「そして皆に忘れられた?」



「――ふぅ」

 便器の中で渦を巻いて流れて行く水音を聞きながら、哲学する変なジュース好きの少女・綾瀬夕映はホッと安堵の息を吐いた。

「危ないところでした……」

 浴衣の裾を直して、布団を敷いている部屋に戻って呟く。
 たいていの宿ならば存在する、部屋の奥側に設置された簡素な作りの木製テーブル。その前に置かれた、同じ作りの椅子に腰掛けて顎に手を当てた。

「何だったのでしょうか、あのトイレに貼ってあった御札は?」

 ついさっき、トイレで目撃した不可思議な現象を思い返して、夕映は首を傾げた。『霊験あらたかな水』の飲み過ぎか、若干焦点が覚束ない。
 見物で訪れた音羽の滝の、縁結びの滝。魔法瓶に取っておいたそこの水での晩酌。相伴していた木乃香が寝てしまい、一人京の夜が生む静寂に耳を傾けていたのだが。

「どうして御札からこのかさんの声が……当人の姿も見えなかったですし。途中で桜咲さんが飛び込んできて、有耶無耶になってしまいましたが……」

 トイレの便器に貼ってあった、木乃香の声で話す御札。
 まるで昔話『三枚の御札』に登場する一枚目の御札のようだ。カップに注いだ音羽の滝の水――口の中に広がる味といい、鼻を抜ける香りといい、どう考えても酒である――をちびちびやりながら、夕映は手団扇で桜色に染まった頬を扇ぐ。

「一枚目が人の問答に応える御札で、二枚目は大水、三枚目は大火事でしたか……」

 おとぎ話に登場するアイテムとはいえ、どれも尋常ならざる効果だ。
 特に二枚目が恐ろしい。尿意に挫けかけていた自分からすれば、笑えない効果であった。
 考えるだに恐ろしい『もしも』に、ぶるりと背中に震えが走る。

「ちょうど、ジロー先生が顔を出した時が一番の山場でしたしね」

 もう彼女も中学三年。同性であるアスナや刹那の前で、お漏らしの憂き目に遭うのも大概だが、それが異性、しかも自他ともに珍しいと認める親しい青年の前でというのは、自己の尊厳すら危うくする危機に違いなかった。
 正直、トラウマで不登校になってしまうレベルだ。

「…………寝る前にもう一度、きちんとトイレに行っておくとするです」

 クイッと魔法瓶のカップを傾け、熱を帯びた吐息を吐いてから、夕映は自分にしっかりと戒めた。

「ヒック――しかし、トイレにいなかったこのかさんを捜して、ジロー先生が出て行くのは納得ですが……どうしてアスナさんや桜咲さんまで?」

 鈍くなった頭を小さく揺らしながら、口を尖らせる。
 普段から、ネギ絡みでよく話しているアスナならともかく、クラスの仲間と交流している姿も稀な刹那と、妙に訳知り顔に会話していた。
 何というか、ジローの口調に自分に対するような丁寧さ――明け透けに言うなら、下手な遠慮がなかったように思われる。

「ふぅ〜……仲がよろしくて結構なことです」

 夕映の口から、愚痴や皮肉の漏れる割合が上昇していた。
 だんだん呂律が回らなくなっていることにも気付かない辺り、相当に酔いが回っていると見える。

「そぉーいえば、ジロー先生が後で話があると……何でしょうか?」

 酒気以外で赤みを増した顔で、水呑み鳥みたいに頭を振りながら考える。

「旅は人を、大胆にすると聞きますがぁ……ヒック」

 柄にもなく悦に入って、漏れそうになる笑い声を噛み殺しながら、新たに注いだ縁結びの霊水(酒)を飲む。

「まあ、あちらにも先生という立場がありますし、私も受けるかどうか迷うところですね……」

 口の動くままに言葉を紡ぐ夕映。もはや完全に、脈絡のないうわ言を垂れ流す酔っ払いと化していた。

「そうそう、のどかー……明日の奈良での自由行動、一緒に行動するようネギ先生にお願いするですよー」

 自分はさっきああ言ったのに、親友の内気な少女には、やれネギに告白しろ、アタックしろと、もう一人の親友と一緒に焚き付けるのは、対岸の火事を見る心境なのだろうか。
 あるいは関心なさそうな顔をしているだけで、その実、男女の恋や交際には興味津々なのか。
 その辺りについて尋ねてみたい気もするが、酔っ払いに筋の通った話を求める方が無理があると言っておこう。

「おおぉ、何やら世界が回り始めているです」

 酔いに壊れた彼女の思考回路は気付かない。
 ジローが話があるといったのは、魔法瓶に確保していた音羽の滝の水――ぶっちゃけると、酒を飲んでいたことについてである、と。

「うぅ……漏るですぅ……」

 大きく舟を漕いで、目の前のテーブルに額をぶつけた夕映は、目に涙を滲ませながら立ち上がり、フラフラとおぼつかない足取りでトイレに向かうのだった――――






「――っだぁぁぁ! 何で一人だけ乗り遅れるかなぁ!? 落ちたら痛いぞ!? 下手すりゃ巻き込まれて人生終了でございますよ!!」

 俗な男女の仲で頭を悩ましたりするのに、厭世家の雰囲気も持つ少女が、

『漏るです』

 という、ある種名言を残して無事にトイレを済ませ、朽ち木のように床に倒れ込んだ頃。
 使い魔の青年は、自分達の貸し切り状態の電車の側面にロッククライマーよろしく張り付きながら叫んでいた。
 人払いの札によって電車には、車体にしがみついているジローと、運良く車内に滑り込んだネギとアスナ、刹那、そして意識を失っている木乃香を肩に担いだ、猿の着ぐるみに身を包んだ二十後半の眼鏡をかけた女性の、計六名の姿が確認できた。
 カモを合わせれば七人だが、この際、細かいことには目を瞑っておく。

「呪符ってのは持ち運び可能で手軽に使える分、魔法よか便利かもなぁ!!」

 ネギ達が乗った車両は、猿の着ぐるみを纏った女の投じた呪符より溢れた、怒濤のごとき水流に満たされていた。
 余裕の表れか、捨て台詞を残して先頭車両へ移動する猿の着ぐるみを見送って、ジローは水没した車内の三人と一匹に目をやる。
 着衣を着た状態で落水した場合、その死亡率は格段に跳ね上がる。水錬の達者でも服を着たまま、いきなり水中に転移させられれば、パニックを起こして当然。
 叩き付けるように迫った水に巻かれ、体に纏わりつく浴衣にもがいているネギ達を見て、ジローは、今は彼らの救出が先だと判断した。

「――弁償しろって言われても困りますよっ、と!!」

 浴衣の帯に差していた赤樫の木刀――ホテルのロビー定番の土産物屋で購入(千五百円也)――を抜き放ち、口だけ躊躇しながら、鍔元まで一気に電車の窓へ突き刺した。
 途端、水圧に耐え切れずに砕けた窓から、車内を満たしていた水が噴き出した――――






「ただのいやがらせじゃなかったの!? 何であのおサル、このかを誘拐しようとするのよ!!」

 危うく、電車の中で溺死しかけるという特殊なシチュエーションに遭遇して、ジットリ湿って肌に張り付いている浴衣に顔をしかめながら、アスナは木乃香奪還のために一緒に走っていた刹那に怒鳴るように聞いた。

「――じ、実は、以前より関西呪術協会の中に、このかお嬢様を東の麻帆良学園にやってしまったことを快く思わぬ輩がいて……」

 内心、気や魔力で身体を強化していないのに、息一つ乱さずについて来るアスナに驚きながら、だが今はそれを些事と捨て置いて、身内の恥を晒す心持ちで質問に答える。

「おそらく奴らは、このかお嬢様の力を利用して、関西呪術協会を牛耳ろうとしているのでは――」
「え……!?」
「な、何ですか、それ〜〜〜〜ッ!?」

 後ろから届いたアスナとネギの理不尽に対する声に、胸中で大きく頷いて同意した。
 脳裏をちらつくのは、その身に彼の英雄・サウザンドマスターを凌駕する魔力を秘めた幼馴染の少女の顔。
 ギチッ、と思わず噛み締めた下唇に血が滲む。
 認識が甘かったとしか言えない。自分も、ジローに親書の強奪についてしか示唆しなかった近右衛門も。
 呪術協会所属であろう相手と縁深い、あるいは同門だった身として、彼よりも詳しい情報を持っていながら、それを有効活用できないとは情けない。
 地面を蹴る足に一層の力を込めながら、刹那は胸中で見通しの甘さを罵倒した。
 元々、関西呪術協会は裏の仕事――政敵の呪殺や暗殺、その逆の護衛など多岐に渡る――も請け負う組織。
 修学旅行という、木乃香が麻帆良学園の――関東魔法協会に所属する魔法使い達の庇護を離れる絶好の機会だ。多少のリスクを背負ってでも、関西呪術協会の長の娘である彼女を攫うだけの価値は十分にあるのだ。

「――やはり最初から計画的な犯行か!」

 改札出口の近くに貼られていた人払いの呪符を発見して、カッと頭に血を昇らせた刹那が、後ろのアスナ達に先んじて駅を飛び出す。
 外のロータリー広場から続く長い階段の上に、猿の着ぐるみを脱いだ、生協の販売員風のエプロンを着けた眼鏡の女性が立っていた。
 ふにゃりと、中が空洞になってへたり込んでいる様に見える猿のきぐるみには、目を閉じて静かに肩を上下させている木乃香が、しな垂れかかる形で置かれている。

「よーここまで追ってこれましたな。そやけど、それもここまで……」

 余裕を見せ付けるように、目を瞑って口の端を吊り上げて笑った女が、エプロンのポケットに指を差し入れた。
 抜き出されたその指の間には、先ほど電車の中で目にした呪符と同じものが。

「――三枚目のお札ちゃん、いかせてもらいますえ」
「おのれ、させるかっ!!」

 背中まで届く黒髪をなびかせて、指に挟み持った呪符を振りかぶった女を制止するために、白木の拵えの野太刀――夕凪の柄に手を掛け、前傾姿勢で跳び出す。
 だが、常人の範疇から大きくはみ出した刹那の踏み込みでも、長い階段の頂上で呪符を投じようとしている女には届かなかった。

「『お札さんお札さん ウチを逃がしておくれやす』――喰らいなはれ! 三枚符術・京都大文字焼き!!」

 猿の着ぐるみを着ていた女が投じたのは、昔話『三枚のお札』を模した呪符の最後の一枚。
 一枚目は、「便所はまだ終わらないのか」と急かす山姥に「まーだだよ」と返す山彦の札。
 二枚目は、後ろから追いかけてくる山姥の足止めのために川を喚び出す大水の札。
 そして、最後に残った三枚目は――

「うあっ!!」
「桜咲さん!?」

 京都の名物・大文字焼きの名の通り、一瞬で刹那の眼前の階段が猛火に包まれた。
 側にいるだけで重度の火傷を負いそうな炎塊に肌を炙られ、思わず手で顔を覆った刹那を、後ろから帯を掴んで引っ張るアスナ。
 その直後、アスナの行動が功を奏す。投じられた呪符から噴出した炎の塊から、蛇のように焔が這い伸びて、階段に大の字を描いたからだ。

「た、助かりました……」

 あと一歩踏み込んでいれば命を落としていた。
 高熱に炙られて一瞬で乾いてしまった浴衣を、体から滲み出た嫌な汗が代わりに湿らせている。
 血気の勇に飛び出し、危うく命を落としかけた自分に顔を歪めながら、絞り出すように刹那は礼を言った。

「ううん、いいって……にしても、ムチャクチャやるわね」

 視線の先で高笑いしている眼鏡の女を睨み、アスナが悔しげな呻きを漏らす。

「ホホホ、並の術者ではその炎は越えられまへんえ。ほな、さいなら――」
「『ラス・テル・マ・スキル・マギステル』!」

 このまま余裕の体で逃げさせてもらう。
 捨て台詞を残して、呪符か、あるいは薬でも嗅がされたのか、依然として目を覚ます気配のない木乃香を抱き上げ、眼鏡の女が背を向けた時。
 炎塊を前に歯ぎしりするアスナ達の脇を通り、挑みかかるように足を広げて立った少年が、手にした杖を大きく振り上げて言葉を紡いだ。

「『吹け・一陣の風』!」

 それは、身に宿す力でもって世界に語りかけ、様々な現象を喚び起こすための言葉。
 常識の理より外れた、だが世界の理にはしっかりと存在している、言霊によって放たれる超常の――少年を魔法使い足らしめる力の具現。
 楽団を指揮する指揮者の如く、土星型の飾りが付いた携帯用の魔法の杖を振り上げ、声高らかに世界に局所的な変革を命じる。

「――『風花・風塵乱舞』!!」
「な、なんやて!?」

 ネギの喚びかけに応えて颶風が一陣、少年が伸ばす手の先より駆け抜け、周囲の気温を上昇させるほどに滾っていた炎の群れを、形を持たぬ風の戦槌となって蹂躙した。
 辛うじて生き延びた火の粉が、残り香の様に渦を巻いて吹き抜けた風の中で舞い散る。

「逃がしませんよ!! このかさんは僕の生徒で……大事な生徒です!」

 懐より、パートナーであるアスナの姿が描かれたパクティオーカードを取り出し、あどけない紅顔に魔法使いと教師の二つの使命感、そして言葉通りの純粋な怒りを露にネギが宣言した。

「アスナさん!」
「いいわよっ!」
「ハイッ! 『契約執行180秒間・ネギの従者「神楽坂明日菜」』!!」

 阿吽の呼吸でネギの意図を察したアスナの体を、カードを通じて供給された少年の魔力が覆って淡く輝かせた。

(ウチの炎が消された……それに何や、あの光は……!?)

 初めて相対するネギとアスナ――西洋魔術師とその従者の力に驚き、僅かにたじろいだ女が、その胸中で己を叱責する。

(あんない、西洋魔術師が嫌いやさかいにでどの程度の力があるのか、ちんと調べてへなんだから……!!)

 並大抵の術師が相手なら、突破することも儘ならない。そんな自負を持っていた秘蔵の呪符の炎が、一瞬で火の粉も残さず消滅させられたことに驚き、動きを止める眼鏡の女。
 胸中の叫びが京ことば一色になっていることからも、彼女の動揺がよく窺えた。ちなみに意訳すると、『マズイ、西洋魔術師が嫌いだからでどの程度の力があるのか、きちんと調べてなかったから……!』だ。
 学生の頃があればだが、苦手な教科や嫌いな教科――きっと理科や数学、英語といった教科が苦手で、ついでに嫌いだったに違いない――の試験で赤点をとっていたであろう彼女に、接近を阻まれていた少女二人が地を蹴って迫る。

「このかを――!」
「お嬢様を――!!」
『返せぇぇぇっ!!』

 執念や怨嗟にも似た激怒。久しく向けられなかった生々しい感情に、本能が恐怖を覚えた。

「――チッ、お連れゴッコも大概にしよしぃ!」

 だが、それ以上に女を突き動かしたのは、自分が誘拐などに手を染めてまで動く理由も知らず、くだらない友情ゴッコに興じている子供達への理不尽な怒り。
 勝手な憤りに従って、お荷物の木乃香を抱き上げたまま、女は迎撃のためにエプロンのポケットから器用に呪符を取り出し、間髪入れずそれを投じた。

「アスナさん! パートナーだけが使える専用アイテムです、受け取ってください!!」
「武器とかあるの!? よーっし頂戴、ネギ!!」
「ハイッ、アスナさんのは『ハマノツルギ』! きっと武器です!!」

 八つ当たり気味に迎え撃たんとする女を余所に、ネギからアスナに向かって、『魔法使いの従者』にだけ与えられる強力な魔法具――アーティファクトが送られる。

 ――能力発動! 神楽坂明日菜!!

「キャッ……き、来たよ、何かスゴそう――!!」

 ネギの喚びかけに応じ、アスナの手の中から眩い光が伸びて、激しく揺らめきながら剣の形へ変化してゆく。
 そして、数秒待たずしてアスナの手には、強大な敵を屠るために選りすぐられた武器が――!

「――って、何コレ!? ただのハリセンじゃないのー!!」
「あ、あれー、オカシイなー……」

 パクティオーカードから喚び出された、選ばれし『魔法使いの従者』にのみ与えられるはずのアーティファクトに、アスナが木乃香を攫った女へ攻め寄る足を止めて物申した。
 シリアスの空気を霧散させ、八重歯を見せながら怒鳴るアスナや、首を傾げるネギの反応も致し方がないと言えよう。
 なにせハリセンである。散々っぱら期待させるエフェクトと共に登場したのが、漫才におけるボケへの最終兵器なのだから。

「――神楽坂さん!」

 だが、今は一分一秒でも早く、木乃香を誘拐犯より奪い返すべきだ。
 内心、ハリセンの登場に緊張の糸が弛んだのを自覚しながら、同じく足を止めてしまっていた刹那が指示を出した。

「今はとにかくお嬢様を! 振り回せて叩けるんです、それでも充分使えますから!!」
「う、うん! もー、しょうがないわねっ!!」

 金属製でやけに頑丈そうなのはいいが、おおよそ武器とは思えない物を片手に、アスナは魔力供給で飛躍的に上昇した脚力任せに段差を蹴り、階段上部の踊り場に立つ眼鏡の女へ殴りかかった。

「――覚悟ッ!」

 もう一方、アスナと並んで跳躍した刹那が、神鳴流の象徴ともいえる野太刀――その昔、京の都を跳躍跋沽する妖を断ち切るのに使った、優に五尺はある凶器だ――の白刃を煌かせて、木乃香を誘拐した不届き者を成敗せんと斬りかかる。

「思ったよりも手強いガキどもやけど……」

 このまま成す術なく、少女達の振るう鈍器か凶刃に倒れるか。これっぽっちも望んでいない未来図を皮肉って笑みを浮かべる。

「――出番やで、猿鬼! 熊鬼!」
『ウキッ!』
『クマーッ!』

 女の命令に応じて、脱ぎ捨ててあった猿の着ぐるみが立ち上がった。
 同時に、前もって足元へ投じておいた呪符が小さく爆ぜ、噴き上がった煙の中から熊の着ぐるみ――猿の着ぐるみと同じく、頭が大きく見た目には可愛いのだが、その手には本物の熊以上に鋭い爪が生えている――が現れ、アスナと刹那が左右から振り下ろした一撃を、鈍重な見た目に反した敏捷な動きで防ぐ。

「なにっ!?」
「ちょっ、クマァ!?」
「そ、そんなっ! あれが善鬼と護鬼!?」

 三人揃って驚いていことに僅かばかり溜飲を下げ、眼鏡の女――関西呪術協会に所属『していた』符術師・天ヶ崎千草は、木乃香を抱えたまま殊更いやらしく、

「ホホホ、ウチの猿鬼と熊鬼はなかなか強力ですえ〜。一生、そいつらの相手でもしていなはれ」

 己の式神が動き出すよりも一拍遅く、挑発交じりの警告を送った。

『ウキーッ!』

 千草が脱ぎ捨ててあった猿の着ぐるみ――彼女が自身の持てる術の粋を集めて製作した、傑作と呼べる鎧兼全自動兵士である猿鬼が、ハリセンを正眼に構えて威嚇していたアスナに接近し、短くて届かない手の代わりに足を放つ。

「うきゃあッ!?」
「っ、神楽坂さん!」
『クマクマー』
「なっ――!」

 常人なら内臓破裂、下手すれば即死してもおかしくない蹴撃が、砲弾と化してアスナを蹴り飛ばした。
 寸でのところでハリセンを手元に引いて防ぎはしたが、後退を余儀なくされたアスナを案じ、刹那がそちらへ向かおうとするが、それよりも先に熊鬼が彼女に飛び掛かったことに目を見開き、背後に立つ千草を睨み付ける。

「まず弱そうなもんから潰すのは定石でっしゃろ?」
「貴様……」
「それにほら、あんはんも」

 いけしゃあしゃあと言って、顔を歪めている刹那に嘲笑を浴びせながら、彼女は続けて注意を促した。

「――――くっ!?」

 千草の言葉が届くと同時に、刹那の背中を悪寒が走り抜けた。
 慌てて千草から距離を取るようにバックステップを踏んだ時、彼女の後方で高く跳躍し、少女が一人姿を現したのを目撃する。

「え〜〜〜〜い」
「っ!!」

 刹那目掛けて降下しながら、フリルやリボンで装飾された、淡いピンク地のクラシカル系ロリータ服に、避暑地でお嬢様が被ってそうな鍔の広い帽子を装備した少女が、その手に握る刹那の夕凪を二回りは小さくした太刀と、それよりもさらに短い小太刀を振り下ろした。
 引き付けた夕凪の刀身に、びぃんと激しい震えが走って、刹那の顔が小さく歪む。

(この剣筋……! まさか神鳴流剣士が護衛についていたのか!? マズイ……!!)
「あいたたたー、手が痺れてしもた〜」

 両の手に握る太刀を夕凪に叩き付けた後、すぐに後退し、痺れてしまったらしい手に息を吹きかける少女。

「フ……遅かったやないの、月詠はん」
「すみません、ちびっと休むだけのつもりが遅刻してしもて……」

 月詠と呼ばれた二刀流の少女は、千草に頭を下げて謝罪してから、眼鏡越しにとろんとした瞳で、目の前で緊張した面持ちで立つ刹那をじっくりと観察する。

「見たとこ、あなたは神鳴流の先輩さんみたいですね〜。ウチ、月詠いいますー、おはつに〜〜」
「……こんなのが神鳴流とは、時代も変わったな」

 両手に持った得物以外、戦闘の場にそぐわない服装と間延びした口調の月詠に、刹那は夕凪を構え直しながらそう皮肉った。

「一応、忠告してあげますけど、月詠はんを甘くみると怪我しますえ?」
「護衛にやとわれたからには、本気でいかせてもらいます〜」

 千草と月詠の言葉に歯軋りする。さっきの自分の皮肉が、ただの虚勢から出た台詞だと知っているから。
 胸中を炙る焦燥に、夕凪の柄を握る手の平に汗が滲んでいた。いざという時に握りが甘くならぬよう、汗を握り潰すように手の内を絞る。
 体をあまり開かずに切っ先を脇へ下ろし、いつでも前に出られる状態を維持しながら考える。

(さっきの太刀筋に威力……こいつ、意外にできる。どうする、マズイぞ……!)
「こ、このぉーっ! 間抜けな顔してるくせに、結構速いわよこいつら!?」
『クマーッ』
『ウキーーッ』

 後方で猿鬼と熊鬼のコンビネーションに翻弄され、どうにか攻撃を凌いでいるらしいアスナの声が、余計に刹那の焦りを増加させる。
 このまま無為に時間が過ぎるのを待っても、木乃香の奪還は叶わない。ならば、目の前の月詠を強行突破して木乃香の救出を。
 そこまで考えて、すぐにその案を却下した。見た目や口調はいかにもとろそうだが、月詠の腕は神鳴流の名に恥じぬだけのものがあるからだ。

(しかも野太刀ではなく、太刀と小太刀を使う二刀術……一撃の重さならこちらに分があるが……)

 小回りが利く二刀を使う月詠の方が全体の動きは迅いはずだと、刹那は考えた。
 そも、野太刀より威力が軽いことは、この場では何の気休めにもならない。
 月詠が持っているは、常寸の太刀と小太刀である。かつての神鳴流が相手にした巨大な鬼や妖怪相手なら、それでは役不足だと言えよう。
 しかし、それで刹那を斬るのに役不足かと問われれば、答えは否である。

「では、ひとつお手柔らかにー……」
「――――ッ」

 胸の前で二刀を交差させて構えた月詠が、宣言と共に、足先で地面を躙りながら間を詰め始めた。
 全身に緊張を張り巡らせ、刹那は切っ先を右横に下ろした脇構えのまま、僅かに腰を落として迎え撃たんとする。

「え〜〜〜い」
「むっ!」

 刹那と月詠、両者の間で押し挟まれていた空気が弾けた。
 やる気があるのかわからない間の抜けた掛け声を出して、小さく身を屈めた月詠が、一足一刀の間境を踏み越えて刹那に迫る。
 キーン、という鋼を弾く音が響き、刹那の手元で青火が散った。月詠の振り下ろした右の太刀と、切っ先の跳ね上がった夕凪の鍔元がぶつかったのだ。

 ――やはり斬りつけの迅さは向こうが上か!

 月詠の初手を受け止め、突き飛ばすように押し返した刹那は、自分の間合いを確保するために後ろへ下がろうとした。
 彼女が使う野太刀は必殺必倒の威力を持つが、その刀身の長さ故に必然、相手との間合いを広く取らなくてはならないからだ。

「やぁ、たぁ〜」
「せっ!」

 だが、そうはさせまいと、月詠が打ち込んできた左の小太刀に足を止められる。
 脇腹を薙ぎにきた小太刀を、夕凪の刃の中ほどで叩き落すように防ぎ、次いで迫る右の袈裟切りを、落とした切っ先はそのまま僅かに横へ動き、柄を持ち上げる形で受け流す。
 野太刀では行えない、左右続けざまに襲い来る斬撃を辛うじて捌きながら、刹那は初めて相手にした二刀の厄介さに舌打ちした。
 見栄えや視覚的な威嚇で二刀を扱う手合いならば、一瞬で勝負を決めることもできるのだが、この派手な服を着た頭の暖かそうな少女には、そうしたものが一切ない。
 一撃の重さ、打ち込んでくる箇所、左右の刀を使った虚実。どれも尋常の稽古では培われない業であった。

「くそっ……!」
「あきませんよ〜、そないなじじむさい言葉を使ったら〜」

 相手の技量に感心している場合ではない。自分に対して出てしまった言葉に、わざわざ注意してくる月詠がまた、刹那を余計に苛立たせた。

「ホホホ、これで足止めOKや。しょせん、素人中学生に見習い剣士や」

 猿鬼と熊鬼の相手で一杯一杯のアスナと、月詠の二刀に手こずっている刹那を見下ろして、階段の最上部まで移動していた千草は鼻を鳴らした。
 多少は腕が立つようだが、所詮は裏の世界の真の厳しさを知らない子供達。ほんの少し戦況が変化しただけで、足並みが乱れてしまっている。

「まだまだ、ケツの青いクソガキどもやな」

 かく言う彼女も、ネギの魔法で符術が破られた時に動揺したりしたのだが、それらは既に都合よく処理されていたりする。
 この辺りの、前向きなのか抜けているのかあやふやな思考が、行きの新幹線や地主神社での、悪戯の域を出ない妨害工作の原因であることは想像に難くない。

「ほな、ウチは一足おさきに帰らせてもらいましょか」
「ん……」

 肩の上で体を弛緩させている木乃香を担ぎ直して、千草は今も戦闘を続けている猿鬼や熊鬼、月詠を置いてその場を立ち去ろうとした。
 式神の猿鬼と熊鬼はやられてもまた新しく作ればいいので、そこまで腹は痛まないし、月詠の方は傭兵である。護衛という内容で雇ったのだから、自分が安全な場所まで逃げ切る時間を稼いでもらいたい。
 どうも頭が軽い、あるいは脳内が春という印象のある彼女だが、あれでも腕は本物である。一人置き去りにしても、ちゃんと逃げ延びてくれるに違いない。

「……まだ前金しか払ってへんしな」

 一瞬だけだが浮かんだ、『残りの代金踏み倒し』という言葉を頭を振って追い出す。
 まだ計画が完全に成功したとは言えないのだ。彼女の協力はまだ欲しい。
 念のために、月詠が無事に逃げ果せることを祈ってから、千草は戦いの場と化している階段の踊り場に背を向けようとして、

「――に、逃がしませんよ!」
「……ああ、しもた。西洋魔術師のガキ、忘れてたー」
「ぐっ……」

 下の踊り場より制止してきた赤毛の少年――ネギにつまらなそうな視線を送って、冷ややかに言い捨てた。
 猿鬼熊鬼のコンビや月詠に足止めを喰らって、動きたくても動けないアスナと刹那の代わりに木乃香を助けるべく、土星の飾りが付いた携帯用魔法の杖を片手に立ち塞がろうとしたネギを、千草は時を経るにつれて輝きを失い、今では暗く濁ってしまった瞳で傲然と見下す。
 緊張のせいだろう、眼下で微かにだが膝を震わせているネギを見ているだけで、胸の奥底から忌々しさが湧き上がってきた。
 理由は単純だ。あそこに立つ少年が、自分から大切な存在を奪い取った『西洋魔術師』という種族だからだ。
 大戦時、生まれてもいなかった子供相手に理不尽なという考えが、頭の片隅をちらりと過ぎるが、それはただの気の迷いだと断じる。

(西洋魔術師、それだけであかへんのや。大戦の時、自分らが何をしたのかも忘れて、のほほんと平和を享受してるだけで充分にな)

 そしてそれは、過去の確執から目を逸らして『東』との和解を掲げている、本山の主だった連中も同じこと。

「木乃香さんを放してください……!!」

 魔法でも撃つつもりなのだろう、自分に向けて手を伸ばして杖を構えているネギに、千草はもう一度鼻を鳴らした。
 そのまま、肩に担いだ木乃香の存在をアピールするように揺らしてネギに言う。

「放せ言われて放す奴がおるんか? ホレ、ウチを止めたいんやったら、この娘なんか気にせず魔法でも撃てばいいでっしゃろ」
「そんな……!? ひ、卑怯ですよっ!」

 千草の言葉に息を呑み、両手を上げて抗議する少年に歪んだ笑みが浮かんだ。
 朝の新幹線や京都に着いてからの様子を見て感じていたものが、「卑怯」という単語で確信に転じたから。

「甘ちゃんやな、人質が多少怪我するくらい、気にせず打ち抜けばえーのに」

 口ではそう言っているが、実のところ、千草にも木乃香を傷つけるつもりはなかった。
 目的を果すために必要不可欠な、『鍵』兼『燃料』なのだ。こんなところで怪我をさせるわけにはいかないし、下手に『お嬢様』を傷物にして敵を増やすのも避けたい。

 ――どうせ決行の時は、呪薬か呪符でも使て口利けんようにして、上手いことウチらの言うこと聞く操り人形にでもするんやけどな。

 この少女には、尊い人柱になってもらわねばならないのだ。その時まで傷つけるのを極力避けてやるというのは、せめてもの良心という奴だろう。
 どこか白々しい、空虚な気持ちで千草は呟いた。

「恨まへんでおくんなはれね、お嬢様? 悪いのは、みんな西洋魔術師の連中どすから」
「んぅ…………?」

 耳元で囁かれて小さく呻くが、いまだに目を覚ます気配のない木乃香に、「この状況でよう寝てられはりますなぁ」と、内心呆れ気味に溢す。
 もしかして、攫った時の気絶のさせ方が悪かったのだろうか。想定外の問題が発生したらどうしようと、密かに汗を垂らした千草は気付いていなかった。

(まあ、身体の中にある魔力さえ無事なら、ウチは問題ないんやけど……)

 そう考えている時の自分の顔が、僅かばかりに強張っていたことに。
 まるで、人でなしなことを考え、それを実行するために躊躇いなく動いている自分が、たまらなく不快な存在であると言うように。

「――フン」

 だが、小さすぎる良心の呵責に千草を止めるだけの力はなかった。
 彼女は肩から下ろした木乃香を楯のように抱え、言外にネギに何もするなと命令する。

(とにかくや、このガキが厄介なのは変わらへん……。ここは一つ、逃げ切るまでお嬢様に守ってもらうとしまひょか)

 どれだけ見っとも無くても、情けなくてもいい。外道だ何だと罵られても構わない。
 今は、目の前の西洋魔術師の少年から逃げ延びることだけを考えろ。自分にそう言い聞かせて、千草は痛々しいほどに顔を歪めているネギに嘲笑を浴びせ、だが胸中では戦々兢々しながら、少しずつ確実に距離を稼いでいく。

『あ、兄貴ッ、このままじゃこのか姉さんが……!』
「わ、わかってるよ、カモ君ッ! でも……でもあれじゃ、魔法を撃ったらこのかさんまで……!!」

 攻撃魔法はもってのほか。捕獲用の風の魔法でも、何かの弾みで千草が落とした木乃香が、階段を転げ落ちてしまう恐れもあった。
 一歩間違えば、自分が木乃香を傷つけてしまう可能性に歯噛みするネギ。

「ちょっと待ちなさいよ、そこの猿女!! このかを置いてけぇぇぇっ!!」
「このちゃ――このかお嬢様ッ!!」

 眼下の踊り場で式神相手に苦戦しているアスナや、月詠の二刀の前に攻めあぐねている刹那から叫びが届くが、そんなもので動きを止める千草ではない。
 勝利を確信した彼女は、最後に捨て台詞の一つでも残すかと考える。木乃香の誘拐に成功すれば、目の前にいる西洋魔術師とその仲間に会うのも、今夜が最後になるのだからと。
 その辺りの蛇足な思いつきが、後に『とある青年』に「古典的な三流の悪役」と評価させるのだが、現時点でそれを知らない彼女には関係ない。
 優越感に浸った顔で、後ろから楯のように抱えた木乃香の頬を抓んで伸ばしながら、

「ウチの勝ちやな。フフ、惜しかったですなぁ? そっちにもう一人でも仲間がおったら――」

 「ウチもこう楽には勝たせてもらえへなんだのに」と、千草がそう言い切る直前のことであった。

「――――へ?」
「そ、そーいえば……?」
「あ、あれ?」
『あ……』
「な、なんや?」

 突然、表現しにくい空気に場が支配されたことに戸惑い、千草が戸惑った声を上げる。
 どういう訳か、彼女の勝利宣言を聞かされ、一瞬前まで悔しげな表情を浮かべていた少年が首を傾げていた。
 ヒット&アウェイ戦法で、決して反撃を許さない猿鬼と熊鬼にイライラしていた少女は、何かを思い出したように周囲を見渡し、二刀使いの神鳴流剣士を相手にしていた少女も、忘れ物に気付いた顔で戦いを中断していた。
 そして、首を傾げた後、誰かを捜してキョロキョロしている少年の頭に掴まっていたオコジョは、愕然とした様子で声を震わせながら呟いた。

『…………そ、そういや相棒の姿が見えねえな。おかしいッスね、電車に乗った時までは確かに――』

 言いさして、自称『漢』のオコジョ妖精は、自慢の新雪よりも白い毛並みを青褪めさせた。
 この場にいる者の中で、彼が一番最初に思い出してしまったのだ。相棒――同じ使い魔仲間である青年が、電車に乗ってなどいなかったことに。
 そう、彼がいたのは――――!

『で……電車の中で溺れかけてた俺っち達を助けた後、相棒の姿を見た人――――いるッスか?』

 おずおずとネギの頭の上でカモが、顔を引き攣らせながら、この場にいる全員に意見を求めて立ち上がった。
 あまり考えたくないことを想像したのだろう、顔が半笑いに見えるほど不安と恐怖に歪んでいる。

「ミ、見テナイヨーナ……」
「し、知らないわよっ! てっきりついてきてるって思ってて、気にしてなかったし……」
「よ、よくよく思い出すと、ジロー先生……電車に乗ってましたっけ?」

 今更ながらこの場にいない、というか、いつの間にか姿を消してしまった青年の存在を思い出して、お互いに微妙な視線を交し合う三人と一匹に眉をひそめた千草が、一度辺りに視線を巡らせてから言った。

「……そういえば、電車の横に張り付いとったお兄さんが来てまへんな」
「あれ? この人ら以外に邪魔する人がいたんですか〜?」

 彼女の呟きを聞いて、唐突に戦闘を中断した刹那に不満そうな顔をしていた月詠が首を傾げようとして、

「あ〜、もしかして、それってあの人ちゃいますか〜?」

 何かに気付いた彼女が、駅の改札方向を指差しながら一同に尋ねた。

『えっ?』

 その言葉に弾かれるようにネギが、アスナが、刹那が、カモが、そして木乃香を抱きかかえたままの千草が、月詠の指の先にある改札の方を見ようとして――

「いやー…………別にいいんだけどね? 俺の事はほっぽいて、みんなで話を進めてくれた方が。でもさ、さすがに今回の忘れっぷりは酷いと思うんだよねぇ」

 それよりも先に、改札を出てきた青年のぼやき――小さく、囁くような大きさの割りに、妙に重たくて暗い声だ――が届き、

「とりあえず、八つ当たりだってのは理解してる。ってなわけで――――中身の綿をぶち撒けろ」
『ク、クマッ!?』

 刹那の後、ミサイルの直撃でも喰らった様に下半身と泣き別れた熊鬼の上半身が、ごうっと唸りを上げて千草のすぐ横を通り過ぎ、彼女の後ろにあった建物の壁に激突した。

「――――はい?」

 風に巻き上げられた髪が落ち着いてから、ゆっくりと背後の壁にめり込んだ熊鬼の上半身を暫し眺め、完全に開いてしまった両眼を前方に戻す千草。
 こっちには一応、人質のお嬢様がおるんやけど。ダラダラと顔から汗を流しながら、抱えている木乃香を揺すって見せる彼女に、熊鬼を刺し貫いた姿――身体のバネを限界まで利用して、右手に握った木刀を突き出した極端な前傾姿勢で停止していたジローは、ぎちぎちと首を軋ませながら顔を上げる。

「あ、あんはん、わかってはるんどすか……!? ここ、こっちにはホレ、お嬢様が――」
「なに? 何がしたいんですかー、あなた様は。俺に一体、何を期待しておられるのでしょーか? 腹話術でもしたいの? だったら人間使わずに、素直に猿のぬいぐるみでも使ってくれませんかー?」
「んなぁっ!?」
「いい加減、今日は休みたいのよ……もう時間も遅いし。こっちの連中はまだ育ち盛りなんだ、規則正しい生活させろよ阿呆」

 どこか面倒くさげで、どんより淀みきった半眼が返ってきたことに、千草は裏切られた気分で呻き声を漏らした。
 ネギやアスナ、刹那が相手ならば十二分に効果を発揮するであろう、木乃香という楯を見て、「何がしたいんですか」はないだろうと、ジローに恐ろしいものへ向ける視線を送る。

「ちょ、ちょっとジロー、あんた今までどこにいたのよ! ってか、あれを見て、何トンチンカンなこと言ってんの!?」
「どこにって、それを聞くのか……?」
『ウ、ウキー……』

 対峙していた猿鬼の存在を忘れて、ハリセンの先端をジローに突きつけてアスナが声を荒げた。

「それ答える前に聞きたいけど、お前が持ってるのアーティファクトだよな? 何故にハリセン?」
「う、うっさいわね、文句はネギに言ってよ――――な、何? 何であんた、思いっ切り嫌そうな顔で私から離れてんの?」
「あー……何でか、そのハリセンで叩かれたくない気がバリバリでして」

 何故か無性に湧いてくる嫌な予感、というより本能的な危機感に従って、渋い顔で向けられたハリセンから距離を取りつつ、木刀をだらりと提げてジローは話した。
 恐らくは、今日一番の厄かった出来事を。

「電車の窓に木刀を刺して、水を抜いたまではよかったんだけどな……運悪くもろに水を被って、その弾みに掴んでた電車の窓枠から手を滑らせ、物の見事に線路へ転げ落ちましたです、はい」
「え゛……」
『や、やっぱりあの時点で落っこちてたんだな』
「ジ、ジローさん……その、大丈夫だったの?」

 暗くて気付くのが遅れたが、弱々しい街灯に照らされたジローの顔や浴衣から覗く手足には、細かい擦り傷や打ち身がいくつも見受けられ、落下した時の速度や衝撃を暗に語っていた。
 青い顔に糸目で、いかにも無理をしているとわかる薄ら笑いを浮かべるジローに、どうにか表情を繕ったネギが尋ねるが、

「いいんだぞー、無理に気を遣ってくれなくて。危うく挽き始めのコーヒー豆になりかけた俺なんか……あー、ただの注意不足ですね、すーみーまーせーんー。結局、転げ落ちた後、電車を追いかけて走ったけど、体のあちこちが痛くて到着が遅れまーしーたー」
「ううぅ〜」
「えーっと……」
『わ、悪かった、今回はマジで悪かったよ、相棒』
「あ、あの、何と謝ればいいのか……」

 半ば、やさぐれ者の調子で返されて涙を流す。アスナやカモ、刹那といった他の面々も、あまりの申し訳なさに言葉が出てこない。
 ジローの説明だけ聞くと、本当にただのギャグでしかないが、自分がもしそういう体験をしたらと思うと、乾いた笑いすら出てこなかった。

「……な、何どすか、このけったいな空気」
「ご愁傷様ですー、強く生きておくんなはれね〜」

 先ほどまで充満していたシリアスな空気が、まったく逆方向の微妙な空気に取って代わられたことに呻く千草と、ジローの普段から続く苦労や不運不遇を知ってか知らずか、敵に対し激励を送る月詠。

「何故に問題起こした側から、慰められにゃならんのだろうか……」

 月詠の励ましに心底不服そうな顔をして、苦々しく呟くジローであったが、すぐに諦めたようにため息をついて流す。この程度の理不尽、いつものことであった。
 そして、みんなが呆気なく感じるほど綺麗さっぱりと気分を切り替えて、彼はアスナに声を掛けた。

「あー、ところでアスナ」
「な、なに?」
「目の前の猿の着ぐるみ、さっきから呆然と突っ立ってるんだし、さっさと殴り倒せば?」
「へ? あ………………た、たぁーーッ!!」
「ハッ、し、しもた!?」

 突然現れたジローのせいで、術者である千草の戦意と集中が乱れていたのだろう。ついさっきまで、熊鬼と共にアスナへ猛攻を仕掛けていた猿鬼が、まるで電源が落ちたロボ人形のように立ち尽くしていた。
 そのことをやる気のなさそうなジト目で指差して教えられ、ハッと我に返ったアスナは、細かいこと――某青年の遣る瀬無い呟き他――について考えるのを放棄して、手にしたハリセンを思い切り振り上げる。
 ほぼ同じタイミングで千草も我に返り、猿鬼を再起動させるために意識を尖らせるが、彼女の式神が動くよりも一瞬早く、アスナのハリセンが愛嬌のある猿鬼の顔面に叩き付けられた。

『ム゛キッ!?』
「なっ――!?」
「あ、あれ? 消えちゃった?」

 アスナのアーティファクト――『ハマノツルギ』と名前だけは立派なハリセンが猿鬼に直撃した瞬間、風船が弾ける様に猿鬼の姿が消失する。
 千草は目の前で起きた現象に目を見開いた。『式返し』――喚び出された式神や妖魔などの、魔法生物などを有無を言わさず紙切れに戻し、元いた世界へ送還する高位術式――を、西洋魔術師のパートナーをしているだけと考えていた素人中学生が行ったのだ、無理もない。

「うやー、何だよあのハリセン……力任せに叩くだけで、障壁ごと式神を潰しちゃったよ。もしかしてあれか? 魔法使いの天敵だったアスナが、最終兵器少女にバージョンアップしたとか……」

 『魔法使いの従者』に貸与されるアーティファクトは、当人の資質や能力に適したものが選ばれると聞く。
 だが、この『完全魔法無効化能力』を持つ少女に、魔法使い泣かせな武器を持たせるというのは、些か贔屓が過ぎるのではあるまいか。

(才能万歳ー、秘めたる力に勝るものなしってか?)

 何故、自分は妙な方向に突き抜けた連中と関わることが多いのか。ジットリした双眸をネギ、アスナ、刹那、木乃香の順に移して、深々とため息をつきながら頭を掻く。『ここ』に来る前の友人知人連中も似たようなものだった、と。
 少しばかり、自己同一性――アイデンティティーの確立について悩みそうだった。
 こういう時は哲学する少女に頼るのか、それとも、シスターに神のお導きとやらを告げてもらうのかと考えたが、脳内で開かれた会議で即否決してしまう。

「ただでさえ妙ちくりんな状況にいるんだから、現状だけでもう満足ですよ、俺は」

 よくよく考えれば、自分は才能や秘めたる力も、まして『自分という存在の独自性』を改めて自覚しよう、なんて殊勝な心掛けも持ち合わせていなかったのだ。
 別に泣き言をいう訳ではないが、暫くの間というか、平穏無事で思わず「暇だ」と呟いてしまえる日が来る時まで――

「真っ当な『人』の範囲にいたいよぉ〜、ってな」
「ウチにはお兄はんが真っ当な人には思えまへんけど〜?」
「ん?」

 某「人間になりたい」と訴えた妖怪人間みたいなことを呟きつつ、木刀片手に千草がいる階段上部を目指して、とぼとぼと歩いていたジローの目の前に、鈍い蛇腹の輝きを持つ太刀が差し出された。
 踏み切りのように進行を妨害した刀身――反りが浅く、優美さの中に人を斬る武器としての力強さも備えた太刀姿で、冴えのある澄んだ地肌に浅い刃紋が走っている――をまじまじと見つめ、「業物だ」と悦に入った吐息を漏らしそうなる自分を抑えながら、その業物の持ち主である少女に視線を移す。

「困りましたー、ウチ一人で先輩やお兄はん達を相手にしーへんとあかんなんて〜」
「…………?」
「ホンマにウチ、困ってしまいます〜。どっちから斬ればええのか迷いますわ〜」

 自分が口にした内容のどこに興奮する要素があったのか。不自然な感じに顔を上気させて、眼鏡の奥で瞳を潤ませているロリータ服の少女――月詠に眉根を寄せたジローは、何か理解の範疇外にありそうな存在から目を逸らして、すぐ側で夕凪を構えて不意打ちを警戒していた刹那へ尋ねた。

「あー、なあ刹那、この子……ってか、コレ何?」
「そ、その……一応同門みたいです、神鳴流の……たぶん」

 非常に言い難そうに口篭りながら彼女が話した、月詠が千草の護衛をしている剣士だとの説明を聞き終えたジローは、嫌々視線を今も顔の前に太刀を差し出している月詠に戻す。

「……俺なんか無視して刹那の相手した方が、絶対楽しめると思うからお勧めなんだけど」
「な、何で私を勧めるんですか、ジ、ジロー先生!?」

 両の手に刀を携えて、もじもじと小さく悶えている月詠の様子から、ある『特殊な性癖』を持っているのだろうと診断し、処方箋代わりに刹那を指差してみるジロー。
 勝手に生贄に指名された少女が抗議の声を上げるが、ジローは平気の平左で取り合わない。ついでに月詠も取り合わない。
 視線を刹那に向けた彼女は、「もちろん先輩とも戦いますしー、雇い主さんとこにも行かせまへんけど〜」と前置いてから、見た目には幼さの残る顔に不吉な三日月を作って答えた。

「さっきの刺突で、お兄はんにも興味ができてしもたんです〜。お兄はんを斬ったら、どへんな香りがするんやろって」

 熊鬼が突き潰される瞬間でも思い出したのか、月詠の顔に浮かぶ赤い三日月が、キュウッと引き絞られる。

「うへぇ……」

 刹那やアスナ達が千草に襲い掛からぬよう、決して警戒を緩めることなく、自分に対して異様に昂ぶった感情――殺気の類をぶつけてくる月詠に顔が歪む。
 真性だ、と声に出さずジローは呟いた。同時に、本当に今日は厄いことばかり起きる日だ、ともぼやいておく。
 並みの剣士では相手にもならぬ卓越した技法を持ち、ただ只管に純粋な戦闘への渇望、人を斬りたいという欲求のままに刀を振るう手合い。

(こーいうのに限って、色々と大切なものが欠け落ちてるんだよなぁ……)

 一つの目的にのめり込んで、勢い余ってそこを突き抜けてしまった成れの果てが、彼女のような人種だろうと冷ややかに考える。

(考え方の違いかもしれないけど――――『だからこそ』、欠けがないように見せなきゃいけないってーのに)

 自分と他者との違いが認識できず、そのくせ自分が常識を備えているとアピールする気違いも大概だが、自分と他者との違いが認識できるのに、それを抑えも隠しもできない狂人には反吐が出そうだった。
 もっとも、反吐が出ると言っても、ジローの相手に向ける表情に変化はなく、ただひたすらに疲れた顔をしているだけだが。

「ハァ……たぶん俺を斬っても、嗅げるのはみんなと同じ血液中のヘモグロビンが酸化したっぽい匂いだと思うぞー」

 狂気を帯びた笑顔で、フルフルと小刻みに体を震わせている少女にげんなりしながら、ありもしない期待を込めて言ってみるが、

「ウフフ〜、それ聞くと余計に楽しみになりますわ〜♪」

 当然というか、返ってくるのは頬の赤みを増加させる少女の戯言。
 目の前の太刀をどうしたものかと悩みながら、もう一度ため息をついた後、ジローは視界の端で緊張した面持ちで立つ刹那に視線を飛ばし、アイコンタクトを図る。

「――――」
「……? ――――!」

 『目は口ほどに〜』とは言うものの、ジローが送ってくる指示に最初は首を傾げていた刹那だが、二度三度と繰り返す内に、苛立ちの混じり始めたアイコンタクトの意図をそれとなく察したのか、慌てて「りょ、了解しました!」と言う様に首を上下させた。

「あの〜、なんの内緒話してるんどすか〜?」

 当然、二人の不自然な動きに気付いて、ジローの眼前に伸ばしていた太刀の刃を横に寝かし、引けばすぐに顔、あるいは眼を切れる状態にして月詠が聞いた。

「あー、別にたいしたことじゃあないよ。ちょっとした役割分担の話をしただけさね」

 普通の手合いならばそれだけで動けなくなる、刀という極上の凶器が生む緊張と威圧。その中でジローが取った行動は、月詠のみならず刹那や、後方に控えて千草を牽制していたネギ達を驚かせた。

「よっ」
「あらら〜?」
「――――刀って、腹ではどう頑張っても斬れないんだよねぇ」

 刃の付いていない鎬の部分を、木刀を持っていない左手の甲で弾き上げるや否や、深く膝を曲げて体を回し、月詠を自分の正面に置いたジローがしみじみと呟く。
 口調そのものは穏やかで、抜き身の刀が踊る場に相応しくない緩さであったが、その動きは野生の獣を思わせるほど敏捷であった。

「シッ!!」

 地面から獲物に飛び掛かる毒蛇のように、斜め下から突き上げられた木刀の切っ先が、月詠の首に向かって奔る。
 まだ喉仏の発育も見られない細い首だけに、ジローの刺突が極まれば彼女の頚骨は砕け、下手をすれば頭も先の熊鬼の如く、体と泣き別れする羽目になっていただろう。
 だが、

「たぁ〜」

 上に弾かれた太刀はそのまま、月詠は左に握っていた小太刀を振り上げて、首元へ迫っていた木刀の切っ先を外した。
 顔を掠め、引き攣るような痛みを残して通り過ぎた木刀に惚けた笑みを漏らしながら、いつの間に持ち替えたのだろう、逆手に握った小太刀の軌道を途中でねじ折り、拳を地面に叩きつける形で、足元に身を屈めているジローの首筋を狙う。
 突きを外され、武器を持つ腕が伸びきった彼に、月詠の凶刃を防ぐ手立てはなかった。仮にジローが、音に聞く新陰流の無刀取りを会得しているなら話は別だが。

「それじゃー、いただきます〜」

 得物の木刀が使えぬ状況、いかに気や魔力で体を強化しようと、同じく強化されて破壊力や切れ味を増している刀を無手で防げはしない。
 再び込み上げてきた衝動に笑みが溢れる。
 どこまでも純粋で、歪に狂った笑みを手向けにして、彼の首筋に刃を叩き込み、引き斬り、存分に噴き出すだろう血煙と血臭に身を染めよう。
 極度の興奮のせいか、コマ送りのように遅く感じる世界を掻き分け、逆手に握った小太刀を――

「ッ!」
「――フッ!!」

 叩き入れよう、月詠がそう考えた瞬間だった。ジローが大きく空気を吸って、間髪入れず口の中から、親指大のおはじきを飛礫として撃ち出したのは。
 水切りに使う川辺の石の様に平たく、また表面が滑らかなガラスの玩具は大きな抵抗を受けずに、夜気を裂いて滑空する。眼鏡を隔てた場所にある、少女の片目を突き破らんがために。
 眼を狙って放たれた飛礫を月詠は首を傾けて躱すが、攻撃を中断しての動き故に体勢が僅かだが乱れた。だが、その程度で『敵を斬る』ことを諦める彼女ではなかった。
 ならば、この体勢の乱れをも利用して、太刀で真一文字に首を薙ぐ。半歩後ろに下がろうとしながら、柄を握る右の手の内を絞った月詠が見たのは、

「はい、そこまで」
「……ホンマはお兄はんも好きなんですね〜?」
「ハッ、冗談、俺ぁ言うほど『饅頭好き』じゃねえのよ」

 伝法的な口調で吐き捨て、細めた双眸で小馬鹿にするように笑うジローの姿。
 「まあ、お茶請けに出てくりゃ、摘みはするけど?」と、月詠にだけ聞こえる声で囁いて、彼女の居付いた前足を踏み付けたまま、ふてぶてしい面で謝る。

「悪いなぁ、足踏んじゃった」
「ええですよー、ちょう痛いだけですし。それにしても、お兄はんって意外と『少食』なんですね〜?」
「わざわざ買い求めるほど、『腹は空かせてない』のよ」

 表情は明るいのに、温かみのない視線がぶつかり合い、短くも殺伐とした言葉が交わされる。

「ジローさん達、あの状況で食べ物の話してる……」
「相手もしっかり返してるしね……っと、あのサル女が逃がさないよう注意しなきゃ!」
「そ、そうでしたっ!」
(たぶんあの二人、別の意味で話してると思うけどよ……まあいいか)
「しもた……また逃げるタイミング逃してもうた……」

 真正直に会話を捉えたネギやアスナに胸中で突っ込むカモと、事の推移に置き去りにされ、逃走の機会を逸していた千草の嘆きに構わず、戦闘が再開される。
 問いに返されたジローの答えに、クスリと口許を緩めた月詠が、左右共に順手に握った二刀を、切っ先を交差させる形に突き下ろそうとした。
しかし、左の首狙いの小太刀は、余裕を持って引き戻されていたジローの木刀に阻まれた。
 ぎちっ、と音を立てて、木刀に食い込んだ小太刀が動かなくなる。

「あらら〜?」
「形は刀でも、実際は木の棒だし? 有効活用さね」

 相手の小太刀が強化されていることを考慮し、斬り込む角度を調節して、刀身の中程まで刃を食い込ませる。杖や棒で稀に行われる受け方だ。
 ここに至って初めて、月詠が呆れた声を出した。

「器用ですな〜」
「知り合いみたいに、刀だけで敵を殲滅なんて無理なので」

 しかしそれは、木刀で真剣の刃を止めたことにではない。
 神鳴流という、あらゆる武器に精通し、得手不得手の世界を超越して扱う流派に属している月詠だ、その程度の芸を見ても世辞の一つで終わらせよう。
 彼女を苦笑させ、かつ「器用」と言わしめたのは他でもない、

「いやはや、これまたうっかり……」
「お兄はん、見た目と違うてうっかりさんなんどすな〜」
「御主人ほどじゃないけど、歳相応にはね」

 左の小太刀と一緒に突き出した彼女の太刀が、狙いであったジローの胸元まで切っ先三寸で止まっていたこと。

「――最初に刀弾いた時、ですか〜?」
「そうさねぇ、そこ以外に機会はなかったし。悪いな、糸まで絡んでたみたいで」

 太刀の柄頭辺りに巻き付く強靭な鋼の糸を見て、月詠が天気でも聞く風に尋ねる。
 本当に偶然、意図せずそうなったと言いたげな緩い眼差しで、薄く笑いながら謝るジロー。
 彼の手をリール代わりに、階段脇の街灯の柱をガイドに柄頭まで伸びている糸は、まるで針に掛かった魚を引っ張る釣糸であった。

「釣れた魚はとんだ外道です、とくらぁ」
「や〜ん、酷い言い草です〜」

 そのことを揶揄したジローに、月詠がのほほんと返す。
 しかし、一見穏やかな会話の間も命の駆け引きは続けられていた。柄に絡まった糸を無視して、標的の胸を刺し抉らんとする太刀と、それに抗い、ギシギシと軋む音を上げて耐え続ける糸。
 ほんの僅かな切っ掛けで均衡が崩れる命懸けの綱引きが続く中、

「さてさて……」
「?」

 かろうじて、月詠の足を踏んで動きを止め、小手先の技で両刀を封じたものの、今にも千切られそうな糸に「少し……いや、むちゃくちゃまずい」と冷や汗を垂らしていたジローの顔が、唐突に楽しくて仕方がないとばかりに歪んだ。

「急にどないしたんですかー?」

 何故、命の瀬戸際で笑い出したのか。訝しく思って首を傾げる月詠に、ジローは温存していた嘲りを吐きかけた。

「間抜けだよなぁ……目先の斬ろう斬りたいに拘りすぎだ、こぉの下手くそ」
「どういう意味――」

 少女の特殊な性癖にではなく、やり方そのものに焦点を当てた酷評。
 ジローの瞳を染めていたのは、出来損ないの職人の腕を憐れみ、同時にせせら笑う冷ややかな色だった。
 唐突に浴びせられた侮蔑に眉をひそめた月詠の耳に、ある少女の声が届く。

「――――神鳴流奥義……!」
「……はれ〜?」

 その声は、丁度ジローの背中に隠れた場所で呟かれた。重々しい口上が夜闇に溶けた瞬間、にわかに周囲が明るくなる。
 電気の弾ける硬い音が夜気を裂き、青白い花が咲き乱れるのを、月詠はジローの肩越しに認めて、「ありゃ〜」とぼやきを漏らした。
 ジローとの戦闘を始めて三十秒足らず。その間、彼の助太刀もせずにいた『彼女』を多少は不審に思えど、目先の喰いやすそうな獲物に意識を割きすぎていたと悟る。
 前菜を食した後、極上のメインディッシュをゆっくり胃に納めようと、優先順位をつけていたことが裏目に出たらしい。
 通常の数倍の時間を使って練り上げ、高められた『神鳴り』を野太刀に纏わせ、静かに八双へ構えた少女――桜咲刹那を熱っぽい憧憬の瞳で見つめながら、月詠は自嘲する。

「食いしん坊なウチがアホでした〜。やっぱり浮気はいけまへんな〜」
「あー、うん……ある意味、間違ってはないけどさ……」

 自身の愚かさを卑下し、ホウッと陶酔の嘆息を溢す二刀流剣士の少女に、「こういうのも、倒錯した恋愛感情に入る時代か……」と胸中で嘆いたジローが言う。

「まあ、なんだ……とっておきの上等な饅頭、腹一杯召し上がれ」
「いきますっ、ジロー先生!」
「あいよー」

 雷を従えた刹那の合図に、今日一番の爽やかな笑顔を残して、ジローが月詠の視界から姿を消す。
 両の二刀に力を入れるのも忘れて苦笑していた月詠と、真剣な表情で夕凪を振り上げた刹那の視線が絡まった。

「次はもうちょい、お腹空かしてから来ます〜」
「お断りだっ――――雷鳴剣!!」

 月詠の言葉を目一杯蹴り飛ばし、渾身の力でもって夕凪を振り下ろす。刀身に巻き付くように走っていた気の雷が、数条の閃光を率いて前方に殺到した。

「はう〜〜〜〜」

 落雷に匹敵する轟音が、人払いのなされた駅前の広場に木霊する。
 天上に昇った月を背景に、京の夜空を高々と舞いながら、最後まで間延びした声を上げて気絶する少女が一人。
 その場景は実に幻想的で、だがそれ以上に出来の悪い前衛芸術に見えた――――






「んな……なな――――ッ!?」
「ウ、ウフフ……センパイ〜、ウチ、痺れてしまいました〜〜〜〜」

 幾本もの雷撃に打ち据えられ、ロリータ服に煙を上げる焦げ目を作りながら、その割りに恍惚の表情で目を回す護衛に顔を青くし、酸素を求めるように口を開け閉めする千草。

「何なんや……人質も通用せえへん、頼りにしとった月詠はんもやられてまうし……」

 一人残されてしまった自分にどうしろと。
 今更、式神を出したところで、木乃香奪還に現れた連中全員を相手に勝てるはずもなく。
 こんな事になるなら、月詠以外のメンバーも連れてくるんだった。パニックを起こしかけて、チカチカと白む頭で考える。

「こ、こうなったら、今回はお嬢様を返してサッサと――」

 だが、それで無事に逃げ果せるかはわからないし、仮に逃げ切れても、明日からの向こうの警戒は今日の比ではなくなるだろう。
 自分の目的を果すために、この腕の中で呑気に眠っている少女は欠かすことができないのだ。

「しゃ、しゃーない、女の意地を見せたる……!」

 腹を括り、エプロンポケットに入れてある式神の呪符を纏めて掴む。
 木乃香を抱える腕に力を込めて、一縷の望みをかけて式神を目晦ましに逃走を図ろうとした千草の背後で、トンッと何かが、いや誰かが着地する音が聞こえたのはそんな時だった。

「あー、下手な抵抗は止めとけ、お互い不毛だから」
「ヒィッ!?」
「まあ、どうしてもやりたいならどうぞ? 俺はお勧めしないけど」

 千草の後ろに回り込んだジローが、飄々とした口振りで機先を制した。
 突然のことにビクッと肩を震わせ、そのまま体を強張らせた千草の背後から手が伸ばされ、抱きかかえていた木乃香を引っ張り上げる。

「あッ……!」
「こっちより、あっちの三人に気をつけた方がいいぞー」

 怯えの混じる目で振り返り見た千草に、本心のわからぬ緩い笑みを浮かべてジローが指摘した。

「ウ、ウヒィッ!?」

 思わず顎でしゃくられた方向、眼下の踊り場を見下ろした千草の口から、引き攣った呻き声が漏れる。

「――」
「――――!」
「――――――!!」

 見なければ良かった、と青い顔で後悔する千草の前方に、それぞれ携帯用魔法の杖、謎金属製のハリセン、優に五尺を超える野太刀を携え、怒り心頭の体で瞳に剣呑な光を宿す少年少女の姿があった。
 ネギやアスナ、刹那の三人に睨まれ、ガタガタと震えている千草の後ろで、頭を掻いたジローが慰めの言葉を紡ぐ。
 どこまでも棒読みで一片の同情も含まれていないことが、余計に彼女を憂鬱にさせたのだが。

「あー、多少痛くても、死にゃあしないでしょうよ。犬に石投げて反撃されたとでも思って、派手にやられなせえ」

 視線だけ後ろに向け、どこまで他人事のように語る青年の様子を窺う千草。
 その視線に気付き、小脇に抱えた木乃香に「よく寝てられるなぁ」と呆れた半眼を落としていたジローが、緩いのか穏やかなのか判別できない表情で彼女に言った。

「それで希望としては、ちょっかいかけるのは今夜で終いにしてくれ。何ていうか、ほら……あんたらの相手してるほど暇じゃないのよ、俺達も」
「――――!! この『東』の狗がッ……!」

 投げ掛けられた台詞に、「あんたに何がわかるんや!」という憤りの言葉が、千草の口をついて出かけた。
 まるで路傍の石や雑草を見て、ただの思いつきで蹴り飛ばし、踏み潰すような軽さ。
 自分という存在に、毛ほども興味を持っていないと言いたげな青年の態度に、千草の白皙へ掃いたような朱が浮かぶ。
 そもそもの原因は、お前達にあるのだ。そう声を荒げようとした千草に、表情を一変させたジローが淡々とした声で囁いた。

「止められるうち、戻れるうちに止めておけって言ってるんよ、阿呆」
「な……」

 一体何を言っているのか。いや、それ以前にこの変わり様は何だ。
 豹変したジローの表情と声の温度に呑まれ、思わず声を詰まらせた千草の首に手が掛けられた。

「ぐっ――!?」
「はい、一名様ご案内ー」
「は!? んなああぁ〜〜〜〜!?」

 パッ、とさっきまでの『何もない表情』を剥ぎ取り、茫洋とした緩い面構えに戻ったジローが、のほほんとした声と共に千草を放り投げる。
 片手で首を掴まれていた彼女の体が、綺麗な放物線を描いてネギ達の待つ階段の踊り場へと飛んだ。
 まるで、餌が放り込まれる時を今か今かと待つ餓狼。武器を構えていた各々が、目の前に落ちてきた千草にギラリ、と瞳を輝かせた。

「『風花・武装解除』!!」
「なあ〜〜〜〜ッ!?」
「このかに何てことすんのよ、この猿女ーーーーッ!」
「あた〜〜〜〜ッ!?」
「秘剣――――百花繚乱!!」
「ぽぺーーーーッ!?」

 その様はまさしくタコ殴り。
 ネギの風の魔法で身包みを剥がれ、アスナに守りの呪符を無視してハリセンで頭をはたかれ、刹那にはトドメとばかりに、峰に返された夕凪で盛大に叩き飛ばされる千草を半眼で見届け、ジローは小脇に抱えた木乃香に視線を落とした。
 器用に少女を抱えたまま、身体に異常がないか調べる。
 少し浅いものの呼吸は規則正しく、瞳孔の動きも正常。あやしげな薬品や魔法関係の道具を使われたのではなく、単純に気絶させられたかしたらしい。
 一先ずの心配事が消えて、自然ため息が漏れた。

「人質を有効に使えない時点で、御大層な計画、企みってのは頓挫するのがお約束だけど……」

 先ほど、自分に噛み付かんばかりに睨んできた千草の様子を思い出し、大きく息をつく。アノ様子では、襲撃が今夜限りというわけにはいくまい。
 いっそ『後腐れなく』すれば、という考えが頭を過ぎるが、それはジロー自身が乗り気ではなかった。そも、関西呪術協会の管理下にある土地で、その様な汚れ仕事をすると後が面倒である。
 考えている内容の割りに、どこまでも掴み所のない眼差し。一通り吠えて曲者を追い払った後、億劫そうに小屋へ戻って、仕方無しに薄目を開けて伏せている老犬のようであった。

「なぁにが、『好き好んで、こちらに喧嘩を売ってくる者は多くないはずじゃ』だよ、あの瓜実瓢箪頭」

 意外に打たれ強かったらしく、新たに喚び出した猿鬼に掴まって逃走する千草の、「覚えていなはれーーーーッ!」という捨て台詞にため息をつき、麻帆良にいる近右衛門へ悪態を漏らす。
 ちゃっかり月詠が回収されていることに気付いて、ジローは目を据わらせて口をへの字に結んだ。
 ため息をつくと幸せが逃げるとの言葉があるが、はたして今日一日でどれだけの福を逃がしたのかと聞かれれば、「そう考えるだけで憂鬱になれる程度だ」と答えよう。ジローはそう決心した。

「……宿に戻るの遅くなりそうです、って連絡入れておこうかな」

 色々と諦めがついたのか、ジローは愁眉を開いて――今度は逆に、眉先が下がって泣きそうな形になっている――宿でこっそり、自分達の帰りを待ってくれている瀬流彦の顔を思い浮かべる。
 今も眠りこけている木乃香の無事を確かめるため、浴衣の裾を翻して駆け寄ってくるネギ達を眺め、使い魔の青年はか細い声で呟いた。

「さて、これからが本番さね……」

 やるべき事は多かった。
 先の戦闘で損壊した階段の踊り場や段差に、熊の顔の形にへこんだ壁と、窓が割れて車内が水浸しになっている電車の修復などなど。
 胸中で指折り数えて、糸目になったジローが空を見上げた。針穴だらけの天幕を隠す雲はなく、チカチカと漏れ出した光が、銀の粒のように幾つも瞬いているのが見えた。

「ま、仕方ないか」

 場所が麻帆良から京都に変わっただけで、やること自体は変わらないのだ。茫洋とした表情で夜空を佇見しながら、そう自分を納得させておく。
 どうやら明日も晴れらしい。ジローはそう呟いた後、肺一杯に夜気を吸い込んで深々とため息をつき、すぐに己の失敗に気付いた。

「――――あ、また幸せが逃げた……回収回収」

 受け渡された木乃香を囲んで、ぎゃいぎゃい騒いでいるネギ達の輪から少し離れた場所に佇みながら、ジローは夜気に溶け込んだ幸せを吸い戻すため、大きく息を吸ってみるのであった――――







後書き?) 改正という単語に喧嘩を売っているのでは、と不安な修学旅行編。ただ、楽しんで書いている自分は否めません。
 今後も戦闘のある回はえらく変化するのでは、と。とりあえず、次回の舞台は奈良ということで、新たに『あのネタ』を練り込もうという意気込みだけはあったりなかったり。
 感想や指摘、アドバイスなどお待ちしております。



「青春謳歌?」



 拝啓、あの世のじいちゃん、ばあちゃん、それとヌイ。
 四月も半ばを過ぎ、厚手の服を着ると汗ばむ程度に日差しが強くなった今日この頃、いかにお過ごしでしょうか。
 昨夜の、年も考えずに猿の着ぐるみを纏って誘拐かました女を撃退した後、戦闘で壊れた建物等の修復作業で寝る間もなかったジローです。
 育ち盛りの小中学生を寝させるためなので、仕方がないと諦めています。
事情だけは知っている、『一般人』な瀬流彦先生が手伝いを申し出てくれたけど、下手に『西』の方々に見つかると面倒なので、丁重にお断りしておきました。
 でも、あの人の親切な心には深く感謝しています。あの気遣いのお陰で、俺はまだまだ戦える…………はずです。
 それはさて置き、現在修学旅行二日目。俺も生徒達と同じように奈良公園に来ているのですが――

「なに、この状況?」
『――』
『――――』
『――――――』
『――――――――』

 昨日の今日で襲撃かけるほど敵さんも頭悪くないだろうで、宮崎さんに「自由行動、一緒に回りませんかー」と誘われたネギや、刹那と一緒にいるアスナを好きにさせておいて、俺は公園のベンチで一休みしていたのですが。
 どういう訳か、うつらうつらしていた状態から覚醒すると、周囲が鹿に埋め尽くされておりました。
 奇妙なほど辺りの空気が鎮まっていて、神秘的なものを感じる。どうしたものかと、唾を飲み込んだ喉が動く。

「あー…………し、鹿せんべいもプリッツ(プレーン)も持ってないぞ」
『――――』

 まるで、お釈迦さんが生まれた時のように、ベンチに座る俺を取り囲んでいた鹿達へ断ってみると、彼ら(?)の代表らしい一際体格の立派な一頭が、静々と前に進み出て来た。
 何を思ったのか鼻を近付け、スンスンと匂いを確かめるように鼻を鳴らす。その後、自分の見立ては間違っていないと言いたげに、大きく頷いてらっしゃる。
 周りの鹿達は、リーダーのその行為に沸き立ち、皆一様に首を反らして空に向かって鳴き声――何かを称え、祝福する鹿鳴を奏でなさる。
 一体何を祝福しているのか、懇切丁寧に説明してほしい。

「…………」
『…………』

 まあ、相手の意図が分からぬ以上、黙って事態の推移を見守るしかなかった。
 潤んで見える、黒真珠のように美しい瞳に視線を返し、ただただ沈黙を保つ。
 何故か知らないが、その群れのリーダーらしき鹿は、俺に対して「出番だよ、先生」とダンディな声で語りかけているようで――

「待て待て待てぇ、それはないだろ。今でも厄介ごとに頭悩ませてんだ、お前これ以上、俺に面倒ごと背負わせる気か?」

 鹿が喋るだなんて、ただの疲れからくる幻聴だと強引に自分を納得させてから、目の前の彼へ拒絶の意思を表しておいた。
 幻聴だと言っているのに、律義に鹿と話しているのは……あれだ、鹿は神様の遣いって話があるので、一応の敬意を払ってのことだ。それ以外の理由はない、断じてない。
 妙に神々しい鹿だ、なんて一片足りとも考えていない。つーか、喋る動物はオコジョや猫だけで、もうたくさんでございますよ。

『――!』

 俺が断ったことに、七色ぐらいの声を出せそうな鹿は「日本の一大事だぞ!」と憤慨している様子だったが、日本の一大事より一時の休息のが大事だ。
 シッシッ、と手を振って別の人に当たることを勧めておく。

「俺には君が何を言っているのかわからない……わかりたくない、わかるまで粘るって顔をしないでください、お願いします。ほら、もっと適任の人がいるはずだから、その人に頼んでくれ」

 きっとすぐに見つかるはずだから、適任が。例えばそう、遅刻したのはマイ鹿の駐車スペースがなかったとか言う女の子とか、やる事なす事、全てが不運に見舞われる男性教師。

『…………』
「あー……頑張れ、陰ながら応援してる。大丈夫、きっと上手くいくさ」

 空々しい励ましを口にする俺にため息をつき、「先生も頑張りな。お前さんが望む望まないに関係なく、その時は近付いているんだ」と、聞くだけで力が湧くけど、やる気は急勾配に消耗する激励を残した――ように思える鹿は、そのまま背を向けて去っていった。
 彼を追って、群れの鹿達が遠ざかって行くのを見送ってから、欠伸を一つ漏らす。

「相当に疲れてるんだな、俺」

 眉間を揉みほぐして、ベンチに座ったまま大きく伸びをして呟いた。派手な音を立てて背骨が鳴り、眠気と相まって涙を滲ませる。

「眠い…………お前はみんなと行かないのか?」
『キューン』

 抜けるような青空を眺めて心を、鹿が喋る幻覚を見た自分の精神を癒してから、いまだにベンチの前に佇んでいた小鹿に声を掛けた。
 可愛らしい鳴き声を漏らし、首を伸ばして鼻面を押しつけてくる。
 親愛の証か何かだろう。見様によっては熱烈なキスの雨を降らす小鹿の首筋を撫でながら、俺はしみじみと、

「ハハハ…………生臭ぇ」

 そうぼやいた。せっかくの自由行動の時に、一人ベンチに座り、鹿の声を幻聴し、小鹿に顔を舐られ…………俺、そろそろ泣いていいんじゃなかろうか?

「……し、鹿に口付けされて泣きかけるほど嬉しいんですか、ジロー先生?」
「んなわけないだろ。ただ、日頃の疲れが解消されないことを嘆きたいだけだ」

 唐突に背後へ現れ、非常に失礼極まりないことをのたまった刹那へ、抗議の意を込めた半眼を送りつける。
 何故にこの少女は、不審者を見る目をしてこんな場所にいやがるのか、と少しばかり考える。
 不審人物に取られても仕方がない幻聴を聞いていた俺を警戒するのは、まあ人として仕方がないのだが、それでも刹那がここにいる意味がわからない。
 組織に裏切り者のレッテルを貼られても守る、守りたいと言った少女の側に『いたくない』のだろうか。
 勝手に内面を分析して、聞かれれば盛大に怒られそうなことを述べるが、悪口だって何だって聞かれなければ問題はないのだ。
 目立たぬよう小さくため息をついて、眠気を覚ますために首を解しながら呟いた。

(その辺、俺が口出すことじゃないな。余所様の俺が言ってどうこうなるなら、元から今の状況にはならんだろうし)

 若干不満に思いつつも、普段通りの緩い眼差しを心掛ける。
 本人の問題は本人で解決しましょう、と暗唱してから、現在進行形で顔を舐め回していた小鹿を、妙に険しい顔で見つめる刹那を窘めておいた。

「あー、これこれ、刹那さんや。その今にも鯉口を切りそうな目で、小鹿を見るのは止めなさい。ここの鹿には、犬公方の生類憐れみの令が有効だから」
「は、はい……」

 戦時中は食料難で、随分食べられて全滅しかけたらしいけど、と声に出さず付け足しておく。
 天然記念物だったかに指定されていて、神様の遣いとも言われる動物を食べるのは、ある意味度胸あるよなぁ、と感心する…………ああ、でも竜も似たようなもんか。
 やっぱり人間、命が危うい状況で常識的な倫理道徳観を求められても困るのですよ、と密かに自己弁護しておいた。

「お前もいい加減、人の顔を舐めるのは止めてくれ。鹿が相手でも、やっぱり唇は惜しいんだ……」
『むきゅー……』

 ぽん、と軽く首を叩いて制止され、なんだか鹿っぽくない声を上げた小鹿は、名残惜しげにこちらを振り返りつつ去って行った。
 手持ち無沙汰になるのが嫌だったので、こちらもぷらぷらと手を振って見送ってやる。

「さっきの鹿によろしくなぁ〜」
『きゅきゅ〜〜〜』
「――――あの、さっきのとは?」
「…………大切な約束とお役目を守るために頑張ってそうな鹿だよ」

 首を傾げて聞いてきた刹那に、直感から来るイメージを交えて先の鹿のことを話しておいた。

「まあ、その辺はどうでもいいんだ。深く考えると、話がえらくややこしい方向へ進むから」
「そ、そうですか」
「そうなのです――――で、だ」

 訝しがりながらも、一応の納得はしたらしい刹那を無視して、ジトッと据わらせた目を後方に向ける。
 ベンチの後ろに生えた木の幹から、顔見知りの少女のツインテールの片割れが覗いていた。
 随分と見慣れた感のあるそれを暫し眺めて、できるだけ感情を抑えた低い声で尋ねた。

「…………何故にお前はさっきから、そこに隠れているつもりで佇んでる?」
「え゛? ア、アハハ、いやー、お邪魔虫は少し顔出すの待とうかとー」
「か、神楽坂さんっ……」

 苦笑いで頭に手をやりつつ、あまり太くない幹の後ろから顔を出したアスナに、遠慮なく温度を下げたジト目を送っておく。
 意味がわからない。何だ、お邪魔虫って。ただでさえ眠くてイライラしやすいのだから、そういう意味不明なことをのたまうのは止めて欲しい。

「ハァ……忍ぶのは糸目忍者少女の専売特許で、ついでに登録商標だろうが」
「い、糸目忍者って――まあ、誰かは一発でわかるんだけど」

 困った風に笑うアスナと、アスナと俺を交互に見てモジモジしている刹那に視線を巡らせ、

「とりあえず、この場で一番のお邪魔虫は俺じゃないか? ほれ、せっかく一日自由行動なんだ、二人でそこらを見て回るなり、このかを捜して彷徨うなりしてくるといい」

 軽く手を振って、言外に「うつらうつらしたいので、一人にしてください」と訴える。
 眠る訳にはいかないけど、こうして草食動物風に浅い睡眠を取っておかないと、後々厳しくなるんだよ。

「あんたねー……」
「お、お嬢様には式神を付けているので、安全は大丈夫なので……。そ、それに、その……私が親しくして、魔法のことをバラしてしまう訳にはいかないし、やはり身分が……」

 やけに不満そうな顔で「せっかく連れてきたのに……」と、ぶつくさ言っているアスナや、胸の前で指を合わせてゴニョゴニョと言い訳がましいことを呟いている刹那にため息をつき、ベンチの背もたれに体を預けた。

「あー、まあいいや、どこで何してくれても……」

 当然ながら、「問題行動を起こしていい」という意味の何してくれてもではないが、今時の少女二人に奈良公園を満喫してこいというのも酷だろう。
 もう、君達の自由意志に任せますと言う様に目を瞑って呻き声を上げる。

「あの、ジ、ジロー先生、辺りのささ、散策や見学は――」

 何故かアスナにせっつかれ、しどろもどろになりながら聞いてくる刹那。
 自分達二人だけではこのかの側に寄りにくいので、この際、俺も一緒に連れていこうという心算だろうか。
 自分でも覇気がないと断言できる目付きで、妙に浮ついた空気を醸し出している少女と、その横でわざとらしく口笛を吹いて知らん顔するアスナを視界に収めて、重々しく告白してやることにした。

「俺、中学の修学旅行で奈良に来てるんだよ……」
「――――は?」
「そ、そうなんですか……」

 ついでに知り合いに引きずり回され、奈良の良さを隅から隅まで語り尽され、見させられたとも告げておく。
 まあ、精神的に疲労させられたり、肉体ダメージが大きかったりで内容を半分も覚えていないのは、若かりし頃のいい思い出だと考えておいた。
 さすがにこの告白は堪えたらしく、じっと同じ場所に立ち尽くすことになってしまったアスナ達に内心呆れる。

「ど、どうする、刹那さん? ジローは動く気ないみたいだし、やっぱりこのかのトコにさ……」
「し、しかし、私のような者がお側にいては……」
「もー、またそんなこと言って……じゃあ、ここで適当に話をしてればいいんじゃない? 私はほら、どっか別の場所に行くし」
「そ、それはそれで、何を話せばいいのかわからないから困るんです……」
「何を話せばって……えーっと、ほら、ここの大仏は素晴らしいとか……お寺の柱が美しいとか――――ゴメン、あいつが喜ぶ話題が思いつかない」
「そんな……」

 気まずそうに声を低めて相談する二人の片割れ、左サイドポニーの少女の横顔を力の入らない目で眺めて呟いた。

「……何か難しそうだねぇ、女子中学生ってのは」

 それこそ命懸けで守りたい少女の側にいたいと思っているのに、自分から避けている節があるのはどうしてか。
 考えても仕方がないと知りながら、思考能力の半減した頭を働かせてみる。
 まあ、何が原因でそうなっているか自体知らないので、解決法が出るはずもなく。すぐに思考するのを諦めて、もう一度ベンチの背もたれに全身を受け止めてもらった。

「気が向いて、刹那から相談を持ちかけてくれるのが一番さねぇ」

 少なくとも、自分から話を聞こう、聞かせてくれと言うつもりだけはなかった。面倒くさいというのもあるが、それ以上にそんな事をしても意味がないと感じてしまうので。
 肩や手を貸すのはまだしも、全部背負ってやる――みたいなことを言うのは真っ平御免だ。

「正義の魔法使いじゃあるまいし……」

 こういう呟きを自然に溢してしまう程度に、今の俺は疲れているらしい。
 何が楽しくて、人の問題や悩み事の連帯保証人になるというのだ。声には出さず、胸中で投げ遣りに言い捨てようとした時だった。
 ベンチの後ろで、ガサリと木の枝が揺れる音が響いた。それに気付いたアスナや刹那に倣い、後方へ訝しげな顔を向けてみる。

「あぅ……ジロー先生にアスナさん、それに、桜咲……さん?」
「あー…………宮崎さん?」

 アスナの隠れていた木に倒れ掛かるように手を突き、荒い息と共に涙を流している宮崎さんの姿に、自然眉根が寄ってしまった。

「……どうしました、宮崎さん?」
「どうしたのよ本屋ちゃん? 何かあったの!?」

 同じく訝しさと心配の混ざった顔をする刹那や、泣いているのに気付いて慌てて近寄るアスナに構わず、宮崎さんはその場にしゃがみ込んで泣き出してしまう。

「ちょ、ちょっと、本屋ちゃんっ?」
「ヒック、エウゥ……!」

 顔を覆った手の隙間から宮崎さんの嗚咽が漏れる。あたふたしながら、アスナがあーだこーだと声を掛けているが、あまり効果はないと見える。
 ふと思ったのだが、クラスメイトの中でも親しい方なはずの相手を『本屋』と呼ぶのは、はたして友好の表れなのだろうか?
 女子中学生のノリはわからん、と頭を掻きつつベンチから腰を上げて、しゃがんだまま泣き続ける宮崎さんへ近付く。

「あー、何が原因で泣いてるのかはわからないんだけど……うん、できれば少し落ち着いて、場所を変えて話を聞かせてくれるとありがたいんだけど」
「ヒグ、えうぅ……」

 相手と目線の高さを合わせるために自分もしゃがみ、泣いている少女へお願いした。
 俺の言葉に含まれる哀願の色に気付いたのか、ゆっくり俯かせていた顔を上げた宮崎さんが、何かを確かめる様に周囲を見渡して、

「――――グス……す、すみませんー、ジロー先生……。な、なんだか周りの人達がみんなー……」
「そうだねー、事情を知らない皆様が凄い目で俺を非難してるね。うん、詳しい話も聞きたいし、どこか休める場所へ行こうか。……できる限り人目を避けられる茶屋とか」
「あうー……」

 ここで繰り広げられている光景を運悪く目撃したらしい散歩人達が、ゴミのポイ捨てや禁煙地区で喫煙する人を見る目で、集中的に俺の事を睨みつけていた。
 その視線には、「この人間の屑」とか「女の子を泣かせてる……最低!」とでも言いたげな棘がたくさん含まれていた。

「あー、物言わぬ非難の視線が深々と刺さってきますよー?」

 少し落ち着いたものの、依然涙を浮かべている宮崎さんやアスナ、刹那を引き連れて移動を開始した途端、雨霰と射られていた視線の矢の威力が上昇してるし。
 一体俺が何をしたというのだろう。心なしか、こちらへ射掛けられる視線に「この女の敵」みたいな不名誉なものが混ざっているような……。

「……不幸だー、じゃなくて、誤解だーって叫びたい」
「止めときなさい。きっと信じてもらえないし、あんたが言っても信憑性がないから」
「アスナさんや、何故に君は蔑みの目で見ながら言う。少なくとも俺は、今まで女の子を泣かすような立場になったことはないぞ」
「あうー……」
「………………」
「いやいや、何でみんなして微妙な顔になるかな? 特に刹那とか酷いぞ、何も信じられないって目になってる」

 人目の少ない茶屋を探して彷徨いながら、妙に冷たかったり、困惑してる視線を向けてくる少女達へ物申す。

「気のせいです、恐らく」
「あのさ、何で自分のことで『恐らく』が付くのか、きっちり説明して欲しいんですけど?」
「わ、私に聞かれても困りますっ!」
「何で困りきった顔で逆ギレするんだよ!?」
「そこら辺は察してあげなさいよ、ジロー……」
「あれ、全ての原因が俺にあるみたいな状況になってないか……?」

 何で俺が責められ始めているのか、誰かに納得いくよう説明してもらいたい。
 説明を求めれば求めるほど混迷を極めてゆく、少女達の理不尽な行動論理に抗いながら、俺は一分一秒でも早く休める場所を発見するために足を動かすのであった。
 ハァ……こんなことになるぐらいなら、さっきの鹿の言葉に従ってた方が良かったのだろうか。
 何時もの如く吐き出してしまったため息は、やはり何時もの如く妙に重たく感じた――――






 そして、公園の端にぽつんと建っていた茶屋を発見し、駆け込むように店内に入ってお茶と団子などを注文した後、俺達は何故に宮崎さんが泣いたのかについて聞き出した。

「え……えーーーーっ! マジでっ!? ネッ、ネギに告ったのーーーーッ!?」
「は、はいー……いえ、しようとしたんですけど、私トロいので失敗してしまって……」

 茶屋の軒下にアスナの驚いた声が響いた。
 告った、って……あまり単語を省略するなと思うが、俺もよくやるので人のことは言えないと押し黙っておく。

「で、でも、ネギ先生はどう見ても子供ですが……どうして?」
「桜咲さん……そ、それはー……」

 壁に背中を預けて立っていた刹那が、僅かに身を乗り出すように宮崎さんに尋ねた。一応、冷静さを保たせているけど、表情や視線には隠し切れない興味関心が見え隠れしている。
 度を超えた戦闘能力を有して、常日頃から野太刀をぶん回していても、やはり根は年頃の女の子。野次馬根性を申し訳ないと思いつつも、他人の恋愛事情に興味が尽きぬのだろう。

(こういうとこを見て、妙な安心感や安堵を覚えるのは何故だろうねぇ……)

 軒下の赤い布――何だったか……そう、毛氈(もうせん)だ――をかけた腰掛けに置いていた湯飲みを口に運びながら考えた。
 京都に着いてから必要以上に張り詰めてるとこがあるし、やっぱり歳相応の楽しみなどで息を抜いて欲しいのかね?
 ほとんど歳の変わらない少女に対して、そういうことを考えるのはおかしくないか、と静かに湯飲みを置いてから首を傾げた。
 どうもネギに喚ばれてから、思考その他が枯れてきているような……いや、最初からこうだった気もするけど。
 はたして、最後に色恋沙汰で悩んだのはいつだったか。少し振り返り見ようとして、すぐに「ああ、俺にそんな浮いた話はなかった」と諦める。
 一筋の涙を胸中で流した俺を余所に、宮崎さんの恋愛話――十代の若者っぽく略すと恋話だったか――が進んでいた。

「普段はみんなが言うように、子供っぽくてカワイイんですけど……時々、私達より年上なんじゃないかなーって思うくらい、頼りがいのある大人びた顔をするんです――――」
「えーっと……そ、そう?」
「確かに……最初は足手まといかと思ったけど……」

 三者三様なネギへの評価が述べられ、俺はただ、なるほどと軽く頷いておく。
 どれも正しく、けれど絶対に正しいとは言えないであろう評価だったから。

「それは多分、ネギ先生が私達にはない目標を持ってて……それを目指して、いつも前を見てるからだと思います」

 宮崎さんの評価は、その後の「本当は遠くから眺めてるだけで満足なんです」という言葉の通り、あくまで離れた場所からネギを見ている人のもの。
 ようするに、良いところしか見えていない状態だ。
 次いで、彼女の言葉に多少、思い当たる節はあっても首を傾げたアスナの評価。あれは、宮崎さんよりも一歩近い場所でネギを見て、共に行動しているが故に、ネギが他人に見せていない――つもりの粗を、より多く知っているから。
 そして、刹那の評価。あれは昨夜の襲撃で、攫われたこのかを助け出すために全力を尽くしたネギを見たからこそのもの。
 戦闘などの先達として、まだ不満不安は残るけどー、ってトコか。

(立場、立ち位置、距離その他……それ次第で色々変化があって面白いやね)

 目を瞑って音を立てずに茶を啜り、片目だけ開いて三人の様子を窺いながら口元を緩める。それから、俺だとネギにどんな評価を出すのかと考えてみた。
 宮崎さんの意見を否定する訳ではないが、まず子供っぽくない。
 自分が魔法使いであることに固執していて、常に人より立派に振舞おうと背伸びしている部分は、まあ子供っぽいのかもしれないが……少なくとも、そこをカワイイとは思わない。

(まあ、強がり言いながらでも甘えてくる時は可愛いかもしれないけど……)

 それをするまで、やったらグダグダするのはあれだが。最近、というか先生になってから、妙に意固地になりやすくなったしなぁ、と苦々しく思って次の評価に進む。
 アスナの評価は……あれは半分同感だけど、全ての失敗の原因がネギだけにあるわけじゃないし、ある程度までは仕方がないと考えてやれよ、と。
 まあ、自分が大きくしてしまった騒ぎなんだから、自分一人で解決してくれと思わなくもないが。その辺り、今度それとなく言ってみるとしよう。
 きっと無駄なんだろうけど、と投げ遣りに呟いてから、刹那の評価に対する自分の意見を述べる。

(あれだな……足手まといじゃないけど、足枷になる時はある? 行動の基準が『立派な魔法使い』なせいで、どうも正面から相手に向かいたがるし)

 それは横にいる刹那や他の魔法先生、魔法生徒も同じなんだけど……まあ、人それぞれやり方があるわけでして。
 正面からぶつかると、無駄に疲れることのが多いし、少しでも楽して安全確実に終わらせた方がいいとは思うけど……それを相手に押し付けるのは御免だなぁ。

(俺も極力口出さないから、そっちもあまり文句を言わないでくださいってことで一つ)

 中身のお茶を飲み切り、ホゥッと満足げに息を吐いて湯飲みを置いた。
 結局のところ、ネギの評価を聞かれたら「よくわからん、場合に因りけり」と答えるんだろうな、俺は。
 とりあえずは今まで通り、ほどよく親しく、ほどよく距離を置きつつやっていこう。声に出さず心に決めてから、俺は「はて?」と首を捻ってしまった。

「何故に俺は宮崎さんの恋愛話から、こうも重たい行動指針の決定に至ったんだ?」
「どうしたんですかー?」
「こ、行動指針がどうかしたんですか、ジロー先生?」

 訝しげに呟いた俺に、宮崎さんと刹那が心配そうな顔をしてくれる。それに対してアスナの奴は、

「どうせあんたのことだから、本屋ちゃんがネギのこと好きだったのに驚いたー、とかでしょう」

 と、馬鹿にしてるのか哀れんでいるのかな目で見ていたが。

「失敬な。俺としては、ついに決心したのかって感心してたぐらいだぞ」
「えっ!? ジロー、本屋ちゃんが本気だって知ってたの!? 『色恋沙汰? それって美味しいのか?』って聞きそうな感じなのに!!」
「お前……そんな風に俺を見てたのか」
「だ、だってさ……」
「あうー……」
「………………」

 本気で驚いているらしいアスナの態度に、温度を下げたジト目を送りつけて抗議しようとしたのだが、三倍返しの微妙な視線には口を噤まざるを得ない。
 非常に申し訳なさそうな宮崎さんはともかく、アスナの視線はクマムシが宇宙空間からでも生還可能と知った学者みたいだし、刹那なんて絶滅したはずの恐竜を見た人の目をしているし。

「まあ、いいんだけど……実際、浮いた話なんて一つもないし。それで――」
「うわ、断言した。聞いた? 刹那さん」
「き、聞きましたけど、それを私に言われても……」
「何でお前はそう、人の言うこと一つ一つに驚いて見せる?」

 いい加減、話を進めようとした俺の言葉に目を見開き、横で複雑な顔をしている刹那へわざとらしく話を振るアスナに愚痴が漏れた。
 一応のフォローをしようとはしたが、結局何を言えばいいのか思いつかずに押し黙った刹那にも非難の視線をぶつけて、宮崎さんの相手だけすることに専念する。

「さっき、ネギのことを遠くから眺めてるだけで満足だって言ってたけど……本当はどう思ってる?」
「そ、それはー……」

 ただ相手を想い続けるだけで満足できるのか、耐えることができるのかと問われ、言葉に詰まって俯いてしまう宮崎さん。
 本当は俺に言われなくてもわかっているのだろう。軽くだが唇を踏み締めている様子には、並々ならぬ覚悟や決意に似たものが見て取れた。
 ネギへの評価から察するに、彼女の感情の中で最も大きいのは、自分にないものを持つ存在への『憧れ』なのだろうが、この際それは問題ないとしておこう。
 切っ掛けなんて何だっていいのだから。それこそ、それが負の感情から来たものでも、だ。
 ただ、正の感情から来たものの方が、展開が早くて助かるって程度。

(昨日の疲れが残ってるのかねぇ? どうにも考えが暗い方に流れてくよ、オイ)

 親身になって、ネギに想いを告げようとしている少女の手助けをしたいと考えているのに、腹の中はこんな風な自分に半ば呆れながら口を開く。

「あー、立場的に俺が背中押すのは駄目なんだろうけど……まあ、今更ってことで言わせてもらうと――好きです、大切ですって気持ちを出し惜しみしてると、後で色々後悔するかもしれないし、言っておいて損はないぐらいで突撃してみるのもいいんじゃないかなぁ、と」
「そ、損はない……」
「ちょっとジロー、本屋ちゃんのこと茶化してんの?」

 言い方が悪かったのか、絶句してしまった宮崎さんや非難の眼差しのアスナに苦笑して、先の言葉に付け足しを行った。

「いや、特にそんなつもりはないけど。俺が言いたかったのあれだ、『想いに応えてください』なんて我侭を相手に押し付けるのは駄目だけど、『この想いを知っておいてください』ぐらいの我侭は許されるってことさね」

 ようするに、相手が応えようと応えまいと関係ないでしょう、と言っているのだ。
 応えてもらえるに越したことはないけど、本当に相手のことが好きなら、向こうが自分を嫌っていようと憎んでいようと関係ない、とは知り合いの言。
 とんだ極論。だが同時に、間違っていないとも思う。何故ならこれは、必要以上に期待して裏切られてショックを受けるぐらいなら、最初から期待せずに――なんて後ろ向きなものではなく、相手が自分に対して優しかろうと冷たかろうと、『好き』という気持ちを決して曲げぬ、偽らぬという誓いみたいなものだから。

「さて、ここで質問だけど……宮崎さんは、どっちのつもりでネギに告白したかったのかな?」

 そう問い掛けて、ニヤリとわざとらしく笑ってやった。

「それはー……」

 僅かに口篭った後、伏せていた顔を上げてぎこちなくだが、「えへへー」と笑って見せた宮崎さんに、

「まあ、そこから先を聞くのは野暮な気もするし、答えてくれなくていいんだけど。悪いね、試すようなこと言って」

 そう謝罪して、座っていた台から腰を上げる。
 向かう先は、すぐ後ろにある茶屋の中。空になった湯飲みと、それよりも先に綺麗になっていた団子の皿を手に、入り口の暖簾を潜る。

「すみませーん、お茶と団子のお替りをいただけますでしょうかー」

 丁度折り悪く、厨房の中にでも引っ込んでしまっていたらしい店員さんを呼びながら、ふと思い出して苦笑した。
 そういえば、ウチのクラス所属のサッカー部マネージャーをしている少女も少し前、先輩に告白したらしい(もっとも彼女の場合、受け止めてもらえず、暫く塞ぎ込んだと聞くが)。

「思わず見習いたくなるよなぁ、そういう方面での勇気」

 まあ、相手のいない俺がそんなものを持ったところで、宝の持ち腐れにもならないんだけど。

『――アスナさんも話を聞いてくれてありがとうございました。桜咲さんも……怖い人だと思ってましたけど……そんなことないんですねー』
『う、ううん、たいしたことはしてないし……』
『こ、怖い……そ、その頑張ってください、宮崎さん』
『はいー♪』

「あー、『命短し 恋せよ乙女*』……だったか」

 茶屋の外から届いた話し声と、続けて聞こえたパタパタという足音に耳を傾けながら、誰でも一度は聞いたことがありそうな一文を口ずさむ。
 出典の歌の名前は忘れたけど――

「恋する乙女かどうかは置いといて、命長しの方がいいけどね、俺は……」

 そういえば、恋は女の人をいつまでも若く、美しくするって聞いた事があるけど、男にも同様の効果をもたらしてくれるのだろうか。
 もしそうだと言うのなら、俺も恋というものをしてみたいと思うのですが。
 走っていった宮崎さんを追いかけるためか、バタバタと慌ただしく茶屋を離れていくアスナと刹那の足音を聞き送り(?)、溜まった疲れを吐き出すようなため息を一つ。

「遅なってかんにんやす、おぶと団子のお替りですー」
「あー、すみません、ありがとうございます――――まあ、恋をしたらしたで、色々面倒そうだって考えてしまう時点で、俺の春は遠いんだろうなぁ」

 お替りを求める俺の声に気付いて、新しいお茶と団子のセットを持って来てくれた店員さんに礼を言ってから、小さく「どうしたもんかねぇ……」とぼやきつつ、暖簾を潜って外へ出るのだった――――






*『ゴンドラの唄』吉井勇作詞・中山晋平作曲

後書き?) 京都編に関しては、もう改正版ではなく書き直しと付けるようにしよう。
 二十話、新しく練りこんでみた鹿男ネタはさて置き、ジロの枯れ具合が増しすぎてしまったような――――まあ、大丈夫……ですよね、たぶん。
 こういうことやってるから、感想書きにくい作品になるんだ……。
 つ、次は己の尊厳を懸けたバトル(?)になりそうだと残して。
 感想、アドバイスに指摘、お持ちしております。



「運命の夜?」



「ハァ……俺が部屋に引き篭もってた時間程度で、よっく魔法をバラせるよなぁ。しかも、相手が朝倉って……何だ、嫌がらせですか? 意図して、俺の若さを掛け捨てにするつもりですかー?」
「あううぅ〜、ゴメンなさいジローさん……。で、でも、仕方なかったんだよー、人助けとかネコ助けとか……」

 奈良公園での自由行動を終え、「今日も風呂に入るまで一休み」と、心なしか楽しそうに呟いたジローを余所に起きた事件。
 人呼んで『麻帆良パパラッチ』な3Aの少女・朝倉和美に、ネギが魔法使いであることがバレた。
 一瞬浮かんだ『八房に電流走る』――などというフレーズを頭を振って掻き消し、最近自称の使い魔青年は心底嫌な顔でため息をつくのであった。

「カモの奴が上手く交渉したとかで、証拠写真は根こそぎ消去できたし、秘密も厳守するって当人は言ってたけど……」

 相手が相手だけに、まだまだ予断を許さぬ状況だと、腕を組みながらジローは思った。
 カモにしても、真面目な時と悪巧みを思いついた時の落差の激しさを知っているだけに、どこまで信用すればよいものか。
 今更ながら、疲れを押してでもネギと一緒に行動しておくべきだったか、と臍をかむ。

「ネギ〜、ジロ〜、周囲の見回り行ってきたよ」
「ただいま戻りました。特に異常ありませんでしたが、念のため結界を強化してきました」
「お、お帰りなさい! アスナさん、刹那さん!」
「あー、お疲れ二人とも」

 折り良く部屋に入ってきたアスナと刹那の姿に、焦ったような笑顔で話しかけるネギに苦笑するジロー。
 少女達二人がいれば、ジローのお説教も少しは軽減されるのではと、内心で期待しているのだろう。
 少年の読みは正しかったのか、ジローと同じく苦笑したアスナが、ネギに同情的な言葉をかける。

「なに? まだ叱られてたんだ、ネギ」
「うう、そうなんです……」
「あ、あの、ジロー先生、さすがにもうそろそろ終わりにしてあげても」
「そうそう。私達が見回りに行く前からだから……もう三十分は超えてるわね」

 ジローの胸中の嘆きなどは理解しているものの、過ぎてしまったことは仕方がないと庇い立てする刹那と、それに便乗したアスナにジト目を向けて彼はため息をついた。

「まあ、言ったところで、俺が疲れるだけなんだけど……ここらで一つガツンとやっておかないと、近い内、クラスの連中全員にバレてそうな気がしてな」
「そ、それはさすがにネギ先生でもない……と思うのですが」
「あううぅ〜」

 精神的に疲れて肩を落とすジローに、刹那が恐る恐るとネギへのフォローを行うが、その言葉の端々に仄かな不安が見え隠れしているので、あまり効果はないように思われる。

「ハァ…………いい加減、口の中が酸っぱいし、もう終わりにしとくか。夜の見回りとかは俺がやっておくから、アスナ達は風呂に入って寝るがいい」
「あんた、口調がすっごい投げ遣りになってるわよ……」

 ポリポリと首元を掻きながら言ったジローに呆れ顔のアスナだが、昨日は遅くまで誘拐犯と戦い、今日は今日で、のどかのネギへの告白を逆出歯亀したり、ついさっきまで行っていた見回り作業で疲れているのは確かであった。
 グッと伸びをしてから、少しだけ申し訳なさそうに手を顔の前に置いて、ジローへ言った。

「うーん、それじゃ悪いけど私は休ませてもらおうかな。刹那さん、一緒にお風呂行こう♪」
「え、あ……ハ、ハイ」

 異性の前で風呂へ行こうと誘われたのが恥ずかしいのか、微かに頬を赤らめて応じる刹那に、父性にさえ近い劣情の入る余地のない微苦笑を浮かべて、ジローは夜通しの警邏のために部屋を出ようとする。

「あ、あの、ジローさん! 僕も一緒にパトロールに行きたいんだけど……ダ、ダメかな?」
「あー、お前も昨日は遅かったし、寝た方がいいんじゃないかと思うんだけど――」
「そんなー……」

 魔法バレによる名誉を挽回したい、という考え以外のものがあるらしく、渋い顔でジローに答えられてシュンと肩を落とすネギ。
 何か言い難そうにもじもじと体を揺すっているのを見て、ジローの顔に「ああ……」という納得の色が浮かんだ。

「ハァ……しゃあない、零時前には部屋に戻らせるからな」
「ウ、ウン!」

 一緒に見回りに行けるのが嬉しいと、全身で表現しているネギから視線を外し、少しだけむず痒そうに片目を閉じてジローは頭を掻いた。
 折角の申し出を断って、目の前の少年の構ってもらえて幸せです、と主張する子犬みたいな態度を無碍にするのは、些か心苦しかったのだ。

「アハハ……あ、でもさ、こんな時間に二人ともいなくなったら、他の先生に騒がれない?」

 ネギとジローの兄弟みたいなやり取りを笑っていたアスナが、見回りの最中に無人になった二人の部屋を訪れるかもしれない可能性に気付き、それを示唆した。

「俺一人なら問題ないんだけど、そうだな……」

 確かにその通りだが、約束した手前、それはできない相談だと、顎に手を当てて対策を講じようとするジローに、苦笑を浮かべた刹那が手を上げて言った。

「それでしたらジロー先生、この『身代わりの紙型』を使ってください」
「『身代わりの紙型』? 何なんですか、それ」

 ジローに代わって首を傾げたネギが、刹那がポケットより取り出した、折り紙のやっこ凧の形をした紙切れに興味を示す。
 手に持った『身代わりの紙型』を一枚手に取り、特に発育の見られない胸を僅かばかり張って、刹那は説明を始めた。

「これは陰陽道の道具で、これに名前を書くと本人そっくりの身代わりが出来るんです」
「へー、日本の陰陽道ってすごいんですねー」
「えらく大雑把に済ませたな、オイ」

 テレビの通販番組のMCか、と簡潔に過ぎる刹那の話に低く突っ込みを入れるジロー。
 しかし、紙型――この場合、人形と呼ぶべきであろう――は、古来より『人の形をしている人形などには命が宿りやすい』という、呪術的な特性を利用した呪符に気や魔力を云々、と微細に渡って話されるよりはマシと考えたのか、すぐに表情を緩いものに変えて、刹那から『身代わりの紙型』を受け取って礼を述べた。

「ありがとうな。助かるよ、刹那」
「い、いえ、そんなたいしたことじゃないですし、仲間で助け合うのは当然のことで――」
「まあ、それでもだよ」
「ぁぅ……」

 礼を言われ慣れていないのだろう。やけに慌てた様子で言葉を取り繕う刹那に困った風な笑みを漏らし、ジローは、何故か部屋に備え付けてあった筆や硯を取り出してテーブルに向かう。

「ほら、ネギ。畳の上に溢すなよ」

 手際よく磨った墨をたっぷり含ませ、その後で軽く数回、硯の端を使って墨の量を減らした筆をネギに渡す。

「うん――うわ、筆って使いにくいね……」
「イギリスとかじゃ、筆を使う機会なんてそうないだろうしな」
「じゃあ、私達は部屋に戻るね」
「そ、それでは先に失礼します」
「あいよ、お疲れ様ー」
「あっ、ご苦労様でした、アスナさん、刹那さん!」

 風呂へ入る前に、着替えなどを取りに部屋へ戻るアスナ達を声だけで見送り、ジローとネギの二人は、『身代わりの紙型』への記入作業に集中した。

「え〜〜〜っと――」
「書けたかー……って、『ぬぎ』に『みぎ』……だよな? それと『ホギ』――微妙に間違ったもんばかりだな。紙型、もう少しもらってこようか?」
「ちゃ、ちゃんとこれは書けたよー……」
「あー……うん、ちゃんとネギ・スプリングフィールドになってるな」

 口を尖らせて、上手に書けた最後の一枚を見せてくるネギの頭を、意地の悪い笑みを浮かべてジローは軽く撫で叩く。

「そういや刹那に聞き忘れたな……この紙型、名前はカタカナでもよかったのか?」
「大丈夫だよ、きっと。あ、ジローさんも書けた――」
「どした? 何じゃコリャーって顔して」
「う、うん……あのさ、ジローさん」

 紙型をひらつかせながら眉根を寄せるジローに近寄り、そこに書かれた文字を見たネギの顔が、難解な問題にぶつかった学生の顔になっていた。
 聞いちゃダメなんだろうけど、聞かなきゃダメな気がする。訝しげにしているジローに、ネギは己の欲求に素直に従って聞いた。

「これ、なんて書いてあるの?」
「何てって……八房ジローだぞ?」
「……全然、そんな風に読めないんだけど。ジローさんも筆、苦手だったんだね」
「えらく失礼なこと言うね、この子は。何故に同情の瞳で俺を見る」

 下手な気遣いを見せるネギの視線の先にあったジローの『身代わりの紙型』には、市中引き回しの苦悶に身を捩る蚯蚓を思わせる字が書き綴られていた。

「だって、コレって僕の書いた字より――」
「草書だ、阿呆」
「あうッ!?」

 何故か勝ち誇った顔で、自分の紙型に書いた名前を見せてきたネギに対し、ジローは「この……文化音痴め」と言うような白い目を送って、部屋の中に爽快なデコピンの音を響かせた――――






 それは、ジローとネギの二人が『身代わりの人型』に名前を書き込む少し前。

「名付けて『くちびる争奪!! 修学旅行でネギ先生とラブラブキッス&ジロー先生に青春融資大作戦』♪」
「ええーーーーっ、ネギ君とキス!?」
「いや、その前に青春の融資って!?」

 麻帆良のパパラッチこと、朝倉和美嬢の言葉に沸き立つ3Aの少女達の声が、ホテル嵐山の二階ロビーに響いた。
 騒がしいと見回りの先生に気付かれると、慌てて口の前に指を立てた和美が、極力抑えた声でゲームの内容とルールを説明する。

 一つ・各班より二名を参加者として選出

 二つ・見回りの先生方の監視を掻い潜り、旅館内にいるネギ、またはジローの唇をゲットせよ!

 三つ・妨害可能! ただし、武器は枕でね♪(流血禁止!!)

 途中、見回りの先生に発見されるなどして退場した相手は見捨ててゲーム続行な、情け無用のバーリトゥード。
 「ママのオッパイが恋しいチキンはいらない」、という和美の重々しい言葉に、その場にいた3Aの少女達の喉がゴクリと鳴った。
 無理もない。ゲームの上位入賞者には豪華景品とのことだが、リスクもそれに比例して大きいのだから。

「ど、どうする……?」
「ネギ君はともかく、実は引率の中で一番怖かったりしそうなジロー先生がターゲットっていうのはー……」
「豪華賞品っていうのは心惹かれるけど……う〜ん、悩む!」

 ネギの唇を奪う点について乗り気ではあるが、もう片方の標的であるジローの存在に尻込みしているらしい少女達を見て、和美は最後の一押しになる言葉を口にした。

「ちなみに、ジロー先生の唇をゲットした人には豪華景品に加えて、なななんと!? 学食の食券半年分と、超高級学食JOJO苑の食べ放題券が――!」
『乗ったぁ!!』

 手の平を返したように、とはこの事か。
 和美が言葉を言い終えるかどうかというところで、まだゲームに参加するかどうか迷っていた少女達が全員、目の色を変えてサムズアップと共に参加の意を表明した。
 チョロイもんだね、と意地の悪い笑みを浮かべながら、内心食券で命を懸けられるクラスの同胞に汗を垂らした和美は、

「よ、よーし、それじゃ各班、十時半までに私に選手二名を報告! ゲーム開始は十一時からだよ!!」
『おーーーーっ♪』

 と、その場にいる一同の気勢を煽いながら、今夜行うルール無用のキス争奪戦の本当の目的――カモの発案による、仮契約カード大量ゲット大作戦の内容を確認した。
 旅館の四方に巨大な魔法陣を描き、館内でキスが行われれば、即カードが生成されるという仕組み。

(カード一枚につき五万オコジョ$の儲けで、全員が上手くキスできれば最低でも五十万……)

 全員がネギとジローの両方とキスした場合、百万オコジョ$の上がりだ。
 オコジョ$の円相場は知らなかったが、それでも相当な利潤を生んでくれることは間違いない。
 思わず漏れる気味の悪い声を抑えながら、和美は参戦メンバーを選出するために、一旦部屋へ戻っていく少女達の背中を見送るのだった――――






「なあ、何で私まで……」
「つべこべいわず手伝ってください! ネギ先生の唇は私が死守します!!」
「いや、勝手にやってくれよ」
「もっとやる気を上げてくださいませんこと!? ホラ、何でしたらジロー先生は差し上げますから!」
「人の煽り方下手すぎだろ、いいんちょ!? ってか、何で私がジロー先生にキスしなきゃなんねーんだよ!!」
「ハッ! ということは、あなたもネギ先生の唇を狙って!?」
「んなわけあるかっ!!」

 三班の代表として率先して名乗りを上げた雪広あやかと、他の班員――那波千鶴、村上夏美、ザジー・レイニーデイが逃走したことで、自動的に参戦を決定させられた長谷川千雨が、枕両手に廊下を進み――――





「んー……新幹線でのお返しをするチャンスでござるな」
「オー、カエルが出た時のことアルな? 私ももう一度、ジローと勝負したかったアルし、踏んだり蹴ったりアル♪」
「クーフェイ、そこは売り言葉に買い言葉だったと思うでござる」
「そうだったアルか? しかし、勝負に勝ったらキスなのはどーするアルかね!? 私、初キスアルよ〜」
「はて、朝倉殿はそんなこと言って……まあ、接吻すれば勝ちだったはずだし、きっと間違ってないでござるな」
「そうアル♪ んにゃ、ジロー見つけたら、どっちが先に戦るアルかー?」
「そうでござるなー、やはりカエルの群れの中に投げられた拙者から――」

 二班の代表として名乗りを上げたのは、修学旅行初日、行きの新幹線の中でジローに投げ飛ばされ、カエル地獄を体験させられた長瀬楓嬢と、一度戦った使い魔青年との再戦に燃えるクーフェイ嬢も、枕両手に廊下を進む。
 ちなみに、彼女達が本当は『渡りに舟』と言いたかったであろうことは、密かに察しておいて欲しい――――





「よーし、絶対勝つよぉーーーーっ!」
「エヘへー♪ ネギ君とキスかー、ンフフ♪」

 四班代表として立ち上がったのは明石祐奈と佐々木まき絵、運動部所属の二人。これもまた、枕両手にダンジョン『嵐山』を進む。
 他の班では、誰が参戦するかで多少の会議が開かれたものの、四班においてそれは行われなかった。
 理由は単純明快――

「アハハ、だってウチなんかじゃ無理そうやもん……それに――」
「遊びでキスはちょっと……あと――」
「私は遠慮しておくよ。いや、逃げる訳じゃない、ただ――」

 一拍溜めて、ナイーブな心を持つ夢物語へ想い馳せる少女は語る。

「……ゴメンで済んだら警察はいらへんでな?」

 水泳部所属の、長い黒髪を持った寡黙な人魚姫は語る。

「『彼』みたいなタイプは絶対に怒らせちゃいけない……と思う」

 異国の肌と瞳を持った魔弾の射手は、その赤い瞳を逸らして呟く。

「私達傭兵は、任務の達成よりも生き延びることに重きを置いているから……戦略的撤退という奴だよ。チッ、食券と食べ放題券は魅力的なんだが、リスキー過ぎる」

 我先に手を上げて参加を表明してくれなくても、最初から彼女達は祐奈とまき絵の二名を推薦するつもりだったから――――





「うーん、ネギ先生とジローちゃんのどっち狙おーか?」
「あぶぶ、お姉ちゃ〜ん、ジローちゃんは止めた方がいいです〜〜〜……絶対に、絶ぇっっ対に怒られるから〜〜〜」
「大丈夫大丈夫♪ 僕らにはかえで姉直伝・何事も『キセイジジツ』さえ作れれば問題なしの術があるし!」
「それ絶対に忍術じゃないですからー……」

 一斑の代表として参戦を決めたのは、双子探偵ならぬ双子忍者。
 同い年なのに姉と呼んでいる、忍んでいない忍者少女から教わった俄忍術携えて、枕両手に廊下を進む――――





「まったく、ウチのクラスはアホばかりなんですから……」
「ゆえゆえ、いいよ〜〜。これはゲームなんだし……」
「いいえダメです、せっかく告白したのですから、遊びごときで他の人にネギ先生の唇を奪わせるなんて。いや、この際ですから、ゲームに勝ってのどかが奪ってみせるのです!」
「ゆえー……」

 最後に名乗りを上げるは、五班の本屋さんと哲学するジュースこと、宮崎のどかと綾瀬夕映。

「食券半年分とJOJO苑の食べ放題券があっても、ジロー先生を狙うアホな人はいないと思うですが……」
「ゆ、ゆえはどうするのー? 部屋だってほら、ネギ先生の近くだし……わ、私でよかったら協力――」
「な、何を言い出すですか!? 私は別に、どうしようとも考えてないですよっ? ただ、あれです……青春融資とはまた、朝倉さんの認識も甘いと言わざるを得ませんね」
「ど、どーして?」
「……あの人が、一度や二度の青春融資でどうにかなると思えるですか?」
「あうー…………す、少しむずかしいかもー」
「絶対に『あー、何かの罰ゲームですか? ってーか、むしろこれ、罰ゲームじゃなくてただの罰だよね? 俺に対する』とか、『うん、まあ遣る方無い事情があったんだろうけど……自分は大事にしようよ?』なんてほざくに決まってるです」
「全然違和感がないけどー、ゆえの中でジロー先生のイメージって……」
「年老いて巣に引き篭もってる山犬か、村外れに建てられた祠をねぐらにしている老狼ですが、何か?」

 いつもながらの厭世家を思わせる痛烈な皮肉と、遠くから眺めて嘆くべきか、それとも呆れるべきかといった悩みがない交ぜの人物評価。
 さらりとどぎつい毒を吐いた親友に、のどかは困った風に笑うしかない。

「う、ううんー、何でもないよー(よく見てるねって言ったら、怒っちゃうかなー……)」

 ただ、内心は夕映の評価に納得半分、感心半分のようではある。
 声に出さず思うだけに留めているのは、今はまだ下手に刺激をすべきではない、と考えているからか。

「まあ、年月を重ねすぎて妖怪化していたり、規格外の大きさになっていそうな気はするですね」
「そ、そこまで言っちゃうと、さすがにジロー先生がかわいそうだよー」
「言い淀んでいる時点で、のどかも同意していると思うですが?」
「ち、違うよー!? そんなこと思ってないよー……たぶん」

 何だかんだで和気藹々と、ゲーム開始の時を待っている様子である。
 ちなみに、ゲームには参加しなかった二班所属のさるシスター(見習い)な少女はというと――

「さてさてー、誰かジロー先生と一発やっちゃってくれないかな? そしたら、それをネタにお土産代を出してもらったり、シスターシャークティのお説教役を務めてもらえるんだけどな〜」

 奉仕している教会の常連客となっている青年の不幸を、一心に願っていたりした。
 その顔に浮かんだ笑みは、間違っても子羊に救いの道を説いてはいけないものであった。
 閑話休題――――






 そして、ホテルの各部屋に設置された壁時計の針が、十一と十二をピタリと刺して、

『修学旅行特別企画!! 「くちびる争奪!! 修学旅行でネギ先生とラブラブキッス&ジロー先生に青春融資大作戦」スタ〜〜〜〜トッ!!』

 一夜限りの聖戦(ノット流血)の火蓋が切って落とされた。
 ターゲットである、魔法使いの少年と使い魔(半自称)の青年に何の了承も得ずに――――






「――――でぇ、宿の周囲に描かれてた『仮契約』の魔法陣に気が付いて、大慌てで戻ってきたはいいが……」

 はた迷惑極まりない聖戦の幕が開けてから十数分ほど過ぎた頃、一人ホテルに戻ってきたジローは、額に浮いた嫌な汗を袖で拭い、呻くように呟いた。

「何だ? この死屍累々の地獄絵図……」

 呆れて物も言えないとばかり、ジットリ据わった瞳で、二階ロビーの床に転がっている少女達を見渡す。
 あやかや千雨、祐奈、まき絵といった少女達が目を回して、地面の上に伸びていた。どうした訳か彼女達は皆一様に煤だらけで、今もって浴衣のあちこちから白く細い煙を立ち上らせている。

「な、何で私まで巻き込まれ――カフッ」
「ネギ先生、ネギ先生があんなにたくさん……ウフフ、私を萌え殺すおつもりですの〜?」
「わ、私、出番これだけ……なの?」
「ネ、ネギ君にキスしたらボカーンって〜……なんで〜、私失格だったの?」

 恨み言や悦に入った呟き、その他疑問を残して完全に意識を失ったらしい少女達を放置して、ジローはその奥に続く廊下へと足を向けた。

「おーけーおーけー、よくわからんけど粗方は理解した。調子付いたカモが朝倉と結託して、『パクティオーカード大量ゲットだ、イェー♪』とかはしゃいだに違いない」

 旅館の外で暫し待つよう言い聞かせておいたネギの顔を思い出し、ジローはフッと自嘲するような笑みを溢した。
 旅館の周囲に施された自動『仮契約』の魔法陣に気付き、一刻も早くカモを見つけて止めさせなければ、いやそれより、『身代わりの人型』で拵えた自分達の分身を消す方が先だ、と慌てふためくネギとの会話を思い出したから。

『ジジ、ジローさぁ〜ん、どうしようっ!? 分身でも「仮契約」ができちゃったら、僕大変なことにっ!!』
『よしよし、落ち着け……ハァ、仕方ないか』
『え? ジ、ジローさん、どこに――ま、まさかっ!? ダメだよ! 危ないから止めてよ、ジローさんだって「仮契約」は可能なんだよ!?』
『あー、まあ何とかなるだろ。お前はともかく、俺狙うなんて罰ゲームでもなきゃだし』
『――――』

 旅館に入る直前、後ろの方でネギが小さく「そ、そうなのかなー……」と呟いていたが、はたしてあれは何に対してだったのか。
 今は考えても意味があるまい。とりあえず、自分達の身代わりが残っているならば消去して、カモと朝倉を捕まえてから改めて聞けばいい。
 旅館の中にこびり付くように漂う、執念にも似た空気に顔をしかめながら、ジローは階段を昇った先にある、非常階段近くにある自分とネギの部屋を目指して足を速めようとした時、

「オォ、見つけたアルよジロー!」
「ん?」

 丁度、タイミングを見計らったかのように現れたクーフェイの姿に眉をひそめ、ピタリと立ち止まってしまった。
 廊下の奥から駆けて来て、踵でブレーキをかけながら人を指差す金髪褐色肌の少女に訝しく首を傾げる。
 ジローがそうしている間も、彼を見つけた喜びを全身で表現しているクーフェイは、パタパタと手を振りながら後方を振り返って、連れの糸目長身の忍者少女の名を呼んだ。

「楓ー、ジローこんなとこにいたアルよー♪」
「おお、そうでござるか。いいんちょ達が何やら騒いでいたので、ジロー殿ならば勝手に外に出てくるだろう、と隠れて待っていたでござるが……一体いつの間に部屋を抜け出していたのか」
「きっと危険を感じて、私達より先に隠れてたアル。危機回避能力は武道家の必須スキルアルからな!」
「あー、もしかして君達二人も、内容はよくわからないけど、間違いなく阿呆だろと言いたくなるゲームに参加してるのか?」

 何故か両手に枕を携え、妙に感心したり興奮したりで話し合っている楓とクーフェイを眺め、些かげんなりした顔でジローは尋ねた。
 その表情からは、ただでさえ常識外れな戦闘能力その他を持ち合わせた人間が、無駄にはしゃいでくれるなと訴えているのがわかる。

「そうはいかないでござる……拙者、昨日の新幹線でのお礼をしたいでござるから」
「お礼?」
「…………緑色したアレでござるよ」
「ああ、なるほど」

 視線での訴えを僅かに顔を俯かせることで拒絶し、ボソリと重々しく囁いた楓に納得した風に頷いてから、ジローはだが、と切り出した。

「あれってどう考えても、正当防衛だよな? いきなり錯乱して首絞めに――いや、むしろへし折りにきた奴が、どの面下げて俺を非難しやがる?」
「い、いや、それは悪かったと思っているでござるが……。せっかく助けを求めたのだから、もう少しマシな方法があったのではないかと、少々不満なのでござる」

 困ったように笑みを浮かべ、指で頬を掻いている楓に対し、普段の彼女以上の糸目になってため息をつきながら、ジローは「俺の知ったことか」と胸中で返し、

「でぇ、クーフェイはともかく、お前まで参加する騒ぎってどんな内容なんだ? よっぽど楽しいか景品が豪華でもなきゃ出ないだろ、楓は」

 目を細めた眠そうな顔になるジローに、内心「少々機嫌を損ねてしまったでござるか……」そう苦笑しつつ、楓は答えた。

「拙者達が参加しているのは、朝倉殿が提案した『くちびる争奪!! 修学旅行でネギ先生とラブラブキッス&ジロー先生に青春融資大作戦』というものでござって――」
「ふむ、その時点で待てぇと叫びたいけど……それで?」

 眠たそうに細めていた瞳に剣呑な光が僅かに混じったが、それでもジローは努めて冷静な声で続きを促す。

「あいあい、ネギ坊主と接吻すれば豪華景品が、ジロー殿と行った場合、それに加えて食券半年分とJOJO苑の食べ放題券が進呈されるのでござる」
「…………ほう」
「それで丁度よい機会だし、ジロー殿に昨日のお礼も兼ねて勝負を挑もうという話になったでござる」
「――――――――マテ、途中の経過が恐ろしく省かれてやしないか?」
「ジローに勝ったら、私達がキスするというルールアルよー♪」
「…………」

 抗議虚しく、何やら満足そうな表情で顎を擦りながら立っている楓と、頬に手を当てて「照れるアルな〜」と一人はしゃいでいるクーフェイに、ただジトリと湿った視線を送って佇むジロー。
 一人は間違いなく日本人のはずなのだが、まったく話が通じていない気がするのは何故か。
 貝よりも堅く口を噤んで考えているジローを余所に、楓とクーフェイは非常に頭の緩い会話をしている。

「これが俗に言う、売り言葉に買い言葉でござるな」
「んにゃー、やっぱりここは踏んだり蹴ったりだと思うアルがなー」
「……どっちも違うってーの」

 それを言うなら『渡りに舟』だろう、っていうかそれ、最近の授業でも出てたよね、と顔に手を当てて項垂れながらジローは呻いた。
 微妙にクーフェイの言っていた、『踏んだり蹴ったり』が今の自分に最も相応しい言葉な気もするが、そこは意識して考えないようにしておく。

「あー、こいつらに説明求めた俺が駄目だったのな……」

 依然、ゲームの内容がこれっぽっちも理解できていないのだが、もうそこは放置の方向でいいのだろう。
 少なくとも、目の前の少女二人は部屋の外に自分の分身が出てくるのを待っていた、即ち目的である青春融資という名の、はた迷惑な口付け行為を行っていないという救いがあるのだから。

「食券半年分と高級学食の食べ放題券でもなきゃ、俺にキスしに来る人がいないってぇのは、ある意味物悲しいけど……まあ、いいや。キャラメルのオマケで付いてくるようなキスなんていらないし」

 遊びでキスできる少女連中がどのような恋愛をしようと知ったことではないが、自分は至極真っ当で嬉し恥ずかしな恋愛がしたいと、ジローは切に願っておいた。

「うむ、このまま話していても景品は手に入らぬでござるし……ジロー殿、そろそろやらないか? でござる」
「何故に『やらないか?』に力を込める?」
「何となくでござるよ」
「楓の後は私と戦るアルよ、ジロー! いつかのリベンジアル!!」

 ジローから質問が出ることもなくなり、頃合と見た楓が、両手の枕を脇に置いて勝負の開始を促した。
 同じく枕を放り捨てたクーフェイも握りこぶしを振り上げて、ジローの精神を削る叫びと共に気炎を吐いている。
 勝手に意気込んでいる二人の少女を据わった目で見つめ、ジローは精一杯の気持ちを詰め込んだ一言を、悲壮でさえあるため息と一緒に告げた。

「ハァ……やらん」
「ござ?」
「えー、なんでアルか〜?」

 訝しげな顔になる楓や心底驚いて不満をぶつけてくるクーフェイに、これ以上下がりようのない温度に達した視線を送りながら、ジローはもう一度低く、だが己の感情の全てを籠めた重い声で告げる。

「や・ら・ん」
「そ、そんなに嫌そうに言わなくてもいいと思うのでござるが……」

 まるで、テロリストの要求には決して屈しないと言う様な全身全霊の拒否。
 流石に引いたらしい楓が、頬に一筋の汗を垂らして機嫌を取るように言葉を選んで話しかける。

「あれでござる、クーフェイや刹那達とは手合わせしているし、ここは一つ、3Aの武道四天王を制覇してやるかー、的なノリで手合わせを――」
「やらんったらやらん」
「せ、拙者も武人の端くれ……強い者を見ると、どーしても勝負を挑みたく――」
「すぐ横に天然者(誤字に非ず)の功夫少女がいるだろうが。そっちに勝負挑んどけ」

 けんもほろろといった感じに、楓の申し出の悉くを断っていくジロー。

「ジロー、強情アルよ……あまりケチケチせず、私達と勝負するアル〜」
「そ、そこまで嫌でござるか……? な、なら、その……勝負の結果如何に関わらず、拙者と接吻しても構わないということで一つ!」
「オォ、楓頭いいアル! ジロー、それだったら勝負してもいい思うアルな!?」
「お前ら、本末転倒って言葉知ってるか? ああ、知ってても意味はわからないよな……」

 ゲームのルールや勝敗の決定方法も忘却の彼方へ押しやり、何故か自分達の唇を担保に勝負しろと粘り強く要求する二人に、ジローは肩を落としてセルフに突っ込みを入れておいた。

「急いでる時に限って邪魔してくる奴って、何考えてるんだろうなぁ」

 お約束といえばお約束だが、少し空気を読んでくれないか、と声に出さず吐き捨てる。
 今の彼にとって最優先すべき事項は、まだ残っているかもしれないゲーム参加者が、ネギの分身とキスをしてしまう可能性を完全に排除することにあったから。
 そのついでに自分の身代わりを消して、ゲームが終了する時間を待つか、首謀者たる朝倉と協力者であろうカモを捕獲する。
 一分一秒でも急いだ方がよさそうな仕事だ。成績の悪さに比例して腕が立っているような少女を相手にしている時間はないと、ジローは三白眼で前方を睨み、ビシッと音が出そうな勢いで楓とクーフェイに指を突きつけた。

「ござ? もしかして、やる気になってくれたでござるか――」

 その動作を、自分達の挑戦を受け入れるポーズと勘違いしたらしい楓が口を開くが、それを無視したジローは鋭い眼差しに怒りを混ぜて言い捨てた。

「だからやらんと言っとるだろうが、ボォケ。勝負したらキスしてやる? そんな安っぽいもん、されても不愉快なだけです! こっちは本当に急いでるって、さっきから再三再四にわたって訴えてるだろうが、態度で!! 少しは察しよう、理解しようって姿勢を見せてもらえませんかねぇ!? しまいにゃ泣くぞ? 怒る前に泣くぞ、いい歳した男が声上げて!!」
「――――」
「――――――」

 あまりと言えばあまりな言い草。だが、それ故に如実に現在のジローの心情を表した言葉をぶつけられ、酷くショックを受けた様子で固まってしまう楓とクーフェイ。

「……あれ、効果なし? それとも、逆に効果ありすぎで泣かした?」

 凍りついたような表情の硬直が解け、俯いて肩を振るわせ始めた少女二人の反応に、彼女達を鋭く指差していたジローの人差し指が、ふにゃりと気まずげに折れ曲がる。
 眉根を寄せたジローが見守る中、静かに伏せていた顔を上げる楓とクーフェイだが、二人の少女の顔にあったのは明確な怒りと羞恥に浮かんだ涙。

「確かに拙者達も勝負したさに、無茶なことを言っていたと思うでござるが……さすがにさっきのは傷ついたでござるよ」
「なんだかとっても腹立ったアル。私、ホントは初キスではずかしのガマンして言てたのに、こっぴどく断られてショックアルよ……」

 揃ってゆらりと体を揺らすように踏み出し、自分を睨むように構えてしまった少女達に口元をひくつかせ、三白眼を普段の倍は緩い眼差しに変えたジローが呟いた。

「あー……もしかして、理不尽な地雷踏んだ?」
「最初から、ジロー殿の答えを聞かずに仕掛けておけばよかったでござるな」
「そうアルな、そしたらきっと私達、あんな酷いこと言われずに済んだアル」
「それはそれで大概酷くないですかー?」

 じりじりと間を詰めてくる少女達から逃げるため、同じように後方へ後退りながらジローが弱々しく抗議するが、自尊心やプライドというか、何かそういったものを傷つけられた彼女達の耳に届くはずもなく。
 仮に届いても聞き届けてはもらえないだろうと、目の端に滲んだ涙を拭ってジローは腰を落とした。

「どうやら覚悟を決めたようでござるな?」
「楓、私はどしたらいいアルかー?」
「ふむ……いくら何でも二人同時はズルイでござるし――――ジロー殿のダウン一回で交代というのはどうでござる?」
「待て」
「おお、正々堂々としてるアルな。よし、それで戦るアル♪」
「オイ、コラ」

 傍若無人この上ない会話にジローが突っ込みを入れるが、一度転がりだした岩が止まれないのと同じように、勝手に盛り上がって弾けてしまった試合――いや、仕合いの空気が霧散することはなく。

「――では、いくでござるよ?」
「逃げるが勝ちって本当だよね、ばあちゃん――――ハァ……そろそろ怒ってもいい気がする」

 すぐにでも襲い掛かってきそうな楓の威圧に引くことなく、軽く開いた両手を顎と胸の前に置いて構えたジローは、蚊の鳴くような声で溢した。

「ハッ!」

 その隙を狙って、極自然な動きで楓が前に出た。目の前に立つジローに向けて、正面から楓の足が浮き上がる。
 少女の身体では想像し難い力強さと疾さを持ったシンプルな前蹴り。
 当たれば相応にダメージを与え、避けるなり防ぐなりしても相手の体勢を崩すことができる。そういう蹴りが、僅かに腰を落として構えているジローへ迫った。
 前蹴りの狙いだった水月の前で腕を交差させ、ジローが蹴りを防ぐ。旅館の二階ロビーに肉を打つ鈍い音が響いた。

「セアッ!」

 微かに顔を歪め、後ろに下がったジローに大きく足を踏み出して接近した楓が、軽いフェイントを交ぜた拳打を三発。
 左脇腹と右胸部、顎の左側。そのどれもが常人ならば悶絶できる威力を備えていた。
 だが、彼女ほどでなくとも普通人をやめているジローにしてみれば、それらはジャブと同じであった。
 ただ疾いだけの拳打を、二発は弾き、顎を狙いに来たものはスウェーで躱す。
 同時に、

「シッ!!」
「ぬぅっ!」

 防がせる目的で放った膝蹴りが、ジローの思惑通り楓の引き戻した腕に喰らい付いた。
 体重差が生んだ威力に、楓の身体が僅かに浮く。その瞬間を逃さず、蹴り出した膝はそのままに、先の意趣返しとばかりに前蹴りへ変化させた。
 不完全な形で出したため、突き飛ばす程度の威力の前蹴りに押されて楓が後ろに下がった。

「何でこう、こいつらは好き好んで人に迷惑かけるの――カナ?」

 気のせいかもしれないが、楓の攻撃を凌いで反撃に出た使い魔青年のこめかみ辺りから、ぷちんっと控えめに、そう、とても控えめに紐の切れる音がした。

「理不尽なのも……大概にしろぉっ!!」
「ござっ!?」

 着地して構え直そうとした楓に向かってジローが大きく跳躍し、肘を目一杯に引いた拳打を叫びと共に放つ。
 テレフォンパンチと代わらない粗雑な動きに目を見開き、カウンターで反撃するかどうか逡巡した楓だったが、

 ――ぞくん!

 と、背中を蛇が這い回るような――彼女ならば蛙が這いずり回る、の方が適しているか――恐怖に背を向ける形で横へ跳んだ。
 果して、楓の直感は正しかったらしい。彼女が躱したジローの拳が、後ろにあった旅館の壁に触れた途端、ゴガンッと冗談みたいな音を立ててめり込んだのだ。
 ズボッと音を立てて、ゆっくり壁より拳を引き抜くジロー。
 ぽっかり開いた、眼窩を思わせる壁の穴。拳の当たった箇所以外、まったく損傷が見受けられないところがまた恐ろしい。

「…………避けるなよ」
「いや、避けるでござるよっ!? 避けないと危険が危ないでござる!!」

 不満そうに文句を言ったジローに、楓が至極真っ当な主張をする。
 だが、彼からすれば「これは異なことを言う」と笑いたくなる主張であった。

「ハハハ……『手合わせ』なんだから、手をぶつけ合わなきゃ意味ないだろう? だいたい、喧嘩売ってきたのはそっちでしょーが」
「喧嘩ではなく勝負なのでござるが……ジロー殿、もしかしなくても本気になってるでござるか?」
「…………イイエ、ちょっぴり腹立ててるだけデスよー?」
「ぜ、絶対に怒り心頭してるでござるっ!!」

 顔を伏せ気味にゆらゆらと体を揺らし、前髪の隙間から幽鬼のような瞳を覗かせているジローから距離を取るため、後方のクーフェイがいる方向に大きく跳んだ。

「――シィッ!!」
(迅い……いや、それ以上に低い!)

 後ろへ下がった楓を追って、ジローが前傾姿勢で立っていた場所から跳び出した。
 頭の位置が自分の腰辺りという、通常の寄せ身より低い位置にあることに瞠目し、目を見開いた楓にジローが迫る。
 彼女に向けた彼の顔は、まさしく悪鬼か魔人といった形相。鋭くつり上がった瞳は炯々と輝き、その口角は刃物で切り裂いたように上に伸びていた。
 一体何処の漫画に登場する狂気神父かと言いたい。

「ハハァッ!」
「――ハァッ!!」

 間合いに踏み込み、腰元まで引いた右の掌底を放とうとするジローの側頭部を狙って、楓が撃ち落すような拳を放つ。
 楓の気を纏った拳打が、ジローの顔に迫った。
 しかし――

「!?」

 肘を限界まで伸ばした拳が空を切り、驚きの色が楓の顔を染めた。
 ジローの頭の上を楓の拳が通り過ぎる。拳風の鋭さに引き千切られた髪の毛が数本、宙を踊って床に落ちた。
 その髪の毛を追うように、楓の視線が下を向いた。足元にジローがしゃがみ込んでいる。
 いや、しゃがみ込むでは語弊があるか。ジローの姿を見て、楓は冷静に表現しなおした。
 四肢を床に突いて力を溜めた姿勢は、獲物の喉笛に狙いを定めた大型の獣。
 彼女が知る由もなかったが、奇しくもそれはゲーム開始前、夕映がジローを指して言った山犬や老狼――それも、年月を重ねて妖怪や規格外の大きさに成ってしまったソレを髣髴とさせた。

「シャラァッ!!」

 伸び上がるように身体を跳ね上げたジローが、楓の額狙いの掌打を放つ。
 跳ね起きた勢いと全身のバネを使った、鞭のようにしなやかで、砲撃にも匹敵しそうな掌底。

(しかし、間合いが甘いでござるっ!)

 胸中で叫び、下から迫る攻撃を見極めた楓は、僅かに頭を引くだけで躱してみせた。
 類稀なる動体視力と集中力が生み出す見切り。
 ゴッ、と楓の前髪を巻き上げてジローの掌底が空を切る。

「もらったでござるッ!」

 それを絶好の機会と見た楓は、右手に集めた気の塊を叩きつけようとして、

「!?」

 突如として、ジローの方へ頭が引っ張られたことに目を見開いた。
 額の上部、髪の生え際に疼痛が走っている。
 急にどうして。反射で視線を自分の額に向けた楓の目に映ったのは、ジローの指に挟み掴まれた己の前髪。

 ――掌底はこのための撒き餌!? いや、躱されたから仕方なしにか!!

 一応は少女に分類される人間の髪の毛を掴み取ったことよりも先に、楓は本気の攻撃を外し、すぐさま別の手に変化させたジローの臨機応変さに驚きと感心を覚えた。
 思えば、これが武術や武道の「精神の鍛錬」や「健全な肉体作り」、「護身のため」といった表看板に隠された、もう一つの顔――『敵を効率良く屠るためのコツ』を連綿と伝え続ける、狂気や執念に似た『業』であった。

「やはり一人稽古だけでは鈍るでござるなー……」

 技術や身体能力、気の強化は一人稽古で伸ばすことはできよう。
 だが、こうした『業』は実際に人と戦う。それも、より暗く、より血生臭い場所で覚えなくては、自分でも気付かぬうちに錆び付いてしまうものだ。
 全てが遅く感じられる時間の中、少しばかり平和ボケしていた己を恥じて、楓はほろ苦い笑みを浮かべた。

「でも……これは少しやりすぎではござらぬか?」
「知るかぁ、こんダボがぁッ!」

 小さく漏らした楓の不平を、歯を剥き出しにした怖い笑顔のジローが、関西の一部でしか聞かないような悪態と共に一蹴した。
 悪鬼魔人が浮かべそうな笑みでジローが跳ね上げた左足が、楓の首に後ろから巻きつく。
 死神の鎌のように楓の頭を固定したところで、トンッと軽い音を立てて地面を離れたジローの右足が彼女の首を下から襲った。

「――シャッ!!」
「ご、ござぁぁぁぁっ!?」

 楓の首を両足で挟み込み、器用に空中で身体を捻るジロー。
 ぎゅるん、という擬音が鳴りそうな勢いで楓の視界が一回転し、平衡感覚が戻る前に彼女の身体は旅館の床に叩き付けられた。
 その瞬間、ホテル嵐山が微弱ながら揺れたのは気のせいではないだろう。

「う、う〜〜〜ん、でござる……」

 変則のフランケンシュタイナーに近いが、威力だけは段違い。
 本当ならば首を挟み込む時点で相手の頚骨を砕くこともできるし、少し狙う場所を変えれば顎を蹴り砕け、また、投げに入ったところで首をねじ折ることも可能なはずの技であった。
 ついでに今のジローは魔力で身体を強化していたりするので、床に叩き付けられた楓の衝撃は押して知るべし。

「オ、オー…………前に漫画で見た『〇王』みたいアル♪」
「奇遇だなぁ、オイ。俺のじいちゃんもそれを小説で読んだ後、人を実験台にして色々技を考えてたぞー」

 目を渦巻かせて床に伸びている楓を見下ろし、「フゥ、少しスッキリした」と浮いてもいない額の汗を拭ったジローが、満面の笑みをクーフェイに向けて言った。

「ニャ、ニャハハ、とても元気なおじいちゃんアルなー♪」

 パキパキと指や手首を鳴らして近づいて来るジローから後退りながら、若干顔色を悪くしたクーフェイが彼の祖父をヨイショする。
 しかし、菩薩の笑みを湛えたジローの歩みは止まることなく、あっという間に彼女の目前まで歩み寄った。

「おっかしいなぁ、今ってじいちゃんの話が必要か? あまり人の家族事情に踏み込まない方が身のためだぞー」
「な、なんかさっきより迫力が増してるアルゥーーー!?」

 菩薩の笑顔はそのまま、ソッと頭に手を置いて警告したジローに、半泣き笑いで悲鳴を上げるクーフェイ。

「クフ、フフッ……さ、次はクーフェイの番だぞ? あー、こうやって律儀に相手してるから、俺の苦労は増える一方なのかもなぁ」
「ニャ、ニ゛ャーーーー!? ニ、ニコニコしてるのに万力みたいな握力アルゥゥゥ!?」

 ギシッ、ミシッ、と冗談抜きに頭から聞こえる軋みの音に目を剥き、バタバタと暴れるクーフェイを面白そうに眺めながら、ジローはもう一段、さらにもう一段と彼女の頭を掴む手に力を込めていく。
 拷問かと思うような苦痛に意識を失い、クーフェイがある意味で幸せな眠りにつくまで、特別長い時間は必要とされなかった。

「んにゃ〜…………」
「ったく、最初からおとなしく部屋で寝てりゃいいもんを……」

 ついさっきまでクーフェイの頭を掴んでいた手を振って、ジローはぶつぶつと愚痴を溢す。
 既に足元の少女二人は話を聞けない状態なのだが、そんなもの些細なことであった。

「――さて、いくか」

 一頻り小言を出し終えたのか、頭を掻きながら歩き出すジロー。
 向かうのは、目の前の廊下の途中にある階段。そして、上階の端にあるネギと自分の部屋。

「誰も来てないとは思うけどさー」

 ネギの部屋はともかく、とぼやきながら、ゆったりゆったりと酔い覚ましをする人の足取りで進む。
 急いではいる。だが、今更急いでも無駄に疲れるだけだという思いが、ジローの歩みを落ち着いたものにしていた。

「ま、これで問題が起きたら、あれだ――――何ヲサレテモ文句ナイヨナ?」

 訂正。落ち着いてはいたが、それは諦めの境地から来るものではなく、下手をすれば体から溢れ出す殺意による、方向性が百度ほど違う落ち着きらしい。
 背後に黒い瘴気で描いた、角の生えた骸骨を背負ってゆったり歩くジローの後ろ姿は――――この上なく楽しそうであった。






「まだ誰もいません……チャンスです」
「ゆ、ゆえ、すごいー……さすが」

 ゲーム開始前、あらかじめ非常口の鍵を開けておいた友人の手腕に、のどかは素直に感心して称賛の言葉を述べた。

「バカ正直に真正面から行っては、勝ち目の薄い敵と当たってしまいますし。相手の裏をかき、安全に事を進めるのも立派な戦術」

 少しだけ開いた非常口の隙間から廊下を探り、ゲーム参加者の姿がないことを確認した夕映は、後ろに立つのどかにそう言った。

「さあ、そこの304号がネギ先生の部屋です。のどか、今のうちに」
「う、うん、ありがと〜」

 両手に持った枕を構えて周囲を警戒している夕映に促され、のどかは緊張に震える胸を押さえて、304号室のドアノブに手を掛けた。
 ゲームのノリで想い人にキスをしに行って良いものか、という考えは依然頭の片隅に残っていたが、それを言い出すのは周到に準備をしてくれていた親友に申し訳ないと、半ば強引に自分を説得して手を回す。
 どうやら鍵は掛かっていないらしい。カチャリ、と小さな音を立ててドアノブは回った。
 抵抗らしい抵抗もなく、あっさりと隙間ができてしまった扉の奥には、電気の消えた部屋の暗闇が詰まっていた。

「あ、あう〜……」
「ここまで来て、何を躊躇っているですか。さっき、ホテルの中から凄い音が聞こえたでしょう? あれは恐らく、他の参加者同士の戦闘の音。すぐにでも誰かがやって来るですよ」
「ま、枕だけだよねー、武器って?」

 屋根伝いに非常階段まで移動していた時、旅館の中から響いた衝突音を思い出し、冷や汗を垂らすのどか。
 すわ余震か、近くでトラック同士がぶつかったか、というレベルの音と振動であったが、流血禁止で枕の使用のみOKのゲームで、どうすればあれ程のものが生まれるのか。
 恐々と廊下の途中に見える階段に視線を送り、階下で行われたであろう戦いに怯えを滲ませるのどかの疑問を、

「知りませんよ。どうせ、ネギ先生が絡んでタガの外れたいんちょさん辺りが、無駄に高いスキルを発動して暴れたとかです」

 夕映は断言と共にばっさり斬って捨てる。
 同じクラスのメンバーに対する評価ではない気もするが、あながち外れてもいないところは凄いと言えよう。
 階下でさっきまで行われていた殺人遊戯に近い騒ぎを、彼女は見ずに想像で語ってみせたのだから。
 もっとも、それを行った人物は『いんちょさん』こと雪広あやか嬢ではなく、積み重なった疲労と騒動によるストレスに、プチ切れてしまった使い魔青年なのだが。
 ちなみに断っておくが、あくまで『プチ』切れであって、本気で切れると書いてマジ切れと読むようなブチ切れではないので、悪しからず。

「さ、ここで時間を浪費するのは好ましくありません。のどか、覚悟を決めて中に入るですよ」
「う、うんっ……それじゃ、私いってくるねー」
「一応、部屋に入ったら内側から鍵を閉めておくですよ」
「そこまでしなくてもー……」
「念には念を、です」

 急かすように促す夕映に見送られ、ネギが眠っているであろう部屋へ体を滑り込ませるのどかだったが、扉を閉める前に何かを思い出したように振り返る。

「そういえば、ゆえー」
「む? 何ですか?」

 部屋への扉を死守する門番みたく、枕を構えて立っていた夕映が首だけ後ろに巡らせて、話しかけてきたのどかを見た。
 本当に自分のことを応援して、後押しまでしてくれている親友に内心で感謝の言葉を述べながら、のどかは少し躊躇いがちにネギの部屋の前――305号室を指差した。

「ジロー先生の部屋、そこにあるけどー……」
「――ッ!? だから、私は特にこのゲームに参加してどうこうという気はなくですねッ!!」
「そ、そうじゃなくて、一応気をつけてくださいって言っておいたらー、って言おうと思ったんだけど……」
「――――」
「え、えへへー」

 パクパクと口を開閉させている夕映に、少々気まずそうな笑みを浮かべるのどか。
 ちょっとだけ意地悪だったかなー、と心の中で謝罪したくなる辺り、彼女の友人に対する優しさや真摯な心が見て取れる。

「ま、まあ……それぐらいは言っておくべきですか。ネギ先生とのどかがキスできたところでゲームを中断してもらえれば、大団円といった感じに終えることができるですし」
「なんだかズルくないかなー、それ……」
「ゲームがいつまで続くかわからないし、あまり遅くまで起きていると明日が辛くなるです。お叱りの言葉が増える前に中断させた方が、睡眠時間も確保できていいですよ」
「や、やっぱり怒られるよねー」
「怒られるでしょうね、それ相応に」

 お互いに顔を見合わせて苦笑いを浮かべ、さて、と声を出して仕切りなおす。

「では、私はのどかが部屋に入って鍵を閉めるのを確認したら、ジロー先生に注意だけ! しに行くとします」
「だけを強調しなくても……う、ううんー、色々ありがとうね、ゆえー」
「親友の恋を応援するのは当然のことですよ」

 はにかみながらお礼を言ってきたのどかに、どこか誇らしげな笑顔を返して夕映は答えた。
 それを見てから、小さく、だがしっかりと頷いてネギの部屋の扉を閉めるのどか。
 カチャン、と鍵の閉まる音を聞き届けて、夕映は肩から力を抜いて息を吐いた。

「さて、これで私の仕事は終わったです……後は――」

 この唇争奪戦を終わらせる弾丸を撃つために、撃鉄を引いておかなくては。
 さり気なく浴衣の皺や乱れを直し、手の甲で拭うように髪を整えながら、あくまで注意を促して、ゲームに終止符を打ってもらうようお願いするだけだと、誰にでもなく言いながら夕映は前方にある扉のノブを握った。

「アホですか、私は……」

 いくら自分が色気づいたところで、特に可愛くもなく、女性的な魅力が少ない――要するに、発育が極端に悪い者に好意や興味を持つ人間は少なかろう。
 自身のもう一人の親友――同人誌という高尚な趣味(本人談)を持つ、頭の上の触覚とお洒落なデザイン眼鏡がトレードマークの早乙女ハルナは、

『発育が悪い? 否否否! だからこそいいんでしょーが!! ロリ体型はステータスだよ? 希少価値だよ!?』

 と、般若の形相に口角泡を飛ばして必死に訴えていたが――

「そういう特殊な好みを持っていたら、それはそれで嫌ですね」

 ご尤もな意見である。
 顔をしかめながら呟き、ネギの部屋と同じく鍵の掛かっていなかった扉を開けて、夕映は305号室――八房ジローに割り当てられた部屋へと踏み込んだ。
 どうやらネギと違って、彼はまだ床にはついていないらしい。
 玄関と部屋を区切る襖の隙間から、電気の明かりが漏れているのを見て、夕映は少しばかり安堵を覚えた。
 これでもし就寝済みで、部屋に入ったことにも気付かれなかった場合、色々と困ってしまいそうだったから。
 特別な意味はないのだが、そう、とにかく色々と。

(なにアホなこと考えてるですか、そんな可能性一割もないでしょう)

 軽く頭を振って、次々と浮かんでは消えていた『もしもジローが寝ていたら』の対応を全て忘却の彼方へ押しやり、夕映は襖の取っ手に手を掛けた。

「コホンッ……夜分遅くにすみませんです。ジロー先生、少しお話があるのですが――」

 小さく咳払いをしてから、夕映は部屋の中にいるであろうジローに呼びかけ、できるだけ気軽さを感じさせるスピードで襖を開けて――

「やあ、夕映ちゃん。こんな時間にどうしたんだい?」
「…………」
「あ、もしかしてあれかな、修学旅行でお約束の異性の部屋に訪問しましょうって奴?」

 部屋の中央に敷いた布団の横、座布団の上に正座しているジローに話しかけられ、続きの言葉を奪われてしまった。
 何と言えばいいのだろう、目の前の青年に激しい違和感を覚えて、一瞬だが意識の大半を頭の外へ弾き出されたのだ。
 確かに真正面に座っているはずのジローを眺めながら、夕映はたった一言、こう思った。

「ハハ、実際に体験してみると恥ずかしいもんだね。一応は先生をしてるから、注意しなきゃいけないんだけど……」
(さ…………爽やかすぎるです)

 言葉通り、僅かに赤らめた頬を指で掻いているジローに顔を強張らせる。
 目の前の青年の周りに漂っている、正体不明のキラキラした粒子は何だろう。腕に吹き出した鳥肌にも気付かず、夕映は現在進行形ではにかんだ笑みを浮かべるジローを凝視する。
 一体彼に何があったのか。自分が知っているジローは、もっと枯れていて、老成していて、浮世離れていて、飄々としていなかったか。
 六割ほど麻痺してしまった頭で、何気に酷いことを考えながら夕映は口を開こうとして、

「でも……来てくれて嬉しいよ、夕映ちゃん」
「だ、だっだっ、誰ですか、あなたはー!?」

 それよりも先に口を開いたジローに白目を剥いて、言おうとしていた事と別の叫びを上げさせられた。
 怖気が走る、全身の毛が逆立つ。恐怖や嫌悪を感じた状態を指す表現が本当であったと、この時初めて夕映は実感と共に理解した。
 その思いは彼女だけではない。
 いつの間に座布団から立ち上がって接近したのかも不明なジローが、夕映の手を両手でソッと握って顔の前まで持ち上げ――

「こんな時間に人目を忍んでまで来てくれたんだね……ありがとう、俺は幸せ者だよ」
「ヒ、ヒイィィッ!?」

 と、もしもジローが言ったら、と想像するだけでも恐ろしい台詞を、彼が熱っぽい視線とコンビにして現実のものにした瞬間、



『ジ、ジロー先生が壊れたぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?』
『誰アレ!? アレ誰なのぉーーーー!?』
『あ、あらあらまあまあ、風邪でもひいちゃったのかしら……?』
『これは……新手の精神攻撃か? クソ、何故だ体が震えるっ』
『龍宮さん、顔中に汗が……ハンカチ貸そうか?』
『そ、その前にアキラも拭いた方がええんとちゃう? 顔真っ青やし……』
『え、あれ誰ッスか? ありえないでしょう、頭打ってもああなるかどうか……ああ、きっとあれだね、悪魔が憑いちゃったんだ。こりゃー大変だ、急いで悪魔祓いのできる人……シスターシャークティでも祓えるかどうか……』
『み、美空、目がヤバイことになってるヨ? まあ、気持ちはわからなくもないがネ……』
『一体どのような薬を服用すれば、ジロー先生がああなるのか興味ありますねー』
『過労に効く料理の開発が急務、です……』
『ア、アカン、夕映が大ピンチやー!?』
『も、もしかして、ジロー先生って本当にソッチの趣味を持ってたのかなー……? いや、私的には美味しいネタだからいいんだけど……』



 和美が用意して、カモが仕掛けた高感度集音マイク付き監視カメラから送られる画像と音声に、惨劇に遭遇した人を思わせる絹を裂くような声や、衝撃映像を実際に目撃した人が上げるような恐怖交じりの悲鳴、あまりのショックに自分の殻の中に引き篭もってしまった少女の呟き、その他が3Aの少女達が滞在する各部屋で生まれたのは、普段の八房ジローという青年を知っていれば仕方のないことと言えよう。

『――よ、よかった、参加しなくて』

 ジローの異常に恐れ慄くと同時に、ゲームに参加せず賭けだけに留めておいた少女達は皆一様にこう思ったのは、はたして薄情だったのか。
 モニター越しでさえ精神ダメージを受ける、下手な呪いのビデオよりも強烈な映像に、テレビを消すかどうかまで相談を始めた少女達を余所に、夕映の方は逃げ出す事もできない状況に泣き出しそうになっていた。

(こ、怖いです! 何がどうではなく、単純に生物の本能的な観点から怖すぎると、私の体が切実に訴えかけているです!?)
「こんなに震えて……そんなに怖がらないで欲しいな。俺には夕映ちゃんを傷つるつもりなんてないから――」
「ぴ、ぴゃぁぁぁっ!?」

 手を握られた時点でパニックを起こしていた夕映だが、何を思ったのか恐ろしく優しい力加減で自分を抱きしめてきたジローによって、冷静な思考力を根こそぎ奪い取られた。

(ま、ままま待ちなさい! この状況は激しく異常です。唐突すぎる云々ではなく、まずあり得ない、起こり得ない状況! 確かにジロー先生と私の関係は、他のクラスメイトと比べて良好ではありますが、それはあくまで教師と生徒の域を出るものではなく!! 私もジロー先生に対して好意らしき物は抱いていますが、格別関係を深めるための行動をした覚えもなく、彼もこれまで何ら変わった反応を見せたこともなくですね――!)

 それが急に何故、と家族以外の異性の腕に抱きしめられ、浴衣の布越しに伝わる体温や、どこか懐かしさを感じさせる匂い――何故かは知らないが、墨の良い香りがした――に体を預けてしまいそうな自分に喝を入れ、夕映は真摯な瞳を向けるジローを睨む。
 目の端に涙を浮かべ、潤んだ瞳で見ることが睨むかどうかは個人の判断に委ねるが、とにかく今の状況は納得いかないと精一杯に視線で拒絶の意を表す。

(とっ、とにかくッ、結論を述べさせていただくなら、一方的に抱きしめられてどうのという訳の分からぬ状況、甚だ不本意ですと――!!)
「――――いいかな?」
「な、何が『いいかな?』なのか、詳しい説明を求めたいのですが!?」

 だが、夕映のささやかすぎる抵抗も、無駄に表情を引き締め、バックに妙な光る毛玉を従えてのたまう青年によって木っ端微塵に砕かれてしまった。
 ボンッ、と音を立てて真っ赤に変色した彼女の顔に、ジローが静かに顔を寄せ始める。

「や……だ、だめ……」
「――――」

 必死に力を入れて、限りなく優しい拘束から逃れようとするが、立て続けの精神攻撃のせいか、それとも本当は逃げ出すことを諦めているのか、彼女を抱きしめるジローの腕は僅かながらも緩むことなく、

(キ、キスをする時、男性というのはこうも強引なのでしょうか……? なのに、私を見つめる目だけは優しくて……や、あの、ちがうです、私の本心を言わせていただくなら、このジロー先生にキスされるのは、何故だかとてつもなく不本意ということで――――と、とにかくだめです……!!)

 自分の心音がこうもうるさいものとは。
 思わず目を瞑ってしまったことで、より明確になった唇にかかる相手の小さな息づかいと、誤魔化しようのない顔の火照りに上昇を続ける胸の鼓動に、どこか感心した風に考える夕映。
 そして、ついに彼女の唇と青年の唇との距離が零に――

「あー、ネギの部屋の扉、後で直しておかないと。宮崎さんも勢いで気絶させちゃったけど、何とかなるかなぁ……って――――うっだらぁぁぁぁっ!?」
「あぱらちぁッ!?」
「――――ハ?」

 なろうとした瞬間、後方で扉の開く音がして、間髪入れず耳の側で凄まじい風の唸る音が響き、体の拘束が消えたことに疑問の声を上げ、夕映は瞑っていた目を開いた。

「ちょっと待てよ、オイ。何してくれてやがってんですかぁ、ア゛ァ? 人が苦労して部屋に戻ったら、生徒抱きしめて顔寄せてる自分なんて悪趣味なもん見せおってからに……。冗談やドッキリにしても、少〜しばかり趣味が悪いんじゃございませんかねぇ? あんま調子ぶっこいてると、こっちも飄々穏やか〜な普段のキャラもかなぐり捨てて、久方ぶりに素を出したくなっちまうんですけどぉ?」
「……ジ、ジロー先生? え、でもどうして? さっきまで私を抱きしめていたのも、確かにジロー先生で――?」

 ぎこちなく首を回し、自分の後方に立っている人物を確かめた夕映は、混乱と困惑がごちゃ混ぜになった呻き声を漏らした。
 後方のジローと、殴られたかして部屋の中央に押し戻されたジローを交互に見て、頭の周りに疑問符をいくつも浮かべる。

「お前はあれか、悪夢の権化か何かか? 見たら不幸になるドッペルゲンガーですかぁ? 何、トチ狂って夕映ちゃんに手ぇ出そうとしてる? PTAの怖さを知らんのか、おのれは? いや、それ以前に嫌がる相手にキスしようとするたぁ、どういう了見してる!? 色気づいてんじゃねえぞ、俺ともあろう人間が!!」

 バキバキと指を蠢かして鳴らし、よろめきながらも立ち上がったジロー(身代わりの紙型)に歩み寄るジロー(本物)。
 頬を押さえて立ち上がった分身ジローの左頬が、口の中にリンゴでも詰めているのかと聞きたいほどに膨れ上がっているのがまた痛々しい。

「ハッハッハ、急に殴るなんて酷いじゃないか」
「うっわ、何だこいつ? 爽やか……いや、違うな、これはもう気色悪いの域だ。名前書いただけで作れる身代わりのくせに、何故にここまで性格の豹変したものができる?」

 相変わらず、周囲に光る毛玉や粒子っぽいものを従えるジローに顔をしかめ、首を傾げたジローだが、もう細かいことは考えたくないと大きく嘆息して、

「まあ、詳細は後で刹那から聞き出すとして…………とりあえずはですねー」
「もげらっ!!」

 どれだけの筋力があれば可能なのか、分身ジローの頭を掴んでそのまま壁に叩きつけ、もう一方の空いている手で拳を作る。
 ギシミチッ、と金属がひしゃげるような音を上げて固めた拳を振りかぶったジローの顔に、人斬りの享楽にとり憑かれた某二刀剣士のものよりも細く、そして鋭く伸び上がった紅い三日月、いや二日の月が浮かんだ。

「――おとなしく潰れてろ。お前が口を開くだけで、俺の積み上げてきたものが台無しだよ、この阿呆」

 その極刑の言い渡しと同時に放たれるは、人に殴られることが仕事のサンドバックですら身代わりを辞退したくなる必殺の一撃。
 極限まで練り上げたイメージによって、正拳突きを音速にまで到達させた空手家ならば可能であろう空気の破裂音が、305号室に響き渡った。

「ハ、ハハァッ……! アハハ、アハハハハハッ、ハハハハハハハハハハハ!!」
「ああ、なるほど……これは夢です、そうに違いないです……」

 何故か拳を叩き込まれた瞬間、ボンッ、という間抜けな音と共に紙切れに変わったジローと、片手で顔を押さえて哄笑に匹敵する馬鹿笑いをしているジローを呆然と眺めて、夕映は搾り出すように呟いた。
 情報が処理能力を超えてしまった時、人はどのような行動を取るのか。医学書などで読んだ知識を引っ張り出して、夕映は虚ろな笑みを浮かべて――

「寝るです……そしたら明日はきっと、いつも通りの日々です。今夜のことは全て夢、そう夢幻です――ああ、それならもっと満喫しておけばよかったですね……」

 すぐ側に落ちていた枕にコテン、と頭を乗せて意識を手放した。

「あー、もしもーし、こんなとこで寝たら風邪ひくと思うんだけど?」

 何やら遠慮がちに青年が声をかけてきた気もするが、それさえも幻聴ということにして、夕映はまるで逃げ出すように夢の世界へ落ちていった――――






「…………さて、と」
「う、ううぅ……うう〜」

 悪い夢でも見ているのか、時折唸り声を上げる夕映を自分の部屋に敷かれていた布団に放り込んで、ジローは静かな呟きと共に部屋の出口に向かった。

「あっ、ジローちゃん発見したですよ〜……お、お姉ちゃんンンン!?」
「ど、どーしたの史伽? 何かネギ先生の部屋、扉壊れてるし、中に本屋しかいないしー……あれ、ジローちゃ……ん?」

 部屋を出てすぐ、ネギの部屋から出てきたらしい風香と史伽のコンビと鉢合わせする。
 「ターゲット発見! ロックオン♪」とでも言いたげな笑顔を浮かべた双子だったが、その明るい表情も、感情のすっぽり抜け落ちて漂白されきったジローの顔を見上げた瞬間、儚くも消え去った。

「…………お前らも、この馬鹿げた遊びに参加してるの、デスかー?」
「ひ、ひぃぃっ!? ちが、違うですー、私達はもう止めようと思ってたところですー!!」
「そ、そそ、そーだよ、そのとーり! やっぱり、やっぱり遊びで先生の唇を狙ったりしちゃダメだよねー!?」
「……せっかくの修学旅行で、ある程度羽目を外したい君らの気持ちもわかるけど――――旅の恥は掻き捨てなんて言葉を鵜呑みにするなよ? 度を超えた騒ぎには、必ず相応の罰が下るんだからな……」
「ひぐっ、ぐす……! は、はいです〜〜〜〜!!」
「ヒグッ、うええぇ……わかったよ〜〜〜〜」

 目に見えるほどの殺気、だろうか。
 黒い影を背負って、壮絶な笑みを湛えているジローに涙ぐみ、許しを請うようにその場に正座した風香と史伽の頭を撫で――そのせいで、二人は火がついたように泣き出してしまった――ジローは周囲に視線を巡らせる。
 天上近く、防犯のために設置されているのとは違うマイクの付いたカメラを発見し、口元を引き裂いたジローがそれに近付いて話しかけた。

「あー、聞こえてますかぁ? これから楽しぃ楽しぃ狩りの時間の始まりだ……ちゃんとトイレで小用を済ませたか? 親兄弟に残す手紙は書き終えたか? 今までに神仏を崇めなかったことを悔い改めたか? 待ってろよぉ、すぐにでも生まれてきたことを後悔させてやるから――――精々、しぶとく逃げ回れ。でないと不公平だろぉ? お前らが楽しんだ十分の一ぐらいはぁ、俺を愉快な気分にさせて欲しいし、ナァ?」

 狩りの開始を宣言し終え、軽く跳躍したジローの拳がカメラに叩き込まれた。




『ザザアアアアアアァァァ――――』
「…………」
『――――』

 『くちびる争奪!! 修学旅行でネギ先生とラブラブキッス&ジロー先生に青春融資大作戦』の運営本部として利用しているお手洗いの中で、延々砂嵐を移すモニターを見ながら、和美とカモの両名は喉を鳴らした。
 今更ながら、自分達が羽目を外しすぎたらしいと思うに至って。

「どうしよっか……。謝って許しては……くれないよね、ヤッパリ」
『ソ、ソーダナ、アリャマジでキレてたみてぇだし。ほ、ほほ、本気で殺る気満々だったぜ?』

 恐怖に引き攣った顔を見合わせ、どうしたら生き長らえることができるのかを模索する。
 力なき自分達に取れる選択肢など、最初から一つしかなかった。

『朝倉姉さん! こうなったら、ほとぼりが冷めるまで逃げ続けるしかねえ!!』
「オッケー、カモっち! そうと決まれば、機材纏めてさっさと撤収ー!!」

 ガチャガチャと、いつもなら丁寧に扱う機材の数々をスポーツバッグに乱暴に詰め込んで、和美とカモは逃亡の準備を終える。
 ゲーム開始前、各班の少女達から掛け金として接収した食券を袋に詰め込むことも忘れない。
 焦燥に震える声を抑えて、モニターを見ているであろう3Aの少女達に向けて、和美は最期になるかもしれないメッセージを送る。

「なっ、何と突如として乱入した本物のジロー先生によって、ネギ先生とラブラブキッス&ジロー先生に青春融資大作戦は強制終了となりました! 残念ながら、トトカルチョの儲けは親の総取りとなりそーでっす!!」

 儲けを独り占めにすると言っているに等しい発言をする和美に対し、3Aの少女達が返す叫びはただ一つ。



『いいから! そんな実況はいいから早く逃げてぇぇぇっ!?』



「アハハ、何でだろー、みんなが私達に優しくなってる気がするよー」
『へへへ、きっと気のせいじゃねえんだろうな……これが有名な死亡フラグを立てる、って奴か……』

 聞こえもしない少女達の叫びが聞こえたように、目に涙を滲ませた和美とカモは揃って荷物を担いで、恥と知りながらも一分一秒でも長く生を実感するために、本部であったお手洗いを廃棄して外に飛び出す!
 だが、

「見ぃつけたぁ」
「ひひぃぃぃぃっ!?」
『あ、相棒ーーーー!? な、何で、早すぎる!!』

 お手洗いの出口のすぐ脇に立って、随分と長い時間待ちました、と言いたげに首を鳴らすジローの声に、ゴルゴンを直視した者の如く石化させられた。

「だから言ったじゃないか……不公平だって、十分の一ぐらいは愉快な気分にさせてくれって。人の話聞いてたか? それとも聞いた上で、俺をとことんまで馬鹿にして虚仮にして、安全な場所まで逃げて笑ってやろう――なぁんて考えてたんですかー? あー、だったらソレはとぉっても愉快だ、ここまで腹立てることなんて滅多にないし、逆に新鮮で楽しいかもなー」

 カタカタと体を震わせ、声を出さずに笑っているジローから少しでも離れようと、石化の解けた和美がじりじりと後退る。
 彼女の肩の上では、カモがどうにかしてこの局面を切り抜ける策を考えているのだが、対応策が何もないから逃げ出そうとしていたのだ。こうしてバッタリ顔を合わせてしまった以上、待っている未来はわかりきっている。

『た、たのむ相棒、許してくれ!! で、出来心って奴なんだよ、なあ姉さん!?』
「そ、そうそう!! 私達も別に悪気があってやったわけじゃなくて、ジロー先生やネギ先生のためを思って、良かれと思って―――!!」

 とにかく謝り続けて、目の前のフェイスチェンジしてしまった大魔神の怒りを鎮めようと、二人が弁解に努め始めるのを無視して、ジローは和美の顔を掠めるように貫手を放った。

「キャアッ!?」
『あ、相棒、いくらなんでも朝倉の姉さんは一般人で――ヒィッ!?』
「少し、頭冷やそうか?」

 頬に風を浴びせ、いつの間にか背にしていた壁に突き刺さった貫手に顔を青褪めさせた和美を見て、さすがにやりすぎだと抗議しようとしたカモを、今まで一度もしたことのない病んだ目付きで黙らせたジローの口から漏れたのは、やはり病んでしまった言葉で。

「ア、アハハハハ〜……今なら私、戦場カメラマンをできる気がするよ〜」
『奇遇ッスね、俺っちも魔法大戦を無傷で切り抜けられそうな気分ッス』
「フフ、クハッハ、ハハハ……ギャハ、ギャハハハハハハァッ!!」

 はちきれんばかりの殺気が、ジローの全身から吹き出して和美とカモの体を叩いていた。
 恐怖に怯える自分の精神が見せた幻覚だと思いたいが、背後に黒い瘴気を纏う角の生えた骸骨を顕現させて凶笑し、壁を抉り取りながら指を引き抜くジローに背を向けて、カモを肩に乗せた和美は駆け出した。
 目指す場所は、生の実感と有り難味を存分に満喫できるであろう場所――そう、命の危険に怯えることのない極楽浄土。

「さぁー、逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろっ! 夜はまだまだ長いんだ、俺が思いつく限りの『遊び』を楽しませてやろぉじゃねえか!! 死なない程度に爆死斬殺轢死惨殺絞殺圧殺焼死溺死その他諸々! 好きな順番で体験させてやるよぉッ!!」
「うひぃぃぃぃぃぃっ!?」
『お、お助けぇぇぇぇぇぇぇッ!!』

 あまり嬉しくない瀕死サービスの徹底ぶりに涙を流し、「自分ってこんなに速く走れたんだ……」と、某陸上部所属のシスター(見習い)並のスピードで駆ける和美。
 まさにリアルな鬼ごっこ。
 捕まったら、はたしてどんな目に遭わされるのか。
 羅列される思考を読み上げる余裕もなく、ただ一心不乱に助かることだけを願って、敏腕記者志望の少女は脚を動かす。

「なんだぁそりゃ!? そぉれで走ってるつもりかよ、オィ!! もっと、もっともっともっともっとぉもっとだ! 脚が悲鳴を上げて動かなくなるまでスピード上げてみせろ!! 記者に求められるのは逃げ足だって、どっかの誰かさんは豪語してたよなぁぁぁぁぁ!?」
「ナッ、生言ってスミマセンでしたぁぁぁぁぁっ!!」
『姉さん、無駄に喋ったら息が続かねえぜ!? ああやって獲物が力尽きるのを待ってんだよ!! とっ、とにかく今は走り続けるんだっ!! そのうち相棒も落ち着きを取り戻してくれるッス!!』

 そのカモの叫びの通り、あと十分もすれば暴走中の使い魔青年も落ち着きを取り戻すのだが――

「あぁー、何だか面倒くさくなってきたなぁ? どこから潰して欲しい? 脚か、腕か? 阿呆なゲームを考え腐る頭から潰してやろうか、ナアァ!?」
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁッ!! まさかのスピードアップ!?」
『は、迅ぇぇぇぇぇッ!? ちょ、強化しましたってレベルじゃねーよ、相棒!?』
「ぴぎぃぃぃッ!? 骸骨っぽいのが、喉元に刃を突きつけてるっ!?」
『き、気をしっかり持つんだ、姉さん!! そりゃ幻覚だ、たぶん……い、いや、恐らく――』
「ハァッ、喰ってやるよぉ!!」
『ンノオォォォ!? あ、相棒に俺っちの天敵な四足獣が憑依したぁ!?』

 はたして和美とカモの二人は、命懸けの鬼ごっこの終了を知らせるホイッスルが鳴るまで、五体満足で逃げ延びることができるのだろうか。
 それだけが、甚だ以って疑問であった――――






「――えーっと……それで、私達がお風呂に入ってる間に何があったの?」
「…………あー、正直ほとんど覚えてない。気がついたら、何故か3Aメンバー大集合って感じで、ロビーにみんな揃って正座してて、中には泣きながら土下座してる人がいたりで……」

 少しばかり長い入浴を楽しみ、ほこほこ顔に浴衣を着込んで上がってきたアスナが目撃したのは、二階ロビーにずらりと並んで正座したクラスメイト達と、その正面で複雑な表情をして佇むジローの姿であった。

『お、お願いだから思い出さないでくださいッ! はしゃぎすぎた私達が悪かったですから!!』
「……だから、何があったの?」
「何を聞いてもこんな調子で、俺にも詳しいことはちょっと……」

 ただ、わかっていることも少しある、と前置いてからジローは話す。

「奇妙なぐらいに体がスッキリ爽快で、まるで生まれ変わったような気分だ」
「そ、そーね、気持ち悪いぐらい肌がツヤツヤ光ってるわ……」

 これまで見たことのないほど、艶と張りのある肌をしているジローを観察し、胸中で「ま、負けてるかも……」と年頃の少女らしい感想を抱いたアスナに気付かず、上機嫌に顎を撫ぜている青年。

(こ、この紙型は……まさか、今回の騒動の原因は……)

 正座中のクラスメイトの前で話し合うジローとアスナから少し離れた場所で、足元に落ちている見慣れた紙切れ――やっこ凧の形に切り抜いた呪符を見つけ、密かに顔色を悪くする少女が一人。
 「ホギ・スプリングフィールド」と毛筆で書かれた『身代わりの紙型』に視線を落として固まっている少女に、唐突に顔を向けたジローが呼びかけた。

「それで、生まれ変わったみたいに気分爽快なこと以外でわかっていることだけど……刹那さんや」
「ヒャッ、ハイッ!?」

 電流でも流されたように背筋を伸ばし、気をつけの姿勢で体を正面に向けた刹那に、ジローは胸ポケットに入れていた、自分の名前を書き込んだ『身代わりの紙型』を取り出して、

「――――♪」

 クイッ、と親指で外へ出るよう促した。
 知り合ってから見てきた中で、最高と断言できる輝かんばかりの笑顔が語る声なき台詞を、どうしてか刹那は一文字も間違うことなく聞き取れた。

 ――表へ出ろ♪

「…………はぃ」

 普段はクラスメイトと交流している姿を見ない刹那の様子を、物珍しげに見守り、あるいは好奇に満ちた視線で盗み見する少女達を一睨みで俯かせたジローは、

「あー、俺が戻ってきたら、もう各自解散で部屋に戻って寝ろ、いや、むしろ寝てください、頼むから」

 それだけ言い残して、さっさと外に出るために階段に向かって歩き出してしまう。
 彼を怯えの色著しい歩みで追いかけようとした刹那に、アスナが苦笑いと共に声をかけた。

「だ、大丈夫だよ、刹那さん。今はちょっと機嫌悪そうだけど、そんなとんでもないお説教はしないって」
「そ、そう、ですね……そうだといいですね、ええ……」

 アスナの言葉に対し、絶対にそんなことはない、と一様に否定の眼差しになっている3Aの少女達に見送られ、ジローを追って歩き出した刹那の背中は、何か表現し難い憐れさが漂っていた――――






「――でだ、普通に名前を書いただけの俺の分身が、えらく気味の悪いもんに仕上がってた気がするんだけど、原因とかわからないか?」
「(よ、よかった、いつもの感じに戻ってる……)そ、そうですね、ネギ先生の場合、字が間違っているなどの原因があったのですが……ジロー先生にお渡しした『身代わりの紙型』、少し見せてもらえますか?」
「ああ、ほいよ」

 苦々しい顔で、刹那より手渡された『身代わりの紙型』をひらつかせるジローに、内心いつもの調子だとホッとしながら、術式に間違いがなかったのかを調べるために返却してもらう刹那。

「――――これは……」

 手の平に乗せた呪符を見て、すぐに原因を発見したらしい刹那の表情が曇った。

「早いな、オイ……それで、何が駄目だったんだ? やっぱり名前の部分、次郎って漢字で書かなきゃ駄目だったとか?」
「い、いえ、その……字が」

 手の平の上の紙型を覗き込むジローに、少しだけ体を強張らせながら、刹那は『身代わりの紙型』の中央に結構な達筆で書かれた、草書体の「八房ジロー」という文字を指差す。

「じ、字がなんだ? まさか、ネギみたくオブラートに包んで下手ですね、なんて言わないよな?」
「い、いえ、綺麗に書けていると思うのですが……」

 少しばかり落ち込んで見えるジローに慌て、わたわたと手を振った刹那が、実に申し訳なさそうな声を搾り出す。

「し、失礼な話、ジロー先生もそこまで毛筆の腕は立たないだろうと、最低限の機能しか備えていない紙型をお渡ししたんです――あ、あの、私自身、剣術がメインで、呪符製作の腕もそこまでではないので、このレベルの紙型しか作れなかったという理由も大きいのですが……!」
「えーっと、それってつまりだな――――紙型に認識できないレベルで字を書くと、上手かろうが下手だろうが暴走する、と?」
「じ、実際にジロー先生の分身を見ていないので、暴走かどうかは判断しかねますが――――たぶんそーかと」

 搾り出すような刹那の言葉を聞いて、暫くの間、俯いて静かに肩を震わせていたジローだったが、突然クワッと目を見開いて彼女の手より『身代わりの紙型』を引っ掴み、ベシンッと地面に全力で叩きつけて頭を抱えた。

「俺のせいですかッ!? 凄まじく納得いかないんですけどぉ!?」
「す、すみません、すみませんッ、すみませんんんっ!」

 ちょっぴり涙さえ浮かべているジローに、同じく罪悪感から涙を浮かべて起上り小法師みたく何度も頭を上下させる刹那。

「なんで……どーして芸なのに、俺の身を助けてくれないんでしょーか!? あー、もう、不幸で絶望ですよー? 理不尽すぎて本当に泣きたいですよー!?」

 言葉通り、目の端にこんもり水の滴を溜めて頭を抱えている青年は、見ていてとても痛々しかった。
 そこで話が終わっていれば、後日に「恥ずかしいところを見せた」、「い、いえ、あれは仕方がないですよ……」といった感じの会話を交わして、両者苦笑いを浮かべる程度で済んだのだろうが――――

「ゴッ、ゴゴゴッ、ゴメンなさい、ジローさん!!」
「…………エ? サッキ何テ言イマシタカー?」
「へ、部屋の中から宮崎さんが飛び出してきて、そ、それでッ! それでぶつかった拍子に、僕、僕、宮崎さんと『仮契約』を――――!!」
「あー、あぁ〜……そういや、ぼんやりとしか覚えてないけど……俺、カモの奴に『仮契約』の魔法陣を消させてなかったよーな?」

 自室に戻って、何故か自分用の布団の中で夕映が寝ていることに驚きつつ、同じく記憶があやふやだと話す彼女を五班の部屋に帰らせたジローに告げられた、御主人であるネギ少年の衝撃の言葉。

「何故だろう、今回の『仮契約』に関して俺は文句を言えない気がする……」
「あ、あれ、ジローさ〜ん?」
「――――ぅ……悪い、ネギ。俺、少し散歩に行ってくるから、お前はもう寝てなさい」
「う、うん……あの、大丈夫? ジローさん」
「――――ッ!!」
「痛っ!? ジ、ジローさ〜〜〜〜ん!?」

 俯いてしまった自分を心配し、下から顔を覗き込もうとした少年を部屋に放り込み、使い魔の青年は脇目も振らずに走り出す。
 結局、衝動的に旅館を飛び出した青年が、妙に疲れた顔で部屋に戻って来たのは、丑三つ時を二刻ほど過ぎてからであった――――







後書き?) 書き直したら、今までに類を見ないレベルの混沌とした話になってしまいました……。徹夜明けで書き終えた自分が見ても、少しばかりやり過ぎだな、と呟いてしまうレベルです。
 分身ジローを書いていた時が一番精神的にきつかったのですが、その辺普通の反応だと思ってしまう私は、親として間違っているのでしょうか。
 暴走中や最後の部分でジロを弄りすぎたかな、と後悔していたりですが……まあ、十の内、九涙一笑いぐらいの比率で笑っていただけると感謝です。
 感想指摘、アドバイスお待ちしております、切実に!

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