転させる。
 さながらそれは、永久に抜け出すことの出来ない堂々巡りで、輪廻の輪を象徴しているとさえ感じさせた。
 ジローに引っ付いて揺さぶっていたネギを呼び寄せ、事を為しやすい状況を整えたアスナが喉を鳴らす。
 これから目の前で、生のキスを目撃するのだ。緊張するなと言う方が無理がある。それがつい先日、自分がカウントしないと宣言した、仮契約目的の口付けだとしても。

「ちょっと……動けない人に何しようとして――――イヤイヤイヤ、何で顔を掴む? すいませんとか言いながら、唇を突き出さないで、お願いですから――――気を使ってやがりますよ、この女の子!?」

 目を瞠るほどの疾さで描かれた、黄道十二宮の記号が並ぶ魔法陣の中、徐々に接近してくる少女の顔から逃れようと、必死に萎えた体を動かそうとしているジローに、眉を怒らす渋い表情を貼り付けたカモが告げた。

『相棒……切れる手札は強い方がいい――――そうだよな?』
「カモ……ウチの田舎ではな、ジョーカーは抜いてゲームをするんだ」
『フッ、悪ぃがこれ、戦争なんスよ』
「――――――――お前、後で背中の毛を毟り取ってやる」
「い、いきますっ……!」

 どうにか搾り出した反論を子供じみた言葉で返され、鬼でも射殺せそうな目付きで呪詛を吐いたジローに、朱塗りの鳥居よりも顔を赤くした刹那が、僅かに残っていた唇までの距離を詰める。

 ――ああ、何か知らんけど奪われちゃうんだ、俺。

 ジローにとってその行為は、長く苦しむのはかわいそうだからと、弱った動物にトドメを刺すに等しい、まったくありがたくない優しさに思えた。

「わ、わっ、ジローさんと刹那さんが!?」
「シッ、黙って見てる!」

 ネギの驚きの声と、アスナの注意の後、浴室に瑞々しい唇が触れ合う音がした――――






後書き?) 改正版、仮契約を早めました。あの場所でするのもグダグダした感じだったので……この話でやるのも、どうも微妙な感じですが。
 とりあえず、イベントを繰り上げたことで、戦闘メインな話の掘り下げや話数アップに成功するかも、ということで(小太郎の話も、どうにか作りたいですしね)。
 千草が微妙に重くなっている感じですが、原作でも本当はかなりドロドロした恨みや悲しさ、寂しさやらがあったのではと思うので、このまま進めます。
 感想指摘、アドバイスお待ちしております。





「第三幕・物の怪の宴?」



 仮契約終了後、「武器や道具を持ってきます!」と真っ赤な顔で浴室を飛び出した刹那を待ちながら、ジローは大切な物を失った虚ろな瞳で膝を抱えていた。

「あの世のじいちゃん、ばあちゃん、それとヌイ。今、俺は色々と思うところがあって、正直、死にたいです……」

 自分の腹に巻きつけた包帯を撫でて、ジローは深々とため息をついてから嘆いた。

「ハァ……冗談じゃないぞ。何が楽しくて、あんな形で唇を奪われにゃならんのだ……」

 ギヌロ、とフェイトを睨め上げた時よりも危ない目付きで、床に転がっている純白の毛並みを持つオコジョ――だったものを睨み付けた。

『ヒック、グスッ……。ひでぇ、ひでぇよ……俺っちはただ、仮契約の仲介料の他に、相棒の背中を守ってくれる従者を作りたかっただけで……』
「まだ言うか、おのれは。そのためにキスってのは、割りにあわんだろぉが。第一、刹那に申し訳ないと思わんのか? 思春期の憧れの極地にあるもんを、俺なんぞ相手に……」
『ウゥ……そういう相棒が一番、刹那姉さんに対して酷なこと言ってるんだぜ……?』

 無惨にも背中の毛を半分ほど毟られたカモが、床の上で涙を拭いながら告げる。
 少女の想いに気付くことなく、ナチュラルにフラグを立てて折るを繰り返すだけでなく、つい先ほど浴室で行われた仮契約に対し、

 ――できることなら、さっきのはカウントしないでおこう……? というか、カウントしないでください、お願いします、本当に。

 と、土下座しかねない必死さで頼んでいたのだから。
 色々と非難の視線を送ってくるカモに、ジローは渋柿でも食べたような顔で声を絞り出した。

「初めてっていうのはな、もっと……もっと心に残る形でするべきなんだ……。例えばこう、景色が綺麗な場所で二人っきりでとか……」

 目の部分を影にして、カタカタと震える声で語る姿を見るに、非常に打ちひしがれているようである。
 男は元来、ロマンチックな生き物。一応、青年の肩書きを持っているジローも、御多分に漏れていなかったらしい。
 今頃になって、「少しばかり悪いことをしたか」と反省する気持ちになったりもするが、世の中、優先されるのは少女乙女の夢願望。
 故に自分は悪いことをしていない。自己弁護を終えたカモは、胸中で重々しく頷いた。

『まあ、あれだぜ相棒、しっかりと事実を受け止めてやるこった。それが今のお前ぇにできる善行だぜ』
「この騒動が落ち着いてから、どう接すればいいのかわからないよ……」
『――って嘆きながら、何で俺っちの毛を毟ってんだよ!?』

 下手な慰めをしたカモを掴み上げ、ブチブチと細かく背中の毛を毟りながら、ジローは目に涙を浮かべて悲痛に叫ぶ。

「やかましい、黙って毟らせろ!! 俺はな、俺はなぁ……自分で選んだ相手と、もっとロマンチックにしたかったんだよ、この阿呆ッ!!」
『イギャアァァッ!? げっ、現実問題、初キスなんてそんなもんなんだよ! 夢見すぎだぜ、相棒!!』
「夢を……夢を見るのが罪だってのか!?」

 ギャアギャアと、先刻の仮契約で行われた口付けの処遇について議論しだしたジローとカモを眺めて、動きやすい服に着替えて戻ってきたアスナが呟いた。

「…………哀れね」
「ア、アスナさん?」

 何故か心底同情する顔になっているアスナに、ネギが不思議そうに首を傾げる。
 非常事態を理由に初めてのキスを行った者にしかわからぬ、寂しいまでの喪失感。
 それをすぐ側に立つ少年に理解しろと言うのは、きっと無駄なことなんだろう。ジットリした眼差しでネギを見下ろしながら、アスナはそう思った。

「でもまあ、私は刹那さんの味方だし。自業自得よ、ジロー」
「え? え?」

 一人だけ全てを理解した顔で頷いているアスナに、ネギはただ困惑したように首を振るだけである。
 刹那が戻ってきて、木乃香を奪還しに総本山を発つまで、あと少し。
 それまでは、こうした緩い空気に身を任せるのもいいのではないか。

「返せ、俺の大事な初めてを返せぇぇぇぇぇぇっ!!」
『む、無理ッ! っていうかギブだ!! 尻尾は、尻尾の毛はやめてぇぇぇぇっ!?』

 生温かい目でジローを見ながら、「私もだいぶ、ジローの緩さに毒されてきた感じねー……」と渋い顔をするアスナであった――――






 ホテル嵐山。そこの二階ロビーで、魔法使い――麻帆良学園の魔法先生であることを隠して、修学旅行の引率として京都を訪れていた瀬流彦は、狐顔と間違って、時々みつね顔と呼ばれたりする顔を険しくしていた。
 ロビーに置かれたソファーに深く腰掛け、顎の下に手を当てて考え込んでいる風で、視線はソファーの前に置かれたテーブルの上の携帯電話に注がれている。

「――――!! ハイッ、瀬流彦です!」

 着信音が鳴った途端、細い目をカッと開いて反応をし、一秒も惜しいと言うように携帯電話を耳に付けて話を始めた。

『瀬流彦君か、そちらは異変が起きたりしておらんかね?』
「ええ、こちらは何も。向こうの目的は、やはり近衛さん……学園長のお孫さんだったみたいです」

 電話機の向こうから聞こえる学園長――近衛近右衛門の声に手短に返し、今回の親書の受け渡しにおける真の目的が、自分達の想像通りであったことを伝える。
 ネギから呪術協会の総本山で襲撃があり、西の長――詠春までもが石化させられたと聞いた近右衛門が、麻帆良学園の生徒達が宿泊しているホテルで、万が一に備えて陰から警護していた瀬流彦に下した命令は、生徒達の安全を守りつつ現状待機。
 元より、西の総本山の結界を破り、『紅き翼』の一員であった詠春を戦闘不能にしてしまう手合い。
 高畑のような麻帆良学園有数の腕利きと、比較するほどの実力もない自分に何かできるとは思わなかったが、それでも緊急事態において待機を命じられたのは、瀬流彦にとって辛いことであった。
 軽く唇を噛んで胸中に渦巻いている焦燥や不安を誤魔化し、近右衛門に事態の推移を尋ねる。

「それで、今向こうはどうなっているんですか、ネギ君達は?」
『うむ、それがの……』

 僅かに言い淀んだ後、近右衛門は落ち着いて聞くようにと釘を刺して、瀬流彦に西の総本山に滞在していたネギ達の状況を話した。

『生徒の何人かは石化されてしもうたらしい……ネギ君と刹那君、あと明日菜ちゃんは、このかを奪還するために、本山へ侵入した術者を追うようじゃ』
「それは……大丈夫なんですか? 呪術協会の結界を破れるような術者が相手ですよ? いくらネギ君達が年齢の割りに腕が立つと言っても……」
『う、うむ、それはこちらでも考えたことでな。今、どうにかして救援に向かう人材を用意しようと頑張っておる』
「ほ、本当ですか? 高畑先生は出張中でしたし……となると、神多羅木先生か刀子先生、ガンドルフィーニ先生、シャークティ先生辺りですよね」
『ま、まあ、救援人材の選出はワシに任せてくれればええ』

 不味いことでも聞かれたように、言葉に詰まった近右衛門に疑問を抱きながら、だが瀬流彦は多少は安心したように息を吐いた。

「間に合うかどうか微妙ですが、救援に向かう魔法先生にネギ君達、それにジロー君……上手くいけば、明日の朝までに事態の収拾ができそうですね」
『むぅ……それがの、ジロー君についてなんじゃが……』
「え? ジロー君が何か?」

 気を緩めかけた彼に、近右衛門はネギの報告を言い難そうに伝えた。

『どうやら、襲撃者と一戦を交えて負傷させられたらしくての……。どこにおるか分からないとネギ君が言っておったし、もしやすると戦力として頼りにできんかもしれん』
「――――え?」
『じゃが、何としてもこのかは無事に取り戻す。でなければ、あの子の力がどのように悪用されるか、わかったもんではないしの。では、ワシは救援に向かわせる人材の解呪で忙しいでな。瀬流彦君、ホテルにおる生徒達の身の安全は任せたぞい』
「あ、ちょっと、学園長!?」

 鳩が豆鉄砲を食らったように、ジローが負傷したらしいと聞かされた瀬流彦が思考を止めた瞬間、近右衛門は言いたいことを言って通話を切ってしまう。

「…………大丈夫かな、ジロー君」

 ドスンッ、と身を投げ出すようにソファーに腰を下ろして携帯電話をテーブルの上に置き、組んだ手を口元に当てて呟いた。
 正直、戦力として当てにしていた部分もあるが、それ以上に、瀬流彦にとってジローは数少ない魔法先生の後輩分。
 戦闘に関しては、ネギと一緒に麻帆良へ来た時からジローの方が上だった気がするので、悲しくならないよう脇へ置いておくが、魔法先生としてのイロハを指導した先輩として、人一倍、心配してしまうのは仕方のないことだ。

「あのー、瀬流彦先生、どうかしたッスか?」
「――――え? あ、ああ、春日君か……」

 唐突に、ソファーに座る瀬流彦へ声をかけてきたのは、周囲の人目を気にしながら近付いてきた見習い魔法使い兼シスターの春日美空。
 普段はない沈んだ様子の瀬流彦を見て、何か面倒な事態が起きたと察したのだろう、指導役のシャークティをして悪戯魔法以外はてんで駄目な彼女も、事態の把握ぐらいはしておいた方がいいと考えたらしい。
 いつもの面倒くさい、かったるいという、やる気の窺えない表情ではなく、緊張と真剣さがない交ぜになった顔をしている。
 ホテルにいる麻帆良の一般人生徒を守るため、一人でも多くの人材を用意しておくべきだと考えた瀬流彦は、美空に詳しすぎる説明を避けつつ話す。

「西の総本山が襲撃されたらしくてね。近衛さんも攫われて……今、ネギ君達が奪還のために向かっているらしいよ」
「それって……結構、やばくないッスか?」
「うん、やばいだろうね……。敵側も相当の腕利きらしい、って話だし」

 眉根を寄せる美空に苦笑を浮かべ、瀬流彦が同じような口調でやばいと返す。
 少し不謹慎にも思える行動だが、それは恐らく自分を安心させるためのポーズだろうと、知り合いの自称・使い魔の副担任のお陰で向上した観察眼で判断した美空は、彼の努力を無駄にしないために、頭の後ろで手を組んであっけらかんと言った。

「まー、何とかなりますよー。こういう時は、不運不幸に騒動災難のスペシャリストの腕の見せ所ですし!」
「え、えっと、それってもしかしなくても、ジロー君のことだよね?」
「モチロンです♪」

 その認識は、少し酷いのではないか。口元を引き攣らせている瀬流彦にサムズアップして見せる美空。
 とりあえずジローの名前を出しておけば、大抵の騒ぎはそれなりの規模で収まる。そんな奇妙で、本人にとっては有り難くも何ともない信頼を美空は抱いていた。
 だが、

「その、ガッカリさせるみたいで悪いんだけど……そのジロー君、最初の方で襲撃者に怪我させられたらしくて……」
「………………マジ?」
「………………マジ」

 エジプト壁画の人物を思わせる顔と目で、「冗談だよ」の一言を求めて首を傾げた美空に、瀬流彦は無情なことと知りながら、目の前の少女と同じ声のトーンで答えた。

「そ、それで、ジロー先生の怪我って酷いんですか?」
「う、ううん、その辺りのことはわからなくて。ただ、どこにいるのかわからないって、ネギ君が」
「……どこにいるかわからないのに、怪我をしてるのだけはわかってるって――――もしかしてジロー先生、結構ヤバイ状態なんじゃ……?」
「――――――――だ、大丈夫だよ、ジロー君だし……」
「…………そ、そーッスよねー? 何せ、自己紹介で『自分は生き汚い』って言っちゃう人だし」

 瀬流彦と美空の二人は、顔を見合わせて引き攣った笑いを浮かべつつ、「だってジローだし」という謎な呪文を頼りに、当人の無事を密かに祈っておいた。

「――――――――フゥ……」
(てゆーか、マジで大丈夫だよね、ジロー先生? こ、これで殉職なんてことになったら…………み、見える、ものすっごく荒れるシスターシャークティが!!)

 再びソファーに座り込んで、重いため息をつき始める瀬流彦から離れた美空は、自分の部屋に戻りながら必死に十字を切る。
 一度目は純粋にジローの無事を願って。二度目は無事に帰ってきたジローに、シャークティの理不尽な説教が行われないことを願って。
 それを一セットにして、何度も何度も繰り返す。そうすることで、ジローの無事が確かなものになる気がして。

「お祈りしたからどーなるなんて、甘くないってわかってるけどさー…………それでもお祈りしたくなるから、宗教ってあるんだよね、きっと」

 たまに美空は考えることがある、ジローは神――恐らく、キリスト教の全知全能の唯一神――のことを嫌っているのではないか、と。
 そう考えるようになったのは、研修の名目で廃教会を訪れた際、驚くぐらい様になったお祈りをしたジローが、

 ――神様がいるから祈るのか、それともいて欲しいから祈るのか……許されたいから祈るのか、許したいから祈るのか……どれだろうね?

 普段通りの緩さと穏やかさが混ざり合った曖昧な笑顔で、だというのに、ぽっかり穴が開いてしまったように空虚な声で、これ以上ない皮肉な問いかけを口にした時から。

「とりあえず、祈っておけばいいんじゃないかなー。めんどっちい問題が何とかなりますよーに……って」

 それでどうにかならないからこそ、ああした宗教全般に対する戦術ミサイル級の皮肉が出たのかもしれないが。
 色々と苦労してるみたいだしね、と苦笑いを浮かべて頭を掻いた美空は、そこでふと廊下の天井を見上げて呟いた。

「こーやって柄にもなく、ジロー先生の無事を真剣に祈ったりしてるのって……逆に危なくない?」

 普段はおちゃらけていたり、緩い空気を基本スタイルにしている人の無事を祈ったりするのは、映画やドラマにある「俺、この戦争が終わったら結婚するんだ」フラグと同じ気がした。

「うわ、ヤベー!? ジロー先生が相手だと、何か洒落になんないよ!! ナシナシ、さっきのお祈りなしです、神様ーーーー!?」

 サーッと顔を青褪めさせた美空が、慌てて「さっきのお祈り、なかったことにしてくださーい!!」と、廊下で手を振り回して叫ぶ姿は、何というか実に滑稽で、一刻を争う状況にいるネギやジロー達と比べて平和であった――――






「そこまでだ!お嬢様を放せ!!」

 木乃香の身柄を確保して戻ってきたフェイトと合流し、いざ『祭壇』へ向かおうとして、背後から鋭く投げつけられた言葉を聞いた時に千草が抱いたのは、

 ――ああ、やっぱり来よった。

 予想通り、と思わず苦笑してしまうような落ち着き。
 本当なら唾棄すべき計画の妨害者の存在を、現れて当然と受け入れてしまえる、まるで明鏡止水のように澄んだ心持ちだった。

「……またあんたらか」

 ゆっくりと体ごと向き直って、眼下の川の浅瀬に立って構えている妨害者達――ネギや刹那、アスナの姿を見る。
 足首まで水に浸からせ、それぞれ武器を手に険しい表情をしているネギ達を見下ろす千草の瞳は、随分と遠くなってしまった過去を懐かしむように、虚ろな光を宿していた。
 僅かに口の端を持ち上げて、危険と知りながら木乃香を助けるために追ってきたネギ達のことを、眩しいものでも眺めるように見ている。
 向けられた者が寂しさを感じるような表情で、だが口からは相手の神経を逆撫でする言葉を吐いた。

「アホやなぁ、アンタら。たかがお友達一人のために、こんなトコまで追いかけてきよって……」

 舞台を思わせる形をした大きな岩の上から、千草は身の危険を顧みることのできなそうな子供達に、心の底から感心したような言葉を投げかける。

「天ヶ崎千草!! 明日の朝にはお前を捕らえに応援が来るぞ! 無駄な抵抗は止め、投降するがいい!」
「このかさんを返して、悪いことはもうやめてください!!」
「そうよ! とっととこのかを返せっ、このおサル女!!」

 明朝に到着する援軍を後ろ盾に投降を命じる刹那や、『悪事』をやめるよう説得してくるネギに、完全に頭に血が上って、顔を真っ赤にして怒鳴るアスナの声を聞き流して、千草はつと視線を動かした。
 ネギ達のすぐ後ろで何を言うでもなく、木刀片手にじっと佇んでいる黒髪の男――ジローの姿を確認して、今度は皮肉げに口元を歪める。
 殺してはいないとフェイトに報告された時は、それなりに荒れたものだが、夜の暗さの中でもわかる顔色の悪さなど、相応に負傷させられていることがわかって、多少の鬱憤は晴れたからだ。

「思たよりも元気そうですなぁ?」
「俺が元気そうに見えているのなら、眼鏡の度数を変えることをお勧めする。お前らが阿呆な騒ぎを起こしたせいで、こっちは色々と痛い目を見ているんだ、それはもう、本当にイロイロと痛い目をな」
「ハンッ、そんだけ憎まれ口を叩けるなら、全然問題ないんとちゃいますかー?」

 眉間にくっきりと溝を刻んで、実に苦々しい声を絞り出すジローを鼻で笑った千草は、シネマ村での憂さを晴らすような言葉を投げつけた。
 腹立たしい猫なで声で挑発され、頭を掻きながら深々とため息をついたジローが、真っ直ぐに千草を見て口を開いた。

「あー、お前さんには黙秘権も弁護士を呼ぶ権利もないだろうけど、できるだけ早いうちに降参することをお勧めするぞー」
「アンタ……ホンマ、腹立つやっちゃなぁ……」

 言っていることはネギや刹那達と同じなのに、どことなく人を食ったように聞こえる勧告を聞いて、苦虫を噛み潰したような顔で声を震わせる千草。
 そして、キッと挑みかかるような瞳を、ジローだけでなくネギや刹那、アスナ、そして今頃その存在に気付いた、ネギの頭の上にいるオコジョ――どういうわけか、背中一帯の毛が毟り取られていて、グッタリしている――に向けて、千草は言い放った。
 別の方向に伸びていればと惜しんでしまうほど、一途で、真っ直ぐな信念を窺える力強い声で。

「やめろ、降参せえ言われて、素直に従う奴がこの世のどこにおる? 遊びとちゃうんや、今更止まれるわけないやろ」
「ッ!」
「やはりか……」
「いいわよ、やってやろーじゃない!」

 そこに込められたのは、降参しない、諦めないという確固たる意志。
 元より和解は不可能だとわかっていたのだろう、表情を一層険しくして、手にした杖や野太刀、ハリセンを構えなおすネギ達を余所に、ジローは仕方ないと呟く代わりに大きく嘆息していた。
 何か自分に言い聞かせるように目を瞑って俯き、数秒してから千草に真剣な眼差しを向ける。
 そして、ネギ達の前に進み出て静かに告げた。

「それじゃあ、一戦交えるとしようか……。東に復讐すれば笑えるようになるっていう、お前さんの幻想……歪んじまった根っこごと叩き潰してくれるわ――――こいつらが」

 自分の後方で構えているネギ達を、親指で肩越しに指差しながら。
 途端、周囲に張り詰めていた空気がばっさり断ち切られ、ジローと、木乃香を抱えた猿鬼の側に立つフェイト以外の人間が一斉につんのめった。

「こいつらて、アンタとちゃうんかい!?」
「ちょっと、ジローさん!?」
「な、何でそこで私達に振るんですか!?」
「こっ、こーいう時は、『俺がその幻想、叩き壊してやるぜ!!』って叫ぶのがお約束でしょうが!?」

 前後から叩き込まれる突っ込みに、明らかにふざけているとわかる揺る笑いを浮かべ、慇懃無礼にジローが謙遜する。

「俺でございますか? いやいや、無理無理無理、無理でございますよ。敵に怪我させられた上、味方に心身ともにダメージを負わされた自分に、そんな酷なこと要求せんでくだされ」
「う、うぅ〜」
「心身ともにダメージ……」
「そ、それについては悪かったって、何度も謝ったでしょ……」

 ごほごほっ、と咳までついているジローを見て、痛いところを突かれたように口を噤むネギや、何やら意気消沈している刹那に、自分は悪くないと言うように腕を組みながら謝るアスナ。
 一気に緩んだ空気に、またやられたと苦々しく思いながら歯軋りした千草が、微妙になった真剣さを取り戻すために咳払いする。

「ンンッ! ったく、こうなるのが嫌やったから、完全に黙らせとけ言うたのに……」
「…………」

 首を巡らせて、後ろに控えているフェイトに非難の眼差しをぶつけた後、立っていた大岩から、下の流れの弱い川の水面へ降り立った。
 気か、あるいは魔力を使用しているのだろう、千草の足は川の中に没することなく、その表面にゆったりした波紋を拡げさせるだけに終わる。

「ん゛ん゛、んむーッ」
「こ、このか!」
「お嬢様、少しの間だけ我慢してください! すぐに、すぐにお助けしますから!!」

 主に倣い、岩の上にフェイトを残して川の水面に降り立った猿鬼に抱かれた木乃香が、ネギ達に助けを求めるように呻き声を上げた。
 猿轡代わりに口に貼られた呪符や、手首を縛る細い紐など、痛ましい姿で涙を浮かべている少女に、アスナや刹那が口々に安心するよう叫ぶ。
 実に微笑ましい、友達同士の仲良しこよしな様子に口元を歪めた千草が、袖の袂から一枚の呪符を取り出した。

「すぐにお助けしますー、か……これ見てそれ言えるなら、たいしたもんやけどな?」
「な、何をする気ですか!?」
「ちょっと、それどうするつもり!?」

 手に持った呪符をひらつかせる千草を見て、顔を強張らせて警戒するネギやアスナと違い、心当たりのあった刹那の顔に焦りが浮かぶ。

「天ヶ崎千草、貴様――――!?」
「ん゛っ!?」

 刹那に対してニヤリと笑いかけた後、猿鬼に抱かれたまま蠢いている木乃香の胸元に呪符を貼り付け、千草は舞台役者のように慇懃無礼に頭を下げた。

「――――世に伝え聞く百鬼夜行……とくとご覧あれ」

 もったいぶるように嘯き、悠然と手を広げて呪を唱え始めた。

「『オン・キリ・キリ・ヴァジャラ・ウーンハッタ――』」

 千草の口が真言を紡ぎだした途端、彼女の足元に直径二メートルほどの円が形成される。
 ボウッ、と蛍の光に似た色に発光する円は、ネギ達、魔法使いが描く魔法陣と同種のものだ。
 一つ、二つ、三つ、四つ‥‥。
 千草を中心に、川面に際限なく増えていく光る円の中には、真言宗や修験道で用いられる梵字が一文字、血のように紅い色で刻まれている。
 静かに目を瞑り、呪を紡いでいた千草が口を噤んだ。
 スッと半開きに瞳をネギ達に向け、厳かに告げる。

「これがお嬢様の力の一端や……よう見とくんやで」
「ん゛ん゛……!!」

 言い終えると同時に、猿鬼に抱かれていた木乃香が背中を反らして体を震わせ、そして、胸元に貼られた呪符を基点に、周囲に陽光と見紛うほどの光を放ち始める。
 その光は、シネマ村で矢に胸を射抜かれたジローを一瞬で癒したものと同じもの。
 だが、千草の呪符によって無理矢理に引き出されたそれは、傷ついた誰かを癒すものではなく、むしろその逆の目的のために使用される。
 千草が自分を中心に展開させていた、梵字の刻まれた円が次々に発光を強めだした。

「え……ちょ、ちょっと、何コレ……?」
「これは……!」

 狼狽した声を漏らすアスナや、千草の行動を制止できなかったことを悔やむ刹那の呻きを聞きつつ、ジローは心底、疲れた表情でぼやいた。

「百鬼夜行たぁ、よく言ったもんさね……妖怪ポストの人とか、太鼓を打つライダーに来てほしいぞ」
「ジ、ジローさん、何のほほんと呟いてるの!?」
『こりゃ……東洋の魔物って奴か……』

 眩いばかりに光を放つ、梵字入りの円陣から這い出てきた存在を見渡したカモが、顎まで垂れた汗を前脚で拭って呻く。
 顔を青褪めさせたアスナや、唇を噛んでいる刹那、慌しく周囲を見渡すネギの視線の先に現れたモノ、それは――――

『むん? なんやなんや』
『久しぶりの人間界やなぁ』
『えらいごっつい力で喚ばれたせいやろか? むっちゃ体、軽いわー』

 文明が栄え、人工的な光に追いやられて姿を消した幻想の者達だった。
 平安の古き時代に、夜な夜なさまよい歩いたとされる異形の群れ。
 パッと目に付くだけでも、鬼に天狗、河童、鵺、蛟、野鉄砲に鎌鼬、ぬっぺほぺふといった、オーソドックスなものからマイナーなものまで揃っている。
 まるで、書画の中からそのまま抜き出してきたような化生の数々が、久方ぶりに味わう現世の空気を胸一杯に吸い込み、口々に喋りあっている。
 その様子はさながら、鳥山石燕が後世に描き残した魑魅魍魎の宴だ。
 フェイトの使役するルビカンテが子供に見える、むくつけき体に牙を剥き出しにした恐ろしい形相で、こめかみの近くに生える暴れ牛の如き角を撫でていた鬼――その名に相応しい、金棒に虎の腰みのを着けている――が、ザラザラと岩を擦り合わせるような嗄れ声を発した。

『ようけ喚ばれたさかい、派手な出入りや思とったら……なんじゃい、こんなおぼこい嬢ちゃんに坊ちゃんが相手か』
『ほんまになぁ、えらい久しぶりに暴れられる期待してたのに。これやったら糞して寝とった方がよかったで』

 合いの手を入れるように、百鬼夜行の真ん中で金棒片手に首を鳴らしていた、妖怪達の頭領と思しき大鬼がぼやく。

『ガハハッ! オヤビン、「れでぃー」の前でそないに汚い言葉ぁ使うたらあきまへん! ワシら、「いんてり」でっせ?』
『そうでっせー』

 関西弁を使っているためか、妙にノリのいい突っ込みがオヤビンと呼ばれる大鬼に入り、周囲の妖怪達が口々に同種の突っ込みを入れたり、「受けるわー!」などと馬鹿笑いする。

「こ、ここっ、こんなのあり、なの……?」
「百体くらい軽くいるよ……」
『やろー、このか姉さんの魔力で手当たり次第に召喚しやがったな』

 妖の本質は未知に対する恐怖という言葉があるように、目の前に雲霞の如く並んだ、常識では理解できない異形の群れに歯の根が合わないアスナが、聞き取りにくい震え声で弱音を漏らす。
 諦めてはいないが、この状況をどう切り抜けるか考え付かないネギも、悔しげに絞り出すように呟いた。

「どうします、ジロー先生……こいつらを全て斬り伏せるとなると、時間が……」

 さすがに、妖を退治するために発達した神鳴流の遣い手である刹那は、この状況下にあって、まだ冷静さを残している風であったが、その顔には焦燥がありありと見ることができる。
 律儀に、木乃香の魔力で喚び出された妖怪達の相手をする、と宣言してしまっていることからも、そのことが窺えよう。

「あー、いや、まず『倒していこう』とか考えるのが駄目なんじゃないか?」

 自分達の目的はあくまで木乃香の奪還であり、妖怪退治は二の次のはずだろうと考えながら、しかし今は突っ込みを入れる時ではないと判断して、ジローは軽い指摘だけに止めて厄介な状況に頭を掻いた。
 狂乱を起こすとまではいかないまでも、多少は驚かせてやることができたと、内心ご満悦な笑顔を浮かべた千草が、木乃香の胸元に貼り付けた呪符を引き剥がしながら告げる。

「あんたらはここで、鬼どもと遊んどき。ガキもおるし、殺さんよーにだけは言っとるし……安心してもええんとちゃうか?」

 言い捨て、もうジロー達には興味がなくなったと言うように背を向けた千草は、フェイトと共に猿鬼に抱きかかえられた木乃香を目的の場所へ運ぶため、その場から離脱するために跳躍する。
 目指すは祭壇。
 本来、居るべきではない土地に運ばれ、京の都の平和のためという名目で、その荒ぶる力を風水の安定や魑魅魍魎を跋扈させぬ重しとして搾取され続ける、飛騨の大鬼神が眠らされている場所――――






「……殺さんよーにだけは言っとるし、か」

 猿鬼とフェイトを従えて、木乃香をどこかに運ぶために姿を消した千草の言葉を呟き、ジローは静かに口元を緩めた。

「それって、殺しさえしなければ何をしてもいい――――だよなぁ」

 むしろ、そちらの方が妖怪達も色々と楽しめてしまうだろう、と声に出さず非難する。
 若い命を奪うのは忍びないと気を遣ったのか、それとも、自分の指示が含むものを理解しながら言ったのか。

「ま、どっちでもいいさね。問題は……」

 キュッ、と眉間に皺を刻んだジローが顎に手を当てて首を傾げた。

「ガキもおるし、って言葉が非常に気になるのだが……。もしかして、あの姉ちゃん……俺のことを二十歳ぐらいと勘違いしてる?」

 もしそうだとすれば、由々しき事態だとジローは唸った。
 ほとんど初対面の人間からすると、自分は三つ以上老けて見えるらしいと。
 同時に、千草のことを無性に許しがたいと感じてしまった。

「俺はまだ十代だっての……」
『は、はあ? いきなりどうしたんでい……まあいい、兄貴! 時間が欲しい、障壁を!!』
「OK! ラス・テル・マ・スキル・マギステル・逆巻け春の嵐(ウエルタートウル・テンペスタート・ウエーリス)・我らに風の加護を(プロテクテイオーネム・アエリアーレム)‥‥風花旋風・風障壁(フランス・パリエース・ウエンテイ・ウエルテンテイス)!!」

 ジローの万感の恨みが篭った呟きを放置したカモに言われ、手早くネギが展開させた魔法が、妖怪達から一同を守るように囲んで吹き荒れる竜巻を生む。
 四人と一匹がすっぽり収まった空間だけ足元を覆っていた水が消え、川底の岩場が剥き出しになるほどの暴風。

『どわひゃーーーー!?』
『な、なんじゃいな、こりゃーーーー!!』
『おお、河童の川流れならぬ、天狗の風流れじゃ!?』
『う、上手いこと言ったつもりか、こんボケェーーーーー!?』

 その風に巻き込まれ、側にいた妖怪の何匹かが空中に放り上げられて悲鳴を上げているのを聞いて、ようやく落ち着きを取り戻したアスナがネギへ聞いた。

「こ、これって!?」
「風の障壁です。けど、二、三分しか持ちません!」
『だから、手短に作戦の練りなおしッス! どうする兄貴に相棒!? こいつはかなりまずい状況だ!!』

 無駄に説明している時間はないと、焦りを滲ませてカモが声を荒げた。
 当初の計画では、ジローやネギ、刹那、アスナの四人同時で襲撃をかけ、木乃香を奪還即離脱だったのだが、足止めのためにふんだんに妖怪を召喚された以上、それは無理と考えるべきである。
 下手をすると、この風の障壁が消えたら最後。木乃香を助けることもできず、ここで一同揃って仲良く全滅もあり得た。

「――――あの……」
「どうするって聞かれてもなぁ……ここで戦力二分して、外の妖怪どもを引き付ける役と、このかを取り戻しにいく役を決めるぐらいしかないだろ」

 思い詰めた表情で黙考し、何か言いかけた刹那を遮ったジローが、面倒くさそうに首を掻きながら提案した。

「あー、とりあえずこうしようや? 俺がここで妖怪達の足止めするから、お前さん達はピューっと、このかの奪還に行ってこい」
「ええっ!? ダメだよ、そんなの!!」
「ちょ、ジロー! あんた何、無茶なこと言ってるのよ!?」

 まるで冬場、炬燵から出るのが億劫で仕方がないので、買い物を弟達に任せる兄のような調子で言うジローに、ネギやアスナが目を剥いて抗議する。
 フェイトとの戦闘で傷を負わされ、一時は意識不明にまで陥っていた上に、ふとした弾みで味方にまで大ダメージを負わされて、本調子から程遠いだろう人間を妖怪達の包囲から抜け出すための人柱にするなど、ネギ達にできるはずもなかった。
 それに便乗するように、刹那が役の交代を申し出てくる。

「そ、そうです……外にいるような化け物を退治調伏するのは、元々の私の仕事です。ジロー先生がここに残るより、よほど生き延びる可能性が高いですから…………引き付けの役は、私が」

 恐らくジローに遮られなければ、率先して妖怪達の注意を引き付けると言い出したはずの少女の表情は、この場で自分が犠牲になることで木乃香を救出できるなら、それこそ本望であると言いたげな微苦笑。

「せ、刹那さんが残るなら、私も一緒にのこる! 刹那さんをこんなところに一人で残していけないよっ!!」
「ア、アスナさん……で、でもっ」
『いや……待てよ? 案外いい手かも知れねえ……姐さんのハリセン、召喚系の化け物は必倒の代物だし――』

 刹那の自己犠牲発言を皮切りに、一気に騒ぎが噴き出したネギ達の声にうんざりした顔をしていたジローだが、カモの「アスナのアーティファクトは妖怪達に有効」という発言を聞いたところで、忌々しげに歯軋りして低い声を絞り出した。

「――――お前ら、五月蝿いから少し黙れ。時間の無駄遣いしてんじゃねぇよ、阿呆が」
「え……」
「い、いきなり何よ……」
「ジロー先生?」

 突然、悪態を吐いて、深々とため息をついているジローに、虚を突かれたネギ達の視線が集まる。
 急に口汚く罵られ、呆気に取られている感じの一同を、感情を漂白したような冷めた瞳で見渡して、

「何でこーいう状況で、感情任せに『僕が、私が』発言すっかねぇ。ちゃんと頭使って喋ってるか?」

 心底呆れた風にジローは吐き捨てた。
 胸中では、「殺されないだけで、死にたくなる目に遭いたいのなら別に止めないが」と付け足し、狒々神や猿(マシラ)といった異形との『交配』話に考えが及んでしまう自分は、恐らく目の前の少年少女達より汚れているのだろう、と嘆息。
 少しばかり惨めな気分を味わいつつ、結界が切れるまでの貴重な休憩時間を稼ぐために、無駄な議論を終わらせるための詭弁を開始する。

「何のための引き付け役か考えろ。俺一人でここに残れば、三人……四人でこのかを奪い返しにいけるだろうに」

 ネギとアスナ、刹那、カモを一人ずつ指差しながら、本当になすべき目的を取り違えるなと警告する。

「アスナと刹那がここに残った場合、ネギと俺の実質二人で、千草に白髪のガキ、あと月詠だったかと、小太郎って子供を相手にすることになる。ネギはともかく、俺の体がもたんっつーの」

 自分がリタイアした場合、ネギ一人で木乃香を救出するという、非常に困難な任務になってしまう。だが逆に、この場に自分を残し、三人で木乃香の奪還に当たればどうか。
 人数的に不利は否めないが、それでも三対四で勝負に挑むことができる分、作戦の成功確率は上昇するのである。
 耳障りな風の音に負けない大きめの声で、声の質を変えたジローがネギ達に語る。

「正直な話……誰かとサポートしあって云々より、一人気ままに外の連中を殺る方が楽しそうだしなぁ」
「ジ、ジローさん……」
「えっと……」

 話し終え、ギチリと口の端を裂いたような笑みを浮かべるジローは、自分の相手に丁度いいと指名した妖怪達に負けずとも劣らぬ形相で、人から堕ちた者が成るという悪鬼を髣髴とさせた。
 その表情に言葉が詰まったネギやアスナと違い、まだ納得いかないと刹那が反論を述べようとする。

「しかし、あの数の中に一人残るなんて……」
「ハァ……率先して立候補しようとした奴が言うなっつーの。お前さんには友達を守るって役目があるんだから、それに心血注いでりゃいいんよ」
「でっ、ですが……!」

 半眼で、余計なお節介は結構とばかりに手を振られ、悔しげに唇を噛む刹那。
 命を懸けることも厭わぬ、幼馴染を守るという誓いと、経緯はともかく、口付けまで行った青年の身を案じる想いとが鬩ぎ合い、少女を苦悩させていた。

「ったく、こういう時ぐらい、自分がやりたいことを優先させろってーの。このかだって、お前さんが助けに来るのを待っとるぞ?」
「――――――――」

 自分が本当にやりたいことをしろ。ジローにそう言われ、刹那は自身の心に問い掛ける。
 今、この状況で自分はどう動くべきなのかではなく、自分はどう動きたいのかを。どのような行動を選択したいのかを。
 心を塗りつぶすような焦燥は、果してどこから来るものか。目を瞑り、隅から隅まで検分する。
 脳裏に浮かぶのは、千草の式神に身動きできない状態で抱かれた木乃香の姿。
 ここを離れる直前、猿鬼の腕の中からこちらへ向けていた、涙を浮かべる縋るような瞳。

 ――私はお嬢様を助けたい。誰かが助けて、それを良しとするのではなく、自分自身の手で、囚われの身となったお嬢様を……このちゃんを助けたい。

 改めて己の心を見つめなおして、刹那は渇望するように呟いた。
 蘇ったのは幼少の頃、川で溺れた木乃香を助けられず、間抜けにも一緒になって溺れて助けられた自分の姿。そして、その時に心へ刻んだ誓い。
 何のために強くなりたいと想ったのか。剣を取り、誰のために強くなりたいと願ったのか。
 それは、やはり――

「…………ジロー先生、お嬢様をお救いして、すぐに戻ってきます」

 自分の手で木乃香を助けに行きたい。その想いを固めた以上、もう迷うことはできなかった。
 この場はジローに任せる。そのことを意味する台詞を、呆気ないほど簡単に紡いだ刹那の顔にあるのは、拭いきれない申し訳なさ。

 ――何から何まで律儀というか、堅苦しいというか。

 『選んだ』というのに、進歩のない姿に苦笑いしたジローが、場の空気を和ませるための軽口を叩く。

「まあ、すぐに戻ってこられるなら、それでよし。お互い、気合入れて頑張ろうや」
「はい……だから、その、ご武運を」

 ジローと刹那が話し終えたのを見計らい、カモが口を開いた。
 普段のおちゃらけた色がない、真剣な眼差しをぶつけながら問う。

『大丈夫だろうな、相棒?』

 引き締めた表情の下に気遣いを見せるカモに、場違いな緩い笑みを返したジローが答えた。

「さっき言っただろ? この場は俺一人でたくさんさね」

 欠片も気負ったところのない言葉に、胸の内の重さを吐き出すようなため息をついた後、カモは相棒の青年と同じ軽い調子で頼んだ。

『なら、任せたぜ。兄貴達のことは、俺っちが面倒見てやるからよ』
「はいはい、任されました」

 まるでお使いを頼むように気軽に、そして気安く請け負うように。
 カモとジローの会話は素っ気無いほど短く終わる。同時に、周囲で猛威を振るっていた風が弱まり始め、作戦開始の時が近付いていることを否応なしに伝えた。

「ジローさん……あの――」
「……使命感や義務感の前に、まず自分がそれを本当にやりたいのか、やらなきゃいけないのか。その辺を考えて行動するんだぞー、ネギ」
「え?」

 不安に彩られた瞳で話しかけてきたネギを遮って、口元に緩い笑いを浮かべたジローが言葉を続ける。
 主人でもある少年に、選択する時に必要『かもしれない』心構えを。

「人の顔色を窺ってやった時点で、選択ってぇのは『選ばされた』、『選ぶしかなかった』って逃げ道ができるからな。覚えておくといいかもしれんぞ? 大事な選択っていうのは、十を捨てて十を取ること……かもしれないって」
「…………」

 かもしれない、かもしれない、かもしれない。
 全てにあやふやな単語を付けて、口調だけはからかうように語るジローを、ネギはただ黙って見つめていた。
 煙に巻くような話の中にあった、逃げ道ができてしまう選択はしない方がいいという言葉を、繰り返し呟きながら。

「とりあえず、ここは任せて突っ走ってきなさい。余裕があれば、俺も後で追いつけるかもだし」
「うん――――ジローさん、気をつけてね」
「その、あんま無理するんじゃないわよ?」
「ご武運を」

 代わる代わる激励の言葉を残すネギ達に内心、死地に向かう兵隊じゃあるまいし、と苦笑する。

「端っから無理をする気はないさね。……多少の無茶はするかもだけど」
「何が違うのよ、それ……?」

 終始、緩い笑みを浮かべているジローに、アスナが呆れたように首を傾げる。
 無理も無茶も、似たようなものではないかと。
 しかし、違う。少なくとも、ジローの中で無理と無茶は言葉が似ているだけで、天と地ほどに別の意味を持っていたから。

「無理っていうのは、逆立ちしてもできないこと。無茶っていうのは、気合を入れればなんとかなること」
「へ、屁理屈じゃないの?」
「かもしれんなぁ」

 だから、無茶をすれば切り抜けることができるこの状況に、絶望や諦めを抱く必要は毛ほどに感じない。
 緩かったジローの笑顔が、徐々に獰猛なものへと変化していく。
 普段は滅多に表に出すことのない――本人が気付いていないだけで、多々目撃されている――闘争に昂ぶる危険な光を両眼に湛え、一歩前に進み出て両手を広げた。

「さてさて、それじゃ景気付けに一発……」

 左手の人差し指に装着した指輪を確認する。
 表面に、『魔法を発動させる指輪型の杖』と訳せるラテン語を彫り込んでいるだけの、洒落っ気のないシンプルなものである。
 メルディアナで使い魔、というより魔法使いとしての技能を叩き込まれることが決定した際、ネギの姉であるネカネに頂戴した魔法発動体で、ネギが持っている魔法の杖と同じ機能を持ち、尚且つ携帯性に優れた品だ。
 もっとも携帯性に重きを置いている分、杖のように全属性の魔法にも対応というわけにはいかず、最初から使用魔法の属性を限定する必要などもあった。
 それだけが原因ではないのだが、ジローが扱える魔法の属性はネギと比べて少ない。
 故に専攻して修練を積んだのは、攻撃力に秀でた火属性と、防御や移動などにも使える利便性の高い風属性の二つのみ。
 しかし、その二属性だけでどう上手く立ち回るか、それについて頭を悩ませるほどジローは戦い慣れていないわけではなかった。
 むしろ、その二属性が使えるだけで十二分だと考えているほどだ。

(何しろ、絵本や漫画・ゲームに出てくるような魔法を使えるんだし……)

 阿呆らしいことだ、と自嘲するような笑みをジローは浮かべる。

『風が止むぜ!』
「く、来るわよ!」

 ほつれの目立ってきた竜巻の結界に、カモとアスナが警告を発した。
 それを合図に、ジローは静かに深呼吸して心を鎮める。

「――――うし、やるかぁ」

 ジローが紡ぎだす魔法の発動キー、それはある意味を持った熟語。
 一つの芝居が演じられて終了することを現すラテン語。
 一説では、アウグストゥスの臨終の台詞として伝えられる言葉。

 ――Acta(アクタ) est(エスト) fabula(フアーブラ)(芝居は終わりだ)

 そう口にすることで、馬鹿げたお芝居を、滑稽なお遊戯を終わらせるための力を行使する。
 ネギやエヴァといった、他の魔法使い達と比べて短く、そして含むもののある発動キーを呟いて、ジローは自身が覚えこまされた攻撃用魔法の中から、もっとも威力が高く、且つ広範囲に影響を及ぼすことのできるものを選び、詠唱を始めた。

「契約に従い(ト・シユンボライオン・)我に従え(デイアーコネートー・モイ・)炎の覇王(ホ・テユラネ・フロゴス)・来れ(エピゲネーテートー)・浄化の炎(フロクス・カタルセオース)――」

 古典ギリシア語の呪文が詠唱されるのに従って、広げたジローの手の先に生まれた小さな炎の塊が、徐々にその存在を大きくしていく。

「燃え盛る大剣(フロギネー・ロンフアイア)・ほとばしれよソドムを焼きし(レウサウトーン・ピユーム・カイ・テイオン)・火と硫黄(ハ・エペフレゴン・ソドマ)――」

 空中で円を描くように回転しながら勢いを増す火は、まるで焔から生まれた蛇を思わせた。

「この呪文……」
「う、うわ……そういえば、ジローも魔法使えたのよね。いつも殴るとか斬るだったから、すっかり忘れてた……」
「かなり高位の魔法のようです……凄い」

 今にも襲い掛かってきそうな焔は肥大し続け、その様子はさながら炎蛇の舞と化す。
 だというのに、目の前で踊り狂う炎からほとんど熱が伝わってこないのは、業火になりつつある炎の大蛇が、術者であるジローの制御下にある証であった。

『そろそろか……ふふん、待たせよってからに』
『いてもうたるわ、おんどりゃー!』
『早よ面出さんかいッ!!』

 時折、勢いが大きく削られて、外で待ち構える鬼や天狗の柄の悪い声が届く。

 ――言われなくとも、すぐに顔を出してやるさね。

 声に出さない代わりに、ジローは胸中で実に楽しげに呟いた。

「ヒ、ヒィッ! エヴァンジェリンさん!?」
『お、落ち着け、ありゃ相棒だ!!』

 ニタリ、と今は麻帆良で留守番をさせられているエヴァを思い出させる笑い方に、以前彼女に恐ろしい目に遭わされたネギが悲鳴を上げ、カモがそれを宥めていた。
 それに構わず、顔に凶悪な笑みを貼り付けたままジローは、広げた両の手を正面に伸ばして、その先で荒れ狂っていた業火を一つに押し固める。
 目の前を秒間何百、何千回転していた風の障壁が薄まり、その向こう側にたむろしている妖怪達の影を映した。
 それを頃合と見て、自身が使える最大威力の炎魔法――広範囲焚焼殲滅魔法を完成させるべく、ジローが詠唱の締めに入る。

「罪ありし者を死の塵に(ハマルトートウス・エイス・クーン・タナトウス)――」

 ネギの展開させた『風花旋風・風障壁』の効果が切れ、巻き上げられていた水が霧雨と化して周囲に降り注ぐ。
 視界を覆うそれを邪魔そうに手で振り払い、久方ぶりの現世での遊び相手として用意された獲物に掴みかからんと、つい先刻まで竜巻があった場所に近付いた妖怪達が見たのは、

『!』

 体の前に伸ばした手に業火を従え、壮絶な笑みを浮かべて立っているジローだった。

「燃える(ウーラニア)‥‥天空(フロゴーシス)ッ!!」
『お、おおおぉぉぉっ!?』
『せ、西洋魔術師やあ!?』

 忠犬宜しく服従していた業火から一条の灼光が発射され、運悪く自称・使い魔青年の正面に歩み出てしまった鬼――二本角で兜を被った成人男性ほどの体躯で、下っ端らしく何十体もいる――に命中する。
 次の瞬間、灼光に触れた小鬼を起点に引き起こされた大爆発は、瞬く間に後方へ拡がり、我先にとジロー達に近寄っていた妖怪を容赦なく飲み込んでいく。
 その光景は、さながら呪文にあった火と硫黄の雨に包まれた、聖書に登場する不道徳と不信仰の都市・ソドムの住民の最期を思わせる光景。

『オヤビン! 逃がしちまっただ!!』
『一発で何十体、喰われたのやら……。やーれやれ、西洋魔術師には侘び寂びっちゅうもんがなくてアカン』
『そんなん言うとる場合とちゃいまっせ! 早ぉ追いかけんと!!』

 『燃える天空』が百鬼夜行の包囲網の一角に喰らい付いたと同時に、杖に跨って高速で戦線を離脱したネギ・アスナ・刹那・カモの後ろ姿が小さくなっていくのを見送って、オヤビンと呼ばれた妖怪達の頭領らしい大鬼――額に一本の太い角がそそり立っていて、口の両側から迫り出した肉の瘤からも、闘牛を思わせる角が生えている。名を伊吹鬼六という――が、十尺はある巨躯よりも長大な金棒で肩を叩いて愚痴った。

『――――む?』

 手下の妖怪達を飲み込んだ、ヨハネの黙示録に記された世の終焉を再現するような業火を見ていた鬼六が、ふと何かに気付いて首を巡らせた。
 視線の先で、足首を覆う川の水を掻き分けながら歩いてくる、妙に緩く飄々とした雰囲気の青年に、人間でいうところの眉を顰めた。

「通ぉりゃんせ、通ぉりゃんせ〜、ここは誰の御道じゃ〜……っとくらあ」
『なんじゃい、兄ちゃん。ワシらに何か用でもあるんか?』

 場違いなことに童歌をのんびり口ずさんでいる人間へ、鬼六は特に警戒もせず声を掛けた。
 先ほどの業火を撃った相手だとわかっていたが、ただの人間風情に弱腰になるなど、妖怪の名折れである。なぜなら、妖怪は人を喰らい、蹂躙するモノなのだから。
 周りにいる手下達も、その思いは同じなのだろう。
 不意打ちでかなりの数を減らされはしたが、まだ百に届く妖怪達が、目の前の黒髪の青年――ジローに口汚く罵声を浴びせているのを聞いて、口元を吊り上げた。

『気でも触れよったんか? さっきの騒ぎに紛れて、兄ちゃんも逃げとけばよかったもんを。何十年ぶりの人肉を用意されて、どーぞどーぞで通したるほど、ワシらは人格者ちゃうぞ』
『そうやそうや! ほっそい体しとるし、あんま食いではなさそーやけどなー!!』
『全員に回されへんし、こりゃ早いもん勝ちやな』
『さっき殺られた連中の弔いじゃあ!! ヒイヒイ言わせたるから、覚悟せえよ!?』

 次から次に上がる声は、まともな人間が聞けば恐怖を掻き立てられ、発狂してもおかしくない嗜虐に富んでいるのだろう。
 コンサート会場でも聞けそうにない、三百六十度サラウンドで送られてくる罵詈雑言の嵐に耳を傾け、そんなことを考えながらジローは、左手に提げていた木刀の柄を握って抜き放つ。

『おうおう、そないな木の棒で何するつもりや? チャンバラごっこはお家でやってくれやー』
『一丁前に戦うつもりかいな!? 気でも触れとんのとちゃうか』

 戦いに挑むにしては気負いのなさすぎる、緩い表情のまま木刀の振りを確かめているジローに、妖怪達はむしろ心配している風であった。
 異形の者達に頭の心配をされ、ジローは顔を俯かせてクツクツと喉を引き攣らせて笑う。
 魔法に関わり、それを受け入れて生きることを選ぶよりも前から、自分がどこかしら壊れていることを自覚していたのだから。

「気でも触れてる……気でも触れてる、かぁ」

 妖怪に言われた言葉が気に入ったように、何度も口の中で転がすように呟きながら顔を上げ、そして歪める。
 普段の緩いのか穏やかなのかわからない、曖昧だが温かみのあるソレとは違う、周囲にたむろする百鬼夜行に本日付けで加われるような笑みに。

「そぉいうのを自覚している人間ってぇのは、狂人に含まれるのかねえ?」

 パックリと引き裂いた口元に、左の目は針のように細く、右の目は眼球がこぼれ落ちそうなほど見開いたアンバランスな笑顔で、右手に持った木刀の切っ先を前方に突きつける。

「月詠が同じこと言いそうで嫌だけど……たまにやっておかないと、コツとか呼吸を忘れちまいそうでな。悪いけど、相手してくれますかぁ?」

 神経を逆撫でするザラザラした声で言い終えた途端、ジローの体から魔力と共に殺気や敵意が噴き出した。
 まるで泥のように重く粘り、生き物のように手足へ絡み付いてくる負の感情は、狂気と呼ぶに相応しい剣呑さに満ちている。

『こいつはこいつは、随分と荒っぽい鬼気やのぉ。ワシらが幅利かせとった頃は、こういう気を出せる奴は珍しくなかったけど……』
『二十一世紀にも残っとるもんなんですねぇ、こういう人間っちゅうのも』

 足元の水を波立たせて、荒々しい気配を放出しているジローに感心したように、鬼六やその取り巻きの妖怪が吐息を漏らした。
 懐かしむような視線の先にあるのは、平安の昔、彼らさえ慄く生への執着を見せた者達の姿。
 夢や信念などに殉ずる御立派な人間と一線を画し、本能に従って容赦なく敵を屠る、人の形をした虎狼の如き獣の生き様。

『正直、物足りん思てたけど……少しは楽しめそうやないか』
「それはそれは、お眼鏡に叶ったようで嬉しゅうございます」

 『燃える天空』の残滓が生む水煙が、そこかしこから立ち昇る中、切っ先を深く落とした八双に構えて、ジローが口の端を歪めたのを見計らったように、

『お前らぁ!! 人間如きに舐められんとちゃうぞぉぉぉぉぉぉぉッ!!』
『オオオォォォォォォッ!!』

 鬼六が張り上げた大音声に背中を押され、夜闇を劈く怒号を上げた妖怪達が各々の得物を振り上げて駆け出す。
 何十年ぶりかに現れた、酔狂な客人を百鬼夜行の総出を挙げてもてなすために。

『命(タマ)取ったらぁぁぁぁぁぁッ!!』
「久しぶりだなぁ、ヤクザの出入りっぽいのは――――ってか頭悪いだろ、この人数相手に切り抜けようとか」

 同じように妖怪達に向かって駆け出す直前、ジローが小さく漏らしたのは、自分に対する呆れから来る愚痴だった。

「あー……上手く立ち回っても死ねそうだ、こりゃ」

 そう言いながら、本当に楽しそうにジローは微笑みを溢していた。
 普段通りに緩く穏やかに口元を緩め、木刀の柄を握る両手を絞って足を踏み出し、

「まっ、仕方ないさね。自分で言い出したことだし……たまにこーいう事しておかないと、気が変になる」

 瞬間、津波のように押し寄せる妖怪達に向かって、ジローは残像を引き摺るほどの迅さで飛び出した――――






後書き?) 描写やら表現、いつまで経っても成長しないなぁ、と自己嫌悪に陥る今日この頃。もう少し感想やらを書いてもらえる話作りをしないと……。
 今回アスナがネギの杖に乗っていますが、そこら辺について言い訳?
 原作一巻だったかで乗った時は能力発動して、ネギが不調になっていましたのは、「本当に飛べるのかな?」という不安があったということで、能力が無意識に発動していたと考えています。
 今回もそうした不安はあるのでしょうが、木乃香を助けるという目的と、少なからず上昇しているネギへの信頼、あとネギの魔力量から来る高出力ということで(美空の箒に立った時、ガス欠のようになっていたのは、美空の魔力量や熟練度不足だったのではないかな、と)。
 最終的な結論として、ネギが魔力に物を言わせて頑張った――ですね!(待て
 ジロの戦いは少しの間、放置かなぁと呟きつつ。
 感想アドバイス、指摘は数少ない執筆意欲の源。心よりお待ちしております。

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