「幕末浪漫・城下の剣士3」



 シネマ村全体を見渡すことのできる城の天守閣。眼下に広がる俯瞰の景色を眺めながら、千草は一人その場に佇んでいた。
 肩と背中が大きく出た着物に、袖を直接巻きつけているだけの腕。天守閣を吹き抜けていく風は、千草には少しばかり冷たかった。

「寒ぅ……」

 誰に向けてではないが、腕を組んで微動だにしないまま、千草は小さく呟いた。
 眼下には、城から見下ろしたシネマ村の家屋などが敷き詰められている。その建物の間からちらちらと、様々な時代劇風の扮装をした人々や、修学旅行中らしき学生が歩いている姿を確認できた。
 さすがに天守閣からでは、城下町の通りを歩いている人々の表情はわからないが、きっと皆一様に笑顔なのだろうと、心身ともに寒々しく感じながら千草は吐き捨てた。

「どいつもこいつも、平和ボケした面しよってからに……」

 口に出してから、それがただの八つ当たり。幸せそうに笑っている人達への嫉妬に過ぎないと、自分自身に嘲笑を浮かべる。
 まったく見苦しいこと、この上ない。人が幸せなのを妬んだところで、自分が幸せになれるはずもないのに。
 そんな分かりきったことを考えても、自分の体に纏わり付く寒さは消えてくれない。今まで生きてきて、それはもう嫌と言うほど痛感しているではないか。
 暗い、全てが世迷言と主張するような瞳は、明かりのないがらんどうの部屋を連想させる。
 『生きている』人間にある瞳の輝きが彼女にはなかった。失明しているという意味ではなく、ただ純粋に希望や夢、楽しみの色を浮かべていないのだ。
 天守閣から城下町――シネマ村に造られた、撮影用の日本橋の上で月詠と戦っている刹那や、月詠の喚び出したちび妖怪を頭に貼り付けて、木乃香を小脇に抱え、えっちらおっちらと駆けているジローの姿を見て、顔はちゃんと嗜虐に歪んでいるというのに。

「それもまあ、お嬢様が手に入って、ウチの野望を果すまでやけどな」

 今回の計画が達成されれば、少なくとも一回ぐらい自分は笑えるに違いない。
 例え心から笑った直後に、粛清の名の下に八つ裂きにされるとしてもだ。

「西洋魔術師どころか、協会の面子も台無しにしてまうしなぁ……それもしゃぁあらへんやろ」

 暗く沈んだ瞳のまま、千草は口元に手を当てて、くつくつと喉を震わせるように笑う。
 自分の生き死にまで笑いの種にしているのに、その笑い声もどこか軽かった。

「…………」

 そんな千草を少し離れた場所から見つめ、だが何も言葉をかけずにフェイトが立っていた。
 もっとも、仮に声をかけたとしても、彼女は放っておけとつっけんどんに返すのだろうが。

(フン、薄っ気味悪いガキやで、ホンマ……)

 千草は千草で、表情から何一つ感情を読めないフェイトを横目に窺い、胸中でそう毒づいていた。
 まだ喜怒哀楽がはっきりしている小太郎の方が、子供としては愛嬌があるし、単純故に扱い易いと考える。

(まあ、計画が達成さたら切れる縁やし、どうでもええんやけどな)

 所詮は利害関係の一致で協力しているだけの間柄。
 『東』の魔法使い達の巣窟たる麻帆良学園の生徒で、関東魔法教会の理事を務める近衛近右衛門の孫でもある木乃香が、修学旅行でのこのこと京都にやって来る。
 その情報を入手し、前々から練っていた計画を実行するチャンスだと、以前にちょっとした仕事の際に知り合った小太郎や、性格に難はあるが腕は確かだという月詠に今回の話を持ちかけていた時、唐突に千草の前に現れ、協力させてほしいと言ってきた少年、それがフェイトだ。
 それ以外のことを千草は何一つ知らないし、知ろうとも思わなかった。どうせ仕事が終われば、お互い顔を会わせることもなくなるだから。
 フェイトを睥睨するのを止めて、千草は再び城下町へ視線を落とした。
 日本橋の上では、今も月詠と刹那が得物をぶつけ合い、鍔迫り合いを行っている。そのすぐ側で、月詠の召喚したちび妖怪達を相手に、何か馬鹿騒ぎをしている少女の一団が見える。
 そして――

「クク、もうちょいでご到着やなぁ」

 表情を視認できる位置まで近付いた、木乃香を抱えて走る奇妙に緩い男の姿も。
 先日の襲撃の際、唐突に現れてその場の空気を引っ掻き回された恨みは忘れていない。あれさえなければ、きっと今頃は計画も山場を過ぎていたのだ。
 ちび妖怪に頭を齧られ、怒るべきか喜ぶべきかという微妙な顔をしている男に、「もしかしてあの男、マゾッ気でもあるんか……?」と眉をひそめる千草の見ている前で、米袋よろしく木乃香を脇に抱えた青年は、彼女とフェイトが待つ城へと飛び込んだ。

「よっしゃ、ようやってくれたな」
「…………」

 正確には飛び込ませただが。
 青年が木乃香を連れて城へ向かうしかないよう、空中で巨大な弓を構えていた、鬼と悪魔の中間のような式神が飛んでくるのを見てほくそ笑む。
 天守閣に直接、乗り込んできたルビカンテの主人であるフェイトに、上辺だけの言葉で褒めてから、千草は背にした天守閣の欄干より続く空を睨んだ。
 ここに来て初めて彼女の瞳に浮かんだのは、目に映るもの全てを害するような憎悪の色。

「クソ忌々しい……こん空の下で、西洋魔術師どもが笑ってる考えただけで腹立つわ」

 だから、自分が木乃香を使って壊しつくしてやろう、東に巣食う侵略者である西洋魔術師達を。そのついでに、彼らと和平を結ぼう、協力していこうなどとほざく、日和見主義な『本山』の連中も。
 天守閣から下に降りるための階段の向こうから、ドタドタとかなりの速度で走る足音と、「ひゃあぁあぁあぁ〜っ!?」と強烈に振動して割れている木乃香の声が近付いてきた。
 腕に縛り付けてある袖の袂部分から、猿鬼と熊鬼の護符を取り出して溢す。

「一応、大切なお嬢様なんやから、丁重に扱ってほしいんやけど……」

 呟いて、すぐにいけないと頭を振って気持ちを切り替えた。
 どうも、あの緩い空気を醸し出す男に関わると、自分のリズムみたいなものを崩される。
 非情になりきれ、目的のためなら一切合財を切り捨てて、血も涙もない人形にさえ身を堕とせ。暗示をかけるように口の中で数回転がして、千草は重力に引かれて落ちていた視線を上げた。
 それと同じタイミングで、天守閣の階段から一人の男が飛び出してくる。小脇には、ここまでの荒っぽい運搬に目を回しているらしい木乃香が、ぐったりとノシイカ状態でぶら下がっていた。
 さすがにそれはないだろうと、せっかく切り替えた非情な自分のイメージを忘れて、どう声をかけるべきか悩んでしまった千草に、まんまと追い込まれたはずの男――八房ジローは小脇に抱えた木乃香の様子を窺って、問題なしと勝手に決め付けた後、まるで友人にでもあった風に手を上げる。
 真面目なのかどうかわからない、緩くて穏やかな眼差しを千草に向け、開いた口より放たれるのは、聞かされた側がつい脱力してしまうような、だるそうに間延びした登壇の台詞。

「どぉーもー、万屋でーっす」
「人をおちょくっとんのか、アンタは!?」

 予想外すぎる挨拶に、思わず声を荒げた千草に構わず、ジローは「ヨッ」とばかりに上げていた手で顔を覆っていた。

「イタタタッ……なんだろ? すっごくやっちゃったー、的な後悔と羞恥の感情が噴き上がってきてますよ、コノヤロー」
「しかも、何か勝手にダメージ受けとるで!?」

 黒のジーンズに半袖の黒のハイネックシャツ、そして何故かその上に、袖と裾に波模様の入った着流しと、格好からして自分を馬鹿にしてそうな男に目を剥く千草。
 ただ、驚きながらもしっかり的確に突っ込みを入れているのは、関西人の血のみが為せる業であろうか。

「あー……もう二度とやらん。ほれ、大丈夫かー? このか」
「ら、らいじょうぶやよ〜……」
「ちょ、ウチらのこと無視しいなや!!」

 赤みの消えぬ顔のままだが、足取りだけは悠々と部屋を横切り、天守閣の屋根や金鯱の点検用に設置してある階段前に、小脇に抱えたまま運んだ木乃香を置いているジローへ、我に返った千草の怒声が飛ぶ。
 しかし、声を荒げる千草に毛ほども動じず、地面にへたり込んで頭を揺らしている木乃香に、「下手に動き回るなよー」とマイペースに忠告したジローが、面倒そうに首を鳴らした。

「――で?」
「は、はあ?」

 うんざりした顔で唐突に尋ねられ、虚をつかれて聞き返してしまった千草に、ジローは再度、質問を繰り返す。

「何でこのかみたいな、一応普通の女の子を狙ってるのかなー、って不思議でして。聞いておいた方がいいよなー、って思ってさ」
「…………」

 本当は木乃香が持つ魔力が狙いだと分かっているはずなのに、そうした質問をしてくるのは、敵である自分の目的を探るためか。
 わざとっぽく首を傾げるジローを睨む千草の顔から赤みが引いて、変わりに能面のように不気味な落ち着きを持つ表情が張り付いた。

「それを聞いてどないするんや?」

 仮面のように揺らぎない無表情のまま、千草はぽっかり開いた眼窩のように暗い目で視線を送り、無機質な声で問い返す。
 だが、その生気を感じさせない言葉に含まれている感情は、地面の底で静かに胎動を続ける溶岩を連想させた。
 忌々しさに舌打ちしそうになる千草の胸中で、わざとらしく木乃香を狙う目的を聞いたジローに対する罵詈雑言が吹き荒れる。
 西洋魔術師、とりわけ『立派な魔法使い』を目指す連中の、まず話を聞いてあげましょう、そして相手の目的が『正義』に沿うなら助けてあげましょうと言いたげな態度。
 どの口で、そのような傲慢なことを吐き出せるのだろうか。
 全ての元凶たる分際で。
 一度目を瞑り、少し頭を冷やすよう言い聞かせた千草の顔に、じわじわと嘲りの色が滲み出る。

「別に話したってもええけど……まさか、事情次第ではウチに協力したるとか言わへんでな?」

 殊更馬鹿にした風に、視線の先に立つジローへ千草は尋ねた。
 自分の目的が、西洋魔術師への個人的な恨みを晴らすためで、それだけのために、木乃香の身に眠る膨大な魔力を求めていると知れば。
 まだ、魔法関係者の身内に過ぎない無力な少女を利用して、関西呪術協会と関東魔法協会の間で燻り続ける確執を、今一度、燃え上がらせるつもりだと言ってやれば、返ってくるのは杓子定規な説得か、義憤に駆られた怒りに違いない。
 そんな予知めいた確信のせいだろう、口元から薄笑いが溢れるのを感じながら千草は、

「ちょう思うとこがあってなぁ、西洋魔術師の連中に『正義の鉄槌』を落としたろ思たんよ」

 ジローというより、浅い正義や使命感に燃える魔法使いを揶揄しながら、自分が企てた計画の目的を話した。
 一体どのような顔で抗議し、自分達を虚仮にするなと口汚く罵るのか。悪趣味としか思えない暗い期待を胸に、千草は薄ら笑いを強めたのだが。

「………………いや、あのさぁ」

 ジッと千草のことを凝視した後、苦々しい顔で頭を掻いて嘆息したジローが発したのは、彼女の暗い期待から幾分ずれた場所への追求だった。

「俺が聞いたのはこのかを狙う目的で、あんたが何をしたいかじゃない。もそっとわかりやすく言うと、このかを攫って、それでもって『どう使うのか』、『何に使うのか』」
「――――ハ?」

 あまりな物言いに呆気にとられる千草に構わず、ジローは針のように目を細めて口を動かす。

「本人が使えないどでかい力を有効利用、って考える手合いなんか珍しくないんだよ。なんてーか、完全自立型の原子炉人間みたいな扱いらしいし」

 やだやだ、とかぶりを振るジローが口にした、身の内に豊潤すぎる魔力を秘めた木乃香を指す表現は、あながち間違いではないと言えよう。
 彼の大戦を終結させた英雄、『千の呪文を持つ男』との異名まで持つネギの父親――ナギ・スプリングフィールドをも凌駕する魔力を持っているのだ、そのように物騒な見方をされても仕方ない部分もあろう。

「まあ、その辺は置いておくとして。俺が気になってるのは、このかを利用したい……利用しなきゃいけない? そういう、やたら剣呑っぽい使用目的」

 見えない箱を右から左に置くジェスチャーをしながら話し、ジローが千草に送りつけたのは、ほんの少し前まで彼女が浮かべていた嘲りの表情と視線。

「それにしてもあれだ、実に格好いいじゃないか、『正義の鉄槌』を落とすだなんて。義憤に駆られてそーいうことできる人って、荒んだ今の世の中、貴重だと思うよ」

 人の揚げ足を取るとは、今のジローのことを指すのだろう。皮肉のつもりで千草が口にした言葉を使って、いかにも感銘を受けたと言いたげにジローは頷き、にやりと口元を歪めた。

「――――大義掲げて私怨成すのは、三流の悪役のお約束ですかぁ?」
「ふざ……けんなやっ!!」

 そう、隠しもしない侮蔑を浴びせかけたジローに、カッと頭に血を昇らせた千草が食って掛かる。
 戦闘における感情の制御や目的の秘匿など、一瞬で意識の内から消し飛んだ。
 このまま言いたい放題にさせてなるものか。ただその一心で、目の前に立つジローの忌々しい笑みを消すために、天守閣に怒声を響かせた。

「何でアンタらは、そうやって自分らの方が正しいみたいな顔するんやっ!! 『世のため人のため』なんぞ掲げて、平気で人を見捨てとる奴らが何様のつもりや!?」

 胸中で胎動していた溶岩のように熱く、どろどろと渦巻いていた感情を吐露した途端、千草は止まらなくなった。
 怒りや憎しみで満ちた、気の弱い人間ならば射殺せそうな目でジローを睨み付け、噴火を始めた活火山のように言葉を叩きつける。

「お前らが! お前らが勝手に始めよった戦のせいで、ウチがどないな想いしたかわかって言っとるんか!? 西洋魔術師だけでやってりゃええもんを、アホみたいに大きくして長引かせて! 人手が足りへんみたいな理由で、関わる必要なかったウチらまで引っ張り込んで……!!」

 呪符ごと握り締めた手と、後ろで束ねた長い髪を振り乱して、次から次に喉元へ迫り上がってくる怨嗟を吐き出していく。

「何が『立派な魔法使い』や! 聞こえのええ言葉ばっか口にして、やってることはただの人殺しやろうが!? サウザンドマスターみたいな英雄にしてもそうや! 結局は戦ン時、どんなけ『悪モン』を叩き潰したかやろ!!」

 鬼女や般若を思わせる形相で叫ぶ千草の声に、微かにだが震えが混じった。

「戦争終わったら、サウザンドマスターみたいな奴はチヤホヤされて! 調子こいた魔法使いの連中は、『西』のことにまで口出すようになって!! ウチらが長い時間かけて培ってきたもん、古臭いの一言で踏み潰して! 余所モンが……人の大切なモン奪った連中が偉そうにしてんの、めちゃくちゃ腹立つんやッ!!」

 そこまで叫んだところで息を詰まらせ、何度も咳き込む。肩を大きく上下させ、荒い息を吐く千草の顔に少しだけ冷静さが戻ってきた。
 時折、口から漏れる震える息を深呼吸で抑え、形ばかり落ち着いた千草がジローを睨む。

「ゲホッ、エホッ!! ハァー、ハァ……ッ、――――――あかんのか」
「?」

 間を置いて、喉の奥から搾り出すような低い声が、天守閣の静寂を揺らした。
 訝しげに眉をひそめたジローに挑みかかるような目を向け、千草がゆっくりと、言い逃れは許さないとばかりに重々しい言葉を囁く。

「ウチが私怨とか復讐とか、そういうもんで動いたらあかんか聞いとんのや」

 先ほどまでの激昂した叫びと打って変わって、夜の湖面のように冷たく平坦な問い掛け。

「へらへら、ボケた面で笑っとるアンタが……『自分』を支えてたもんをいきなり、根こそぎ奪われたこともなさそうな奴が、善人面して『復讐は何も生み出さない』とか言うつもりか」
「ジ、ジロー君……」
「…………」

 口を噤んだ千草だけでなく、今行われている問答に欠片も興味なさそうなフェイトの視線や、話についていけず困惑しっぱなしの木乃香の視線がジローに集中し、天守閣にピンと緊張が張り詰める。
 三者三様の瞳に見られていることを感じながら、自然体で佇んでいたジローがゆっくりと手を動かす。
 持ち上げたのは、腰に差した木刀の鍔元を握っていない方。
 弦一杯まで引かれた弓と化した空気の中、矢の代わりを果すジローの一挙手を見つめ、ごくりと喉を鳴らしたのは木乃香か、それとも千草か。
 破裂寸前の空気な中、黙して語らぬままのジローの手が伸びて、彼自身の頬に触れる。
 そして、少なくとも千草にとって重要な意味を持つであろうジローの発言は、

「あー、いや……やればいいんじゃないか? 復讐ぐらい。っていうか、大事なもん奪われて、『復讐はいけないことです』なんて言葉で納得できる奴は、そりゃあれだ、人間じゃねえよ」

 ぽりぽりと、何気なしに痒くなったから掻いたと言いたげな、人差し指で頬を掻く音と共に述べられた。

「よく、復讐なりで手を汚したら戻れない、なんて聞くけど……手が汚れたら石鹸でも使って、よっく水ですすげば問題ないし」

 頬を掻き終えた右手を顔の側で、人差し指、中指と順番に親指を引っ掛けて骨を鳴らしながら言う。
 復讐の正当性を説いてそうなジローの顔にあるのは、どうしてその様な簡単なことを聞かれなければならないのか、と逆に問い返すような困惑。

「アンタ、アホか? 汚れたら洗えばええて、そんな簡単なもんとちゃうで。手に付いた汚れと血の匂いは、どんなに消そう思っても――」
「『消せるもんじゃない』――――なんて考えてる時点で、あんたに復讐は無理そうだなぁ」
「――――」

 千草の言いかけた言葉を勝手に継ぎ、今度は左手の指を人差し指から順番に鳴らしながらジローは、嘲りでも侮蔑でもない、ただ困ってしまったような笑みを浮かべた。
 何度か向けられた小馬鹿にしたものではない、温かみさえ感じる柔らかな苦笑に言葉が詰まり、口を半開きにして固まった千草に緩い眼差しを向け、右左と順番に手首を掴んで鳴らしたジローが言う。

「手の汚れとか血の匂いってなぁ、消えないもんじゃなくて、『痛いよー、苦しいよー』って、周りにわかってもらいたくて漂わせる『泣き言』さね」
「泣き言……やと?」

 場違いにのんびりした物言いに眉宇を寄せ、千草が鸚鵡返しに繰り返す言葉に、ジローが「そ、泣き言」と頷き返す。
 そして、

「復讐、仕返しも見方を変えれば、前に進むための原動力。世の中みんな、そーいう前向きなんだか、後ろ向きなんだかな理由で回ってるもんよ」

 そこまで語った後、胸中で「うちの御主人しかり、幼馴染を守りたい少女しかり」と付け加え、老翁のように穏やかな笑みを浮かべた。

「まあ、一つお節介で忠告すると、だ。相手殴った時に自分の拳を痛めないよう、ちゃんと力加減した方がいいぞ。ああ、あと個人的な考えだけど……復讐の絶対条件は、やり終えた時に胸がスッとする、溜飲が下がる、そして――――この上なく気分が良くなる、かな? この三つは絶対厳守だ」
「ア、アンタ……」

 いつの間にか、千草の全身を熱くしていた激情が消えていた。その代わりに、今度は冷水でも浴びせられたように身体が強張っていた。
 つつ、と知らないうちに滲んだ汗が一筋、頬を伝っておとがいまで垂れる。
 それを手の甲で拭い取る千草の心に、水へ落とし込んだ墨汁のように怖さが広がっていた。目の前で立っているジローは、本当に『真っ当な人間』なのだろうか、と千草の頭の中で自問が繰り返される。

(類は友を呼ぶっちゅうけど、なるほど、月詠はんが気になるとか言うわけや……。朱に交わる前から真っ赤っかやで、コイツ)

 この場にのどかがいないことを感謝すべき幸運にも気付かず、千草は先ほどとは違う類の緊張から喉を鳴らした。
 動揺と怯えで手の平をじっとり湿らせている千草の胸中も知らず、良くも悪くも普段と変わらない飄々とした態度で、ひょいと天井を見上げたジローがぼやく。

「でもなぁ、やったらやり返されるでキリがないし……どうせ復讐するなら思いっ切り幸せになって、不運不幸に『ざまあみさらせ』って笑ってやる方が楽しそうだ」
「…………」

 動揺と怯えの色を含む目で自分を見ている千草に視線を戻し、ジローは眉尻を下げて同意を求めるように言った。

「もしもの話だけど、自分から大事なものを奪った奴が謝りに来た時、そいつよりも幸せになれてたとしたら…………『人から大事なものを奪っておいて、その程度なんですか?』って嫌味の一つでも言えるのになぁ」

 夢物語に等しい希望が叶うほど、現実は甘くはない。奪う者は奪うことでより強くなり、奪われる者は余程のことがない限り奪われ続け、弱っていく。
 弱肉強食とも言える過酷で抗いようのない、力だけが拠り所となる世界。千草が身を置いているのは、弱い者から食い潰されていく、そんな場所だ。
 だけどもし、もし本当に、自分から大事なものを奪った人間が、罪の意識にでも駆られて謝りに来た時、若そうな見た目に反して、年季の入って空気を醸し出す男が口にしたような、ふてぶてしいまでに気高く、力強い意地を張れたなら。端から見れば痩せ我慢に過ぎない滑稽な意地でも、胸を張れって強く在れるのだとしたら。
 それはきっと、例えようも無く爽快で、面白いぐらい胸が空くのではないか。

「――――――――ハッ……そんな上手い話があるわけないやろ」

 一瞬だけ苦しげに顔を歪めた千草だが、しかし、彼女が返したのはつっけんどんな答えと、もはや問答無用と主張する敵意の篭った眼差しだった。
 それに呼応するように腰に差した木刀の鍔元を握り、抜きやすいよう僅かに柄を押し出したジローが小さく息を吐いて、どことなく残念そうに呟いた。

「ハァ……頑張ってみたけど、説得は失敗したっぽいなぁ」
「え…………? も、もしかしてジロー君、さっきの話であのお姉はんと仲直りしよー、思てたん?」
「仲直りって……。まあ、事情も呑み込めてないだろうし、それでいいと思うけど……一応は」
「――――アカンでジロー君、いくらなんでも無理あるで……」
「……そうか?」

 引き攣った笑顔に冷や汗を垂らした木乃香の言葉に、納得いかなそうに眉をひそめたジローだが、すぐに意識を千草達への警戒に向ける。
 今すぐにでも呪符を投じそうな千草や、その横で無表情に立つフェイトと、彼の式神であるルビカンテに意識を八割ほど割きながら、残る二割で木乃香に喋りかけた。

「あー、せっかく刹那と楽しんでたのに、とんだ災難だったな」
「う、うん、そやなー。でも、お芝居の役者さんに選ばれたんやから、しゃーないで……」

 先の千草との会話など、芝居にしては少しおかしいと思いながらも、まだ自分が役者としてたまたま選ばれただけと信じている木乃香に、内心「おおらかすぎるだろ」と突っ込みを入れながら、無駄に騒がれない分、面倒がなくていいとも考えたジローは、背後で座り込んでいる少女へ振り返る。

「そうだな、まあ向こうもお仕事なんだし、協力してあげるのが人情ってもんだよなぁ。たぶん、あそこの厳つい鬼みたいなのがカメラだ」
「せやせや、せっちゃんも外で頑張っとるみたいやし、ジロー君も気張ってや!」

 グッと両手を持ち上げてのガッツポーズをする木乃香の激励は、僅かにだがぎこちなかった。自分に凶眼をぶつけてきた月詠と戦っている刹那が心配なのだろう。
 あるいは心のどこかで、いま起きていることは芝居ではないと感じているのだろうか。

「余所見するとか、ちょう余裕見せすぎなんとちゃうか?」
「…………」
『クルルル――』

 後方の木乃香に顔を向けているジローに千草が挑発的に声をかけ、あいかわらず無言のフェイトは静かに手を上げて、いつでもルビカンテに攻撃させられるようにしている。
 天守閣の中を緊張が満たし、戦闘に関して素人の木乃香には息苦しい空気が増す。
 今にも戦いの火蓋が切って落とされそうな沈黙。だが、そんな張り詰めた静けさを無視して、ジローは張りのない飄々とした表情を緩め、

「あまり怖がらなくていい。このかを守るのは刹那にさせたいってぇのが本音だけど……なに、こう見えて俺はな――――あー、学園長だろ? 高畑先生に刀子先生、神多羅木先生、シャークティ先生に明石教授、ガンドルフィーニ先生、弐集院先生、瀬流彦先生、エヴァに刹那に真名に楓に……」
「ど、どないしたん? ジロー君」

 訝しむ木乃香に、「少し待ってくれ」と小さく断りを入れて指折り数えなおしてから、勝手に納得した風に頷いて言った。

「うん、こんなとこか――――ゴホンッ……こう見えて俺はな、麻帆良で二十番目ぐらいに強い」
「…………微妙やな」
「何故に不自然に目を逸らして言う?」

 昨夜、悪鬼魔人と化した青年の発言に対し、「嘘つきは泥棒の始まりやで」との言葉を飲み下し、なるべくジローの目を見ずに言う木乃香。
 少女のあからさまに不自然な態度に首を傾げつつ、ジローは千草達の方に向き直って、『洞爺湖』と黒で彫り込まれた木刀の柄に手を掛ける。
 それから口にするのは、普段の真面目さに乏しい飄々としたものではない、力強い言霊を持った真剣な誓い。

「とりあえずだ、このか……お前さんのことを守るために、今から少しの間だけ頑張らせてもらうさね。頼りないかもしれないが、あいつらには指一本触れさせんよ、約束する」
「――――えっ、きゅ、急にそないなこと言われても、ウチ……」

 腰の得物に手を掛け、スッと腰を落として構えたジローの後ろで木乃香が上擦った声を漏らす。
 反応が戸惑っているように感じられるのは、やはり刹那やアスナと違って、友情や親愛度に大きな差があるからだろうと、前を向いたままジローは苦笑した。
 同性からならまだ対応の仕様もあるのだが、異性から初めて『守る』と告げられ、彼女自身が不思議に思うほど頬を赤くしている木乃香に気付きもせず、ジローは場の空気を軽くするための言葉を繋げた。

「このかを任されたのに怪我でもさせたら、何言われるかわかったもんじゃないし。早いとこ、このか守りの専門家に返したいなぁ」
「……………………」

 瞬間、木乃香だけが、天守閣の中に旗の付いた竿のへし折れる、ボギンッという派手な音を聞いた。
 ああ、そういえば自分の知っている青年は、こういう人物だった。スッと急速に温度の下がった頬を擦りつつ、木乃香は重々しく頷く。
 だからこそ、同じ図書館探検部に所属している友人や、今日一日で昔の距離を取り戻せそうな幼馴染の少女も攻めあぐねているのだ。

(夕映もせっちゃんも、よう頑張るな〜……)

 きっと自分の大切な友達二人は、同じく大切な友達のハルナが言う『ふらぐ』とやらを立てられ、盛大にへし折られてを繰り返しているのだろう。
 何度、『ふらぐ』を折られてもめげない友人達を想い、木乃香は思わず鼻の奥を熱くした。
 しかし――

「ほなら……お嬢様をこっちに渡してもらおか!」
「だぁが断る」

 前に踏み出すために、一層深く腰を沈めたジローの背中を見ていた時、微かに耳に届いた呟きに「でもなー」と苦笑する。

「――――ったく、友達とか作らなかったんだろうなぁ……。鬱憤溜めすぎじゃないか? あいつ」
(ちょっとズレとるけど、お人好しっぽいなー)

 愚痴にも聞こえる苦々しいぼやきを聞いて、一緒にいると落ち着けたり、やきもきしたりで、夕映や刹那も気になって仕方ないのだろうと思った木乃香は、

(アレやな、前にハルナが言うてた……旗男? 意味はよう知らへんけど)

 記憶の中から掘り返した、ジローにとっては非情に不名誉であろう称号に首を傾げ、「ムンッ」と胸の前で握りこぶしを固める。

(ゴメンやで、ゆえー……せっちゃん奥手っぽいし、やっぱりウチが応援したらなアカンねん!)

 律儀に、同じ部に所属している厭世家気質の友人に謝った後、木乃香は自分の大切な幼馴染の仄かな恋心を後押しすべく、密かに決意するのであった――――






『ううぅ、ひどいよー、ひどすぎるよジローさん……』
『ま、まあまあ、相棒にゃどう頑張っても、あのちび妖怪どもは倒せなかったんだし』

 城の中を縦横無尽に走る廊下を、心なしボロボロになったちびネギが浮遊していた。
 目に涙を湛え、頬を膨らませて文句を言い続けているちびネギの頭に掴まり、糸目の状態で宥めているカモも、噛み傷や引っ掻き傷でボロボロである。

『にしてもアイツら、いいパンチ持ってやがったぜ……。まさか、このオコジョ拳法の使い手な俺っちが、ああまで追い詰められるたぁ』
『カモ君、それ僕は初耳だよ〜』

 理由は単純。日本橋から木乃香を連れて戦線離脱したジローを追跡してきた、月詠の召喚したミニサイズの妖怪達。それらに引っ付かれ、少なからず傷を負わされながら、その可愛さから反撃できなかったジローが最終手段として選んだのは――

『本当にジローさんってば! 僕とカモ君に任せるとか言って、ちいさい妖怪達と一緒に放り捨てるなんてひどいよっ』
『そ、そりゃまあな……』

 ジローや木乃香の魔力を辿り、二人が天守閣にいることを感知したちびネギは、カモを背負う形で長い廊下をプリプリしながら飛行する。
 体の小ささに比例して異様に距離を増した天守閣までの道を、ちびネギなりの全速力で進み、ついに最後の難関とも言える急勾配の階段を昇り終えた。

『やっと着いたね、カモ君! 木乃香さん、大丈夫ですか!?』
『おうよ! さあ相棒、俺っちが来た以上、戦術で悩むことはねぇぜ!!』

 本人達的には勢い良く階段の奥から飛び出し、『ちょ〜ん!』という擬音をバックに味方の増援をジローに伝えようとする、ちびネギとカモ。
 その二人が、天守閣の屋根の点検用階段の方に目を向ける。同時に、ちびネギとカモが目撃したのは――

「チィッ!?」
「ひゃあんっ!?」

 木乃香を狙って、巨躯のルビカンテが大弓から放った細身の槍ほどはある矢を、洞爺湖土産の木刀で弾き上げるジローの姿だった。
 矢を真正面から叩くのではなく、下から掬い上げるように弾いたが、それでも『矢』の概念から大きくはみ出した凶器が相手。強化した土産物木刀には荷が勝っていたのだろう。
 天守閣に乾いた木の割れる音が響き、中程から真っ二つに折れた木刀の上半分が、点検用階段の前で体を縮こまらせていた木乃香の足元へ、激しく回転しながら突き刺さった。

「ちょおぉぉぉっ!? 何やってくれとんのや、新入り!」

 木乃香と同じように、ジローの弾き上げた矢が足元の畳に突き刺さった千草が、フェイトに掴みかからんばかりの勢いで怒声を上げている。

「ウチが、さあ自慢の式神達の出番やって感じで呪符投げようとしとったのに、いきなり弓射させよるし! しかも、何で的がお嬢様やねん!?」
「…………」

 怒鳴り散らす千草をちらりとも見ず、フェイトはルビカンテに次の矢を番えさせていた。
 誘拐するべき相手を狙う攻撃など正気の沙汰とも思えないが、相手にとっては有効で、こちらにとっては迷惑極まりない手段だと、ジローは舌打ちと共に木刀の残骸を放り捨てる。
 キリキリと、歯の浮く音を立てさせながら大弓の弦を引くルビカンテを睨み、やぶれかぶれに徒手で腰を落としたジローに、カモを背負ったちびネギが飛びついた。

「わ、わー……これどないしょ? 畳に穴あいてもーてるで……抜いといた方がええかな? ええでな、やっぱり……」
『ジジ、ジローさん、一体どうなってるの!?』
『連中の狙いはこのか姉さんじゃなかったのかよ!?』
「いやー……あちらさんに、性格悪いのが一人いるみたいでなぁ。ああ見事にこのかを狙われたら、こっちもろくに動けやしない」

 後ろで畳に刺さっている木刀を引き抜こうとしている木乃香に、一応は声を聞かれないよう耳元で騒ぐちびネギやカモに、冷や汗を一筋垂らすジローが苦笑いで答える。
 次に矢を射られると防ぎようがないと、困った風に頭を掻きながらジローが提案してみた。

「あー……天守閣殺人事件なんて御免だし、仕方ないから屋根の上まで後退しようか、このか」
「う、うん、でも何やおかしい言い方やなー」

 木乃香問ふ、屋根に上るのに後退す、これ如何に。
 ジロー曰く、それ即ち――――

「そういう時はあれだ、後ろに向かって前進するって言えばいい」
「なるほどー」
「あ、待ちぃや、アンタら!」

 木乃香を先に昇らせ、自分達に一瞥くれて点検用階段に姿を消したジローを制して、当然のように無視された千草が、悔しげに親指の爪を噛んでフェイトにヒステリックに指示する。

「チッ、先回りすんで新入り!」
「…………」
『も゛ほ』

 千草の言わんとすることを察したのだろう、フェイトが手を上げるのに反応して、ルビカンテが「さあ、お乗りなさい」とばかりに二人に背中を向けた。

「……ルビカンテ」
『クルルッ』

 短く、感情の含まれていない声に従って、ルビカンテが千草とフェイトを乗せて天守閣の見晴台から空中に飛び出す。
 屋根の上にいるであろうジロー達の姿を探しつつ、千草は胸中で横にいるフェイトについて考えた。

(一体、何考えてとんのやこいつ……)

 もしかして自分は、間違っても引き入れてはいけない人間を仲間にしたのではないか。
 確かに効果的な戦法だったとはいえ、無表情に淡々と、傷つけずに身柄を押さえたいと考えている木乃香へ攻撃するよう、式神に指示した白髪の少年の横顔は、千草の声にならない問いに答えることはなかった――――






 天守閣の屋根の端、四方の隅に置かれた鬼瓦のところまで追い詰められた状態で、ジローは「さて困った」と、背中に木乃香を庇いつつ重々しくぼやいた。

「下手に抵抗しいなや、ボケ男。この鬼の矢が、アンタの心臓をピタリと狙っとるのが見えるやろ?」
「ボケ男……いくら敵でも、呼び方ひどくないか?」

 視線の先では、大弓に弓を番えて構えるルビカンテと、その両脇に立つ千草とフェイトの姿。
 酷い呼称で自分に降伏を要求する千草に、糸目になって囁くように抗議を漏らしてみる。もちろん、相手に届くべくもないが。

『ジ、ジローさん、何かいい作戦はないのっ?』
『早いとこどーにかしねえと……! あんな矢、喰らったら無事にゃ済まねぇぞッ』

 ジローの両肩に掴まり、小さく騒ぐという器用な真似をするちびネギとカモに呆れたような半眼を送り、だが二人の言い分ももっともだ、と鼻から息を出したジローが、口をへの字に結ぶ。
 正直、手詰まりであった。遠慮呵責なく魔法でも使えば、この状況を打破できる可能性もあるのだが、

「それはそれで、本末転倒な気がしないでもない」

 魔法の関わる世界から遠ざけるために守っている少女の前で、歳末バーゲンセールの売り物みたく魔法を使用する――――なんとも矛盾した話である。
 もう一度、「さて困った」と溢すジローに気付き、背後で俯瞰の風景を覗いてへっぴり腰なっていた木乃香が話しかけた。

「――――大丈夫やで、ジロー君」
「ん?」

 唐突に話しかけてくる少女に眉をひそめ、首を後ろへ巡らせたジローに、木乃香は一国一城の姫君と遜色ない姿で、気丈な笑顔を浮かべて断言する。

「せっちゃんが何があっても守る言うたんや。必ずせっちゃんが助けてくれるて」
「…………」

 限りない信頼に満ちた、木乃香の笑顔と言葉。それらを裏づけるのは、自分の中にある幼馴染の少女との思い出と、今も色褪せずに存在する友情だけだというのに。
 少しばかり感心した風に片眉を上げたジローは、視線を木乃香から日本橋の方向へ飛ばす。
 彼の視線の先では、日本橋を模した架け橋の欄干の上を疾走し、月詠と太刀をぶつけ合っている刹那の姿があった。

「――――――――ふむ」

 木乃香を守るためなら、自分の命すら惜しくないと言える少女剣士の姿を眺めていたジローの顔に、じわりじわりと緩く穏やかな笑みが染み出してきた。
 しかし、そのいつもと変わらぬはずの飄々とした笑顔には、何故か一抹の剣呑さがまぶされていた。
 視線を刹那から引き剥がし、木乃香に移したジローが、天気でも尋ねるような調子で尋ねる。

「なあ、このか……刹那のことを信頼してるか?」
「え? う、うん、当たり前やん」

 唐突な問い掛けの意味がわからず、戸惑いながらも頷いた木乃香の前で、ジローの浮かべる笑顔がさらに剣呑味を増した。

「じゃあ、悪いなぁ――――」
「え、えと、ジロー君? 急にウチの腕持ってどないしたん?」

 ルビカンテの巨大な矢に狙われた状況の中、木乃香に向き直ったジローが、むんずと無遠慮に少女の腕を掴んだ。

「…………」
「アホッ! 今やったら、お嬢様まで串刺しやろが!? 少しは頭使わんかい!!」

 ジローの後方では、先と同じく容赦なく矢を射させようとしたフェイトに、千草が大慌てで制止をかけている。
 あくまで心配なのは木乃香の身の安全なのだろうが、それでも人がいいことには変わりあるまい。
 『裏』の世界から見れば甘い千草の行動に苦笑しつつ、木乃香の腕を掴んだジローは、空いている方の手を口の横に当てる。
 そして、

「おぉ〜〜〜〜〜い、刹那さんや〜〜〜〜〜〜い!!」

 何を思ったのか、いきなり日本橋のセットの上で月詠と剣戟を繰り広げている刹那へ、拡声器でも使ったような大音声で叫んだ。

「!?」
「はれ〜……?」

 驚いたのは刹那だけでなく、月詠もであった。
 斬り合いにも興が乗り、今にも興奮が最高潮に達するという瞬間に、遠くに望む城の上から、妙に真剣さのたりない大声が届いたのだから。
 お互い申し合わせたわけではないが、ポカンと呆気にとられた顔で戦闘を中断して、日本橋から城の屋根の上に目を凝らす。

「お、お嬢様!? それにジロー先生も!」
「ありゃ〜……上手く追い込んだんですけどー、千草はん達は手こずっとるようですな〜」

 天守閣の屋根の上。片や鬼瓦のある隅まで追い詰められ、片やルビカンテの大弓を使って追い詰めているという構図に対し、両陣営に属する者の言葉が漏れた。
 今すぐにでも、木乃香とジローの助勢に駆けつけたいが、それにはまず月詠をどうにかしなくては。
 横目にロリータ服の二刀剣士の少女を睨み、歯軋りする刹那に、天守閣の上で木乃香の腕を掴んだジローの第二声(?)が飛んできた。

『お届け者……でーーーーーす♪』
「は?」
「ほへ?」

 遠目にもわかる、普段しないような爽やかな笑顔と共に叫ばれた言葉に、刹那や月詠、さらに日本橋を囲んで、お芝居として二人の殺陣を楽しんでいた観客その他から、『え゛?』という疑問の声が上がった。
 まさか、いや、そんな馬鹿な。誰もが冗談のはずだと考えながら、何故か拭えぬ嫌な予感に脂汗を垂らす。
 重力さえ発生させそうな人々の凝視の中、にこやかに刹那へ手を振っていたジローが、木乃香の腕を掴んだままゆっくり足を踏み出し――――

『―――――ひゃあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?』
『ほ、ホントに投げたぁッ!?』

 軽い動作のわりに信じられない勢いで、姫君に扮装した木乃香を、刹那達のいる日本橋の方角へ向かって投擲かました。

「お゛――――このちゃぁぁぁぁぁぁぁんっ!?」

 驚愕とドン引きの叫びの中、ただ一人、刹那だけが忘我の状態で駆け出していた。

「―――――ぁら〜?」

 勝負どころか、存在さえ置き去りにされた月詠が間の抜けた声を漏らしていたが、それが届く前に刹那の体は日本橋から大きく離れていた。
 ジローによって木乃香が城の上から放り出された瞬間、刹那は頭の中でプツンと色々な冷静さが切れたように感じた。普段は意識して呼ばないようにしていた、幼馴染の少女の「このちゃん」という愛称を叫び、脚に限界まで気を叩き込んで爆発させ、一気に十メートル近い距離を疾走し、さらにそれを連続で繰り返す。
 下手をすると脚の骨が折れたり、筋が切れたりするかもしれなかったが、その程度のリスク、とうに刹那の思考から蹴り飛ばされていた。
 ただ一心不乱に、「このちゃん」と叫んで城に向かって――いや、現在進行形で地上にダイブしかけている木乃香へと駆け続ける。

 あと百メートル‥‥七十メートル‥‥四十! 三十――――!!

 助けを求めるように手で空を掻いている木乃香に向かい、最後の疾駆を行うと同時に、刹那は手に持っていた夕凪も放り出して諸手を広げた。

「せっ、せっちゃ〜〜〜〜〜〜〜ん!?」
「このちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁんッ!!」

 次の瞬間、崖から転がってきた岩がぶつかるような、少女の細腕で受け止めるには酷く無理がある衝撃が、無遠慮なまでに刹那の体を突き抜けた。

「――――クッ!」

 呻き声を上げはするが、決して受け止めた木乃香は放さぬと、さらに力を込めて抱きしめた刹那は、器用に空中で身を捩って背中で地面を擦る。
 運良くと言うべきか、松の植えられた黒土混じりの地面で最初の衝撃を殺し、そのまま芝生の敷かれた広場を転がった。

「……ぜぇっ、はぁっ!! はぁッ……!!」
「あ、あははー、紐なしバンジージャンプは……ちょい怖かったかなぁ」

 体力や精神力を絞りつくす過酷な高速移動に、地面に仰向けに寝ている刹那の荒い呼気の音と、突然の落下体験に少しばかり顔色を悪くして、体を震わせる木乃香の笑い声。
 見事に姫を助けた剣士の姿に、ちょうど城門の辺りにいた観光客の一団から拍手喝采が起きた。
 刹那と木乃香の寿命が縮む数秒間だったが、いま起きているのは全てお芝居だと信じ込んでいる見物人達には、この上なく楽しい、手に汗握る数秒間に過ぎなかったらしい。

「う……恨みますよ、ジロー先生……」
「せ、せっちゃん、大丈夫?」

 今頃になって、己の限界に挑戦して突破したツケが回り、ガクガクと震える膝と体に鞭打ち、体に覆いかぶさる様に乗っていた木乃香を脇に座らせた刹那は、今回ばかりは勘弁まかりならんと、大切な幼馴染の少女を投げ飛ばした使い魔青年を睨むべく、天守閣の上に鋭く細めた視線を向けて、

「――――――――な……」

 目に飛び込んできた光景に絶句する。

「……あれ、ジロー君?」

 大きく目を見開き、顔を強張らせている刹那の隣りで、自分の見ているものが信じられないように首を傾げた木乃香が、数回目を瞬かせた。
 今見ているものが、本当にお芝居なのかどうかを確かめるように。

「そんな……嘘だ、冗談ですよね!?」
「せ、せっちゃん……!?」

 しかし、木乃香が求めていた答えは、隣りでよろめきながら立ち上がった刹那の叫びによって否定される。
 動かない脚に喝を入れ、何とかして天守閣まで駆けようとする刹那に驚き、彼女の視線を追って顔を上げた木乃香の視界に、右胸の辺りを後ろから矢で刺し貫かれたジローが立っていた。
 痛みを堪えて丸める体を無理矢理、持ち上げ、危なげな様子で後方を振り返ったところで、ジローは足を滑らせるように天守閣の屋根から転げ落ちた。
 すぐ下に突き出していた城の屋根にぶつかり、一度跳ねて落下しなおすジローの姿は、酷く不自然でマネキンのように感じられた。

「ジロー、先生……」
「ぁ――――――――――――――――――――ッ!!」
「なっ……お嬢様!?」

 ガクリと膝を落とす刹那の隣りで、その光景を見ていた木乃香の体の奥深く。記憶の封印がなされた木乃香の体内で眠っていた魔力が、目覚めの切っ掛けを得たと歓喜するように大きく脈打つ。
 次の瞬間、周囲を白く塗りつぶすほどの眩い光が、木乃香を中心に溢れ出した――――






 木乃香を放り投げるという暴挙に出たジローに、千草は思わず怒鳴ろうとした。

「ちょっ、アンタッ、アホか――――!?」

 しかし、千草の突っ込み代わりの怒声は、彼女の顔の横をゴウッと風を巻いて通った、細身の槍にも等しい矢によって掻き消された。
 千草の目の前で、木乃香を放り投げたばかりのジローの背中を、ルビカンテの大弓から放たれた矢が刺し貫く。
 濡れた皮袋に穴を開けるような、ドブッとくぐもった音が千草の耳に届いた。

「新入り!?」
「――――この襲撃は失敗ですね」

 本人は気付いていないが、抗議の視線を叩きつけて詰問の声を上げた千草を冷めた目で見返し、ルビカンテに大弓の矢を射させるよう命令したフェイトは、ただ一言、木乃香の身柄確保に失敗した事実だけを伝えた。

「ぐっ……」

 そういうことではない。思わず怒鳴り返しそうになって、だが、敵である西洋魔術師の心配をするようなことを言ってどうすると、苦々しい顔で言葉を飲み込む千草。
 忌々しげに眉宇をひそめている千草に興味を失い、視線を前方に戻したフェイトの目には、右胸から鏃を生やしているジローが映った。

「…………」
『ジジジ、ジローさん!! ジローさんッ!!』
『ちょぉぉっ!? 相棒、大丈夫……なわけねえよな! 相棒、しっかりしろ! すぐにここから逃げて、医者か何かに見てもらわねえと!!』

 体を駆け回る激痛に背中を丸めているジローの両肩で、ちびネギやカモが狼狽の声を上げている。
 しかし、まだ生きている。

「……ルビカンテ」
『も゛ほ』

 だったら、念を入れて動けなくしておいた方がいい。
 新聞で叩いたゴキブリに、一応殺虫剤も吹きかけておく主婦のように軽く、フェイトは自分の式神に次の矢を番えさせようとする。

「し、新入り? ちょ、待ちや……い、いや、止める必要はないんか……?」

 横で千草が、止めるべきかどうか悩んでいるような呻き声を漏らしていたが、フェイトには何ら関心がなかった。

「っ、あ゛ぁ、ぃってぇな……」
「――?」

 フェイト達に背中を向け、蹲るように体を丸めていたジローが、震える声で痛みを訴えた。
 それをどうして自分に訴える、と小さな疑問符を浮かべたフェイトに、首を巡らせて脂汗にびっしょり濡れた顔を向けたジローは、恨みの篭ったジト目で睨み付ける。
 顔色を蒼白にして、今にも倒れそうな体を膝に手を突いて支え、喘ぐように深い呼吸を繰り返した後、

「――――ぁみろ……」
「…………」
「アンタ……」

 フェイト達に見せたのは、痩せ我慢であることが丸分かりのふてぶてしい笑み。
 歯を食い縛り、力尽くで口元を歪めてジローが漏らした言葉に、フェイトは無表情を変えることなく、千草は顔を強張らせる。
 そこまでが限界だったのだろう。表情に変化のなかったフェイトに悔しげな顔を、そして顔を強張らせた千草には、何かをやり遂げて無駄に満足そうな顔を見せたジローは、ずり落ちるように屋根から転げ落ちていった。

「……何が『ざまあみろ』なんでしょうか」
「……ウチに聞かれてもわかるかい」

 ガシャン、とすぐ下の屋根にぶつかってから落ちていくジローを、屋根の上から覗き込みながら呟きあうフェイトと千草。
 フェイトには「わからない」と返したが、千草の顔には理解したが故の苦いものがあった。

(不運不幸に『ざまあみさらせ』言うたる方が楽しい、っちゅうんを実践して見せたつもりか……? ホンマ、忌々しいやっちゃで……)

 しかも、さっきのあれは不運不幸と言うより、自業自得な激痛ではないか。
 胸中で口汚く罵る千草の視線の先では、木乃香が放出した魔力の光に包まれ、胸を穿った矢ごと傷を消去されているジローの姿があった。

「――――また失敗してもうたけど、このかお嬢様の『力』を見れただけ良しとしとくか」
「…………」
「次で最後や……何がなんでも、このかお嬢様を手に入れるで」

 横目に自分を窺うフェイトに気付きながら、そちらに視線を向けることなく千草は呟いた。
 意識を取り戻したらしく、芝生に腰を下ろして訝しげに頭を掻いているジローを見据えながら出した声は、低くて重い、殉教者に似た覚悟さえ感じられた。

「――――大丈夫ですよ……僕に任せてください」
「…………ああ、頼んだで」

 ポツリ、と感情の見えぬ瞳で見つめながら呟いたフェイトに、千草は短く、それだけを返した。
 一体何をするつもりなのか、どうやって木乃香を手に入れるのか。それらについての質問を、彼女は何一つしなかった――――






後書き?) かなり駆け足に終わらせてしまったシネマ村の話。小太郎の出番を挟み込めなかったのが悔いですが……ドンマイ、ということで。
 千草がやけに重くなっている感じです(あくまで、私の中では)。西洋魔術師についての叫びは……まあ、こういうこと思われても仕方がない部分もあるのでは、なところです(とは言っても、戦争だしという気持ちのが強いですが)。
 改正前と比べて個人的にはシックリきてるけど、千草のことを重点的に書くつもりはなかったよなぁ、と首を傾げつつ。
 感想アドバイスに指摘、お待ちしております。




「ぶぶ漬けは出ませんか?」



『今からお嬢様の実家へ向かいましょう』

 これ以上、自分達だけで木乃香を守り続けるのは難しい。そう判断した刹那の訴えにより、ネギ達と合流を果したジロー達は、木乃香の実家に向かっていた。

「ちょっと、どーゆーコトよ? 何でみんなまでついて来てるの」
「あー……ちょっとした手落ちがあったんだ」
「す、すみません……」

 小太郎との戦闘で、まだ一人で歩けるまで回復していないネギを背負ったアスナの質問に、ジローと刹那の二人は実に複雑な顔で答えた。
 アスナが視線で指し示す方向には、ネギ達と途中で合流したのどかだけでなく、どうしてか、和美やハルナ、夕映の姿があった。

「お嬢様を連れて、ここまで走って辿り着いたまではよかったのですが……」
「朝倉の阿呆が、刹那の鞄にGPS携帯なんぞを放り込んでて、それで追いつかれた」

 必要外の場所で行動力を発揮しすぎだよな、と和美にジト目を向けて呟くジローを、アスナが小声で怒鳴りつける。

「ちょっとあんた! この危険さ、全然わかってないでしょ!? ネギなんて、こんなにボロボロになるまで殴られたのよ!」
「ア、アスナさん……」

 背中の上から、それとなく宥めようとするネギの努力も虚しく、アスナの憤りがジローにぶつけられる。
 どうして、数えで十歳しかない子供のネギが、こうも危険な目に遭わなくてはならないのか。そんな至極真っ当な訴えに、ジローは糸目で「そうですね」と頷かざるを得ない。
 内心、よほど威力が尋常でなかったり、打ち所が悪くない限り、人が殴り殺されることは稀だと考えながら、槍に匹敵する大きさの矢に刺し貫かれたばかりのジローは、ただ一言、

「申し訳ございません」

 と、肩を竦めながら返した。

「あ、あんたね……ああ、もう! 何でそんなに緩い顔してられんのよ!?」
「ぁぅぅ……」

 普段通りに見える飄々とした態度で歩いている使い魔青年に、アスナは苛立ちを覚えたように歯軋りし、そんな少女に背負われているネギは、申し訳なさそうに首を竦めていた。
 ちびネギを介して、ジローが矢で刺されるのを見たからだろう。木乃香の膨大な魔力の放出によって完治したと知っていても、ジローを見るネギの視線には不安の色があった。

「まあ、こうなった以上、仕方がないさね。とりあえず、文句やらは呪術協会に着いて、落ち着いてから聞くから。少し大人しくしといてくれ」
「え?」

 何だかんだで、大きな怪我をしていないことに安堵し、ポンポンと、ネギの頭を撫で叩きつつジローが言う。
 訝しげに眉をしかめたアスナの耳に、前方を歩いていたハルナ達の声が届いた。

「あ、見て見て! あれ、入り口じゃない!?」

 ハルナの指差す方向にあったのは、羅生門を思わせる朱塗りの美しい門。
 鬱蒼と生い茂る木々の合間からでも、風格ある存在感を醸し出す関西呪術協会の入り口は、まだ日もある時間帯だというのに、どこか暗く重苦しかった。

「レッツゴー!!」
「あーッ!? ちょっと、みんなー!」

 ハルナの号令に従って、我先にと門に向かって駆けて行く木乃香や夕映、のどかを呼び止めんとアスナが叫ぶが、人の注意を素直に聞くような連中ならば、そもそも犯罪紛いの追跡を行うまい。

「そ、そこは敵の本拠地なのよ!? 何が出てくるか――!!」

 急いでネギを背中から降ろし、パクティオーカードを取り出すアスナの斜め後ろを歩きつつ、ジローがポツリと呟いた。

「冷静に考えるとわかるけど、敵の本拠地に単身で親書届けに行け……なんて命令する阿呆はいないよな?」
『い、いや、まあ絶対にいねえとは言い切れねぇが……』

 恐らく、アスナの頭の中では、千草一味の行動=関西呪術協会の人間の総意という式でも作られているのだろう。
 アスナにつられてか、魔法の杖を握って、彼女と一緒にハルナ達を追いかけていくネギの背中を見送りつつ、ジローとカモは生暖かい苦笑を浮かべ、小さくため息をついた。

「あ、あの、ジロー先生……」
「ああ、先に行っていいぞ。俺はゆっくり歩きたいから」
「え……は、はい……」

 急ぐよう促すつもりはなかったのだが、そう言われては仕方がない。
 勇気を振り絞って、体調に変わりないのか聞こうとした刹那だったが、送り出す視線を向けるジローを名残惜しげに振り返りつつ、小走りにネギ達を追いかけていく。

「おぉ……?」
『こりゃあ……』

 ハルナやネギ達から少し遅れて門を潜ったジローとカモは、自分達の目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
 二人を待っていていたのは、神社の境内を思わせる広場と、一足先に門を潜った少年少女達を歓迎しているらしい、巫女装束の一団。
 そして――

「――――すごいな、こりゃ」
『あ、ああ……何だ、桜吹雪って奴か?』

 鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた境内の中にあったのは、抜けるような明るさと清々しさ。
 静謐ささえ感じる広い空間を、淡い桃色の雪を思わせる花びらが舞っていた。
 桜である。境内の目に付く場所に、年季の入った立派な桜の木が生えていて、そのすべてが爛漫と咲き誇っている。
 まるで、桜色に燃え上がる炎のようである。僅かな風にも、ちらちらと芽吹いた命の欠片を溢す桜の木々を、ジローとカモは息をするのを忘れたように見入る。

「さ、桜咲さん、これってどーゆーこと?」
「えーと、つまりその……」

 優雅に花見と洒落込みたい使い魔コンビの近くで、敵に襲われるどころか、むしろ歓迎されている風な状況に困惑し、刹那に問い尋ねているアスナの姿が。
 それを見たジローが、これから何が起こるのかを知っているように耳を塞ぐ。

『相棒? …………ああ、なるほどな。よし、俺っちも』

 糸目状態のジローの肩の上で、相方の奇妙な行動に訝しそうな顔をしたカモも、すぐに何かに気付いたらしく、彼に倣って自分の耳を塞いだ。
 果して、

「ここは関西呪術協会の総本山であると同時に、このかお嬢様の御実家でもあるのです」
「――――えぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?」

 敵だとばかり思っていた関西呪術協会の総本山が、その実、長年の付き合いである友人・近衛木乃香の実家だと知って驚愕したアスナの魂消る叫びが、境内に並んだ桜の木々を揺らし、一層の桜花を舞わすのに一役買った――――






 短い時間ではあったが、思いがけず心安らぐ花見を楽しんだジロー達が通されたのは、総本山に立てられた建物の中でも一際大きい、御所を思わせるような立派な広間であった。
 恐らくは謁見の場に使っているのだろう、とジローは用意された円座――い草で編み上げた、丸い座布団のようなものだ――に折り目正しく座りながら、それとなく部屋に視線を巡らせる。
 部屋の左右の壁際では、正装した巫女達が並んで正座しており、上座に近い場所で琴や鼓、篳篥(しちりき)、竜笛などを奏でている。

「一応、客人として扱われてる感じだな」
『まあ、東の使者ってことで話通ってるし……兄貴だって、ただの子供魔法使いじゃねえから』

 具体的にいつ訪問するなどを伝えられていないのに、随分と本格的な歓迎であると、肩に乗ったカモと話し合う。

「――は、はい、実は僕、修学旅行とは別に秘密の任務があって……」
『秘密の任務!?』
「……そうさなぁ、『ただの子供魔法使い』とは言えねぇよ」
『……たまにだが俺っち、相棒の度量の大きさを知りたくなるぜ?』

 ジローの右隣に座り、ハルナや和美、夕映といったある種、勘の鋭いメンバーに迂闊な一言を漏らしているネギを横目に、遠い眼差しになるジローに、慰めるようにサムズアップするカモ。
 お互いに苦笑した後、いつも通りの緩い眼差しを前方に視線を送ったジローが、カモにだけ聞こえるよう囁く。

「とはいえ、『心から歓迎してます』まではいかないよなぁ、やっぱり」
『何だかんだで余所者だからな、仕方ねえさ』

 ジロー達の正面にある、『西』の長が座るための席まで伸びた階段の左右に、弓矢を携えた物々しい姿で佇む女性達の、ピンポイントに自分達を警戒した視線にむず痒いものを覚えつつ、ピシリと伸ばした背筋を曲げずに座っておいた。
 それから時を待たずして、

「間もなく長がいらっしゃいます、お待ちください」
「あっ、はい! どうもっ」

 伝達係らしい巫女がネギの側に歩み寄り、感情を抑えた口調で『西』の長が来たことを伝えてきた。
 恐縮し、改めてネギが姿勢を正したところで、部屋にいる一同の視線の先にある階段を、白い狩衣を来た長身の男が降りてくる。
 身分の高さを表すためか、必要以上に長い後ろの裾がスルスルと床を擦り、部屋に満ちた雅楽の音と相まって、厳粛な空気を生み出していた。

「お待たせしました――――ようこそ明日菜君、このかのクラスメイトの皆さん。そして担任のネギ先生に……副担任の八房君、でしたか」

 ジローという、少々場違いに聞こえる名前で呼ぶのを躊躇ったのか、短く刈った黒髪に眼鏡を掛けた男性は、僅かに言い淀んでジローを苗字で呼んだ。

「…………」

 相手が相手だけに、フレンドリーに名前で呼んでください、などとのたまうほど馬鹿ではない。
 苗字で呼ばれた一瞬、微かに片眉を上げはしたが、自身の名前が漢字であってもふざけていると理解しているため、ジローは小さく目礼することで肯定を返す。
 関西呪術協会の長として、多忙の日々に追われているのだろう、痩せ気味で頬が落ちくぼんでいるように見える男性は、ネギを始め一同の姿に目を細め、穏やかに口元を緩めた。

「私が西の長を務めさせていただいています、近衛詠春です」
「お父様♪ 久しぶりやー!」
「は、はは、これこれ、このか」

 関西呪術協会の長である男性――近衛詠春が自己紹介を終えるや、席を立って父親に飛びつく木乃香。
 詠春の方も口では窘めているが、久方ぶりに会う娘の抱擁に対し、満更でもない笑顔を浮かべている。

「このかさんのお父さんが西の長だったんだー……」
「こんなお屋敷に済んでる割に、普通の人だねー」
「てゆーか、ちょっと顔色悪い感じだけど」

 ジローの横と後ろで好き放題に喋る主人や少女達に、ジローは内心で渋い顔になる。

「し、渋くてステキかも……」
「えー!?」
「アンタの趣味はわからんわーッ!」
「失礼ですよっ」

 何やら詠春のワビサビのある容姿や雰囲気がツボに入ったらしく、クラスメイトの雪広あやか嬢に、『オジコン』なる称号を与えられているアスナの漏らした声に、度肝を抜かれたらしいハルナの叫びや、和美の突っ込み、さらに和美の突っ込みに対する夕映の突っ込みと、騒がしいことこの上ない。

『あ、相棒……正直俺っち、前の方に立ってる人達が怖ぇ』
「ただでさえ礼儀知らずな連中、って思われても仕方がないのに、長を前にしてこの騒ぎだしな。まあ、仕方ないさね」

 ただ一人、円座の上で姿勢を崩すことなく正座したまま、ジローは肩の上にいるカモの泣き言に素っ気無く返す。
 我関せずな口調だが、その目線は自分の膝の方向に落とされ、眼差しもこれ以上ないまでにジットリしていた。
 どう表現すればいいのだろう、格式高い料亭に行ったはいいが、連れが箸一つまともに使えない行儀知らずなことを、無言の視線で責められているような気分であった。

「そ、そうだ、親書――」
「あー、待て待て、頼むから待てぇ。こんな騒がしい状況で、自分の都合で親書渡すとか、お願いだから勘弁してくださいッ」
「え? で、でも、学園長に任されたし……」
「なればこそ、適当に堅苦しい言葉でも並べ立てて、相応の空気の中で渡すのが筋ってもんでしょうが。使者ですよ? お使いじゃないんですよー?」
『相棒相棒、本音がもろ口に出てるぜ……』
「いいんだよ、儀礼行事なんて、その場その場で真剣になる程度で」

 カモの突っ込みに対し、状況に合わせた『役』に成りきることが肝要だと言い捨て、ジローはいまだに後方で喋り続ける少女達に、大きめの咳払いで口を閉じるよう伝える。
 一度目二度目は少女達のお喋りに掻き消され、三度目の本気の咳払いにて、どうにか席に座りなおした少女達を呆れたような半眼で睨んだ後、ジローは部屋の一番上座に当たる場所に立っている詠春が、自分の真正面に来るよう体を回した。

「――連れの者が騒がしく、失礼いたしました」
「いえ、気にする必要はありませんよ。顔を上げてください」
「はっ」

 旋毛が見える高さまで顔を伏せ、重々しく謝罪したジローに、頭を下げる必要はないと詠春は苦笑する。
 顔を上げるよう促され、ジローは詠春の胸元まで目を上げた。
 言われた通り顔を上げても、視線は決して交わさない。それは偏に、目上の者――関西呪術協会の長たる詠春を敬っていることを、彼と、謁見の間にいる協会の人間にアピールする意味合いが強い。
 特使として協会を訪れたネギはともかくとして、それに同行しているだけの自分は、あくまで『招いていただいた』立場である、と。

『……………………』

 本心はどうあれ、ただの視線の配り方一つで、相手の心証は結構変わるものである。
 若輩者と名乗るのもおこがましい使い魔もどき――公には、魔法先生の扱いである――の行動一つで、少なからず漂っていた緊張が薄れたことに内心、ほくそ笑んだジローは、そこでようやく目線を詠春の顔まで上げた。
 詠春の側で控えめに立っている木乃香が、一体何が始まったのか、と目を丸くしていることに口元が歪みかけるが、どうにか表情を取り繕う。
 それから口にするのは、先にネギやカモに言い捨てた、その場限りの真剣な言葉。

「長様、本日は御目通りの機会を賜り、恐悦至極に存じます。僭越ながら、ネギ・スプリングフィールドの付き添い兼お目付け役を勤めさせていただいております、八房ジローが申し上げます。此度は必要外の人数での卒爾の訪問にも関わらず、 かような謁見の場を設けてくださり、長様のお心遣い、まことに有り難く。歳若き主に代わりまして、厚く御礼申し上げます。
 かような平服にて謁見に臨んだこと、 不愉快に思われましょうが、これも故あってのこと。何卒お責めになられることなきよう、平にお願い申し上げ候。
 挨拶が長くなりますれば、長様の御執務にも差し障りが出ます故、此度の訪問の目的たる東の長・麻帆良学園学園長 近衛近右衛門様より預かりし親書をば献上いたしたく――――」
「ああ、いや……そんなに畏まらなくていいんですよ?」

 露骨に慇懃すぎて、時代錯誤に堅苦しい挨拶をスラスラと述べるジローに、大きな冷や汗を一つ垂らした詠春が、口元を引き攣らせて言う。
 西日本全域の術者を束ねる立場上、ジローが行ったような挨拶よりもさらに堅苦しく、その上くどいものを聞かされる機会はざらにあるが、まさか自分の娘と十も離れていないはずの青年にされるとは、という苦い笑みが詠春の顔に浮かんでいた。

「――――宜しゅうございますか?」
「え、ええ……せっかく来てくださった、娘の担任やクラスメイトの前。私としても日々の責務は忘れて、少しばかり砕けた調子で話をしたいので。その、娘の前でもありますし」
「左様でございますか。では、失礼を承知で平素の言葉遣いに戻させていただきます――――――――てなわけだ、ネギ。西の長に親書をお渡ししなさい」

 若干、懇願の色が見えた詠春の言葉に、首を傾げながら確認を取ったジローが、右隣に座ってポカンと自分を見つめているネギを促した。

「…………え!? ぁ、う、うん!」

 困ったのは、ほとんど不意打ちのタイミングで話を振られたネギである。上擦った声を出して頷き、懐に大事に入れていた親書を取り出したまではいいが、先に行われたジローの挨拶の手前、下手に子供口調で「はい、これが親書です」と渡すわけにもいかない。
 どういう言葉遣いをすればいいのか、どういう風に前に進み出ればいいのかと、緊張でガチガチになっているネギに送られるのは、謁見の場にいる関西呪術協会の面々の同情の視線。
 厳密に言うと同情ではないのだが、それとなく視線に含まれていた、西洋魔術師としてのネギに対する色眼鏡的な感情が拭い取られて、あくまで一人の子供に向けられる、どこか微笑ましげなもので占められていた。

「緩〜く行けばいい、緩〜く」
「そんな風に言われても〜…………あ、あの、長さん、これを――」

 ポン、と軽く尻の辺りを叩いて、肩の力を抜くようアドバイスしてくるジローに縋るような目を向けた後、渋々とだがネギは円座から立ち上がって、ポケットに入れていた親書を手に詠春の前までギクシャクと歩み出て、両手で掲げ持つように麻帆良学園の校章付きの封筒を差し出す。

「ヒッ、東の長・麻帆良学園学園長 近衛近右衛門より預かりました、西の長への親書です! お受け取りください」
「――確かに承りました、ネギ君。道中、大変だったようですね」
「い、いえ!」

 狩衣の袂を揺らしながらネギの差し出す親書を受け取り、表情を緩めた詠春が労いの言葉を掛ける。謙遜するように首を振るネギに微笑み、親書の封を切った詠春が、中に入っている手紙に目を通した。
 手紙の内容までは分からないが、正式な書類の他に、何か手厳しいメッセージの一枚でも入っていたのだろう。謁見の場に現れた時から浮かべている微笑に、ため息でもつきたそうな苦みが混じるのを眺めつつ、ジローは肩を掴んでゴキンと首を鳴らした。

「あー、慣れないことして肩が凝った」

 これだから厳格な空気は苦手だ、と小声でぼやいているジローに、二つ隣に座っていたアスナがジト目で話しかける。

「どこが慣れないこと〜、よ? 何よアンタ、時代劇の役者でもやったことあるの?」
「いんや、特にないけど?」

 アスナの文句に不思議そうな顔で返し、ジローが言った。

「あそこまで堅苦しい上に、適当なものは別として……十何年生きてりゃ、形式張った場所で聞こえのいい言葉の一つや二つ言えるだろ、普通」
「んなわけないでしょ……。アンタの中で普通とか当たり前って、どういう扱いになってんの?」

 心の底から常識だと信じている口振りに、アスナはこめかみを押さえて呻き声を漏らした。ジローの考えているような基準でいくと、自分や3Aのクラスメイト達の立つ瀬がないではないか、と声に出さず呟く。
 しかし、

「んー……じゃあ聞くけど、アスナが高畑先生に話しかける時、俺達と喋るような感じで声かけるか?」
「んなわけないでしょうが――――ぁ」
「つまりは、そーいうことさね。あれで結構、緊張してたんだぞ?」

 身に覚えのある例を出され、即行で否定して固まったアスナに口元を緩めて、飄然と微笑んだジローの顔には、毛筆で「それ見たことか」と書かれていた。
 人は誰しも程度の差はあれ、その場その場で自分を使い分けて生きているものであるし、使い分けもできない人間は、よほど優れているか飛び抜けていない限り、世の中から弾き出されてしまうものである。

「所詮、自分は社会の歯車ですから」
「いや、そんなゆっる〜い笑顔で言う台詞じゃないでしょ、ソレ」
「どんより鬱陶しい面よりマシだろ」
「そうじゃなくて、裏がありそうで信用できないのよ……」

 本当にこいつは十代なのか。胡乱な目付きで疑いながら、顔の前で手を振るアスナを余所に、ネギと詠春の親書受け渡しの儀式は終わりに近付いていた。

「――――いいでしょう。東の長の意を汲み、私達も東西の仲違いの解消に尽力するとお伝えください」

 読み終えた手紙を封筒に仕舞い、ネギに言付けを言い渡した詠春は、スッと静かに息を吸い、

「任務御苦労!! ネギ・スプリングフィールド君!!」
「ぁ……ハッ、ハイ!!」

 と、任された仕事を達成した少年に対する、最大級の賛辞を呈した。
 ネギの顔が喜色に染まる。

「今から山を下りると、日が暮れてしまいます。君達も今日は泊っていくといいでしょう。歓迎の宴を御用意致しますよ」
「えーっ! やったー♪」
「ラッキーーーー!!」
「あっ……でも僕達、修学旅行中だから帰らないと……」
「それは大丈夫です。私が身代わりをたてておきましょう」

 宴会と聞いて喝采を上げる和美やハルナの声に顔をしかめつつ、ジローはいけないと思いつつも、気の緩みから口を滑らせた。

「――――大変だなぁ、お人好しっぽくて」

 西の術者を束ねる最高権力者とは思えない腰の低さと、丁寧な気遣いを発揮する詠春を半眼で見据え、そんな感想を溢す。
 だが、緩いのか穏やかなのか不明な瞳で、労わるように詠春を見るジローは気付いていなかった。

「まあ、これで少しは休めるかぁ。いやー…………本ッ気で助かった」
『…………』
「………………」
「……………………」
「…………………………」

 目上の者に対して、その様に不埒な評価を下した彼に、四対八個ほどの眼が『お前が言うな』とばかりに、ジローと同種の労いの視線を放っていたことに――――






 長谷川千雨は極々普通の常識を持ち合わせた、いわゆる一般人である。
 趣味でネットアイドルをしていたり、少々のハッキングならば鼻歌交じりに行える程度のパソコン技術を持っていたりと、「本当に一般人なのか?」と首を傾げたくなる要素持ちだが、誰が何と言おうと一般人である。

「――――」

 そんな彼女が眉間に皺を寄せ、周囲の人目を気にしつつ観察しているのは、ホテル嵐山の二階ロビーに置いてある竹製の長椅子に座って、キラキラと妙な光の粒子を散布している青年――八房ジローであった。
 クラスメイトでもある刹那や木乃香と一緒に、シネマ村で突発式三文芝居に出演させられた挙句、スタントなしで天守閣からダイブしていたのだが、体は大丈夫なのだろうか、と何となく気に掛けていたのだ。

「城から落ちる前、どう考えても矢に貫かれてたしよ……どうやったんだ、あれ?」

 城を囲む堀へ落ちていくのを目撃して肝を冷やした直後、辺り一帯が白くなるほどの閃光が溢れて、その後の顛末を見逃した千雨だが、何かがおかしいと彼女の常識が訴えていた。
 一緒にその瞬間を目撃したあやか、千鶴や夏美に尋ねても、「よく見えませんでした」だの、「凄いCG技術だったわね♪」だの、「スタントなしで飛び降りなんて……私には絶対に無理ー」だの、まったく役に立たない『お芝居』への感想であった。
 ちなみに、ザジには聞かなかった。聞いたところで、「…………」みたいな沈黙が返ってくると分かりきっていたからだ。
 クラス委員長のあやかなら、『いいんちょスキル』みたいなものを発揮して、ザジの言いたいことを理解するぐらい朝飯前かもしれないが、あいにく彼女にその様な特殊スキルはない。

「――――しゃあねえ……」

 このまま、長椅子に座って光を散布しているジローを見ていても埒が明かないと、千雨は念入りに周囲に顔見知りがいないかを確かめて歩き出す。
 何せ周りの連中は浮いた話が大好きで、一人でジローに話しかけたりするところを見られたら、どんな話を捏造されるかわかったものではない。
 それ以上に、自分のクラス担任である子供先生と縁深い人間に接触するのは嫌なのだが、それで放っておいて、城から落ちた時の怪我が元で、なんてことになっては困る。
 一応、生徒でもあるのだ。副担任の心配をしても、何らおかしいところはないと、自己弁護を終えて踏ん切りをつけた。

「そ、それにまあ、一度奢ってもらった恩があるしな」

 ニャジダスというパチモノブランドがお気に入り、というセンスの悪さに逆切れして、ジローに服を選んだ時点でチャラになっている気もするが、今回の心配は消費税分ということでいいだろう。
 ネットアイドルをしている時は出ないのだが、平素ではすぐに赤面してしまう頬を腹立たしげに擦りつつ、千雨は長椅子に座って虚空を見つめているジローに、恐々と声をかけたのだが。

「あー、あのよ、ジロー先生……」
「なんだい、長谷川さん!」
「――――」

 ピッ、と音が出そうな動作で自分を見上げ、無駄に爽やかに聞き返してくるジローに思考が停止させられる。
 千雨の顔が、「キメェッ!?」と叫びたそうに歪み、あまりの苦悶に脂汗が滲み出す。
 だというのに、氷水を浴びたような寒さに肌が粟立つのは何故か。

「どうかしたのかな? 少し顔色が悪いみたいだけど……もしかして、気分でも悪くなったのかい?」
「………………いや、別に何でもねえよ」

 ぶつけられた視線に押し戻されるように、二、三歩後退した千雨に、長椅子に座ったまま光を振りまくジローが、憂えるような表情で首を傾げた。
 その動作がまた、シャランッと鈴の鳴る音がしそうなぐらいに爽やかで、千雨の記憶にある八房ジローという青年とのギャップが激しいこと、この上ない。

 ――ヤバイ、本当に気分が悪くなりそうだ。

 ミイラ取りがミイラにではないが、ジローの体調が悪くないか調べようとして、逆に自分の調子が悪くなりかけた千雨は、長椅子から立ち上がろうとするジローを手で制し、勢いよく踵を返してその場を逃げ出した。

「アハハ、長谷川さんは元気一杯だね」

 早歩きの脱兎と化して離れていく千雨に、光のケサランパサランを従わせたジローが、どこの上流貴族だと突っ込みたい感じに手を振っている。

(ッ、誰だテメェェェェェッ!?)

 背中を高速クライミングする悪寒に耐え切れず、千雨は弾かれたように駆け出した。
 これはもう間違いない。ジローがいる二階ロビーを後にした千雨は、確信に満ちた焦燥を抱いて旅館の廊下を走る。
 彼女が捜し求めた人物は、幸いにもすぐに見つかった。

「いたっ! あ、あの、瀬流彦先生ッ、少しいいですか?」
「あれ? 僕に用事かい、長谷川君」
「ええ、その、もしかしたら命に関わる危険かもしれね……しれないです」
「ええ!?」

 千雨に呼び止められ、キョトンとした顔で振り向いた瀬流彦に速度を緩めて近付き、真剣そのものの視線をぶつけて訴える。
 驚いたのは、実は魔法先生でもある瀬流彦だ。公式では引率教師のうち二名が魔法先生、と関西呪術協会に報告している手前、今回の修学旅行で絶対に目立たぬよう学園長から指示されているが、ネギやジローが故あって動けない場合は、彼が生徒達を守らなくてはならない。
 縋りつくような目で急を要する報告をしてきた千雨に、自然、瀬流彦の気持ちも引き締まる。

 ――ネギ君もジロー君も今、『西』の本山にいるし……僕がしっかりして、生徒を守ってあげないと!

 まだまだ子供のネギや、常日頃から過労気味なジローにばかり苦労させていると、年長者として心苦しく感じていた瀬流彦は、携帯用魔法の杖をいつでも使えるよう手に持ち、千雨に案内するよう頼んだ。

「すぐに見に行かなくちゃ! 長谷川君、案内してくれ!!」
「は、はい!」

 普段は柔和に細めた目を見開き、怖いぐらいに真剣な瀬流彦の勢いに押される形で、千雨が案内のために走りだす。
 一体、千雨の言う命に関わる危険とは何か。緊張に水分を求める喉を、唾を飲み込むことで誤魔化して、瀬流彦は眉間に一層の力を入れる。

「あ、あそこですっ」
「よしっ、僕が行くから君は下がって」

 二階に上がってすぐ、瀬流彦に振り返って廊下の角を指差す千雨。
 廊下が途切れている角の向こうには、確か自販機などが置いてある二階ロビーがあったはず。
 千雨をその場に留まらせ、瀬流彦は彼女に見えぬよう携帯用魔法の杖を伸ばしながら、廊下の角へ摺り足忍び足で近付いていく。
 胸の鼓動がうるさいぐらいに高鳴っていた。落ち着けと命じるほどに、自身の意志に逆らって激しくなる心音に歯噛みしつつ、瀬流彦は息を止めて廊下の角から僅かに顔を出して、二階ロビーの様子を窺う。
 そして、

「――――あれ、ジロー君……って、身代わりか」

 自販機の前に置かれた、竹製の長椅子に座り、虚ろな目で虚空を見上げているジローに眉を顰めた。
 だが、すぐにその正体が分身に違いないと判断する。
 なぜなら、関西呪術協会に着いたジローから、携帯に「今日はホテルに戻れそうにないです」と連絡があったからだ。

「見てわかると思いますけど、周りに変な光る毛玉を従えてたり、気持ち悪いぐらい爽やかに喋ったりなんです」
「うわっ!? お、脅かさないでよ、長谷川君」

 いつの間に接近したのだろう。見知った顔に拍子抜けした瀬流彦の隣に立って、恐ろしいものを見るようなジト目でジローを見据え、声を震わせながら語る千雨。

「どれどれ……うわ、ホントだ」

 千雨の言っていることを確かめるために目を凝らした瀬流彦にも、彼女が言う光る毛玉や、記憶にある青年にはない爽やかさが見えた。
 あまりの違和感に、偽ジローを見ながら梅干を食べたように顔を顰める。

『――――♪』
「げっ……」
「……うわ」

 瀬流彦と千雨の視線に気付いたのか、突然、ギュルンと視線を向けて、にこやかに微笑んで手を振るジローを目の当たりにした二人の口から、耐え難いものを見たと言いたげな呻き声が漏れた。

「シネマ村で役者の真似事させられてたんですけど……天守閣の天辺で、矢に刺されて下に落ちるって演出があって。その時、頭を打ったんじゃないかと思います」
「や、矢で刺されて……落ちた……?」

 千雨の報告に、廊下の角から顔を覗かせていた瀬流彦が瞠目して、同じように廊下の角からジローの様子を窺っている少女に視線を移す。
 自分の見たものに多少の疑問を覚えつつも、あくまでやり過ぎのお芝居と捉えている千雨から伝えられた話は、瀬流彦の度肝を抜くに足りた。

(が、学園長! 多少の妨害工作がある程度って話でしたけど……何だかジロー君、死に掛けてますよ!?)

 電話越しに聞いた声は健康そのものだったが、本当に大丈夫だったのだろうか。

(そういえば、ネギ君も妨害にあって少し怪我をしたって言ってたよね。どうしよう? 一応、学園長に報告しておいた方がいいのかな……いや、でも呪術協会に入った以上、問題も起こらないはずって言ってたし……)

 正直な話、まだまだ頼りない子供魔法使いのネギと、後輩として指導をしたこともある自称・使い魔青年のことを心配し、眉宇を寄せていた瀬流彦に、爽やかに光るジローに耐えられなくなって、顔を少し青褪めさせた千雨が言った。

「本当に頭を打っていたら、いきなり倒れるなんて場合もありますし。それとなく様子を見ておいた方がいいんじゃないですか?」
「え? あ、ああ、そうかもしれないね……」
「じゃ、じゃあ、私はこれで。少し気分が優れないので、部屋で休みます……」
「う、うん、お疲れ様……」

 言うべきことだけは言ったと、辛そうに眉間を揉み解して去っていく千雨の背中を労って、瀬流彦はもう一度、廊下の角からロビーの長椅子に座るジローを見た。

『情緒に溢れた古都の景色……歴史ある寺社の数々……あぁ、何て素晴らしいんだ』
「…………あれだよね、スカーフの色が違ったりするのに、意外とバレないんだよねー」

 脳裏に、赤いマフラーを巻いたバッタがモチーフの正義の味方を思い描いて、瀬流彦も千雨と同じように眉間を揉み解す。

「もう少し若者っぽくした方がって思ってたけど……慣れって怖いんだねー」

 もう、自分の中でジローという青年は、『枯れ』や『飄々』というイメージと直結しているのだと自覚し、その場から足音を立てずに逃げ出した。

「ゴメン、ジロー君。僕もアレには無理があると思うよ……」

 ズキズキと頭痛がするのは何故だろう。
 自分を追いかけてきて、体に纏わり付いてきそうな光の毛玉に怯えつつ、瀬流彦は同じ引率教員のしずなに頭痛薬を出してもらうため、逸る足を抑えて二階ロビーから離れていった。

「あぁ……俺はなんて幸せ者なんだ」

 残されたのは、瞳を輝かせて身を震わせる使い魔青年(偽)のみ――――






 歓迎の宴として用意された、数え切れないほどの料理と飲み物を前に、ジローは一人、ぽつねんと座っていた。心情的に、という意味でだが。

「がんばれ、宮崎〜〜〜」
「あ、あうー」
「ネギ君攻略まで、あと少しーッ♪」

 立派な漆塗りの宴会机を挟んで、右側ではのどかと肩を組んで音頭を取る和美やハルナが。

「ちょっと、これって……」
「らいじょーぶ、お酒とちゃうよ〜♪」
「ほわ〜〜〜〜」

 左側では、コップに入った液体を怪しげに見つめるアスナと、顔を真っ赤にして上機嫌な木乃香に、完全に出来上がっている感じで、机に上半身を投げ出している夕映が。
 宴会場として用意された部屋の中は、今や宴もたけなわ状態であった。

「えらく長続きするたけなわだな……」

 もう、こういう状態になって一時間は経ったのではないか。
 部屋の中で騒ぎ回る少女達や、場を盛り上げるために扇子を両手に舞っている巫女の一団に半眼を向け、ジローは自分の前に置かれた料理を摘んだ。
 美味しいのだが、周りがこうでは折角の料理の味も落ちたように感じる。

「あ、あの、ジロー先生ッ、ご、ご飯のお替りはいかがでしょうか……」
「あー……いや、いいわ。結構食べたせいか、もう腹もくちくちだし」
「そ、そうですか……」

 宴会の空気に乗れず、どこか楽しくなさそうなジローに、お櫃と杓文字を装備した刹那がお替りを勧めるが、素気無く断られて、しゅんと落ち込む。

「どうしたの、ジローさん? 美味しいものがたくさんあるから、もっと食べなよ!」
『そうだぜ、相棒。こんないいモン、滅多に食えねぇぜ?』

 さらに、親書受け渡しの任務を達成してか、上機嫌なネギとカモが所狭しと並んだ料理を勧めるが、ジローは微苦笑して、

「いやいや、俺は腹一杯だから。お前達がたんと食べるといい」
「うん!」
『そうか? いやー、しかし美味ぇ、帰りに少し包んでもらいてぇぐらいだぜ』

 パクパクと、元気良くご馳走を口に入れるネギ達を眺め、ジローは静かにお茶を啜りながら考えた。

(んー……本当はいうほど食べてないんだけど、何故か腹が膨れてる)

 関西呪術協会の敷地に入った辺りからだろうか、妙に体調が良くなったのは。
 空気が美味しいというか、心が洗われるというか。麻帆良にいる時と同じように、無駄に元気になりやすく感じる。

「…………ああ、なるほど」

 薄っすらとだが、呪術協会と麻帆良の共通項に気付き、得心がいったと頷いた。
 強力広大な結界に囲まれた敷地の中に、溢れんばかりに豊潤な魔力。

「あれだ、天気がいいと植物が元気になるとか、滝の近くにマイナスイオンが豊富なのと一緒だ」

 お茶の入った湯飲みを傾けながら、使い魔を名乗れる程度に身体を改造されてはいるのだな、と緩い笑みを浮かべる。
 逆に、それぐらいしか変わったところが見当たらないので、半端であることに変わりはないのだが。

(それでも、今日は危なかったしなぁ……)

 麻帆良に帰ってから、新しい魔法や戦闘技術の修得なりに努めるか。
 ヒラヒラと袂を振りながら扇子を泳がせ、美しい舞を踊っている巫女達を、緩い眼差しで見るともなく眺めてお茶を飲む。

「刹那君」
「こ、これは長! 私のような者にお声を――!!」
「ハハ、そう畏まらないでください」

 ジローの隣の席で、ネギと談笑しながら食事を楽しんでいた刹那に、上座を離れて歩いてきた詠春が声を掛けていた。
 慌てて座布団の横で片膝を突いて控えた刹那に、「昔からそうですねー、君は」と苦笑した詠春が優しげな眼差しを送る。

「……この二年間、このかの護衛をありがとうございます。私の個人的な頼みに応え、よく頑張ってくれました――――苦労をかけましたね」
「ハッ……、いえ、お嬢様の護衛は元より私の望みなれば……もったいないお言葉です。それに結局、今日、お嬢様は力をお使いに……」

 思いがけず与えられた感謝の言葉に顔を赤らめ、しかし、首を振って自分の未熟さに恥じ入る刹那の横で、渋い顔をしているジロー。
 言わば元凶だったりするのだが、自分も謝るべきなのだろうか。いや、ここは謝るべきだろう。

「あー……」
「八房君……いや、ジロー君と呼ぶ方がいいんだったね? 大事はありませんでしたか」

 近右衛門より、苗字を呼ばれることを嫌っていると聞いていたのだろう。口を開きかけたジローを、謁見の場と違い名前で呼んで詠春が制止した。

「このかには普通の女の子として生活してもらいたいと思い、力のことを秘密にしていましたが……命には変えられませんし、今回の発現はむしろ幸いでした」
「えー、あー……」

 本来なら歯牙にかける必要もない存在に、何故こうも物腰柔らかく当たるのか。
 見様によっては器が大きく、違う方向から見れば威厳が足りないと言える人物に戸惑い、隣で片膝を突いて待機の姿勢になっている刹那へ視線を飛ばす。
 問い尋ねるような視線に対し、刹那が返したのは「そういうお方なのです……」と、身に余る扱いに気まずそうな顔。

「いずれにせよ、こうなる日は来たのかもしれません。刹那君、君の口からそれとなく伝えてあげてもらえますか」
「長……」

 刹那に頭を下げはしないが、態度や言葉で真摯に頼む詠春を見上げて、ジローは胸中で溢した。

(い、いい人すぎないか……?)

 一組織の長が、悪い言い方だが娘の護衛にすぎない一剣士に、娘に向けるものと同じような優しさを送るのは異常である。
 組織の人間を駒扱いで冷酷無比に切り捨てる人間より、よほど好感は持てるのだが、と複雑な顔で俯いた青年の胸中を知ってか知らずか、

「ところで、ネギ君にジロー君。今日は疲れたでしょう、食事の後、一緒にお風呂でもどうですか?」
「えっ、いいんですか?」
(…………えぇ〜〜〜?)

 あなたが一番疲れているでしょう、と言いたい微笑を浮かべて湯浴みに誘う西の最高責任者に、嬉しそうなネギと違って愕然となるジロー。

「――――ん?」
「す、すみません、ジロー先生……」

 唐突に袖を引かれて横を向いたジローに、僅かに顔を赤らめた刹那が小声で懇願するように言ってきた。

「わ、私からもお願いします……その、長を助けると思って……」
「…………そんなに、なんだ」
「恐らく……」

 一体どれほどの心労を積み重ねているのだろう。
 重々しく自分の呟きを肯定する刹那に、ジローは少しだけ涙ぐみたい気分で詠春を見遣った。

「わ、私達でよろしければ、是非」
「ああ、ありがとうございます」

 躊躇いがちに出された了承の言葉に、苦労が皺として刻まれた顔を綻ばせる詠春の背後に後光が差すのを、ジローは感じた。

「――――――失礼でなければ、お背中も流させていただきます……」
「いや、そこまでしていただく訳には…………でも、そうですね、ご迷惑でなければ」
「あっ! じゃあ、僕がジローさんの背中を洗ってあげるよ!!」
「ハハハ、何だかとても楽しみですね……。こんなのはいつ振りでしょうか」

 背中を流すという申し出を一度は断ろうとして、しかし、すぐに思い直して頼む詠春と、三人で入る風呂にテンションが上がっているらしいネギ。
 二人のほのぼのした声を聞くジローの視界が、急に滲んできた。

「…………ッ」
「ジロー先生、ありがとうございます……」

 隣から、彼にだけ聞こえるようお礼を言う刹那に頷いたジローは、顔を俯かせて口元を手で覆う。
 何故かはわからなかったが、無性に鼻の奥が熱かった――――






後書き?)詠春、使い魔に同情されるな話。魔力が多いから、腹が膨れてるかもしれないジロ……霞で生きる仙人か、です。
 本当は、詠春が登場して一番にアスナの名前を呼んだことについても書きたかったのですが……とりあえず保留という形で。
 前回に続いて、保留やスルーしてるなぁ……でも、扱いにくい部分ばかりだ。
 次の話、風呂場の騒動をどう書くかで悩みつつ。
 感想にアドバイスに指摘、お待ちしております。




「苦労の次に騒動を?」



 風呂というのは、海外諸国と比べて大きく発展した日本文化の一つではないだろうか。
 シャワーのみで済ますことが多く、また浴槽の中で体を洗うこともある外国人と違い、日本人は体を清めることとは、湯船に浸かることだと感じている人がほとんどのはずだ。
 そうした意識を持つ原因に、日本人の『穢れ』の思想があるのではないか。
 代表的なものとして、赤ん坊が初めて体験する入浴――沐浴に、死後に身体を清める湯灌、元日に入る朝風呂などが挙げられよう。
 これらは、人が次の『段階』に進むにあたって経験する文化的、あるいは宗教的な通過儀礼と見ることができる。体に付いた穢れを落とすことで、新しく生まれ変わる。
 すなわち、『生き返る』を体験するのだ――――





 などと、

「――――ほらネギ、目を瞑れー」
「うんー」

 日本人にとって風呂とは何か、と遠大な問いについて考えながらジローは、風呂桶に溜めた湯をネギの頭に掛けた。
 赤茶の髪に乗っていた白い泡が押し流され、排水溝に渦を巻いて吸い込まれていく。

「そろそろ、一人で体洗えるようになろうなぁ」
「シャ、シャンプー苦手なだけだよ〜」

 苦笑して言うジローに、ネギが慌てたように抗議するが、泡が目に入らないよう、ギュッと目を瞑っている姿に説得力はない。

「はいはい、だったら頭を一人で洗おうや」

 ネギの言い分をジローは糸目で受け流し、緩い声で言いながらもう一度、目の前の赤茶の髪にお湯を掛けながら掻き回す。
 完全にシャンプーの泡が落ちたのを確認してから、これで終了だと軽く頭を叩いて伝えた。

「ほい、これで仕舞いだ」
「う、うん、ありがとー、ジローさん」
「何でこの子は、頭洗うの嫌がるのかねぇ……」

 髪の毛から水滴を飛ばしながら礼を言うネギにぼやき、しかし、人それぞれ得手不得手があるものだと考え直したジローは、首に掛けていたタオルに液体石鹸を付けて泡立てさせる。

「…………」

 タオルを泡まみれにしていく彼の表情は、どこか複雑そうであった。
 これから行わなければならない行為に、必ずしも乗り気でないからであろう。

「あー、申し出た手前、これから背中を流させていただくのですが……大丈夫ですか? 問題になったりしませんか?」
「ハハ、そんな心配はしなくて大丈夫ですよ。いや、背中を流してもらえるなんて、思ってもみませんでした。何せ、生まれたのは娘一人でしたし」

 まさか、年頃の娘に頼むわけにもいきませんしね、と冗談交じりに言って背中を向けた詠春に、ジローは複雑そうな顔をさらに強めた。
 一見して鍛えていたと分かる背中には、幾つもの古傷が刻まれていた。ほとんどが刀痕だが、中には大型の獣に引っ掛かれたような爪痕もある。
 さすがは、という言葉を呑み込んで、適度な力加減で背中を洗っていく。

「あっ、ジローさんの背中、僕が洗ってあげるよ!」
「あー、ありがとうな」

 風呂に入る前、宴会場でした約束を律儀に守って、背中をタオルで擦り始めるネギに、感謝の言葉を述べるジローだが、内心「痛いよ、てか熱いよ……」と力一杯の摩擦に涙を流していた。
 詠春、ジロー、ネギの順番で並んで背中を洗う光景は、雰囲気だけを見れば家族であったが、そんなことを思われるのは複雑だ、とジローは本心から思う。

(嫌ってわけじゃないが――――まあ、人助けだとでも考えて、な……)

 実際に行ってみて、『背中を流す』という行為は限られた存在にのみやるべきだと痛感した。
 限られた存在、即ち――――家族にのみに。
 残念なことに、自分は家族の背中を流したことがないし、両親に至っては最初からいなかったが、逆にそのことが、血の繋がりのない他人の背中を流すことに、拭いきれぬ違和感を与えているのだろうと考えながら、それでも丁寧に心を込めて手を動かす。

「ジローさん、どうかなっ、ちゃんと洗えてる?」
「あー、ちゃんと『磨けてる』よ。もう、背中一帯、新品状態ですよぉ?」

 聞きながら、全身全霊を込めてゴシゴシと、ジャガイモの皮を剥くようにタオルで擦るネギに緩く返すジローの背中は、きっと真っ赤になっているはずだ。

(兄貴、せめてもの情けで、血が出るまで擦らねぇでやってくれよ……)

 ネギ達のすぐ側で、器用に小さなタオルを使って背中を洗いながら、カモは使い魔仲間の青年のポーカーフェイスに感心していた。
 尻尾を使ってシャワーの温水を浴びながら、横目にジローの様子を窺う。
 元紅き翼として、数々の戦闘を潜り抜けてきた詠春もそうだが、カモの目に映る青年の体にも、幾つもの傷が刻まれていた。
 何らかの処置がなされた傷もあれば、放置されてそのまま塞がったような傷もある。

「長さんもそうだけど、ジローさんも結構、怪我してるんだねー……」

 タイミングを見計らったように、洗い終えたジローの背中にお湯を掛けたネギが、泡の下から現れた傷の存在に触れた。
 不自然な背中の赤さよりも、そちらに意識が向いているのだろう、少年が自身の過失に気付くことはなかった。

「あー…………まあ、昔っから色々やってるしなぁ」

 詠春の背中にお湯を掛けて洗い終えたジローが、チラリと後方のネギを窺ってぼやいた。

「じいちゃんの山籠りにくっ付いてって、熊に襲われたこともあるし、道を歩いてて野良犬の集団に襲撃されたり、友人発端の騒動に引きずり込まれて、ヤーさんに追われたり、変な武装集団に拉致されたり、地下闘技場みたいなとこで賭博試合させられたり――――おかしい、騒動が年々、性質悪くなってる」
「た、性質悪くって、最後の方、いろいろ変なこと言ってるよ!?」
「やー、君もなかなか、波乱に満ちた人生を歩んでいるようだね……」

 徐々に暗く、そして重苦しくなっていくジローの呟きに、ネギと詠春はそれぞれ、突っ込みと同情を述べた。
 そして、小さな声で「ありがとうございます」とジローが返した後、三人は申し合わせたように浴び湯して、湯船に浸かるために立ち上がった。
 どうやら、これ以上、使い魔青年の心の古傷を抉らない方がいいと判断したのだろう、詠春とネギの二人は先行するように湯船へ歩き出す。

『相棒……』
「さっき話したのは、正真正銘の実話だぞ?」

 軽やかに肩へ飛び乗り、「本当にそうなのか?」と問うように愛称を呼んだカモに、ジローは何を考えているのかわからない、緩い笑みを浮かべた。
 その後で、ネギと詠春が浸かっている湯船に向かいながら、カモにだけ聞こえるように囁いた。

「――――使い魔もどきになってから、少々の怪我じゃ傷も残らんのよ」
『…………』
「メルディアナの校長が言うに、回復に加えて、修復力も向上してるんだと」

 軽く持ち上げた、相当に古い傷跡しかない腕を撫でる。
 麻帆良学園に来て少し経った頃、とあるシスター達と一緒に向かった廃教会で遭遇した狼男ならぬ犬男。
 それと戦い、些細なミスで窮地に陥った魔法シスターを救助する際に負った牙の痕は、その痕跡さえ見つけることができなかった。

「腕を貫通した程度なら、この通り。下手に傷が残ると妙に気遣われるし、俺としてはありがたいさね」

 話し終えて湯船に浸かるジローの隣で、カモはただ黙って湯の温かさに身を預ける。
 回復力や修復力が向上していると笑えることが、そもおかしいのだと思いながら。

「あ〜〜〜、生き返る〜……」
「アハハ、ジローさん、そのまま溶けちゃいそうだよー」
「この度はウチの者達が迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした。ゆっくり浸かって、疲れを落としてください」

 熱い湯が染み渡ると言うように、ぐんにゃりと浴槽の縁に体を預けているジローに、ネギや詠春が苦笑しながら言葉をかける。

「そーさせていただきますー……」
(まあ、兄貴にはともかく、俺っちには話せる程度に考えてるからいいんだがよ……。なんか、心配するだけ無駄みてぇな状態だし)

 波間に漂うクラゲのような状態で、声を返しているジローは、密かなカモの心配が無意味に思えるほど至福の表情であった――――






 ネギやジロー、詠春、カモの男四人が湯船に浸かり、談笑に興じているのと時を同じくして。
 ただ『放っておけないから』との理由でネギに協力し、魔法関係のゴタゴタに巻き込まれ続ける少女・神楽坂アスナと、幼馴染の少女である近衛木乃香の護衛を使命とする神鳴流剣士・桜咲刹那は、人生の中でも数える程度の危機に息を潜めていた。
 風呂とは思えぬ、日本庭園風の趣向が凝らされた室内。そこに置かれた岩の陰に、少女二人が裸体をタオル一枚で隠して身を寄せ合っている。
 二人とも歳が歳だけに、思春期真っ只中で、恥じらいというものを覚えている。複数の男性に見られて、平気の平左でいられるはずもないのだ。
 ちなみに両者の、特に左サイドポニー少女の、年齢に比例していないかもしれない、肉体的成長については言及しない。
 タオル一枚で裸体を隠す少女達から、匂い立つ色香や官能が感じられないのは、もしかすると彼女のせいかもしれないが、そこに触れることだけはすまい。

(せ、刹那さん、もうちょっといい隠れ場所なかったの?)
(す、すいません。咄嗟のことで、とにかく隠れることしか考えてなくて……)

 運が悪かったとしか言えない。今日一日、色々と疲れたはずのアスナを労うつもりで、刹那が幾つかある大浴場から選んだ一つに、同じくネギとジローを労うために、詠春が二人を案内してしまったのだから。

「うっへぇ……まぁずい、このまま熟睡できそぉだ」
『あ、相棒、ここで寝たら溺れるぜ?』
「――――それはそれで……い〜いかもぉ?」
(ブッ、ププ……! ジ、ジローの奴、なんて声出してんのよ!?)
(ア、アスナさんッ、た、耐えてください……!)

 湯船の中から響く、普段と比べて十割り増しに緩くなったジローの声に、アスナと刹那は二人して吹き出しそうになる。
 一人は口に手を当てて、もう一人は口をきつく結んで、決して音を立てまいと涙を溜めて努力していることも知らず、風呂に浸かるリラックスモードな男四人、もしくは三人と一匹は雑談に花を咲かせていた。

「しかし、十歳で先生とは、やはり凄い」
「いえ、そんな。僕なんて失敗ばかりで、ジローさんやカモ君に助けてもらってばかりですよ」
「気にするなぁ……いや、気にして欲しいけど、今はもう……どうでもいい――――ガボゴボ……」
『相棒、相棒ッ! 沈んでるっ、鼻の下まで湯の中に沈んでる!!』

 魔法学校の卒業試験で出された課題とはいえ、常識で考えればまずありえない内容に違いない。それを、四苦八苦と試行錯誤を繰り返しながらもこなしているネギに、詠春が感心したように言う。
 焦ったようにかぶりを振り、風呂の中でだらけているジローや、湯中に没しそうな彼を目覚めさせようとしているカモのお陰だ、と謙遜したネギに、詠春は余計に感心したように話した。

「いやいや、本当にたいしたものです。態度や物腰といい、言葉遣いといい、ナギとは大違いだ」
「え?」

 あいつは殊勝な態度を取ったり、謙遜したりできない奴でしたから。
 浴室の天井を見上げ、昔を懐かしむように呟いた詠春に、突然、父の名前を聞かされて驚いたネギが尋ねた。

「あ、あの……父さん――サウザンドマスターのこと、ご存知なんですか?」
「君のお父さんのことですか? フフ、よく存じていますよ」

 食い入るように見つめるネギに、ずっと浮かべていた穏やかな笑みを悪戯っぽいものに変えて、詠春は控えめにサムズアップしながら告げた。

「何しろ私はサウザンドマスター……あのバカとは、腐れ縁の友人でしたからね」
「え……」
「あー……そういえば、伝えておくの忘れてたかも?」
「ちょっ、ジローさん! 何でそんな大事なことを忘れてるのさ!?」

 詠春の、父親でもあるサウザンドマスターと友人であったという衝撃の告白に絶句したネギに、片方の目だけ開き見たジローが追い討ちを加える。

「うやー……眠い……。つーか、ネギさんよ、人に文句言う前に自分で調べるとかしろよ。ちょっと調べれば、すぐにわかることだぞー?」
「あ、あうぅ……」

 不自然に赤い線が入った頬は、カモの伸縮自在の尻尾で殴打されたからであろう。依然として眠たげな糸目で頬を擦りつつ、ジローは白目を剥いて抗議するネギを言い負かし、にこやかに微笑んでいる詠春へ喋りかけた。

「なんて言いましょう……苦労、なされたんでしょうね」
「…………まあ、それなりにですよ。君も若いのに、なかなか苦労しているように見えますが?」
「…………まあ、ぼちぼちと。常識知らずが多いですけど、常識離れした人が限られている分、長様よりマシだと……思いたいです」

 最後の方だけ暗い口調で話すジローに苦笑し、詠春は顎に手を当てて頷きながら言う。

「ああ、長様なんて堅苦しいものより、もっと気軽な呼び方で構いませんよ。しかし、常識知らずと常識離れですか……その区切りは本当に重要ですね」
「まったくです。最悪、どっちかに偏ってくれているなら、まだ対応の仕様もあるんですけど――」
「常識知らずで常識離れ――これが一番厄介ですね」

 途中で口を噤んだジローの後を継いで、心の底から勘弁して欲しいという声を搾り出す詠春。
 双方、愁いを帯びた瞳から出す視線を交差させ、

「……わかって、いただけますか?」
「ええ、わかりますとも……」

 酷く共感しあうような、仲間意識溢れる顔で頷きあっていた。常人には計り知れない苦労を被ってきた者同士、言葉では言い尽くせぬ、友情にも似た感情が生まれたのかもしれない。
 達観したような諦め笑いを浮かべ、二人して大きなため息をつくジローと詠春に、恐る恐るネギが尋ねた。

「え、えっと……二人とも何の話を?」
「お前には縁遠い話だ。素人が首突っ込むと、火傷じゃ済まないぞ?」
「下手に詳細を聞くと、お父さんに幻滅してしまうかもしれないので……知らない方がいいと思いますよ」
「よ、余計に気になっちゃいますよッ!?」

 これ以上、踏み込むなと語る目で、ピシャリと言い切るジローと詠春の姿は、まるで歴戦の戦士のように隔絶された迫力を持っている。

『つーかよ、駄目なとこで意気投合しすぎじゃねえか? 相棒……』

 どういう生き方をすれば、四十歳ほどの詠春と肩を並べるほどの苦労人オーラを醸し出せるのだ、と一人冷静に風呂を堪能しながらカモが呟いた。
 お互いの苦労話、不運不幸話ですっかり打ち解けたらしく、僅かに残っていた遠慮のようなものが消え、極々自然な態度で語り合っている関西呪術協会の責任者と、表向き魔法先生でその実、使い魔もどきな青年。
 事情を知らぬ呪術協会関係者が見れば、腰を抜かしてもおかしくない光景である。

「なんで二つ揃っちゃってるようなタイプって、人の迷惑を考えずに動くんでしょうね? そりゃ、結果的にそれが正しかったとしても、こっちは堪ったもんじゃないです」
「ああ、まったくその通り。背中を守ったり、敵を引き止めておく側のことを省みなさすぎですね。いやね? 私もするなとは言いませんが、するならするで、ちゃんと事情や作戦の説明をしてほしい。ただそれだけなんです」
「わかります……本っ当によくわかります。もうね、いきなりどこの傭兵部隊ですか? って聞きたくなる連中の真っ只中に放り込んで、『しばらく注意を引き付けておいて』とか――――一言で済ますな、って話ですよ」
「それは酷い……。しかもあれでしょう、抗議したら『大丈夫だって!』と、何を根拠にしているのか不明な断言」
「自信を持って言ってくれるのはいいけど、そんなもの何の足しにもならないんですよね……」

 止まる所を知らぬ厄い話を語り合い、時に同情しあい、時に頷きあうジローと詠春の二人だが、どの話においても最終的に落ち着くのは、

「まあ――」
「結局のところ――」
『いつものことだし、仕方がないんですけどね』

 そういう、悟りの境地に迫る諦め。
 不毛な事この上ない話にも飽きた、というより思い出したくないことばかり回想されるため、話が弾むほどに顔色が土気色に近付く二人も、さすがに「もうやめようか……」という気持ちになって口を噤む。

「…………困りましたね」
「…………話題が尽きてしまいました」
『ちょぉぉぉぉぉいっ!?』
「ど、どーして、不幸な体験談しか覚えてないの!? 幸せな思い出とか、楽しかったことは!?」

 お互いに顔を見合わせ、動作まで同じ速度と角度で天井に視線を這わせた後、しみじみと呟いた不運不幸コンビに、さすがに我慢できなくなったカモとネギが、湯船のお湯を叩きながら突っ込みを入れる。

「あー、ほら、人間って、嫌な話や苦労したことの方が覚えてるもんだし」
「楽しかったことや嬉しかったことなんて、日々の頭を痛める問題のせいで、綺麗サッパリなことばかりですよ……」
『うおぅ…………笑顔で泣いてやがるぜ、二人とも』
「あうぅ、僕、もう少し頑張って先生しよう……」

 愁いを帯びた瞳を細めて微笑む二人に絶句するカモと、決意を新たにするネギ。
 さっきまで終始リラックスモードだった四人の間に、どこか冷たい空気が降りていた。
 そんな空気に気付いた詠春は、場の雰囲気を明るいものへ切り替えるために咳払いを一つし、

「ところで、ネギ君、ジロー君」
「はい?」
「何ですか、詠春さん?」

 呼びかけられて首を傾げた少年と青年に向かって、以下のような質問を行った。

「君達には付き合っている人や、気になる人がいたりしますか? 年頃の娘がいるせいか、この頃、そういった若者の恋愛事情というものに関心がありまして」

 至極真面目な表情で出された問いかけ。それに対するネギとジローの回答は、『ズドブンッ!』という派手な水音と、それに比例した量を誇る水飛沫。
 二人して湯船の中で転倒したのだ。

「おや……」
「きゅ、急になんてことを聞いてくるんですかーっ、長さん!?」
「脈絡無く、妙な質問をしないでいただけますか?」

 眼鏡にかかったお湯を指で拭いつつ、不思議そうな声を漏らす詠春に、ネギは白目を剥いて混乱気味に、ジローは温度の下がった半眼で抗議する。
 余談になるが、眼鏡をかけたまま入浴はしない方がよいのは、もはや周知の事実であろう。レンズの表面に加工されている膜が、湯の温度によって剥離を始め、レンズ表面がまるで痘痕面のようにデコボコになるから。
 閑話休題。

「どちらにしても、あれでしたね。二人とも麻帆良では教師という立場、付き合っている人や想い人がいても、その辺り色々と難しいでしょう」
「ちょい待ち、何故に手を出す前提で話してますか、あーた?」
「そ、そんなことしませんよーっ!?」

 控えめに意味深な笑みを浮かべて頷く詠春に、ジローとネギの同時突っ込みが入った、その瞬間。
 存在を忘れ去られそうな少女二人が隠れる岩場で、

(嘘だッ!!)
(ア、アスナさん!? どっ、どうどう、どうどう!)

 魔法使いの少年の抗議を聞いて、自分含め二人の女生徒と『仮契約』しているだろう、と憤りに歪めた表情と口パクで否定しようとするアスナを、これまた同じく顔芸と口パクで宥める刹那だが、そんな彼女の耳は岩場の向こうの会話に興味津々で、種も仕掛けもわかる手品を使ったように拡大していた。
 頬がほんのり朱色になっているのは、自分に都合のいい期待に胸を高鳴らせているからだ。
 少なくとも麻帆良に来てから、それなりに友好的な関係を築いている自負はある。現実問題、自分から率先してではなく、友好的な関係を築けるよう、向こうが大人な対応をしているからだが、細かいことは気にすべきではない。
 想い人として名前が出ることはなくとも、気になる女の子、ぐらいで話してもらえるのではないか。
 岩場の陰から飛び出しそうなアスナを押さえながら、あからさまに聞き耳を立てている刹那に応えるように、詠春が男限定の恋話を開始した。

「やはり年齢的に、ネギ君よりもジロー君に焦点を絞って聞いた方がよろしいですか?」
「ぼ、僕はそっちの方がありがたいかもです……」
「待てい、何故に俺が吊るし上げを喰らわにゃならん?」
『まあまあ、いいじゃねーか相棒。やっぱ男同士でするとしたら、こういう色話だぜ?』

 一応、主人であるネギにあっさり人柱にされ、相方にはナアナアで話を進められるジロー青年に、今の状況を心底楽しんでいるらしい詠春が、剣の打ち込みのように鋭く切り込む。

「心当たりでもありませんか? 例えば、よく話をしたり、食事やお茶をしたり、買い物へ出かけたりのように、他よりも接する機会の多い人など」
「ここに来て、今日一番の笑顔ですね…………あー、いや、特に思い当たる人はいません。まあ、働いている場所が場所だけに、異性と話す機会やらは多いですけど。ぶっちゃけると、ただそれだけのことです」

 詠春が例に挙げた、『話をする』、『食事やお茶をする』、の部分で符号する人がいたりいなかったりだが、最後の買い物へ出かけたはないと受け流し、返す刀で切り捨てて首を振る。
 誰も、全ての条件が符合しなければ駄目と言っていないのだが、ジローは三つの例が合わなければならない、と勝手に難易度を上昇させていた。

(た、ただ……それだけのこと……)

 あまりに爽快な質問の切り捨てに、岩場の陰で刹那は人知れず膝を突いている。浴室にいるせいか、先ほどの言葉がぐわんぐわんと、頭の中で繰り返し響いていた。

(あ、あのさ……ドンマイ? 木乃香から少し聞いたけどさ……ウ、ウン、私も応援するから……)
(す、すいません、ありがとうございます……)

 叶わぬ淡い恋心を持つ者同士、何か感じ入るものがあるのか。高畑への想いを抱くアスナが、不憫そうな顔で刹那の肩を叩く。
 酷く際どい格好と状況の中、少女二人の友情が深まったところで、しぶとくジローに食い下がる詠春の声が届いた。

「うーむ、お義父さんに聞いていた通り、こちらの方面はとんと反応が悪いようですね……」
「学園長、何を話してやがりますか……」

 腕を組み、重々しく呟く詠春にジローの突っ込みが入るが、マイペースを揺るがせもせずに思案を続け、彼は一つの質問を繰り出す。
 プロペラがいかれて、空中でブレイクダンスを踊りだしたヘリコプター的な質問を。

「ところでジロー君、刹那君や木乃香に特別な感情を持ったりしていませんか? 多少の贔屓目が入りますが、二人ともいい子ですよ」
「あんさん、世間一般の親と真逆の方向を突っ走ってますよー?」

 あまりに頓珍漢な詠春の問い掛けに、風呂の温度さえ下がってしまいそうなジト目で、ジローが正気を確かめるように首を傾げる。

(――――ゴクリ)
(え、え……あの……)

 岩場の陰でこの後、一体どのような答えが返されるのか、とアスナや刹那が胸を躍らせていることも知らず、ジローがうんざりした口調で話した。

「二人がいい子だっていうのは否定しませんが…………そんな感情を持って接するわけないじゃないですか」

 そのような下心から手助けをしたりはしないし、仮に自分がそうした感情を持っていたとしても、恋愛は一方通行では成立しないでしょう、とジローは顔の前で手を振って「まず、ないない」と断定する。
 顔に浮かべているのは、自嘲や諦めではない、純粋に気にしていないという意味の苦笑だ。

「ウチの御主人と違って、生徒にそんな感情を持ってもらえる好人物じゃないですし。相談役とか厄介ごとの処理手伝いとか、万屋の位置づけでしょうよ」
「ジ、ジローさん、僕と違って、ってどーいう意味?」
「別に悪い意味で言ってないから、特に気にする必要はない」

 複雑そうな顔で聞いてきたネギに、悪い意味での好人物――人のいいだけが取り柄で、あまり役に立たない人とは言っていないと、きちんと説明してから、

「でもあれだ、俺はともかく、ネギならどうだろう。木乃香はネギのこと気に入ってる感じだし、刹那だって、今回の一件でネギのこと見直した節もあるし……ああ、でも宮崎さんの問題とかあるか――――」

 と、糸目状態で何やら考え込むジロー。その様子は暇を持て余し、他人の惚れた腫れたに世話を焼く老人の如し。

「…………い、いや、そこまで真剣に考えていただかなくて結構ですよ。すみません、変なことを聞きました、この話はこの辺りでやめにしましょう」
「そうですか?」

 あまりに芳しくない青年の反応に、内心渋い顔で詠春が恋話の終了を申し出る。正直、自分の手には負えないと判断したのだろう。
 詠春としては、宴会の席で甲斐甲斐しく世話をしようとする刹那の姿を見て、娘と同じぐらいに大切な少女にも春が来たか、と喜ばしく思っていたのだが。
 では、相手の刹那に対する感情はどうか、と自分の娘を引き合いに出しつつ、それとなく探りを入れてみて理解した。
 八房ジローという青年は、鈍い、鈍感などという言葉で言い表せず、ある種の悟りを開いてしまった存在と呼ぶべきだと。

(恐らくですが……手助けする相手と認識した時点で、恋愛感情などの類に鍵がかけられるのでしょうね)

 その状態で親身になればなるほど、鍵は厳重になり、最終的に一分間でパスワードが変更されるような、高性能の電子錠まで使用されるのだ。
 恋愛に興味関心がないわけではないのだろうが、堅すぎる城門を突破しない限り、ジローに『恋愛対象』として認識されることはあるまい。

(最後の手段として、強引に門を叩き壊して――という手もありますが、これは本当に最後の最後まで取っておくべきですね)

 第一、それを成功させるには一定以上の親愛や友情に加えて、本人に相応の魅力がなくては不可能なのだ。
 まずは今以上に親しくなることから始めるべきか、と詠春は風呂の心地良さに身を委ねながら考えた。

(逆にそうした感情抜きに、人へ手を差し伸べてくれる人物の方が、私としては好ましいですし……)

 頭の中に浮かんでいるのは、この青年なら刹那の『問題』を知っても、ちゃんと助けてくれるに違いない、という奇妙な確信。
 理不尽な理由で使い魔にされ、理不尽な事情から強くならざるを得なかったというのに、それにめげることなく、飄然と佇んでいる『強い人間』であることが、詠春の確信を強めていた。
 だから、彼に聞いてもらおう。刹那自身が話すことさえ痛みを覚える、彼女の秘密について。
 そう決心した詠春が口を開こうとした時だった。

「――――ジローく……」
『しかしよー、好人物じゃねえかどうかは別問題として、相棒にだって女の好みぐらいあるんじゃねぇのか?』
「女の人の好みぃ?」

 詠春の呼びかけに割り込む形で、湯にのぼせてきたのか、毛並みが桃色になっているカモがジローに問いかけた。
 尻上がりの発音で眉を顰めたジローに、湯の中から覗かせた尻尾を振って、少々下品な笑みを浮かべるカモ。

『おうよ。例えば、スタイルがいいとか、髪の長さがどーとか、色々あんだろ? せめてそれぐらいは聞かせてくれよ♪』

 修学旅行の就寝前の男子部屋、みたいなノリで声を潜めるカモを半眼で見下ろし、口をへの字に結んで頭を掻くジローに、ネギや詠春の興味深そうな視線が集まっていた。
 ネギの場合は、ジローのような人間が好きになる女性に興味が湧いて。詠春の場合は、ジローの好みを聞いておいて、後でそれとなく刹那に伝えてあげようという親切心から。
 三人から、妙に熱の篭った視線をぶつけられていることに嘆息し、観念したようにジローが口を開く。

「好み、ねぇ……そうさなぁ――――自分の『在り方』をしっかり持っていて、甘くない優しさを持っている人、とか?」
『え、えらく抽象的だな……』
「もそっと分かりやすく言うと、何だろ……自分のやるべきこと、できることをきっちり理解して、それを成し遂げられる人かなぁ。『無理をする』と『無茶をする』の違いを理解しているとか……」

 ジロー自身、理想のタイプに必須な条件を明確に提示できず、ぶつぶつと歯切れ悪く呟いていた。

「好きになった人とは対等でありたい、っていうのもあるし……案外難しいなぁ、自分の好みを考えるって」
(それはあんたの好みが変わってるからでしょうが……)
(やるべき事とできる事や、無理と無茶の違いを理解する……あと、す、好きになった人とは対等……)

 岩場の陰では、ジト目で突っ込みを入れるアスナや、盗み聞きしたジローの理想のタイプの条件を暗唱する刹那がいたりするが、それに気付かず右左とゆっくり首を動かしていたジローが、答えを発見したとばかりに手を打つ。

「おお、そうだ、これだ」
『オッ、何かいい説明を思いついたみてぇだな? よしよし、俺っちに聞かせてみな!』

 鼻息荒く、尻尾を使って湯船から体を突き出したカモに、ジローは悩み事が解決した、という風な笑みを浮かべた。

「あー、あれだ、色々ごちゃごちゃと出したけど、集約すると一言で済んだ。うん、そうさな、俺の理想のタイプはばあちゃんみたいな人だ」
『なん……だと……』
「え?」
「――――」

 さらりと言ったジローに、カモは劇画調に瞠目して声を漏らし、ネギは自分の耳を疑うように首を傾げ、詠春は言葉を失って笑顔を強張らせた。

「――――ん?」

 何やら失礼にも感じる三名の反応に眉を顰め、訝しげな顔をしたジローに、ここは身内がそれとなく言ってあげるべきだろう、的な生暖かい優しさを醸し出すカモとネギが言う。

『あ、あのよ、相棒……年上趣味も、そこまでいくとチョット……』
「ジ、ジローさん、ネカネお姉ちゃんとか……あ、あと、しずな先生とか、少しだけ年上の人にも綺麗で魅力的な人はいるよ?」
「お前ら、大概酷いな……。あくまでばあちゃんみたいに、強さ、優しさ、美しさをバランスよく備えた人が好みだ、って言っただけだろうに。年齢差が二十、三十なきゃ嫌だ、なんて一言も口にしてないだろ」
「…………」

 その理想は恐らく世の男性、全てに共通する願いだろうが、ジローが言うと、途端にハードルが上昇したように感じるのは何故か。
 即物的な発言なのに、精神面が重要視されているからか。顎に手を当て、一人思案に耽る詠春を余所に、誤魔化し笑いで場を取り繕ったカモが、怪しく瞳を輝かせて最後の質問に挑む。

『そろそろ上がらねぇと、のぼせちまいそうだし……相棒、これが最後の質問だ!!』
「何故にそこまで熱くなる? 鼻血出るぞ」

 血に染まったように毛並みを赤くしながら、それでもこの問いの答えを聞くまで、自分は倒れるわけにはいかない。そう主張するように鼻息を荒くしているカモに、若干うんざりした顔を見せつつ、仕方がないとばかりにため息をついて、ジローは先を促した。

「まあ、俺に答えられる質問なら答えてやるよ……」
『そうこなくちゃな! つーわけで、いくぜ……さっき言ってた、理想の女の好み! 相棒の知り合いの中でなら、今のトコ、誰が一番近い!?』

 将来的に近くなりそうな人物でも可だ、と叫ぶカモに、声が大きいと文句を言ってから、ジローは腕を組んで考え込み始めた。

「ばあちゃんに近い人か、将来、ばあちゃんみたいになる人ね…………そうさなぁ、たぶん――」
(誰、誰の名前を出すの!?)
(――――ッ!!)

 身を迫り出さんばかりに、手を添えた耳を湯船の方へ近づけるアスナと刹那。
 詠春の恋話開始から、岩場の陰より必死に聞き耳を立てていた少女達だが、その必死さがついに仇となる時が来た。

「あれ?」
「へぅ?」

 体を固定するために手で掴んでいた岩が観賞用で、表面が滑らかな表面をしていたのに加え、浴室に漂っていた蒸気によって滑りやすくなっていたことが災いした。
 ツルン、と手に掴んでいた岩の突起の感触が喪失して、視界が傾いたことに間抜けな声を漏らす少女が二人。
 次の瞬間、

「アイタッ!?」
「キャアッ!?」
「――――は?」
「え?」
『お?』
「おや……」

 ずでんどう、と折り重なるように床に倒れたアスナと刹那に気付き、呆気に取られる男性陣四人。
 振り返った先に、手に持っていたタオルで必死に前を隠して、愛想笑いとも誤魔化し笑いとも取れる表情で体を起こしたアスナ達を見て、

「――――」
「ハハハ、いや困りましたね、まさか先客がいたとは」

 まず、ジローと詠春が彼女達に背中を向けた。同時に湯船の中で、腰にタオルを素早く巻きつける。

「あ、あわわわわっ!! な、なんでアスナさんが!? せ、刹那さんまで!?」
『むほほーっ!』

 次いで、顔を真っ赤にして戸惑いの声を上げながら、後ろを向くという選択を思いつかないネギと、思わぬところで眼福と言いたげなカモの厭らしい笑い声が響く。

「え、えっと……ちっ、違うのよ!? 別に盗み聞きしてたわけじゃなくて!!」
「長やネギ先生達がやって来て、仕方無しに岩場の陰に隠れていんです!!」
「不可抗力なの! わかる!? 聞きたくて聞いてたわけじゃないの!!」
「そ、そうですっ! 私達も、好き好んでジロー先生のタイプの女性や、その候補者の名前を聞きたかったわけでは!!」

 交互に言い訳がましく叫ぶアスナと刹那だが、裸同然の姿を一瞬でも見られたのに逃げ出さず、その場に留まって弁解している時点で、盗み聞きをしていましたと白状しているようなものである。

「どうでもいいから、さっさと出て行くさね……」
「最近の若い子は大胆ですねー……」

 さすがに恥ずかしさがあるのか、糸目状態で頬を赤らめながら呟くジローと、頬は赤くしていないが、同じく糸目状態で苦笑する詠春。
 とりあえず、アスナと刹那の二人も、言い訳を考え付かなくなれば勝手に冷静になって、浴室から出て行くだろう。
 そう考えたジローと詠春が、投げ遣りというより、練磨し続けた諦めのスキルを発動して、後方で騒いでいる裸の少女達の存在を意識から切り離そうとした時だった。

「ジロー先生の女性のタイプに、その候補者の名前と聞いて参上しましたー!!」
「その話、もう少し詳しく聞かせてもらいましょーーーかッ!!」
「あ、あうぅー!?」
「ハ、ハルナッ! 朝倉さんも何考えてるですか――――あ……」
「あ、あははー、無理やったかー……せっちゃん、やっほー」

 障子風の入り口を勢いよく開いてパパラッチや、「父さん、ラブ臭です!」と激しく頭の触覚を揺らす同人作家、ついでに彼女達を止めようとしたのどかや夕映、木乃香が雪崩れ込んだことで、浴室に何とも微妙な混沌が訪れる。
 実名表記は避けるが、左から順に中・大・矮小・大・小な女性の象徴をタオルで隠す集団に、さすがに堪り兼ねたジローが抗議の叫びを上げた。

「――――頼むから、もう少し世間一般の少女並の羞恥心を持ってくれませんかねぇ!? 特にそこのパパラッチと漫画家!!」

 パパラッチと漫画家こと、朝倉和美嬢と早乙女ハルナ嬢は顔を見合わせ、すぐに視線を目を閉じているジローに戻して、グッと拳を握って二人して主張した。

『見られて減るもんじゃないし! そんなものより、美味しいスクープ&ネタをプリーズ!!』
「アホですか、あなた達は!? 少しはジロー先生の言う通り、恥じらいというものを――――い、一応言っておきますが、見ちゃ駄目ですよジロー先生!?」
「ゆ、ゆえー、暴れたらタオルで隠す意味ないよー……」

 和美とハルナのある意味、逞しい訴えを切っ掛けに、蜂の巣を突付いたような騒ぎが巻き起こっている。

「何なんだ、この状況……」
「随分と大変なようですね、麻帆良学園の先生というのは」
「これでまだマシな方かもしれない、って言えるのが怖いところです」

 目を瞑った状態で話すジローと詠春だが、現状を維持しても少女達は出て行ってくれまい。
 悲しいかなそう確信した二人は、持ち前の気配察知の技術を使って、誰もいない場所を向いて目を開く。

「とりあえず、どうしましょうか」
「緊急事態ですしね……裏口から脱出するとしましょう」

 顔を見合わせて、手早く完結に作戦行動を決定した二人は、念のため腰に巻いたタオルが外れないよう、執拗なまでに固く結びなおす。
 そして――

「――――いきますっ!」
「ええ、いつでもどうぞ」
「え、ジ、ジローさん、何する気なの!?」
『むほほ、むほっほ?』

 ザブンッ、と水飛沫を立てて湯船から立ち上がったジローと詠春に、ネギが戸惑った声を上げ、興奮のしすぎでまともに話せなくなっているカモが、奇妙な鳴き声を上げる。

「――――セィッ!!」

 魔法バレをしていないハルナや夕映がいる場所で、気味の悪い声を出すなと胸中で文句言いつつ、ジローは固く握り締めた拳を振り上げて、勢いよく湯船に張られたお湯に叩き付けた。
 湯面に当たる瞬間、ジローの拳に火属性の魔法の矢が一本、付加されたことに気付けたのは、事前に作戦を相談しあった詠春ぐらいであった。
 拳に噴き上げられたお湯が、追加効果の炎に一瞬で水蒸気に変えられ、浴室に即席の霧を発生させる。

「ぷわっ!?」
「お、おおっ、なんじゃコリャー!?」
「何事ですか、これは!?」
「ま、前が見えないですー」
「うひゃー、周りが真っ白や」

 少女達の困惑の声を無視して、ジローと詠春の二人は我先にと裏口より脱出を成功させ、服の着替えを置いてある各自の部屋を目指して、腰にタオルを巻いただけという、実に情けない格好で廊下を進む。

「災難でしたね……ああ、せっかくの風呂が……」
「ご案内を間違えたのかもしれませんね。後で案内した者には注意しておきます」
「いや、そこまでしていただかなくて結構ですが。とにかく、風邪をひくまえに体を拭きましょう」

 湯冷めするのは御免だ、と足を動かすジローの横で早歩きしていた詠春が、唐突に真面目な表情で話しかけた。

「ジロー君……着替えた後、私の部屋に来て頂けますか。少し、お話しておきたいことがあります」
「――――? はあ、わかりました。それでは後程、伺わせていただきます」
「ありがとうございます」

 内容まではわからなかったが、相手の雰囲気から重要な話だと判断し、同じく真面目な顔で了承したジローに、詠春が神妙な顔つきで頭を下げるのだが、

「へっくし!」
「ああ、この季節、夜はまだまだ肌寒いですね……」

 真面目そのものに話すのは結構だが、二人して腰にタオル一枚巻いただけという格好でそれを行うのは、間抜け以外の何者でもない。
 とりあえず、ジロー達にとって今一番重要なのは、部屋に辿り着くまでに、協会で働いている巫女達に遭遇しないこと、らしかった――――






 ちなみに、これは余談であるが――

「チッ、逃げられたか」
「さすがだね、ジロー先生。普通の男子なら、イロンナ意味で動けなくなってもおかしくないのに……クッソー、胸じゃないのか? だとすると――」
「ハ、ハルナッ、なぜ意味深に私の胸部を見るですか!? その希少生物を見るような目はやめるですよ!!」
「ゆえー、落ち着いてー」

 即席の霧が晴れた浴室では、今も少女達の姦しいを通り越えた騒ぎが続いていた。
 スタイルにそれなりの自信がある少女の呟きや、その逆の少女の烈火の如き怒りが反響する中に、

「あううぅぅ、酷いよ、また置いてくなんて…………ジローさんの、ジローさんのバカァーーーー!!」
『ムッホ、ムホホホ♪』

 年齢的に非難されることはあっても、痛い目を見ることはないだろうと判断され、清々しいまでに置き去りにされたネギの非難と、オコジョでよかった、と目の保養に勤しむカモの下卑た笑い声が混ざっていたが、それについてジローや詠春を責めるのは酷と言えよう――――






後書き?)修学旅行の夜の楽しみといえば――――班メンバー対抗の筋トレや模擬戦?
 世間一般で聞くような恋話や、えっちぃ話というのは本当に行われているのでしょうか? 正直、都市伝説じゃないかと思っているのですが……。
 とりあえず、次回から修学旅行編の佳境開始。馬鹿騒ぎ納めは、今回で一先ず終了、でしょうか。ギャグや小ネタは挟みたいのですが……どうでしょう。
 風呂場にて、少女達に遭遇したジロが普段と変わらぬテンションでしたが……恥じらいがない相手には、こんなもの?
 タイトルは「苦労のうちに楽しみを」という名言のパロのつもりです、と残し。
 感想やアドバイス、指摘、お待ちしております!

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